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イタリア戦争

1 :某研究者:2007/01/07(日) 01:20:56 0
イタリア戦争(1521−1544)に関して
情報収集や議論を
して貰いたい訳だが

2 :某研究者:2007/01/07(日) 01:22:51 0
仏軍は砲兵が
スペイン軍より優秀であるのに
何故敗れたのかだろうし
テルシオが多用した塹壕も
銃砲は防げない訳だろうし
仏の重装騎士を駆逐した
ピストル騎兵も未だこの時代では
存在して居ない訳だろうが

3 :某研究者:2007/01/07(日) 01:29:00 0
パヴィアでは城の包囲の為に
砲兵が集中出来ず敗れたと言う
事だろうが
ラヴェンナでは砲兵で騎兵を壊滅させていた
訳だろうし
他の戦場でも仏砲兵はテルシオを
壊滅出来無かったのかだが
スペイン軍は篭城戦に徹したのだろうか

4 :某研究者:2007/01/07(日) 01:33:28 0
1557年のサン=カンタンの戦においてフランス軍は皇帝軍のピストル騎兵と
騎乗アルケブス兵に包囲され、大敗北を喫した
 フランス王アンリ2世は、従来の装甲槍騎兵6000名を補完するために軽騎兵
3000名で軽騎兵連隊を編成していたが、この中にピストルを所持した騎兵は少数しか
含まれていなかった
 アンリ2世はこの敗北をピストル騎兵の不備だと考えた


この辺り迄仏では重装騎士は
主力だった訳だろうが
以後も完全に消えた訳では
無い訳だろうか

5 :某研究者:2007/01/07(日) 01:35:18 0
>1544年 フランス軍は北イタリアのピエモンテで勝利を収めたが、ドイツ・フランス国境方面で敗れる。「クレピーの和」を結ぶ。

此処ではどう仏は
勝ったのだろうか

6 :世界@名無史さん:2007/01/07(日) 01:39:17 0
研究者ってまだいたのかー

7 :世界@名無史さん:2007/01/07(日) 01:48:42 0
梅毒が全ヨーロッパに伝播するきっかけになった戦争だよな。

8 :某研究者:2007/01/07(日) 02:53:18 0
>1544年 フランス軍は北イタリアのピエモンテで勝利を収めたが、ドイツ・フランス国境方面で敗れる。「クレピーの和」を結ぶ。

>此処ではどう仏は
>勝ったのだろうか


http://yasai.2ch.net/army/kako/995/995475623.html
>1544年のチェレゾーレの戦は、両軍の軍事改革の是非が問われる戦闘となった
> この戦場は、自然の遮蔽物や障害物が全く存在しないなだらかな平原であり、
>その点で優勢な装甲槍騎兵を有するフランス軍にとってかなり有利な要因となった

恐らくこの戦いだろうが

平地での戦いでは無いので
砲兵は役に立たなかったが
仏の騎兵は使えたと言う
事かも知れぬが

9 :某研究者:2007/01/07(日) 03:21:27 0
> 1503年、チェリニョーラにおいてゴンサロはフランスの騎兵と槍兵を破った
> この時、ゴンサロは全兵力の6分の1に当たるアルケブス兵を保有していた
> ゴンサロの戦術方針は、相も変わらず変わり映えしない徹底した防御戦闘だった
> 陣前に塹壕を堀り、掘った土で壕の背後に土塁壁を構築し、その頂部に保有する
>2000名のアルケブス兵全員を配置していた

砲でこのアルケブス兵を狙撃するのは
困難だろうし
チェリニョーラで既に砲に対する防御は
考慮されていたと言う事かも知れぬが
長篠の様に土塁に銃眼は
有ったのかだろうし
銃や弓に対する防御は
考慮されて居たのかどうかだが

10 :某研究者:2007/01/07(日) 03:29:11 0
> また、ナバロは大型の小火器を搭載した防護板付きの二輪車を幾つか配備していた
> この火器は重い銃身を支えるために二股の支えがついていたことから
>「鉤付きのアルケブス」と呼ばれた大型アルケブスで、後のマスケットの直系の
>先祖であった

此れは砲でやられないのかだが
土塁上に有るなら砲での狙撃は
困難だったと言う事だろうか


>大砲の先駆者であるフランス砲兵は、質量共に同盟軍砲兵を上回っており、
>更にラヴェンナ市攻略のために随伴していた攻城砲も運んできていた
> 同盟のアルケブスを使った近距離での戦闘を回避し、優勢な砲兵火力で勝負を
>決しようとする意図は明白だった
> フランス軍は正面突撃のかわりに砲撃戦を開始し、これに同盟軍砲兵が応射した
>ことにより、歴史上初の砲兵戦が約2時間続くことになる

