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〜西遼(カラ・キタイ)および耶律楚材について〜

1 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 19:49:54 0
西遼と耶律楚材はあまり関係がないが、議論したい。
西遼についてはトルキスタンでの施政・情勢・住民からの反応など
耶律楚材についてはモンゴル帝国での実態・名前の謎など
よろしくお願いします。

2 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 19:53:00 0

重複です
こちらに合流。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1094731637/l50

3 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 19:58:14 0
スレ主です。
それでは西遼のみに関してという方向でどうでしょう?

4 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 20:01:15 O
耶律大石スレ乙

5 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 20:10:27 0
<<4じゃあ西遼に関してのみ進めます。

6 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 20:30:49 0
こちらとも微妙に他スレと重複な気もしないではないが、西遼だけだと
なかなか話題のネタが乏しくてむずかしいかも。

・関連スレ
【草原の】契丹族とその王朝・王家【支配者】
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1157005637/l50
モンゴル帝国
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1150396840/l50
モンゴル帝国・金国・西夏・ホラズム
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1031997098/l50

西遼=カラキタイ朝については西夏やウイグル王国などと同じくこれ専門の歴史書が
編まれなかったせいで断片的なことしかわからないが、セルジュ−ク朝のスルターン・
サンジャルを敗退させたり、ホラズム・シャ−朝やモンゴル帝国関係の話しと関わるので、
ペルシア語やアラビア語の歴史書でもそこそこ情報が残されている。

ちなみにこの西遼につかえていたバラークという将軍が、ホラズムシャー朝のアラーウッディーン
・ムハンマドとの戦いに敗れてこれに臣従し、後にイランのケルマ−ン地方でカラヒタイ朝という
地方政権を樹立して、この一族はイルハン朝のオルジェイトゥ・ハンの時代まで存続している。

7 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 20:47:01 0
<<6
情報dクスです。バラークの事はあまり知らなかったので。
少し気に掛かることがあるんだけど、西遼の君主は君主号を何と称していた
のか?確かカラ・ハンを征服してから耶律大石グル・カンを名乗って即位し
たけど、皇帝とも書かれている。
実際どうだったんでしょう?

8 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 20:49:06 0
<<7みす。
確かカラ・ハン国を征服してから耶律大石はグル・カンを名乗って
即位したけど、皇帝とも書かれている。

9 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 00:01:05 0
>>7-8
取り敢えず、バラークについてのあらましをひとつ。

ケルマーンのカラヒタイ朝の始祖バラークは、実はペルシア語資料での綴りがイルハン朝のアバカ・ハンに
大敗したチャガタイ家の当主バラク(Barāq)と同一だったりするのだが、便宜的に両者をわけるため、
敢えてここでは「バラーク」と綴った。普通に「バラク」でも全く問題ない。
彼は元々西遼(カラヒタイ)の将軍の家系の生まれで、兄のターヤンクーという人物はイルハン朝時代に
編纂された年代気資料によると、西遼の「ウルスのアミール」 amīr-i ulūs 、つまり王朝を代表する
ような高位の将軍だったらしい。

1134年に耶律大石がセルジュ−ク朝のスルタン・サンジャルに大勝して以来、マーワラーアンナフルの
サマルカンドを領有していたカラハン朝の第20代君主マフムード・ハン(2世)は1137年に西遼に臣従し、
程なくしてホラズム・シャ−朝のアトスィズも1141年に西遼側に臣従した。その後約70年程、時代による
変遷はあったものの、名目上はマーワラーアンナフルの住民と地方政権は異教徒の王朝に臣従する形に
なっていたわけで、1200年代にホラズム・シャ−朝の君主となったアラーウッディーン・ムハンマドは、
ホラーサーンへ侵出して来たゴ−ル朝のシハーブッディーン・ムハンマドを1203年に撃退するなどして
着実にホラーサーン、マーワラーアンナフルでの勢力を堅固にして、西遼からの独立の機会を狙っていた。

10 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 00:07:58 0
>>9の続き。

マーワラーアンナフルの住民は仏教徒である西遼の皇帝に貢納していることを屈辱と感じていたようだが、
1200年代になるとアラーウッディーン・ムハンマドは、ホラーサーンのみならず、カスピ海南岸の
マ−ザンダラ−ン地方やイラン南西部のケルマ−ン地方まで統治下に置くようになった。
ムハンマドは機は熟したと見て、1209年に西遼側の使者を処刑し、カラハン朝のウスマーン・ハンと計って
最初の西遼遠征を敢行した。ところがこの戦いでムハンマドは敗れて西遼の軍に捕縛されてしまった。
なんとか侍従のひとりの機転によって西遼の軍中から逃亡する事に成功し、翌1210年に再度ウスマーンと
共同してスィル河以東の地へ侵攻、バナーカト近郊で上記のターヤンクー率いる西遼軍を撃破した。

この戦いで捕虜となったターヤンクーの弟こそが、上記のバラークだったようだ。
随分話しが遠回りになったが、バラークはこれ以降、アラーウッディーン・ムハンマドの侍従(hājib)
として仕えるようになったため、バラーク・ハージブ( براق حاجب Barāq ḥājib)と呼ばれている。

さて、「グル・ハン」という君主号についてひとつ。
グル kür / gür とはテュルク語で「全て、全部」というほどの意味で、「グル・ハン」で直訳すると、
「全てのハン」ということになるが、フランスの東洋学者ペリオ P. Pelliot の意見に従えば、この
「全て」(tout entier)とは「全世界」ほどの含意があるとみて、要するに「グル・ハン」(Gür-χan)
とは、「全世界を統べる帝王」ほどの意味でだろう、ということのようだ。

