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【蒙古】世界史上最強の騎馬軍団とは?【突厥】

1 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:45:39 0
五位:ヌミディア騎兵(ハンニバル・マシニッサ)
四位:満州八旗軍(弩爾哈斉)
三位:ティムール軍団(ティムール)
二位:モンゴル騎馬軍(チンギスハーン)

一位:武田騎馬軍団(武田勝頼)

          .__
          |風|
          |林|
          |火|       __________
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    |\Ю ⊂)_|√ヽ
   (  ̄ ~∪ )^)ノ
    ||` || ( | ( |
    '~ ~ '~ '~

2 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:51:46 0
        〜¶
        ∧⌒∧   ∧彡   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       ノ ( ´∀`)  彡  ・\ < 目指すは敵将の首。一直線に攻撃モナ。
     §∠ 》#◎# 彡  人_)  \__________________
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     〆(//**/― _ \
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       ノ ( ・∀・)  彡  ・\ < 皆の者、モナー汗に続け!!!
     §∠ 》#/## 彡  人_)  \__________________
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     〆(//**/― _ \
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3 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:36:19 0
一位:ポーリッシュフッサール

だろ
たった一回の突撃でオスマントルコ軍を撃退したわけだから

4 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:05:27 0
コサックとかは。

5 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:28:04 0
ポーランド槍騎兵もエントリー

6 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:34:58 0
ドイツ騎兵は?詳しく知らないけど

7 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 21:00:22 O
ネイがワーテルローで率いた騎兵軍団やワーテルローのイギリス側スコットランド騎兵は?

8 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 22:00:38 0
八旗は意外と弱かった、という説もある

9 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 13:11:41 0
WWU開戦時、ナチの1号戦車を散々に蹴散らかしたポーランド騎兵団

10 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 13:17:41 0
>>9
ナチの3号4号に蹴散らされたけど…

普通にモンゴル騎兵最強だろ

11 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 17:00:10 O
ドコまでの時代の騎兵を含めるかじゃね?
現代まで含めたらアフガンの旧北部同盟の騎兵が最強だろ。彼等は馬上からRPG-7ぶっ放して車両破壊してるし、いまだに騎兵突撃やらかしてるよ。
馬匹で大砲や機銃とかも牽引してるよ。

12 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 17:11:30 0
>>11
馬たちはきっと高性能な耳栓してるんだろう
よくそこまで仕込んだモノダワ

13 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 17:22:10 O
そりゃ、米軍主体の有志連合が来るまで三十年近くドンパチやってた国ですからな…
赤軍騎兵や第三帝国の騎兵も手強かったようだがアフガンには敵わないだろ…

14 :世界@名無史さん:2006/05/14(日) 00:25:41 0
なんで未だに騎兵なんて使うの?育成コスト考えたら割高じゃないの?

15 :世界@名無史さん:2006/05/14(日) 01:05:18 0
戦車の方が高いから。

16 :世界@名無史さん:2006/05/14(日) 02:34:22 O
コストもあるがアフガニスタンは国自体が高原にあり、気候や地形も厳しいからじゃね?
支援に当たった米軍や英国の特殊部隊や諜報機関も馬で移動がかなりあったようだし…

17 :世界@名無史さん:2006/05/14(日) 22:41:30 0
独眼竜正宗の末裔で馬賊の頭目となり満蒙の地で暴れ回った(伊達順之助)
同じ頃に暴れまくった小日向白朗、松本要之助!

地上最強にはほど遠いが彼ら馬賊はアフガン戦士に似ている?


18 :世界@名無史さん:2006/05/15(月) 03:23:27 0
>>10
>ナチの3号4号に蹴散らされたけど…

それは伝説。真実じゃない。
戦車に対しては騎兵旅団の中の戦車砲部隊が戦った。騎兵部隊は戦っていない。

ポーランド騎兵はドイツの新兵器にやられたというよりは
あとからあとから、しかも三方からやってくるドイツの物量、特に大量の野戦砲によって分断され
本来の機動力が発揮できなくなって包囲され降伏していったというのが本当のところ。

実際にドイツは大量の戦車を失っている。

19 :世界@名無史さん:2006/05/19(金) 02:03:30 0
>>14
浪漫だよ浪漫

20 :世界@名無史さん:2006/05/19(金) 10:05:51 0
>>18
キングタイガーのイメージで世界最強!!!と思っていたが、ドイツ戦車って案外無敵でもないんだな。


21 :世界@名無史さん:2006/05/20(土) 00:52:40 0
ポーランド戦は訓練用の一号と二号戦車で戦ってましたから

22 :世界@名無史さん:2006/05/20(土) 22:37:13 0
武田なら現代の重戦車にも勝てる。

23 :世界@名無史さん:2006/05/20(土) 23:00:39 0
やはりコサックだよ

24 :世界@名無史さん:2006/05/21(日) 16:22:20 0
武田騎馬軍団はヘリや戦車や装甲車まで撃破した!
ソースは戦国自衛隊

25 :世界@名無史さん:2006/05/21(日) 17:11:08 0
こんなクソスレあげるなよ

26 :世界@名無史さん:2006/05/22(月) 17:28:10 0
>>20
ドイツ軍は戦車300両とその他1000両を破壊されている。
ポーランド「騎兵」の対戦車攻撃も全く無効というわけじゃなかった。
というのもポーランド騎兵旅団は騎兵といいながらも配下に対戦車砲部隊や戦車部隊を持っていて、
そういった部隊が敵戦車と戦ったから。
騎兵で戦車に突撃なんてのは伝説で、実際は1回もやっていないので、戦車に対する騎兵突撃の有効性は不明w

結局ドイツの物量が圧倒していたことが勝敗の決定要因だった。

27 :世界@名無史さん:2006/05/22(月) 20:00:22 0
>>26
なら日本がチハたんで戦ったのは気が狂っていたからってわけでもないんだな。
どうせやられるなら最低限でいいや!ってところか。

28 :世界@名無史さん:2006/05/24(水) 22:55:46 O
まあ相手がまともな洗車持っていなかったのもあるけどな。
日本軍の戦車で1番強いのは捕獲したマチルダU。次が捕獲したスチュワート。

29 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 09:12:13 0
ポーランド騎兵がドイツ戦車に突撃したのはただの伝説だが、
実はドイツ歩兵部隊相手にランスとサーベルで突撃したのは何度もやった。もちろん味方の機銃による援護つきだが。
捕虜となったドイツ歩兵はポーランド騎兵に突撃された恐怖で気が狂い、泣き叫んで糞尿を漏らしており、
ポーランド人は彼らの扱いに困ったという。

ランスやサーベル等の飛び道具でない武器を使うのが本物の騎兵というなら、
事実上世界史上最後の騎兵である第二次大戦のポーランド騎兵は同時に史上最強の騎兵だったともいえる。

30 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 12:17:24 0
ほう 近代までなら当たり前だった攻撃も、現代人にかますと気が狂うのか。
だれだよ。戦争は近代兵器を使い出してから悲惨で陰鬱なものになったなんていったのは。

31 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 12:31:48 0
たしか日本にも幕末から明治までランサーが兵科としてあった。

32 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 12:49:17 0
ヌルハチの八旗軍は近代兵器に勝ったんだから表彰台は確実だな

33 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 16:04:57 0
>32
鳥銃や仏朗機、紅夷大砲、倭刀などを近代兵器というのは無理がある。

34 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 17:24:57 0
>>30
ランサーの突撃はかなり恐いらしいよ。
ポーランドネタで思い出したが、
近代でなくとも、騎兵突撃された経験のなかったオスマントルコの大軍は1683年だったかの第二次ウィーン攻囲のとき、
ソビエスキ王の率いるたった数千のポーランド騎兵に突撃されて恐怖のために大混乱してウィーンから逃げ去ったという逸話がある。
ランサーの突撃なんて今じゃ映画ぐらいでしか見ることができないが、一度本物を見てみたい。

35 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 17:45:14 0
ポーランド敗北の最大要因は過剰な文民統制。
戦術を知らない文民が軍の作戦に口を出したことである。
その過干渉が原因となり、本来の作戦なら持ちこたえれるはずのポーランド軍は史上稀に見る短期間で敗北を喫した。

36 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 19:03:47 0
>>34
ランサー突撃なんて槍衾で軽く防げるんじゃないの?それに弓、鉄砲組み合わせたら絶好の鴨葱じゃん

37 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 20:17:47 0
オスマン帝国軍はパイク兵を用いるかわりに荷車を並べて野戦陣地を作っていた。

しかし、トルコ人が騎槍突撃を受けた経験がないって一体どっから出てきたデマだ・・・

38 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 21:09:52 0
wikiあたりの説明を見る限りは、包囲戦で消耗していたオスマン朝軍の横合いを
戦力を温存していたヤン3世率いるポーランド王国軍の主力騎兵部隊が夕闇を
見計らって散々に蹴散らしたって感じだ。

基本的に臨戦体制の歩兵軍と騎馬部隊が正面衝突したとかいう状況には程遠い。
とても槍衾がどうとかで防げるような余裕があったように思えないけども、普通
歩兵軍に対する騎兵の突撃ってこういう状況で無いとやらないように思うが。

39 :騎兵突撃を敢行:2006/05/26(金) 23:40:55 0
実際にいくつかのポーランド軍騎兵部隊はドイツの装甲部隊に対して騎兵突撃を敢行した。
 ほとんどは戦車の機銃になぎ倒されて一方的に虐殺されたが、
機銃になぎ倒されつつも突撃してくる人馬の群になにか言い知れない恐怖を感じた戦車兵がパニックに陥って戦車を捨てて逃亡してしまった、という例も多少あった。


40 :もあながち無茶とは言えないものがあった:2006/05/26(金) 23:41:52 0
戦車に向って騎兵で突撃、というのは無謀のようだが、第2次大戦前の武装が機銃だけで無線機を搭載していない為,各車の連携が取れず、
また外部視察装置が貧弱なので廻りがよく見えない・・・という戦車に対しては、馬の脚の早さを生かして死角から戦車に肉薄、対戦車手榴弾を投げつけて撃破、という戦術もあながち無茶とは言えないものがあった。