>この砲撃戦で最も損害を受けたのはフランス軍の歩兵で、フランス軍の隊列中央は
>同盟軍の砲撃が集中した
> 同盟軍は野戦陣地のお陰で遮蔽物を与えられており、損害はそれ程ではなかった

土塁で砲は可也
止まって居たと言う事かも知れぬが

11 :某研究者:2007/01/07(日) 03:34:23 0
>しかし、質量に勝るフランス砲兵は放列を移動させ、ついに陣地後方に待機していた
>スペインの騎兵集団に対しても縦射を加え始め、側面に回り込んだフランス銃兵の
>射撃がこれに加わった
>スペイン騎兵の反応はほとんど反射的なものだった

この部分は土塁では
守られて居なかったと言う
事かも知れぬが


>同盟軍がスペイン騎兵の
>出撃用に準備していた通路(敗走する敵を追撃するため、この箇所は壕が
>掘られていなかった)を強襲し、陣地線を突破して同盟軍を背後から攻撃し始めた

まあしかしこの部分に柵程度は
無かったのかどうかだが

12 :某研究者:2007/01/07(日) 03:40:35 0
> ナバロの誤算は、騎兵が敵の敵の優勢な砲撃に耐えられると考えたことだった
> 彼の野戦要塞は、騎兵の支援を受けることなく敵の攻撃を撃破し、
>ほとんど勝利を収めた
> しかしながら、彼の陣地は側面からの騎兵の襲撃への処置は施されておらず、
>それはスペイン騎兵の任務と考えられていた

まあ以後は騎兵も土塁に隠れる事に
成ったと言う事かも知れぬし
騎兵を出す場合は橋でも掛ければ
良いと言う事かも知れぬが


> 1513年のノヴァラの戦で、長年の雇用者であったフランスを捨ててスペインに
>雇われていたスイス槍兵は、フランス軍がまだ壕を掘らないうちにその宿営地を襲撃した
> スイス槍兵はフランス砲兵の突撃破砕射撃による損害を無視して強襲を実施し、
>ドイツ傭兵を襲い大砲とアルケブス兵を一掃した

この様な奇襲は常に通用する訳では
無い訳だろうが


> 1515年、マリニャーノでスイス槍兵は再び築城に対する対抗手段として奇襲を
>試みた
> しかし、フランス軍はすでに陣地を壕で取り囲んでおり、その中でスイス槍兵を
>迎撃することが出来た
> スイス槍兵の夜襲は察知され、フランス砲兵による防御射撃を浴びることになる
> スイス槍兵は砲火を冒して襲撃を試みたが、フランス装甲槍騎兵の側面攻撃により
>前進速度が鈍り、失敗を悟ったスイス槍兵は整然と戦場を退去した

騎兵で前進速度を鈍らされている内に
砲兵でやられたと言う例も
有る訳だろうか

13 :某研究者:2007/01/07(日) 03:50:44 0
> ロートレックは、もともとラヴェンナと同様に慎重な準備砲撃の後に、ペドロ・ナバロ
>(彼はフランスに寝返っていた)指揮下の土工技術者の支援を受けた襲撃を
>計画していたが、スイス槍兵は待機することを拒んだ
> 築城物を発見したスイス槍兵は、ほとんど本能的に攻撃前進を開始したのだった

ラヴェンナで捕虜と成っていたナヴァロが
仏に寝返っていたとは知らなかったが
仏軍は攻城戦の様に陣地に対して
塹壕を掘って壕を砲撃しようと考えて居たのかも知れぬが
(土塁をトンネル等を利用した
 爆破で崩そうと考えて居た
 可能性も有るかも知れぬが)
スイス傭兵は仏軍の意図に反して
突撃を掛けた訳だろうか


>壕は槍が届かない程深く、スイス槍兵の攻撃前進は停止した

スペイン側は深さ4mもの壕を掘っていた
訳だろうか
(まあ土塁の部分と合わせて4mと言う事かも知れぬし
 塹壕自体は2m程度と言う事かも知れぬが)

