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【Preuszlig;en】プロイセンの歴史【Prussia】

1 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:18:09 0
「プロイセンは国家を持つ軍隊である」とミラボーにいわれた
この国の歴史について語りませう。

2 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:21:41 0
フランスで追放されたユグノーの受け入れがこの国の発展の基礎の一つ。

3 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:45:23 0
南ドイツ、ヘッヒンゲンにあるホーエンツォレルン城砦
ttp://www.visit-germany.jp/JPN/destination_germany/master_tlfstrasse-id27.htm

ホーエンツォレルン家はもともとシュヴァーベン地方から出た家系で、
ブランデンブルクに入植したのはアスカニア家。
1415年にフリードリヒ6世がブランデンブルク辺境伯兼選帝侯になり、
1511年にホーエンツォレルンの分家出身のアルブレヒトがドイツ騎士団の
団長に迎えられた。

4 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:53:00 0
ホーエンツォレルン城砦
ttp://odekakeshimasenka.fc2web.com/2003-6-01.htm

ホーエンツォレルン家はもともとドイツ南西部の出身で、ブランデンブルク
に入植したのはアスカニア家だった。
1415年、フリードリヒ6世がブランデブルク辺境伯に封じられ、
1511年にホーエンツォレルン家の分家筋のアルブレヒトがドイツ騎士団長に
迎えられた。その後騎士団領は宗教改革を経て世俗のプロイセン公国と
なった。
プロイセン・ホーエンツォレルン家の家系がわずか二代で断絶した後、
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を継承。

5 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:55:32 0
ホーエンツォレルン城砦
ttp://odekakeshimasenka.fc2web.com/2003-6-01.htm

ホーエンツォレルン家はもともとドイツ南西部の出身で、ブランデンブルク
に入植したのはアスカニア家だった。
1415年、フリードリヒ6世がブランデブルク辺境伯に封じられ、
1511年にホーエンツォレルン家の分家筋のアルブレヒトがドイツ騎士団長に
迎えられた。その後騎士団領は宗教改革を経て世俗のプロイセン公国と
なった。
プロイセン・ホーエンツォレルン家の家系がわずか二代で断絶した後、
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を継承。

6 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 21:57:41 0
今ではポーランドになってしまってる

7 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 22:13:09 0
フリードリヒ大王は食糧としてジャガイモの生産を奨励した。
主に東プロイセンで生産され、プロイセン軍の重要な兵糧となった。

8 :世界@名無史さん:2007/02/05(月) 23:15:46 0
武装SSが帽章につけていた髑髏のマークはプロイセン王国の第一・
第二近衛軽騎兵連隊が身につけていたもの。

9 :世界@名無史さん:2007/02/06(火) 05:47:58 0
プロイセンと秦とは似ている。
その成立過程も国のあり方も。半異民族の蛮国と蔑まれていたのが
先進大国を併合して逆に中心となった。
ドイツとプロイセンの関係=中国と秦の関係。

10 :世界@名無史さん:2007/02/06(火) 10:13:33 0
プロイセンは、ナポレオン戦争でなんでフランス軍にあっさり負けちゃったの?
プロイセンは軍事強国というイメージがあるんだけど。

11 :世界@名無史さん:2007/02/06(火) 10:38:03 0
そうだねプロテインだね

12 :Ryuju ◆RlujhF6VrA :2007/02/06(火) 12:44:38 0
>>10
第一に準備不足というか、無計画に戦争始めたのが大きい。
当時のプロイセンは本当は中立志向で、それがためにフランス軍の通過を
認めるかで揉めて、ナポレオンと衝突したに過ぎないから。
あと戦術面での遅れ。


13 :世界@名無史さん:2007/02/06(火) 15:32:27 0
1813年にプラハで開かれた和平会議で、ナポレオンはメッテルニヒに
プロイセンの解体(シュレジエンのオーストリアへの返還、西プロイセンを
含むポーランドの復活、東プロイセンのロシアへの譲渡、ブランデンブルクの
ザクセンへの譲渡)を申し出たが、オーストリアがこれを受け入れていたら
プロイセンは消滅していただろうな。