41 :コサック騎兵:2006/05/26(金) 23:42:35 0
ドイツ軍はモスクワ前面の戦闘でも,コサック騎兵に上記の戦術でかなりの戦車をやられたりしている(コサック騎兵側の被害も甚大だったが)。
 また,2次大戦初期の戦車には機銃しか武装が無く、照準装置も機銃付属の照準器を覗く穴がついてるだけ・・・というのが結構あったので、
(騎兵がそういう戦術を採ってたかはともかく)対戦車ライフルで機銃の射程外から攻撃する、というのも不可能なことではない。


42 :ポーランド軍の軍事思想:2006/05/26(金) 23:43:13 0
ポーランド軍の軍事思想は時代遅れで、軍の編制も旧式であった。
 機甲師団、自動車化歩兵師団を持たず、対戦車砲、高射砲もきわめて不足していた。
 その上さらに、軍指導部は依然として騎兵の価値を信じ、騎兵の大部隊による突撃の可能性を悲壮に信じ込んでいた。


43 :世界@名無史さん:2006/05/28(日) 00:20:15 0
>>36
中世だって馬鹿正直に正面からランス・チャージなんてやらんかったと思うよ。
 

44 :43:2006/05/28(日) 00:21:09 0
うあ、38氏がもうレスしてたか……スマソ

45 :世界@名無史さん:2006/05/28(日) 00:44:23 0
>>37
実際オスマン軍兵士はランサー突撃を受けた経験がなかったよ。
ランサー突撃は昔から行われていたからそれに対する防御法もある程度完成していて、
相手に突撃される隙を作らなかったので突撃されたことがない。

ソビエスキ軍が突撃してきたときはトルコ人の連中油断していただけにそれこそ腰抜かしただろうな。

46 :世界@名無史さん:2006/05/29(月) 12:47:33 0
>>36
中世では敵正面に突撃する場合、ロングボウを使ったの矢の雨あられで敵の隊形を撹乱してから、のことだった。
第二次大戦でのポーランド騎兵の場合、遠方からの機銃掃射をまず使った。

47 :世界@名無史さん:2006/05/29(月) 19:58:47 0
エイジ

48 :世界@名無史さん:2006/06/02(金) 01:53:46 0
武田のポニー軍団が最強だろ

49 :世界@名無史さん:2006/06/02(金) 17:18:55 0
わかったから三戦板に帰ってね

50 :世界@名無史さん:2006/06/02(金) 20:21:45 O
現実として
アフガン北部同盟≧ポーランド騎兵≧第三帝国・赤軍・大日本帝国騎兵≧コサックは確かじゃね?
後は沢山いてわからん…

51 :世界@名無史さん:2006/06/03(土) 01:50:02 0
T何とかと言う戦車まで持ってた北部同盟の騎馬軍団と中世の騎馬軍団を比べるのは酷じゃね?

52 :世界@名無史さん:2006/06/03(土) 13:39:33 O
北部同盟は騎兵部隊、機械化部隊、ヘリ、ロケット砲、自走砲等を保有し、西部方面のタリバン潰したのが騎兵部隊、機械化部隊はカブールに向かった。

53 :世界@名無史さん:2006/06/04(日) 18:53:08 0
騎馬民族史に乗ってた逸話色々書こうかと思ったけど、
あまりにスレタイが厨くさいから止めた

54 :世界@名無史さん:2006/06/04(日) 22:18:05 0
スレタイからして杉山正明の学説信じてる人が立てたかと思ったが
ただの武田厨かよ…
木曽馬なんか世界史の騎馬軍団と比較する事自体馬鹿馬鹿しい。

55 :世界@名無史さん:2006/06/05(月) 20:11:31 0
>>53
そんなことゆわんと。

56 :世界@名無史さん:2006/06/16(金) 11:53:04 0
初期レスの一位のスルーっぷりは見事

57 :世界@名無史さん:2006/06/22(木) 20:47:17 0
タシュンカ・ウィトコ!

58 :世界@名無史さん:2006/07/05(水) 01:59:02 0
タタンカ・イヨタケ!

59 :世界@名無史さん:2006/07/05(水) 05:56:24 0
アメリカの騎兵隊じゃないか?

60 :世界@名無史さん:2006/07/05(水) 09:54:00 0
>>59
あまり知られていないが、メキシコの騎兵隊Dragons de cueroも
アパッチ族やコマンチ族と戦っていた。
いまだにイスラム風の盾「アダルガ」を装備してたらしい。

61 :世界@名無史さん:2006/07/06(木) 00:31:16 0
≫60
装備的には最新だよね。

62 :世界@名無史さん:2006/07/07(金) 19:34:52 0
>>61
最新というか、13世紀頃にムーア人から伝わった盾で
コンキスタドーレも使ってました。

Dragons de cueroのアダルガは牛革を層状に縫い合わせた
ものだったようです。その他にもみ革のコートを着て、馬も
革の装甲をつけていた。矢を防ぐ効果はあったらしい。

63 :世界@名無史さん:2006/07/11(火) 00:02:25 0
ちなみにこれは1806年のポーランド騎兵。
ポーランドで行われた歴史祭りの一幕。
独特の帽子の形でポーランド騎兵とわかる。
http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1152538899

64 :世界@名無史さん:2006/07/11(火) 08:29:48 0
モンゴル騎馬隊
ttp://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060710i412.htm
兜にツバがついてる

65 :世界@名無史さん:2006/07/11(火) 09:12:59 0
ツバというかシコロでは

66 :世界@名無史さん:2006/07/12(水) 01:22:57 0
>>63
たこ焼きテーマパークが出てきて
一瞬、釣りかと思った

67 :世界@名無史さん:2006/07/12(水) 09:54:28 0
ピストル騎兵とフサールが戦った例はあるんだろうか?

68 :世界@名無史さん:2006/07/12(水) 15:16:25 0
>>63
>>66
いまはオットセイの写真が出てきたw

騎兵の写真はこっちだろ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060710-04580617-jijp-int.view-001

69 :世界@名無史さん:2006/07/21(金) 20:31:41 0
>>64
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=66986

70 :世界@名無史さん:2006/08/04(金) 23:24:30 0
米国陸軍バッファロー大隊

71 :世界@名無史さん:2006/09/04(月) 21:24:19 0
>>45
モハーチの戦いでハンガリー騎士に突撃されてなかったっけ?

72 :世界@名無史さん:2006/09/04(月) 22:36:54 0
参考になるなあ。
「ポーランド騎兵部隊が戦車に突撃して玉砕して果てた。
負けるに決まってるじゃないか」
というのが今でもいろんな書籍に書いてあるが、そんな単純なものじゃなかったのね。

映像の20世紀かなんかで、「第一次世界大戦時のポーランド騎兵部隊」という映像をちょっと見たけど、
なんか感激したなあ。
ちょっとした平原に騎兵の集団がいるシーンだったが、画面いっぱいに数百騎映っていた(画面の外にはおそらくそれ以上)。
さあスペクタクルですよ!という感じじゃなくて、ごく普通の感じだった。
ああ、これが本当の戦争なんだなあとおもつた。

73 :世界@名無史さん:2006/09/04(月) 23:36:46 0
最強の騎兵は












ボトムズ!!!

これで終了

74 :世界@名無史さん:2006/09/05(火) 00:45:08 0
武田のボニー軍団。

75 :世界@名無史さん:2006/09/05(火) 02:57:42 0
>>35
シビリアンコントロールはどこの国も一緒
イギリスだってチェンバレンが
アメリカは、ルーズヴェルト
伍長と岡田は言うに及ばず、昭和天皇も実は太平洋戦争中はノリノリでした
みんな群議に参加している罠

ちなみに、作戦については
軍事の素人でも意外と口をはさめるもんなんだよね。軍事板の連中みりゃわかるよね
素人も、逆に凝り固まった職業軍人よりも意外といい作戦を思いついたりする。

ナポレオンの言葉を借りれば
「売春婦と軍事は、ときどき素人の方が怖い」

76 :世界@名無史さん:2006/09/27(水) 19:54:22 0
あげ

77 :世界@名無史さん:2006/10/09(月) 12:23:50 0
満州八旗軍は弱い、少数の鄭成功に散々手を焼き
三藩の乱では八旗は呉三桂らに負け続けた
鎮圧の主力になったのは漢人主体の緑営であり
降伏した藩の兵だった

78 :世界@名無史さん:2006/10/11(水) 11:25:31 0
中国の歴史に関する娯楽・文学は三戦板のご利用を

http://hobby8.2ch.net/warhis/

79 :世界@名無史さん:2006/10/11(水) 14:52:25 0
末期の話すりゃ全部弱いでまとまってしまう罠

80 :世界@名無史さん:2006/10/12(木) 03:47:29 0
八旗は最初から弱いがな

81 :世界@名無史さん:2006/10/12(木) 04:56:56 0
お前ら、スキタイを忘れていないかい?

古代アッシリア帝國を衰退に導いたのはコイツらです。

騎馬民族が世界史に華麗なるデビューをした事件が、スキタイとアッシリアの争いなんです。

82 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 04:14:50 0
騎馬民族の残虐性について語ろう。

83 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 08:45:53 0
モンゴルが残虐というのはモンゴル自身が敵をビビらせるために流したデマ。
負けた側には絶好の口実になるので、話に尾鰭をつけて流した。
実際のモンゴルはもっと穏和で、異なる宗教に対しても寛容だった。
もしモンゴルが全世界を統一していたら世界平和の理想が実現できたかも知れない。
それを妨げたのはモンゴル人同士、チンギス=ハーンの子孫の仲間割れだった。

84 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 10:05:52 0
「集史」とかに普通に残虐行為が記録されてますが
まあタタールと戦った連中もかなり残虐ですけど
ルーマニアとかね

85 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 10:10:22 0
>>405
13世紀にそんなことをして何のメリットが。
そもそもチパングが日本かどうかすらはっきりしていないというのに。

86 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 10:11:13 0
↑誤爆

87 :世界@名無史さん:2006/10/22(日) 19:58:12 0
騎馬民族って、こんなヤツらです。

http://www.nisso.net/shosai/200408/G2913.jpg

胡散臭〜〜

88 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 19:51:07 0
女真は騎馬民族の癖してなんで弱いの?