14 :某研究者:2007/01/07(日) 03:55:48 0
> セジアでのフランス軍は、ミラノの攻囲戦が失敗して組織的な後退を行っていた
> スペインのペスカラ侯とジョヴァンニ・デ・メディチは追撃部隊を率いて
>フランス軍を追跡した
> この部隊には、後の龍騎兵のように騎乗したアルケブス兵とマスケット兵が
>含まれていた
> フランス軍は側面と背面から繰り返される射撃に対応できなかった


竜騎兵の様な部隊も既に
存在した様だが
仏が後退中で砲や陣地が使えないから
勝ったと言う事も有る訳だろうか

15 :某研究者:2007/01/07(日) 04:03:49 0
> 1525年のパヴィアにおいて、小火器はこれまでで最も決定的な役割を
>演じることになった

>原因の一つとして、戦闘の終始を通じて濃霧が戦場を支配していたことが挙げられる
> 視界の極端な制限はフランス軍の協調的な行動を不可能とし、フランス軍は全線に
>わたって小部隊ごとに行動した
> 少なくとも、槍対槍、皇帝軍のドイツ傭兵とフランス軍のスイス槍兵との戦闘は
>ほぼ互角だった
> しかし、フランス騎兵は突発的な遭遇戦に近い状況で近距離での不意急襲的な射撃に
>対応できなかった
> このような至近距離の火力戦で、貫通力の優れたマスケットは完全被甲鎧を
>着用していた騎兵に致命的な威力を示すことになった

濃霧の中散会している相手には
砲も役立たずであり
仏騎士も分散していたから
銃撃でやられたと言う
事だろうか
(まあしかし仏が騎士を分散させねば
 どう成って居たのかだが)

16 :某研究者:2007/01/07(日) 04:07:06 0
>ビコッカで地獄を見ていたスイス槍兵は、全面攻撃をかければ成功していただろう
>状況であったにもかかわらず、損害を恐れて不用意な突撃を躊躇していた
> そして、もしペスカラが戦場全体を眺望してスイス槍兵がいまだ健在であることを
>知ったならば、貧弱な遮蔽物を捨てて後退していたかもしれなかった

スイス槍兵がビコッカでやられて居なかったら
仏軍は勝ったと言う事かも知れぬが

17 :某研究者:2007/01/07(日) 04:09:50 0
>真に着目すべきは、人工の障害物無しで銃兵が戦い、勝利したことにあった
> 槍を持ったドイツ傭兵は、障害物に任されていた役割を演じて銃兵を守り、
>時には敵を銃兵の射界に押しやり、銃兵が最大の損害を敵に与えられるようにした
> 結局、この戦闘の戦術的教訓も、異なる兵科を協調させて敵を打ち破るという
>変わり映えのしないものだったが、野戦築城からの脱却という点で、セジア川での戦
>とともにテルシオが生まれる契機の一つとなった

まあしかし霧が無ければ砲兵に崩された後
仏騎兵やスイス槍兵の突撃でやられていたと言うのが
現実かも知れぬし
霧が有ったとしても
スイス槍兵が突撃すれば
終わって居たと言う事かも知れぬが

18 :某研究者:2007/01/07(日) 04:36:54 0
> フランスの軍団は、その編成パターンがテルシオと似ていたにもかかわらず、
>テルシオ程の名声は得られなかった
> 最大の要因は、貴族相当の身分出身者のみに限られた士官の数の不足にあった
> 兵卒に対する士官の比率はテルシオの約半分であり、テルシオ程柔軟な
>部隊指揮は期待できなかった
> また、フランスの軍団が現地人のみで編成されていたことも一因となった
> スペインの軍団は、故国から遠く離れて戦う古参兵で編成されていた時が最も
>強かった
> そして、そのような軍団は外国人の比率が本国人を圧倒していた
> 当時、一般に本国人部隊は外国人部隊に対して劣るというのが軍事上の常識だった

仏軍は士官の数が少なく
外人が多かったと言う事かも知れぬが
スペイン兵の訓練度も高かったのかだが
士官が多いだけましと言う
事なのだろうか

19 :某研究者:2007/01/16(火) 06:39:18 0
http://www.pbase.com/bmcmorrow/image/34195507
パヴィアでは上の様にテルシオのパイク兵の前に立って
銃兵が射撃していた訳だろうか
(マクシミリアン鎧も銃には全く
 無力な訳だろうか)
上が正しいなら仏の騎士もマクシミリアン鎧は使用して居たと言う
事だろうか


20 :世界@名無史さん:2007/01/20(土) 12:31:51 0
20ゲットだろうか

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