メッテルニヒは狭いオーストリア一国だけの視野で外交を考えておらず、
ヨーロッパの勢力均衡を考えていたからそれに乗らなかったが。

14 :世界@名無史さん:2007/02/09(金) 03:52:17 0
そこで応じていればナポレオンは史実どおりロシアで敗北しフランス帝国も無くなるとして、
オーストリア主導でドイツ統一となったのだろうか
それともやはりハンガリー人やスラブ人の問題を抱えたままで、ドイツは小国群のままだったのだろうか。

15 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 00:23:26 0
328 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/06(火) 23:09:25 ID:kguSBsvQ
>>325
ある一時期においては南ドイツ併合も可能だったかもしれない。
でも、オーストリアは圧倒的な武力で帝国領土拡大した国ではなく、
巧みな外交と一番は姻戚関係によるところが大きい。
そのオーストリアが、東にオスマン帝国を控え、一番事を構えたくな
かったのはフランスであったと思う。
南ドイツ併合すれば、直接国境を接し関係が緊張する上に、へたを
すればプロイセンがフランス側に付く可能性もあったかもしれない。
いわば南ドイツ地方はオーストリアにとって「火中の栗」に等しく、
プロイセンに恩を売りつつ併合させ、フランス・帝国間の緩衝地帯に
した方が帝国にとっては現実的・理想的であったように思う。
また、バイエルンの隣、フランスと国境を接する現在のバーデン州の
一部地域はプロイセン王家の本家領であり、そこでもプロイセンとの
問題が生じる可能性もあっただろう。
仮に、バイエルンが神聖ローマ帝国をまとめられるだけの強力な国家
であったならば、オーストリアとの関係やその後のドイツにとって大きな
影響があったと思うが、残念ながらバイエルンという国はそういう国で
はなく、どちらかと言えば野心少なく平和的であり芸術を愛する国で
あった。しかし、結局そのことがバイエルンにとっては大国の思惑により
悲劇的に翻弄される要因になったのではあるが。

16 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 04:26:23 O
1834年プロイセンのモッツ蔵相主導でドイツ関税同盟を成立させた時点で勝負有
南独のリストが組織していた商工業同盟も呼応し、鉄道もプロイセン主導で敷設

プロイセンは不平等・間接だが男子普通選挙(三級選挙法)施行し
多数決制の議院内閣制に十分対抗強いる組織間交渉に基づく二元主義体制を確立
50年代の墺商務相ブルックの巻き返すが、普蔵相デルブリュックが主導権を堅持
またドイツのブルジョワ経済的自由主義者も墺の後進性と多民族体制を嫌った
また国際的にも
1860年代からのイギリスを始めとする欧米の自由貿易体制への移行で
各国間で最恵国条項を含む通商条約締結されたが
イギリスはプロイセンを含むドイツ関税同盟と条約締結
フランスも当初プロイセン単独と締結していたが、後に関税同盟と締結し直した
両国他、欧米各国も関税同盟と締結、墺とは各国とも別個に締結
従ってドイツ統一以前に欧米各国では
既に経済的には小ドイツ主義的統一ドイツは意識されていたものと思える

17 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 09:45:45 0
やっぱり兵役=選挙権という関係だったんですか

18 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 10:08:26 0
シュタインとハルデンベルクの改革が不徹底だったのは、ヤパーリ
プロイセンがナポレオン戦争で最終的に戦勝国になったから?

1848年革命で、フランスは王政が崩壊して第二共和政にまで突き進んだけど、
ドイツ・オーストリアは中途半端に終わってしまった。

19 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 14:15:05 0
だろうな。
イギリスも勝ったから今でも王政。

20 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 23:13:43 0
シュタインとハルデンベルクの時代に、プロイセンに出現した顔ぶれはスゴイな。
ハインリヒ・フォン・クライスト、エルンスト・モーリッツ・アルント、フィヒテ、
シュライエルマッハー、グナイゼナウ、ヤーン……

「私は、わが国民に話しかけたいと願う、しかし、ドイツ国民よ、私は一体何と
呼びかければいいのだろうか。あなた方は一体何で、どこにいるのか。私は探し
求めるが、見つけることができないのだ」