89 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:14:21 0
チョンが紛れ込んでるから

90 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:29:57 0
アレクサンドロス王の父、フィリッポス王は
トラキアに攻め込んできた当時勢いが盛んだったスキタイ軍を迎え撃ち、
これを撃破し、スキタイの勢力を拡大してきたアテアス王を敗死させ、
全盛期だったスキタイを一気に没落の途へと導くきっかけを作った。
マケドニアがペルシャが散々苦戦したスキタイを撃破したことは
後のアレクサンドロス王になってペルシャ軍を散々に打ち負かすことを
予見させる出来事でもあった。


91 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:30:05 0
というか弱いのか? 女真族は

92 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:42:17 0
宋の時代に岳飛に負け続け、岳飛死後もたびたび宋を攻めるがそのつど失敗
清の時代でも末期の明を倒せず、結局李自成の乱で明自滅後ようやく北京入場
その李自成や明の残党を自力で倒せず結局漢人の寝返り武将が主力(例えば呉三桂)
になってやっと明を征服する。
しばらく後起こった三藩の乱も清軍は反乱軍に歯がたたず
緑営という漢人が主力の軍が鎮圧
女真は弱い、間違いない。

93 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:49:40 0
サルフでは明軍を潰滅させたが。


94 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 21:57:11 0
後金は山海関を攻めるたびに負けていたが

95 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 08:58:40 0
サルフはまぐれ勝ち

96 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 09:32:42 0
フン族の戦術って何?いくら弱体化してたとは言え
ローマに連戦連勝って事はそれなりに戦術考えてたのか?

97 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 09:59:01 0
>>94
つ 遊牧民は攻城戦が苦手

98 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 10:04:17 0
呉三桂や岳飛などは正面から女真と戦って何度も勝っているが

99 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 10:06:24 0
そんな英雄クラスの武将を持ち出さないで下さい

100 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 11:44:53 0
在日朝鮮人の生活保護の審査は非常に甘いので
給料もらっても生活保護もらい続ける在日が多い
生活保護20万+給料20万で月収40万
もちろん税金ゼロ 公営住宅優先入居
病院・幼稚園は無料 まさに特権階級

101 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 16:47:00 0
呉三桂や岳飛以外にも負けている

102 :世界@名無史さん:2006/10/28(土) 23:33:20 0
女真は戦闘力が低いのにどうして金や清を建てれたの?

103 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 00:56:35 O
ネパールのグルカ族がポテンシャルやばい

104 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 02:23:16 0
>>102
袁崇煥を始め明の優れた武将達は、清軍を撃退すると
明の宮廷の宦官の讒言で次々に謀反の疑いを掛けられて、
片っ端から殺されたからね。
武官は誰でも馬鹿馬鹿しくて明国のために戦う気には
ならないだろうよ。

105 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 03:32:00 O
そもそも満洲人は遊牧騎馬民族なのか?
モンゴルの戦術を取り入れたりしてたの?

106 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 07:26:49 0
満州族は遊牧民じゃなく狩猟民だよ

107 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 08:40:07 0
騎馬狩猟民

108 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 18:36:01 0
女真が強いか弱いか語るスレになってしまったな

109 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 19:17:28 0
武豊が史上最強の騎馬民族

110 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 23:42:19 0
>>109
確かに凱旋門で3位になったし最強の騎馬民族だ!!

って、現代人だし。

111 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 08:56:44 0
そりゃあ薬物投与すりゃ勝つわな

112 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 16:55:24 0
負けたじゃん。

113 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 17:44:04 0
なんで馬匹にヤクってはダメなん?

114 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 18:22:16 0
薬漬けの馬が勝ちまくったら優秀な子孫が残らなくなる可能性が高くなるから。
一昔前のアメリカ競馬がまさにそうで、成績優秀な馬は薬漬けの影響で駄馬しか作れず、
無名の馬こそがいい仔を残していたりした。
サンデーサイレンスの競走馬時代なんかがまさにそう。

115 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 18:22:52 0
三国時代の騎馬民族の烏桓も弱い、公孫瓚や曹操にいつも負けている
女真といい勝負じゃない?

116 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 19:56:45 0
>>114
意味分からん。オマイが薬漬けか?
サンデーサイレンスは現役時代にケンタッキーダービーや
ブリーダーズカップクラシックを勝ってるんだぞ。
サイヤーとしても史上最高の成功を収めた

117 :世界@名無史さん:2006/10/31(火) 06:54:53 0
唐の太宗は突厥を破ったとされるが、実際には貢物を贈って御引取り願ったという説もあるが実際のところはどうなのか。


118 :世界@名無史さん:2006/10/31(火) 15:45:13 0
実際はそんなもん。

119 :世界@名無史さん:2006/10/31(火) 16:09:21 0
突厥と一騎打ちした隋の史万歳が気になる
なんでわざわざ突厥側は一騎打ちを受けたんだ?

120 :世界@名無史さん:2006/11/01(水) 09:05:23 0
そのときの状況はよく分からないが
騎馬民族の戦争では一騎打ちの話が結構出てきますよね。

121 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 15:24:36 0
>>116
池沼乙。アホでも分るように分りやすく説明するね。
サンデーは血統もカスならセリ値もカスのカス馬として評価されていたの。
それが並み居る強豪に勝ちまくって、さらにいい仔を残した。

罵声浴びせる前に知ったかぶりはキモイからよせば?

122 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 15:33:50 0
現役時代から世評では常に
イージーゴア>>>>サンデーだったし
種牡馬としてもイージーは初年度から大人気だったが
サンデーは母系がマイナーな所と気性面で不人気なため日本に売却。
ちなみに同じヘイロー系の名馬のグッバイヘイロー(キングヘイローの母)は
日本に売られた際、新聞でも特集が組まれたが
サンデーは「あ、日本に買われたの?よかったね」とシカト状態だった。

123 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 17:07:02 0
競馬の話はよそでやれ

124 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 17:16:40 0
サファヴィー朝のキジルバシ騎兵が出てこないのは何故?

125 :世界@名無史さん:2006/11/03(金) 13:02:52 0
マイナーだからじゃない

126 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 12:32:34 0
モンゴル軍を2度蹴散らした鎌倉武士団が世界史上最強の騎馬軍団です。

127 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 13:13:39 0
マムルーク朝は5、6回撃退してるよ。

128 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 14:04:04 O
日本は暴風雨がなければ撃退できたかどうかわからないし、モンゴルの本軍や騎馬部隊と戦ったわけでない

マムルーク朝のバイバルスがモンゴルの騎馬部隊を撃退したのは有名だが、他にもモンゴルの騎馬部隊を撃退した例はわりとある

1284-85年 ベトナムの大越が元軍を撃退
1287年 再度、侵攻してきた元軍を大越は撃退
1296年 タイ北部のタイ人のムアン(小王国)八百熄婦、元軍を撃退
1300、01年 ミャンマーのパガン朝は瓦解したが、チャウセの地方領主を中心に2度にわたる元軍の侵攻を撃退
1282年 占城ヴィジャヤに元軍は海路侵攻するが撃退される
1293年 ジャワのクディリ朝に元軍侵攻しクディリは陥落するが、前王朝シンゴサリの娘婿のウイジャヤが元軍を撃退し、マジャパヒト王国建国
1241年 ポーランドへ侵攻し南下してきたモンゴル軍の一部がオーストリアのノイシュタット要塞を包囲するが、皇帝フリードリヒ2世の息子エンツォ率いる神聖ローマ帝国・シチリア王国軍が救援し、モンゴル軍を撃退

129 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 14:19:20 0
マムルーク朝が撃退したのはフラグ・ウルス。
モンゴル帝国最強の大元ウルスに勝利した日本とは同列に語れないな。
それに、ベトナムやポーランドは散々国土を蹂躙された上での勝利だろ。
日本は九州に橋頭堡を築かせないという完璧な内容での圧勝。

130 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 15:03:19 O
日本に侵攻した元軍はほとんど高麗、南宋の兵であり、モンゴルの騎馬部隊ではない
しかも日本側の勝利と言われているものは御家人が戦功があったように報告するため、小舟で元軍の船一隻に侵入して何人か殺したのを誇張しただけ
陸上戦で元軍を大々的に破ったことは一度もない
やはり暴風雨が元軍に最大の被害を与えた
それに侵攻兵力が25万とかも誇張、実際その兵力が補給物資を含め当時の船舶で博多湾に来襲したなら かなりの船舶は湾外にあぶれ、上陸した兵力も限定されてしまうだろう 従って日本に侵攻した兵力は実際はもっと少ないと思われる
ベトナム、オーストリア等に侵攻したのはモンゴルや遊牧民の本当の騎馬部隊
オーストリアはポーランドと違うし、皇帝軍が初めてモンゴルと戦った(ポーランドのリーグニッツで戦ったのはポーランド、ドイツの〈諸候〉、ポーランドは帝国領でない)

131 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 17:06:10 0
>>129
ちょっと待て、元はイルハン朝より強いのか?
単に漢人を擁してるので兵力が多いだけじゃないのか。
騎馬部隊の中身は同じはずだが。

132 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 19:34:55 0
>>130
その高麗、南宋の兵を使ってフビライはナヤン・カダアンの乱でモンゴルの騎馬部隊に
勝利したんだろ。
モンゴルの騎馬部隊<大元ウルス軍じゃん。

文永の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、御家人にまったく歯が立たず、日本から逃げ帰る
最中の11月5日、対馬沖でだよ。
高麗史にはっきりとモンゴル軍の総司令官が、「日本軍が優勢だから退却するしかない」
と言って撤退を決定したと書いてあるだろ。
当時の日本人の日記にも「モンゴルはすぐに退散した」と書いてあるし。

あと弘安の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、博多湾で撃退され、2ヶ月近くも日本軍から
逃げ回った末のこと。
それに暴風雨の被害にあったのは元軍のごく一部で、十万以上の元兵は御家人によって
皆殺しにされた。

133 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 20:27:46 0
>その高麗、南宋の兵を使ってフビライはナヤン・カダアンの乱でモンゴルの騎馬部隊に
>勝利したんだろ。
>モンゴルの騎馬部隊<大元ウルス軍じゃん。