この「グル・ハン」の漢語による翻訳が「皇帝」とみて間違い無いだろう。


11 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 00:11:16 0
蛇足。

ちなみにモンゴル帝国の始祖チンギス・カンであるが、彼もまた同時代の漢語では「皇帝」と称されている。
現在ではチンギス・カンを漢語で表現する時「成吉思『汗』」と書かれる事が殆どだが、実はモンゴル帝国
時代にはこのような表記をされた例はまず無かったりする。

13-14世紀のもので、例えば1228年に脱稿された漢語資料で、チンギスの招きによってサマルカンドを
訪れた全真教の導師、長春真人こと邱処機の1221-1224年に渡る中央アジア旅行記とも言える
『長春真人西遊記』や、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、趙[玉共]の撰になる『蒙韃備録』
や、1237年に同じく南宋の彭大雅が撰述し徐霆の注になる『黒韃事略』などでは、共に「成吉思皇帝」と
称されている。

モンゴル帝国側でもオゴデイやモンケ、クビライが華北などで建立した碑文群の漢文面では、同じく
「成吉思皇帝」と書かれていた。さらに京都大学総合博物館に蔵されている「チンギス・カンの聖旨牌」
という恐らくチンギス・カンが何人かに下賜したと思しき鍍金を施した金牌が存在しているが、この片面に
「天賜成吉思帝聖旨疾」としるされている。チンギス・カンもまた存命中ないし没後すぐの段階で
漢語文化圏側から「皇帝」と称されていた。

12 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 08:31:59 0
ナイマンの亡命王子に乗っ取られるほど弱体化していたのかえ?

13 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:36:48 0
なんだよこれ、知識のない>>1が建てた単発質問スレかw

14 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 17:46:39 0
>>9,10でも書いたが、
一旦その宗主権に下っていたマワラーアンナフルのホラズム・シャ−朝が
1200年前後からイラン中西部のセルジュ−ク朝本家を滅ぼしついでにアフガニスタンの
ゴ−ル朝を撃退して勢力を一気に拡大して西遼からの影響下から脱しようとしていた。

ナイマンのクチュルクは西遼の皇帝チルク・ハンの娘婿に納っていたが、西方のホラズムシャ−朝の
スルタン・アラーウッディーン・ムハンマドと内通して首都のバラーサグーンを攻撃し、ナイマン王家の
勢力を使ってパミ−ル以東の西遼の領土をまるごと乗っ取ろうと画策したらしい。

クチュルクが亡命して来た1207年にはチルク・ハンは親族間の暗闘の末に若年で即位してから治世も
三十年ほどたっていたが、チルク・ハンは即位の時、長兄の蛮王とそれを後援していた、先代である伯母
承天太后・普速完の舅、蕭斡里剌を殺害し、普段から狩猟や酒色に耽溺していたため、キタイの将軍たち
からの人望は低かった。1200年代に入ってからは特に傘下にあった三大属領、ウイグル王国、マーワラー
アンナフルのカラハン朝、ホラズムシャ−朝が相次いで離反してしまったため、急激に勢力が衰退してしまった。
クチュルクはこの状況でチルク幕下の将軍たちと結び、麾下のナイマンの部将たちを率いて蜂起の機会を伺った。

>>10にあるように1210年にアラーウッディーンがターヤンクーの軍団を撃破した時、バラーサグーンの住民は
アラーウッディーンに呼応して彼の軍団を招き入れるつもりだったが、チルク・ハンの軍団に逆に討伐されて
しまった。ところがこの後軍議中の内輪もめでハンの諸将が軍を散じたてしまい、クチュルクはこの隙を突いて
急襲。チルク・ハンを捕縛してしまった。

クチュルクはチルクを捕縛した後も皇帝の地位を保証したが、実権を奪って傀儡状態にした。事情をいちいち
説明すると長くなるが、確かに ナイマンの亡命王子に乗っ取られるほどに西遼は弱体化していたと言える。
特にマーワラーアンナフル(+バラーサグーン他領内のムスリム住民の地域)とウイグル王国が離反した事が
致命傷だった。

15 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 20:41:15 0
>>14
ちらちらと西遼系のサイトの資料を見てみたけど
徳宗大石が亡くなった後の皇帝や皇后にロクなのが居ないって感じだな
逆に大石後によくアレだけ続いたって感じがするよ

16 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 21:39:10 0
耶律大石が一気に領土を西方へ拡大し、晩年は金朝と対決出来るまで勢力を回復できたのに、
後継者に恵まれず大石が急逝してからは領土内の権益を保つのに精一杯という不甲斐なさが問題。

間隙を突いて西方から侵攻されるか、マーワラーアンナフルを奪還されカーシュガル
あたりまで進撃されてもなんら不思議じゃ無かったが、オグズ諸勢力の蠢動が納らず、
セルジュ−ク朝のサンジャルが勢力を回復出来ずにじり貧のまま没したり、ホラズム
シャ−朝もカラハン朝もオグズとの対応に追われて余裕がまるで無かったおかげで、
西遼は内紛にかまけていられる余裕があったとも言えるのかも。

逆にいえば、大石からチルクまでたった3世代80年弱しか命脈を保てなかった短命な
王朝だったといえるかも。周辺のガズナ朝やゴ−ル朝、ウイグル王国でさえ世代の幅が
けっこう広いのに。

17 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 04:17:35 0
地味に世界史上イスラム教地域に仏教国が突き刺さったのって史上唯一じゃないか?

18 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 10:23:54 0
>>17
ジュンガルをお忘れなく

19 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 00:10:24 0
>17
それを言うなら、イランまで仏教を持っていった
フレグ・ウルスに比べたらスケール小さいよな

20 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 00:20:14 0
イスラム以前にはシリアの辺りまで仏教が行ってたってな

21 :世界@名無史さん:2007/02/20(火) 22:19:40 0


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