21 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 23:58:42 O
17世紀中頃以降ドイツは他の欧州にはない特殊な環境にあった
ウェストファリアの平和によりドイツ各領邦内で
対立する内部において交渉による友好的和解(amicabilis compositio)
諸機関における代表、ポストを対立する派に対等に分配する
分離方式(itio in partes)と同権という制度が確立した
各領邦は高い知識と見識を持つ官僚制を設立した
いわゆる他の欧州地域に例を見ない官僚的絶対主義である
イングランドも似ているが頻発する対外戦争における軍事支出捻出のため
信用市場から借り入れシステムを構成し、議会が歳出を細部まで監視する
官僚的議会主義が確立
フランスをはじめラテンヨーロッパは官職を売買する売官制が横行
異常に官僚数が増え、軍事費捻出のため、フィナンシエから借り入れ債務肥大
財政改革も拒否する硬直腐敗した家産的絶対主義が確立した
最も腐敗し、王権から特権を獲得するのみ存在するセイム(地方議会)を有する
ポーランドは家産的議会主義はその惨めな終末を見てわかる通りである

ドイツ諸邦はナポレオン戦争により領域が劇的に変動した領域革命を経験し
ナポレオンに対抗ないしは干渉を防ぐため、官僚に自由主義者が集中した

22 :世界@名無史さん:2007/02/12(月) 00:33:38 O
プロイセンの場合
立憲、国民議会開設より遅れた社会経済面の改革が優先された
欧州各国の自由主義者たちはジャコバンの暴走から選挙権を
財産と教養で選挙権を制限しようとした
ドイツ以外では財産をさらに重視したが
ドイツの自由主義者たちは教養(Bildung)を重視し
それは個人に付与されるべきと考えられたため
プロイセンを始め、国民に対し初等教育を普及させ、普通選挙制の素地を作った

またプロイセンの農奴解放は有償であるから下層農民が土地を得られなかった
という批判があるが、下層農民は資本主義労働者の創出をもたらした
イギリスにおける囲い込みによる下層農民の労働者転化に相当する
フランスにおいては大革命により土地が分配され、多くの小土地所有農民が創出
労働者創出を阻害、農民を農村から分離できず、ドイツに遅れをとることになる

またプロイセンは19世紀初めから行政菅区ごとに20の工業学校を設立し
1835年にはそれらの上に立つ後のベルリン工科大学を設立した
そして鉄道を拡張し、関税法を成立させ、、労働者移動を容易くし、市場を統一
これが影響し、他のドイツ諸邦もプロイセン中心の関税同盟に参入
ドイツ関税同盟はEUの原点と見る学者もいる

23 :世界@名無史さん:2007/02/12(月) 01:16:49 O
男子普通選挙制は仏が欧州ではいち早く施行するが
仏の自由主義者は居住条件や参政権付与年齢の引き上げなど
しばらくは制限選挙復活を画策する
しかも議会主義体制は立法府と執行府の癒着、統治能力の欠如、腐敗、汚職
そして怠慢を産みだした

一方、普〜独は政府と議会が独立した二元主義をとっていた
それはけっして専制的であったことを意味するのではない
議会主義では多数派が執行部を組織し、反対派を無視し反対派は次期の選挙に
望みを託すが
普〜独の場合は政府が交渉と妥協により多数派を組織した
それは議会内に限ったことではない
ビスマルクが世界で最も早く、かつ先進的な社会保障制度を導入し
支持基盤に労働者を取り込んだ
これは単に非妥協的な社会民主党に対する牽制だけではない
また独の二元主義が仏の議会主義に優越できたのは矢継ぎ早の政策実現である
鉄道敷設にしても
1840〜50年で
独は469q→5856q
仏は497q→2915q
と大幅に逆転
独が英に次いで1871年に金本位制導入すると
金銀複本位制の仏が白・伊・スイス・ギリシャで組織したラテン通貨同盟が瓦解
逆に1892年に独が中欧通商条約を墺・伊・露と締結されることになった

24 :世界@名無史さん:2007/02/12(月) 01:37:26 O
仏が普のように国家政策による工業化を推進するのは第二帝制以降であるが
普に遅れをとったのは歪めない
1873年のオーストリアを発端とした20年以上の大不況による保護貿易主義は
それをさらに促進され、独に工業生産力で圧倒され、莫大な貿易赤字をだした
貿易での赤字を相殺するため、高級品や農産物、観光等に力を入れるとともに
植民地獲得により経済ブロック化を図った
またクレディ・モビリエ、ソシエテ・ジェネラルを中心とする大銀行が資本輸出
経常収支を黒字にした
仏の対外投資額は独の1.6倍
仏の総投資額の4分の1はロシアに集中され、事実上ロシアを金融支配した
仏で革命の最終勝者は金融資本家といわれる所以である

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