決定力になったのは侍衛親軍の欽察衛や阿速衛だったらしい。おそらく両方とも騎兵部隊。

高麗軍や新附軍が参加してたって記録はあるの?
たしか「東方見聞録」ではナヤン支配下の国々の中にカオリ(高麗)があったはず。
あとフビライ側が漢人の歩兵を突入させて馬の足を切らせたとかいう記述があったから
漢軍はいたんだろう。

134 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 20:47:37 O
殺した数が10万人なぞありえるはずない
戦死者10万なら少なくとも倍の20万人以上の負傷者が出たはずであり
大量の捕虜が発生したはず
逃げ帰った生存者が多くいることはわかりきっているのだから少なくとも投入兵力は60万人以上ということになるか
ありえない、ありえない、絶対ありえない

なぜなら陸づたいに侵攻するわけでないから侵攻兵力の食糧は現地徴発になるからだ
当時の北九州の人口を推測してもそんな大兵力を投入したら1ヶ月もしないうちに全員餓死するだろう

135 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 21:12:38 0
杉山正明の本だと江南軍の10万は農機具と種籾しかもってなかったとか書いてたけど。

まあそんな連中を皆殺しにしたとしたらファナティックすぎるとも思うが。

136 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 21:20:27 0
>>133
杉山の「モンゴル帝国の興亡」では、1294年『カダアンの反乱軍が大元ウルス・
高麗連合軍により、鴨緑洪付近で完全鎮圧される』と書いてあるよ。

>>134
7月30日に元軍が暴風雨に遭遇した後、船が壊れて逃亡不可能な元軍が10万以上
鷹島に立て籠もっていたんだよ。
この元軍は8月7日〜9日の日本軍の攻撃で捕虜2〜3万を除いて全滅。
捕虜もその後、博多で旧南宋兵を除いて斬首。

元史の記述では、『十万の衆、還るを得たる者三人のみ』

日本の文献では、『但し、ことことくに、殺し尽くしても、こたひの神の威徳を、
しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝か王に、事の趣を、いつはらす、
いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』

137 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 21:34:01 0
>杉山の「モンゴル帝国の興亡」では、1294年『カダアンの反乱軍が大元ウルス・
>高麗連合軍により、鴨緑洪付近で完全鎮圧される』と書いてあるよ。

ほう? 後でチェックしてみます。情報サンクス。

新附軍は対カイドゥの戦争で使われてたのは聞いたことがあるが。
南宋征服後、老弱兵は江南軍として日本へ送り出し精鋭は中央アジアへ送ったとか。

138 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 21:39:02 0
>>137
1292年の間違いだった。
P256の年表の所ね。

139 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 13:02:33 0
フビライの対日本戦とその他の国との戦いを比較するぞ。

1257年、ウリャンカダイ率いる兵3000が大越に侵攻し、首都・大羅を約1週間占領。大越は3年に1度の朝貢を約束。
1268〜71年、馬成旺率いる兵3000・馬300が占城を征服。
1274年、ヒンドゥ率いる兵4万が日本に侵攻して大敗。軍の還らざる者1万3500。
1277年、怱都率いる騎兵700がンガザウンジャンの戦いでパガン朝の戦象団に勝利。
1281年、ヒンドゥ率いる東路軍4万と范文虎率いる江南軍10万が日本に侵攻して大敗。兵の6〜8割は生還できず。
1282〜83年、元に叛旗を翻した占城に遠征。元軍の兵力は約5000から始まり、約2万にまで増強された。
1283〜86年、宗王・相吾答児率いる船200艘がパガン朝に侵攻。翌1284年に江頭城を攻略。1286年、師を喪うこと7000にしてパガン朝を平定。
1285年、対占城戦への協力を拒んだ大越に侵攻。トゴン率いる元軍は大越の史記によれば50万。全土を制圧するも兵站確保とゲリラ戦に苦しみ敗退。
1285〜86年、タタールダイとヨーウルダイ率いる兵1万がサハリンに侵攻し、アイヌ民族の骨嵬を追い出す。
1287〜88年、再びトゴンが大越に侵攻。元の兵力は大越の史記によれば30万。首都を攻略するも補給艦隊500艘が伏兵に大敗。本隊も撤退途中に大敗。
1293年、兵2万・兵船500艘でジャワに侵攻。後のマジャパヒト王ウィジャヤとの同盟でクディリを攻略するも、裏切りに遭い退却。

140 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 13:05:34 0
元軍は基本的に東南アジアの軍が相手なら、数千規模の兵力で勝利することができる。
しかし、全土を制圧・統治するには数万の兵力を長期間投入することが必要で、そうすると兵站の負担が大き過ぎる。
いくら大軍を投入しても、大越のようにゲリラ戦で抵抗を続けられると、元軍側も消耗して撤退に追い込まれてしまう。
ちょうどアメリカ軍がイラク正規軍にあっさりと勝利した後で、占領・統治に苦戦しているような感じ。
反面、大越やジャワのように元軍を退却に追い込んだ国も、侵攻自体を阻止する軍事力は無いので、結局は自分から
元への朝貢を申し出ることになる。

一方、日本に対しては、いくら大軍を送っても正面から粉砕されてしまい、九州に橋頭堡を築くことすらできない。
元が日本に対してできるのは、せいぜい高僧を送って鎌倉幕府のご機嫌を伺うことぐらいだ。
日本が最後まで元への朝貢を認めないまま独立を維持できたのはそのため。

141 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 13:38:05 0
>>139
ついでにカイドゥとかトルキスタン方面の戦線の情報プリーズ

142 :世界@名無史さん:2006/11/16(木) 09:22:58 0
>>140
何でだろう。日本の海岸線は断崖が多くて上陸できる地点が少ないからか?(と思いつきでレス)

143 :世界@名無史さん:2006/11/16(木) 09:23:47 0
(大軍が)上陸できる地点ね

144 :世界@名無史さん:2006/11/17(金) 07:01:50 0
>>141
すみません。
そっち方面は詳しい情報がありません。
インド戦線についてなら多少情報があります。

1221年、インダス河畔でチンギス・ハン率いるモンゴル軍がジャラールッディーン率いるホラムズ・シャー国軍を撃破。ジャラールッディーンはインドへ逃れて
    亡命を求めたが、奴隷王朝のイルトゥートゥミシュは拒絶。
1241年、タイル・バハードゥル率いるモンゴル軍がラーホールを襲撃。
1245年、モンゴル軍がムルターンを包囲。奴隷王朝のバルバンが急遽駆けつけムルターンを救援したが、デリーの防衛線はジェーラム川からベアース川まで後退。
1256〜57年、モンゴル軍がパンジャーブに侵攻。1260年にフラグの使節がデリーを訪問し、バルバンは暗黙のうちにモンゴルの全パンジャーブ支配に同意。
1292年、フラグの孫アブドゥッラー率いる騎兵15万がデリーを目指して侵攻。国境近くでジャラールッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。
    モンゴル兵4000がイスラムに改宗してインドに投降。
1299年、クトゥルグ・ハージャ率いるモンゴル軍20万がデリーの征服を目指して侵攻。デリー直前でアラーウッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。
1303年、モンゴル軍12万が再び北インドに侵攻。デリー近くの新首都スィーリーで2ヶ月間に渡ってハルジー朝軍と対峙した後に撤退。
    一時窮地に立たされたアラーウッディーンは、この後に47万5000騎といわれる常備軍を整備。
1327年、モンゴル軍がトゥグルク朝中枢部のバダーウーンまで侵入。但しこの時は、侵攻説と救助を求めて来たという説とがある。

145 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 18:45:52 0
旧南宋の捕虜だけで約2万人もいたというから元軍全体の損害も相当なものだと思うが。
ただ、モンゴル自体はそれほど人的資源を投入していないので高麗や旧金、旧南宋が犠牲者の大半ではあると思うが。


146 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 22:03:44 0
>>140
日本が勝てたのは海のおかげだろ
日本が特別えらいわけじゃない

147 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 02:32:08 0
いや、弘安の役では石垣を作っておいたのも大きい。

148 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 10:17:25 0
海という防壁に恵まれた日本より
陸続きでありながらモンゴルの攻撃を
2、3回撃退した高麗のほうがすごい

149 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 13:15:48 O
日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた
投入兵力も2万7000程度
二回目の時、南宋はほとんど戦わずに屈服したため、旧南宋の職業軍人40万人が健在で放置すると反乱を起こしかねないため、多くは西方・北方戦線や広東・広西の鎮圧に振り向けた
それでも老弱兵が残ったため日本に振り向けた
江南軍は総兵力は10万だったがたいした武装をしておらず、入植用の農器具と種もみを携行しており、実質、武装移民であった確率が大きい
東路軍は4万程度の兵力だが、補給部隊を増強しただけで前回と戦闘部隊兵力はさほど変わっていない
しかしながら補給部隊をほきょうしたにも関わらず糧食不足になり撤収しようとしたときに台風が直撃した
いずれにしても二回の襲来とも日本軍により深刻な被害を受けたわけでない
もし騎馬部隊が乗船するなら騎兵一人あたり最低3頭の馬が必要である(同時期の十字軍の用例から)
従って有力な騎兵部隊を投入する意図があれば、さらに膨大な船舶が必要であり博多湾以外にも複数箇所に上陸せねばならなかっただろう

150 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 15:52:17 O
すいません。ちょっと聞きたいんですが

重騎兵のプレートアーマーって何かメリットがあるんですか?重さで突撃速度が遅くなるし、攻撃を防げると言っても、落馬してしまえば終わりじゃないですか
装甲は薄くした方が良くないですか?

151 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 21:17:23 0
>>149
>日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた

ここに書いてることは全部文献の裏付けなんか皆無なんだよ。
日本が当時滅茶苦茶強かったということを認めたくない日教組とかが、
適当な事を教えたため、おまえは洗脳されているんだよ。

文永の役の目的は元史にはっきりと『その国に入りこれを敗らんとするも』
って書いてあるだろ。
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を
投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。
高麗の武将は撤退を決定した軍議で、帰りの船を焼いてでも断固戦い続けることを
主張してるんだよ。
牽制攻撃ならそんなこと主張するはずないし。
文永の役で元軍がたった一日で撤退しなければならなかった理由は、鎌倉時代の
御家人が強すぎて、元軍がまったく歯が立たなかったからだ。

152 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 22:49:59 0
>>146
勘違いしている人が多いけど、大元ウルス軍は海戦が得意だ。
長江や漢水といった大河に守られた南宋を征服するため、艦隊の強化に力を入れたからね。
だから、三別抄相手の珍島や済洲島への攻撃や、南宋の大艦隊相手の克Rの戦いでも、
圧倒的な海軍力で勝利しているだろ。

加えて、元寇の際の元軍指揮官たちは、いずれも艦隊指揮の経験がある。
文永の役の元軍や弘安の役の東路軍を指揮したのは、三別抄に勝った時と同じ武将たちだし、
弘安の役で江南軍を指揮した范文虎は、襄陽の戦いで南宋の水軍を率いていた。

153 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 22:52:38 0
でも大元ウルスってジャワ攻めに失敗しているジャン

154 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 22:58:31 0
>>150
一つのパライダイムは、徐々に加速しやがて、新しいパラダイムにとって
かわる。

155 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:09:55 0
ジャワといえば、フビライの財宝ってマジなんかいね?

http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/column/fubilai_zaihou.html

156 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:10:13 0
>>153
ジャワでも戦闘では普通に勝利してるよ。
ジャワの場合は、クルタナガル王がフビライに喧嘩を売ったため侵攻したんだけど、
元軍が上陸した時には、既にクーデターで王朝は滅び、王も死んでいた。
仕方が無いから首都クディリを攻略してクーデターを起こしたジャヤカトワンも殺害。
その後に同盟を組んでいた現地勢力が裏切ったので撤退した。
軍事的に見れば、「元軍は海があっても強かった」だろ。

あと、大元ウルスは海に隔てられたサハリンも征服している。

157 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:35:06 0
いやあ、勉強になりますな

158 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:37:36 0
元に征服されなかったことを誇りとする日本人は、だからモンゴル贔屓だ。

159 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:44:49 0
>>157
授業料よこせよチンカス

160 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:48:13 0
>>159
授業料代わりに、一発お見舞いしてやる。



161 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:58:57 0
確かに、文永の役での元軍撤退を『牽制目的』とするのは、あくまでも
その不自然さから出た推測であって、文献があるわけではないんだよな。
俺も一時期その辺の資料を探したが、それを裏付ける資料は見つからなかった。
元軍に『矢が尽きた』という資料があることと、日本軍(少弐景資)が元軍の副将劉復亨を射抜いたことだけは事実。


162 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 00:05:37 0
>>147
弘安の役で、防塁のために上陸できなかった元軍は、その代わりに博多湾の
入り口にある志賀島に上陸。
対する日本軍は海の中道を通って志賀島の元軍を攻撃。
地形を見ればわかるけど、通常ならこんな攻撃は戦力の逐次投入になるから
成立しない。
http://www.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=%E5%BF%97%E8%B3%80%E5%B3%B6&ie=UTF8&om=1&z=13&ll=33.663996,130.312958&spn=0.069865,0.21595

ところが実際には、高麗史に「翌日、復び戦いて敗績す」と書かれてるように、
元軍が日本軍にボロ負けして志賀島から撤退してしまう。
鎌倉時代の御家人が、元軍なんか話にならんほど強かったと考えるのが自然だろ。

163 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 01:24:43 O
元が日本を占領してなんのメリットがあるんだ
資源はない、たいした農産物は生産していないし、工芸技術他も陳腐なものしかない、その上住民のほとんどは貧農
そんな日本を占領したところで元にとってなんのメリットもない
せいぜい老いて使えなくなった南人を植民させるぐらいだろう
そんな老いた南人でも当時の低レベルの日本人よりはマシだ
中国語など他国語の文献を読み取れない以上、日本の異常に誇張された史料を鵜呑みにしても仕方がないと思うが

164 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 01:31:59 O
日本に有利なこと書いていないと日教組だかなんだか知らんが
講談社刊 中国の歴史 『疾駆する草原の征服者』でも読みな
著者は日教組ではないと思うがな

165 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 01:35:37 0
>>163
>異常に誇張された史料

どこが異常に誇張されてるのか証明してみろ。

166 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 01:45:57 O
占領する気がないならば弘安の役での南宋兵の農具は何だったのかと

167 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 02:38:26 0
>>166
農耕民族の日本に農具もってきてくれたんだろ
で、史料とはなに?

168 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 02:40:10 0
>>166
実は宋人に対して日本に土地を与えるという
デマカセを述べているだけであって、
本質は宋人の処理だったのではないか。

169 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 03:45:57 0
>>164
杉山は単なるモンゴルマンセー

170 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 07:08:51 0
>>163
当時の日本は世界有数の金産出国だよ。
高麗人の趙彝とかいう奴が「南宋の富有は日本が金を輸出しているお陰です」って
クビライに進言したから、元は必死になって日本を征服しようとしたんだろ。

171 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 08:48:17 O
占領が目的だろうとそうでなかろうと十万以上の大軍でせめてきたら脅威だな。
占領が目的ではないという根拠はなんだ

172 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 08:56:27 O
167
いらねえよ。
間に合ってます。

173 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 09:33:02 O
>>163
つ【黄金の国ジパング】
小学生でも知ってるよな

174 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 10:14:55 0
>>163
使者を斬った国はつぶすのがモンゴルの君主の義務。
兵籍に入ってただけで無駄飯を食らってた連中が植民して何のメリットがあるんだ?
>>170
元史の日本伝を検索しても趙彝のそんな発言はない。趙彝が出てくるのは
「元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者」という部分だけ。
>>173
東方見聞録のその部分は読んだことあるけど元軍に首都を占領されたとか
食人の風習とか滅茶苦茶な内容で、日本のことなのかすら確信がもてなかった。

175 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 10:53:37 0
>>174
宋史日本伝『東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす』

176 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 13:16:47 0
日本が勝てたのは元寇の主力がモンゴル兵じゃなく
高麗や南宋の降伏した兵が主力だったからでしょ
つまり元の2軍部隊だったから勝てた

177 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 13:23:51 0
>>175
貢賦とは朝貢のこと? 日本側はそれと引き換えに何か得ていたのですか?
>>176
モンゴル騎兵が強いのは平原での戦いで
日本で戦うなら定住民の歩兵部隊でも問題ないのでは?

178 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 13:27:39 0
日本は争いをおこさずモンゴルに降伏すべきだったよね

179 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 13:35:13 0
釣れんよ

180 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 13:38:24 0
>>178
何で戦えば勝てる相手に降伏する必要があるんだよ?

181 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 14:31:15 O
遊牧民であるモンゴル人は人口が少ないので占領地域の軍隊を新たな遠征に使うことは常套手段であります。


182 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 15:05:34 0
>>177
日本は中国に金を輸出して、それと引き換えに銅銭を輸入していた。
これは元史の記述だけど、1277年『日本、商人を遣わし金を持して来り、銅銭と易えしむ』。
日本の史料の民経記によれば、1242年に南宋から帰還した船は銅銭十万貫などを持ち帰ったらしい。

183 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 18:39:32 O
ほー
輸出できるほどの金山ねぇ
いったい中世日本のどこにそんなに産出量の多い金山があったか教えていただきたいものだな
ちなみ佐渡金山は開発が近世以降だがね

184 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 19:24:28 0
>>182
ああ、杉山正明の本でちらっと読んだような。
元で紙幣を使うようになって銅銭が不要になり
宋代よりも輸出が盛んになったとか。

185 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 20:36:13 O
この場合、実際に金が出たかどうかというよりも金が出るという情報が侵略の動機になる

186 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 20:39:49 0
異なる時代の騎馬軍団を比較しても意味無いと思うけど。
零戦とF15を比較しても時代が異なる戦闘機だから
優劣なんてつけられないし。

187 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 20:42:01 O
金山?
奥州の砂金がメインじゃなかったけ?

188 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 22:02:58 O
>>183
奥州藤原を知らんのか?

189 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 00:05:13 0
>>183のを見て、雑談スレで誰かの「世界史板は確実に死に向かっている。」
という言葉が思い浮かんだ。

190 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 12:30:52 O
金が産出するところでは金による工芸品など多数、歴史的遺物として発見される
しかし金箔、金メッキで加工されたもの以外の金で作られた工芸品ないしは歴史的遺物は中世日本であっただろうか?
ましては‘日本で金が出るかもしんない’なんて不確かな情報をもとに大国、元が軍を動かすとは思えない

191 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 13:29:28 0
>>190
1277年に元自身が金と銅銭とを取引してるんだから、不確かな情報でも何でもないじゃん。

192 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 23:00:32 O
日本を過大評価しすぎ
日本と元の交易量なんか元にとってはわずか
戦国時代以降の日本の銀の産出が世界史的影響を与えたのは理解できるが、鎌倉時代の砂金程度で侵略を思いつくとは思えんし、船舶建造料を含んだ戦費を考えても見返りで砂金程度では大赤字は確実だ

とにかく捕虜、戦利品がほとんどないところを見ても日本軍による戦いでの大勝利はありえないだろう
通常、戦いで敗れた場合、重傷者は敵の手に落ちる
ましては陸続きでなく船舶でしか逃げるてだてのないのならなおさらである

元冦とほぼ同時期ごろに起き、ダンテの神曲でも記述があるモンタペルディの戦いでは
フィレンツェを中心とする教皇派都市の7万が皇帝派都市のシエナに攻めこんだ
シエナは人口5万で15〜70歳の市民男子を動員、皇帝フリードリヒ2世の子シチリア王マンフレーディからドイツ騎兵の増援を受け2万で教皇軍と戦った
結果は皇帝軍が勝利し、教皇軍は1万8000が戦死して1万5000が捕虜になった
捕虜の中には多くの負傷者がいた

つまり戦果が大きく、敗者に逃げる手立てが限定されるなら、その戦果に比例して捕虜数も多くなるはずなのだが


193 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 23:05:55 0
すまんが何を主張したいのか分からない。


194 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 23:52:38 0
元寇は日本の圧勝ではないと言いたいのでは?

195 :世界@名無史さん:2006/11/23(木) 08:02:32 0
>>192
元史日本伝には元軍の3〜4万が日本の捕虜になったと書かれているな。
高麗史だともっと多くて、13万〜14万の元兵が日本に降ったと書かれているけど・・・

196 :世界@名無史さん:2006/11/23(木) 11:45:01 0
あほ
秋山好古に決まってるだろ

197 :世界@名無史さん:2006/11/23(木) 21:43:07 0
骨鬼が何度も樺太から出向いて荒らしまわった事は触れないのね
元マンセーも日本マンセーもそこいら辺手落ちし過ぎ

198 :世界@名無史さん:2006/11/23(木) 23:25:08 0
>骨鬼が何度も樺太から出向いて荒らしまわった

シベリアではよくある狩猟民同士の紛争でしょう。

199 :世界@名無史さん:2006/11/24(金) 10:22:13 0
骨鬼って元軍の侵攻によって樺太を制圧されて追い出され、たまに隙を衝いて
大陸に渡ってもことごとく撃退される。
それで二進も三進も行かなくなって、1308年に毛皮の朝貢を条件に元に降伏だろ。

200 :世界@名無史さん:2006/11/24(金) 16:53:30 0
日本を過小評価しないと気が済まないやつが必ず出現するな。
昔からいるんだが、そのほうがインテリぽいとでも思ってるアホ
としか言いようが無い。

201 :世界@名無史さん:2006/11/25(土) 12:28:34 O
だったら
京大大学院教授の杉山正明氏に文句言いな
お前のようなどこの馬の骨ともわからん奴のザレ言より教授の本の方が信憑性高いからな

202 :世界@名無史さん:2006/11/25(土) 12:45:49 0
色々な意見を出し合わないと議論自体が成立しないような気がするのだが。
日本賞賛のレスを繰り返した所で、果たして本当にそうなのか?
と言う観点で物事を考えないと韓国人のように勘違いを引き起こしそうだからな。

みんなが同じ意見を述べては議論自体が成立しないし、謎も解けない。

203 :世界@名無史さん:2006/11/25(土) 13:53:35 0
杉山は武士が弱いとはいってなかったと思う

204 :世界@名無史:2006/11/25(土) 22:02:06 0
騎馬の用法で天才はチンギスハーン、フレデリック大王、ナポレオン、
モルトケ、信長、義経あたりだと思うが…

205 :世界@名無史さん:2006/11/25(土) 22:46:40 O
ティムール、阿保機、李克用、北魏の太武帝、クタイバ、プロイセンのザイドリッツ将軍、ムハマンド・シャイバーニー・ハーン、クタイバ・イブン・ムスリム

206 :世界@名無史さん:2006/11/26(日) 06:14:40 0
ごめん はじめて このすれ見た
モンゴル大好きなだ仲間にいれてくれ 
世界史上最強の騎馬軍団はやはり モンゴルだ
ほかの部族 いや 近代の軍隊にいたるまで 騎馬の用法が全く違う
ほかの軍隊の騎馬部隊は ほとんどが 槍などをもち 突撃をメインとする
密集して 相手を蹴散らす(古代の戦車) 
もしくは 高速移動手段として用いていた
すまん用事ができた 続く
  

207 :世界@名無史さん:2006/11/26(日) 09:22:18 0
>ほかの部族 いや 近代の軍隊にいたるまで 騎馬の用法が全く違う
>ほかの軍隊の騎馬部隊は ほとんどが 槍などをもち 突撃をメインとする
>密集して 相手を蹴散らす(古代の戦車)

中央ユーラシアの草原地帯ではそっちの方が特殊なんだが。
騎射兵なんてスキタイとかの時代からいるし。

208 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 01:18:53 O
一口に騎兵と言っても、突撃主体か騎射主体かは系統が違うような気がするね

209 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 03:11:27 0
アヴァールなんかは旗の構図から見ても
明らかに騎射っぽいけどな

210 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 23:04:13 0
モンゴルとは中央ユーラシアの草原地帯の民族をさすのです
ほんとうに騎馬の用法が他とちがうのです
ほかの騎馬民族では 騎射も 相手を狙い 水平に打つ
モンゴルの騎射は水平じゃなく 弓なりにうつ やじりには毒がぬってある  
 みそであるが 距離をおいてスペ-スのかぎられた馬の上から 短時間に大量にうつ
まあ これでは 密集した敵はひとたまりもないな
モンゴルの馬は 他の馬とはちがう これも強さの秘訣とおもう

 

 


211 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 23:16:10 0
>>210
文章読みにくい

212 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 23:18:05 0
>モンゴルとは中央ユーラシアの草原地帯の民族をさすのです
すまんが言いたいことがよくわからん。

匈奴やスキタイやサルマートや鮮卑や高車やエフタルやアヴァールや
ハザールや突厥やウイグルや契丹やジューンガルは
中央ユーラシアの草原地帯の民族じゃないのか?w

213 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 07:08:36 0
> 中央ユーラシアの草原地帯の民族
そのカテゴリーに当て嵌まる言葉は、むしろ「テュルク」やそのアラビア語による複数形、
「アトラーク」の方が前近代では一般的だ。もちろん『集史』などのモンゴル帝国時代の
資料では、従来のモンゴル人やタングートも「アトラーク」の範疇に入るがw

214 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 08:38:00 0
「トゥラン」てのもそんな感じだろうか

215 :世界@名無史さん:2006/12/01(金) 18:13:46 0
逆に弱かった騎馬軍団ってなんだろ

216 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 03:29:12 0
ペルシアとかか? 勝てそうなギリシアやスキタイ征服に失敗してるし。

217 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 04:23:30 0
スキタイはともかく歩兵しかいないギリシャになんで負けたのか不思議だ
やる気なかったのか?

218 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:45:25 0
>>217
1度目のマラトンの戦いで負けたときは、ペルシア軍には騎兵がほとんど居なかったんだろ。
当時のガレー船では、大量の騎兵を輸送するのは難しいし。
だから2度目では、騎兵を含む大軍を陸路ギリシアまで海岸沿いに進軍させ、兵站補給用の
艦隊を並走させる作戦を選んだんだけど、艦隊の方がサラミスで負けちゃったから・・・

219 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 16:59:29 0
>>215
上のほうに散々女真は弱いと書いてあるだろ

220 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:56:30 0
女真が弱かったとは思えないが
金が南宋に敗れたのは騎兵が活動しにくい地域に侵攻したときだし
山海関はもともと強力な要塞なうえに明軍は大量の火器を装備していた

221 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 23:49:31 0
もし仮にも華北制圧、全土制圧を成し遂げた女真族がが弱いなら、
モンゴル以外の北方騎馬民族はそれよりさらに弱いってことになってしまうわけだが?

222 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 05:34:23 0
武田騎馬軍団(武田勝頼)が弱い
武田信玄が天才的な謀略で勝つことができたので 騎馬部隊はたんなる移動手段


223 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 10:55:05 0
いや、武田騎馬軍団なんて存在しないから。
架空の存在だから。

224 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 16:55:11 0
だから、武田騎兵軍団は存在しなかったけど、
馬上の巧者が多い軍団という意味では、武田騎馬軍団は存在したんだって

225 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 21:47:25 0
それを騎馬軍団の範疇に入れてしまったら、
騎兵を含む軍は全て騎馬軍団になってしまうがな。

226 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 21:47:35 0
アメリカ陸軍を撃破したスー族最強、と言ってみる。

227 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 22:16:56 0
騎馬軍団というのは「騎兵を主力とする軍団」でいいのか?
だとしたら、戦国の日本の軍隊は違うと思うが

228 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 22:47:33 0
そりゃあ、騎兵以外が主力の軍団を、普通「騎馬軍団」とは言わないだろうからね。

229 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 21:45:13 0
>>215
烏桓や柔然とかじゃない?

230 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 23:41:35 0
ヒッタイトじゃないかな
やっぱ最初期の騎馬軍団の方が弱いだろ
馬の利用法も時代が下るほどレベルが上がっていくんだしさ

231 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 10:17:58 0
>>230
ヒッタイトは騎兵じゃなくて戦車(チャリオット)が主力じゃなかったっけ
最初に騎兵を使用したのはアッシリアだったと思う

匈奴とモンゴルを比べても、鐙の有無や鏃が骨から鉄へと変化するなど
一般的に言って後の時代のほうが戦闘力は高いが、当時の中東で恐れられた
アッシリア軍が最弱の騎馬軍団というのは違和感がないでもない

232 :世界@名無史さん:2006/12/15(金) 21:00:21 0
>>219
李如梅
「倭兵が三十人ぐらいでも女真兵一人に敵わないだろう」

233 :世界@名無史さん:2006/12/15(金) 21:07:14 0
日露戦争時の露西亜軍の「コサック」はどれくらい強かったんでしょう?

234 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 08:36:08 0
>>232
刀伊の入寇や元寇の時の女真兵はかなり弱かったけどな。

235 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 10:21:49 0
撃退したとはいえ被害は日本側の方が多い
それに白村江の戦いでの唐の水軍は靺鞨が多かったと言われる

236 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 14:12:49 0
>>34
>>36とかその辺り、だいぶ遅レスだが
槍騎兵の突撃というのは槍のみが武器ではない。
欧州の軍馬というのはサラブレットなんかよりずっとでかい。
ばんえい競馬を見たことがあるなら、話は早くてああいう馬が西欧の軍馬
こいつらは体重が1t近くある。
おまけに乗ってる人間は鎧やら武装やらして、総重量は軽く1tを超える
そーいうやつらが横1列に隙間もないほどに密集して突っ込んでくるのが槍騎兵の突撃
彼らの武器はその重量であり、運動エネルギーで、槍はただの付け足しに過ぎない
現代人に簡単に言えば乗用車が突っ込んでくるみたいなもんだ。
おまいさんは突っ込んでくる乗用車あいてに槍1本で支えろ言われて、踏みとどまれるかね?

騎兵突撃を食らった部隊が恐怖で壊乱するのはある意味では当たり前の事で、
逆に槍衾でこれを支えきれたときは、それこそ栄光の勝利だったのだ
西欧では騎兵突撃を支えきったという、ただそれだけの事で歴史に名を残した部隊やら指揮官がたくさん居るのもうなずけよう。

そして小銃と騎兵の関係にも誤解がある。
もともと騎兵という兵種は歩兵の銃列に対して「強い」兵科だったのだ
槍騎兵が戦場から消えたのは、ピストル騎兵の登場によるもので、歩兵が火器を装備したためではない
また騎兵が完全に戦場から消えるようになるのは、機関銃が広まってからだ

237 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 14:43:40 0
>>223
何を持って「強い」というかにもよるが、
コサックの強みは重騎兵(歩兵集団に突撃をかける)的な装備を持ちながら
軽騎兵(敵の後方に進出して撹乱する)的な運用に耐え得るという点だろう

本来、西欧的な騎兵というものは単独で敵の後方霍乱を行なったりすることができない。
人員に加えて馬も生かさなければいため、大きな後方兵站能力を必要とし、かつ、兵站から大きく離れる事ができない
しかしながら、コサックはその特殊な生活形態から騎馬民族的な大移動を行なう事ができ、
かつ必要とあらば西欧の重騎兵的な突撃も行なう事ができた。

西欧において彼らコサックが恐れられたのは西欧騎兵が行なう事ができない
大進出を行なう事ができたためで、その直接的な打撃力や突撃力からではない

238 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 15:20:49 0
>>235
文永の役で少弐景資隊と戦って負傷し、元軍が撤退を決めた際に真っ先に乗船したという劉復享は、
女真部隊の指揮官だよ。

239 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 16:01:58 0
指揮者が駄目だったからといって
配下の女真兵まで弱いとは限らない
上の李如梅という人は明の将軍で
女真とも豊臣軍とも戦ったことがある人だよ

240 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 16:18:27 0
>>239
現実に直接対決では女真軍が負けているんだから、李如梅の認識が間違ってるんだろ。

241 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 17:09:43 0
現実に女真と戦って日本の方が酷いめにあっている
白村江、刀伊入寇(ぼろぼろになりつつ辛くも撃退)
李如梅の認識が間違っているというが
30人でも敵わないというのは言いすぎだとしても
女真の方が強いというのは妥当だと思うよ

242 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 17:25:29 0
刀伊の入寇は、2500〜3000の女真軍を、藤原隆家がたまたま手元にいた部隊だけで撃退。
文永の役は、4万の元軍を1万の日本軍が撃退で、女真軍はその中核部隊のひとつ。
いずれも、日本軍の方が少ない兵力で勝利してるじゃん。
更に伝えられてる日本の損害は非戦闘員のものがほとんどで、戦闘の内容事態は九州に
まったく橋頭堡を築かせないという日本側の圧勝。

243 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 17:53:46 0
>>241
刀伊の入寇は李如梅の生きていた時代の500年前のこと
白村江に至っては1000年ぐらい開きがある
慶長の女真と日本どっちが強いかどうかは戦っていないからよくわからない

>>242
刀伊の入寇は日本の被害も多い(殺害された者数百、拉致千数百、牛馬も数多く奪われた)
藤原隆家の軍には現地人も数多く加わったというから
日本側の完全な勝利とは言えない

244 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 18:14:08 0
>>242
日本側は兵力差に押されて博多を放棄して大宰府に引いている
元が引いたのは矢が足りなくなってしまったから
(大陸と日本の間には海があり補給が困難だったんだろう)

245 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 18:30:12 0
>>221
ホンタイジはモンゴルを下し元の玉璽をもらっている
つまりモンゴルも弱いことになってしまう

246 :世界@名無史さん:2006/12/16(土) 21:22:00 0
>>222
戦国時代馬に乗っていたのは武者で
農民から徴発された、戦いの主力となる足軽は徒歩だった

247 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 02:51:25 0
>>244
「矢が足りなくなった」などというのは、単に「ボロ負けだった」ということの婉曲表現に過ぎない。
鎌倉時代の史書には、いずれも合戦による日本軍の勝利が書かれている。

248 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 02:56:47 0
>>244
矢が尽きた。副将(?)の劉復享が射倒された。撤退の原因はいくつかあるが、
推測するにかなりの激戦だったことは間違いない。



249 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 03:07:00 0
>>241
ここは時代が1000年も違うことを平気で比べるスレですか?


250 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 11:12:05 0
>>247
そりゃ日本側の資料なら勝ちって書くだろう

251 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 11:49:30 0
騎兵がほとんど活躍しない元寇は別スレで語ったほうがいいと思うが

252 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 12:08:13 0
現在でも日本海は日本の守備にとって10個師団の価値がある
と言われているのに13世紀の軍隊に島国をとるなど無理、兵站が続かない
文永の役で緒戦でいきなり矢がつきたことからもわかる

253 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 12:49:08 0
騎兵が活躍した戦いと言うと
ニコポリスの戦い、アンカラの戦い、白登山の戦いとかか

254 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 13:53:06 0
>>252
元軍は前年の三別抄の乱鎮圧で渡海作戦を経験済みで、文永の役にも時間をかけて
十分な準備をしてから臨んでいた。
元軍が負けたのは、単に日本軍より弱かったから。
高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられて
しまうから撤退した、と書かれている。
攻め込んだ元軍側の史書に「負けた」と書かれているんだから、否定する理由なんか
ないだろ。

>>251
文永の役の元軍は3000近い騎兵を投入していたし、日本の騎兵は大活躍だったぞ。

255 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 15:14:47 0
高麗史には
「倭兵は大敗して屍は山をのごとく」
とあるが
>>高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられて
そりゃそうだ、日本側は兵力を回復できるが
元側は海を越えてやってきて援軍も補給もない、だから引いた。戦闘で負けたからじゃない
弘安の役は防塁を作って準備していたこともあって終始有利に戦っていた日本の勝ちと言ってしまっていいが

256 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 15:22:27 0
>>白登山の戦いとかか
劉邦の漢じゃなく項羽の楚だったら
匈奴にも負けなかったんじゃないか
そういう気がなんとなくするw

257 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 15:34:24 0
>>255
高麗兵が殺したのは武士ではなく非戦闘員だよ。
日本の文献には高麗兵の上陸地に近い場所で逃げ遅れた多くの妻子眷属が犠牲に
なったと記されている。
高麗軍が菊池武房に大敗したのはその後。
あと、高麗史・表では「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」。
戦って負けた事を認めてるじゃん。

258 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 15:49:12 0
元寇のことはこっちで語れ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1158940720/l50

259 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 22:06:19 0
高麗史に負けたとは書いていない
兵を失ったのは帰る途中に暴風雨に襲われ
半数が座礁したある
確かに戦争目的を達しえなかったんだから
日本の勝ちと言っていいだろうが戦闘自体ではどうかわからない
日本の資料には日本が勝ったとあり、高麗側には倭兵を負かしたとある
ついでに日本人捕虜を200人ほど献上したという文献がある
弘安の役は終始元軍の上陸を阻止し優勢に戦ったので
弘安の役こそ日本の完全な勝利言ってもいいと思う

260 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 22:13:12 0
> 文永の役の元軍は3000近い騎兵を投入していた
少なくとも『元史』の方ではそのように書かれている部分は見た事がないのだが・・

文永の役について、『元史』世祖本紀には至元十一年三月庚寅条において、
「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等、將屯田軍及女直軍、并水軍
 水軍、合萬五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」

としか書かれておらず、同年十二月甲寅条に何時の間にか帰還した忻都らが、
「賞忻都等征耽羅功、銀鈔幣帛有差」(本文中の「耽」の偏は本来「身」)
と出てくる。
一応十一月癸巳条の末尾に「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」
とは出ているが、それ以外は音沙汰がない。

一方で『元史』列伝第九十五 外夷一 日本伝に
「 (至元)十一年三月、命鳳州經略使忻都・高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、
 拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。
  冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」

「元軍は3000近い騎兵」云々は高麗側の資料か『南村輟耕録』あたりの情報だろうか?
あるいは『元文類』とか。

261 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 22:15:00 0
それに『元史』などのモンゴル側の資料は、負けたり兵員を多く失った場合はその旨書くのが
普通だから、「元軍側の史書に「負けた」」とは書かれていない。

「矢が尽きた」というのは東西問わずモンゴル軍側の撤退の理由や「口実」として語られる
「常套句」だが、「敗退」をも含むかと言うと微妙。
『高麗史』はともかく『元史』の記述を信じるなら大元朝側がいわゆる文永の役を自ら敗退と
認識していたかは確認出来ないし、同時期の南宋作戦と比べると記事の文量が僅か。

現在のモンゴル帝国史、大元朝史研究に携わる人たちのおおまかな認識としては、
文永の役は他の外征時に一般的に行われた「威力偵察」の類いだったとしているはず。
特に派遣した兵力が「一萬五千」という規模が他の「威力偵察」の事例の規模と共通する。

262 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 22:16:15 0
>>215
上に上がっているが俺も烏桓に一票
皇甫嵩が韓遂を討伐する時に烏桓を援軍要請しようとした時に
一時期劉備の上司?だった鄒靖という人が
「烏桓は弱いので鮮卑の方がいい」と言っている
それに袁尚、袁煕をかくまった時に曹操の討伐を受けて
単于が討ち取られ二、三十万が降伏し移住させられた。

263 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 01:00:16 0
>>259
高麗史の年表の1274年には、戦って負けたと書いてあるだろ。

264 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 02:24:33 0
>>261
他の威力偵察の事例とはどのようなものですか。

265 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 02:50:16 0
威力偵察のわりに一万五千って多いよな

266 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 07:47:33 0
一万五千って直前に元から派遣された兵力で、それ以前に日本侵攻のため高麗に
屯田していた元軍や、高麗軍の兵力は含まれていないよね。

あと、日本側の防衛の要である水城や大宰府なんて、海岸から15キロ程度しか
離れていないだろ。
わざわざ博多湾から上陸したのに、水城や大宰府を見ることも無く帰ってしまって、
偵察の役割を果たしたことになるのか?

267 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 08:35:42 0
苦労して海を越えてきた割にあっさりと帰るんだなw


268 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 08:52:23 0
元寇の話題は日本史板でやれ

269 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 09:15:41 0
>>263
戦闘で負けていなかったとしても
戦争目的を達成できなければ負けたという
(豊臣秀吉の朝鮮出兵、アメリカのベトナム戦争等)
高麗はかなりやる気で日本を征服する気だった
高麗側の船を焼いて戦おうという発言が
金方慶が戦闘では兵力差もあり決して戦闘で
負けているとは思っていない事、征服する気があった事が伺える

270 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 10:48:12 0
ローマに何度か勝った事がある
パルティアはスルーですか。

271 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 16:21:40 0
>>269
戦闘で負けていないなんてことはないだろ。
高麗軍が赤坂で菊池武房に負けて海岸まで敗走した様子は、文献に詳細に書かれているぞ。

272 :世界@名無史さん:2006/12/20(水) 06:20:23 0
江戸時代に書かれた「北條九代記」だと文永の役は、

『関東より筑紫へ下知して、武備に怠りなし。同十月に蒙古の賊船対馬に寄来る。
筑紫の武士等集りて防ぎ戦ふ。蒙古の軍法乱れ靡きて整らず、矢種盡きえれば
海辺所々の民屋を乱暴し、これを以て、此度の利として軍を引て漕帰る。日本の
武士等も、攻め破られざるを勝にして、軍はこれにて止みにけり』

正直言って江戸時代の国学者の方が、現代の歴史研究者なんかより遥かに日中韓の
史書に精通し、客観的に解釈しているような気がするのだが・・・

273 :世界@名無史さん:2006/12/21(木) 19:38:54 0
>>271
確かに有名なのだけで2回戦闘で勝っているけど、
そのかわりパルティアはローマ軍に3回首都を落されていますね。
それから、ローマ軍は別に無敵の軍隊って分けでもないし、
むしろ最初は不利だったが粘り腰で結局勝つってパターンが多いから、
一度や二度勝っただけで最強云々とはならないかと。

274 :世界@名無史さん:2006/12/24(日) 13:51:09 0
>>247
勝利したなんて書いてあったか?なんか知らんけどいなくなったぞよ、
て感じだろう。特に文永の役では。

275 :世界@名無史さん:2006/12/24(日) 23:00:13 0
ビルマ、ベトナム、ネパールに負ける清軍萎え
朝貢とか言っても独立状態だし

276 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 00:23:45 0
威力偵察って敵の防備を知るためにやる事でしょ?
文永のあと5年も6年も後に来たらもっと防備が強化されちゃって
せっかくの偵察情報が無駄になるじゃん。

実際、弘安の役のとき上陸地点に文永の役のときにはなかった石垣できてちゃったわけだし。

文永の役が威力偵察目的なら、すぐに「本隊」で攻めなかった
元軍はとんでもないアホウという事になっちゃうんじゃないの?

277 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 00:33:06 0
元寇の話がしたかったら日本史板でやれよ

278 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 01:27:23 0
>>276
単純に七年であれほど防備を固めるとは思っていなかったんだろ
南宋攻めにも忙しかったんだろうし
学者の間では「文永の役は威力偵察」「弘安の役が本腰」が定説になっている

279 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 10:47:32 O
元が日本占領したとこで何かメリットあるのか
金とか目を引くを特産物なにもないし
特産物→はにわ?(笑)

280 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 11:48:33 0
何じゃそりゃwwww

何だ、まだ日本さんって俺らに従属してなかったの、フビライ勘違いしちゃった
→使者を送って服属を求める→断られる→また使者を送る→切られる→成敗してやる!!!!!111111!

って大河ドラマで見たよ。

281 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 15:32:16 O
はにわをバカにしちゃいかんよ

紀元後3世紀にあんな程度の低いものは他の地域では見られん、珍しい物品じゃよ
BC4Cには東南アジアではヘーゲル1型のドンソン銅鼓出現し既に青銅器時代に入っていたし
5300年前に欧州では青銅より精錬加工の難しい純銅の実用性のある銅斧使っていたんだから

282 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 15:55:37 0
はにわ君は>>183と同一人物ですか?

283 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 18:40:18 0
>>274
当時の文献には、はっきりと合戦でモンゴル軍が敗北したと書いてあるよ。

鎌倉年代記「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」

284 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 22:35:40 0
どうして、「文永の役は威力偵察」とかいう
厨の俺でも突っ込みどころ満載の説が学会で定説になれたの?

285 :世界@名無史さん:2006/12/25(月) 22:50:29 0
>>284
単純に日本軍が勝ったと認めたくないからだろ。
戦前までは、普通に戦って勝ったことになっていたのに、太平洋戦争で負けた途端、
文永の役でも負けてたことになってしまった。
それで「文永の役は暴風雨のお陰で助かった」ことにしたんだけど、当然のことながら
いろんな方面から突っ込みが入って、しかたなく今度は「文永の役は威力偵察」だった
ことにしたんだよ。

286 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 06:30:28 0
>>261の「他の威力偵察の事例」を提示してもらわないと何とも言いようがない。

287 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 08:38:33 0
>>284
3万なんて本気のわけないだろ

288 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 08:39:07 0
>>283
はいはい日本側の資料ではね

289 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 08:41:30 0
頼むから元寇の話はこっちでやってくれ
話題がループして永遠に終わりそうにない
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1158940720/l50

290 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 08:54:02 0
つーか戦闘で勝ってるのに夜になると海上に後退するなど戦術的には論理的でありません

291 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 08:57:37 0
>3万なんて本気のわけないだろ
橋頭堡を構築するには十分な兵力

292 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:04:52 0
>>291
海があるということを考慮すれば全然足りない

293 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:06:32 0
>>290
夜になるともどるのは弘安の役の話だろ

294 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:09:04 0
海という自然の防壁がある日本より
陸続きでありながらモンゴル軍を二、三回撃退した高麗の方が強い

295 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:17:15 0
そもそも元寇の戦略的な位置は元の対宋戦略における支作戦正面
その作戦目的は北九州を押さえて宋の後背の海上交通路を圧迫遮断することで、
京や鎌倉の奪取や本全土の征服は含まれていない
主作戦正面に寄与するため、また、渡洋侵攻作戦の膨大な準備所要を考慮すれば
悠長に威力偵察なんやってられる暇は無い
その証拠に文永の役で元軍は3万とも言われる大兵力で侵攻している

296 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:19:17 0
>海があるということを考慮すれば全然足りない
戦術的には全く根拠が無い
北九州の港湾を抑えるのには十分

297 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:36:43 0
>>292
1066年にノルマン軍は7000の兵力で、海という自然の防壁に守られたイングランドを征服している。
文永の役の日本軍は補助戦闘員を含めても1万程度だったんだから、3万以上の兵力を投入して敗北した
元軍は、単に日本軍より弱かったとしか言いようが無い。

298 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 11:41:03 0
えーと>>294とかは、何なの?
ようするにウリナラが最強!!って言いたいだけなの? アホなの?



299 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 11:50:49 O
中世ヨーロッパでの戦いは意外に投入兵力は少ない
それにイングランド王ハロルドの軍はノルマンディー公ウィリアムと戦う前に
“最後のヴァイキング”ノルウェー王ハラルド苛烈王とスタンフォードブリッジの戦いの激戦で辛勝したばかりで疲弊していた

300 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 12:30:55 0
>>299
イングランドはその前にデンマークにだって征服されてるだろ。
海が有ろうが無かろうが、その国が弱ければ他国から征服されるよ。

301 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 13:01:09 O
だって日本はそんなに大々的に勝ったわけじゃないじゃん
ましては元はわずか2、3万の侵寇兵でモンゴルの本隊が来たわけでないし
第一、騎兵以外のモンゴル軍本隊なんかいるのかねぇ
モンゴル人自体少ないのに

302 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 13:47:25 0
>>301
モンゴル軍が多国籍軍だってのは、ほとんどの侵攻で共通で日本だけが例外では無い。
マムルーク朝がアイン・ジャールートの戦いで勝ったモンゴル軍が1万2000だったことを
考えれば、文永の役で4万、弘安の役で14万の元軍に勝利した日本は、世界史的には立派に
モンゴルに「大々的に勝った」国だよ。

303 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 14:05:35 O
江南軍のほとんどはたいした武装をしていない入植用の農器具と種もみを持った移民集団
戦闘部隊は前役と同じ東路軍のみで兵力も前役と同じ2万7000のみ
引安の役では保塁を作り10万の兵力を集中した日本軍が勝のは当たり前
なにせ敵の4倍の兵力だからな

『中国の歴史 疾駆する草原の征服者』
杉山正明著 講談社刊
を読め

304 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 14:14:50 0
モンゴル軍に「日本軍が勝のは当たり前」とは、日本に対する最大級の賛辞だな

305 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 14:32:00 O
そうだな
防御設備があって4倍の兵力があればマウイ族でも勝てるたろうなw
ニッボーン武士は4分の1の兵力のアイヌに敗れたから
アイヌが最強だな

306 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 15:03:13 0
はにわ君は感情的だな。

307 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 17:50:36 0
単純な強弱論ではなく渡洋侵攻は非常に難しいという産業革命以前の軍事的常識の実例に過ぎない
蒙古征東軍を撃退した日本軍が大陸に逆侵攻して勝てるわけがないのと同じ

308 :世界@名無史さん:2006/12/26(火) 20:53:09 0
ここ本当に世界史板?
渡洋侵攻なんて古代ギリシャ・ローマの時代でもやりまくってるぞ。

309 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 00:11:10 0
渡洋侵攻と経海侵攻の違いも知らんのに世界史板に出入りしてるのか?

310 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 00:23:21 0
やりまくってるけど大失敗も多いよね
マラトンとか

311 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 00:46:08 0
敵前強襲上陸の成功例は非常に少ない

312 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 02:23:17 0
>>309
違いを教えてくれ。
因みに経海侵攻なんて言葉を検索しても殆ど引っかからないぞ。

313 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 02:26:07 0
渡海侵攻といえば
唐軍による百済攻略とかもあるな。

314 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 02:41:22 0
>>307
産業革命以前の大航海時代は無視?

315 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 02:42:34 0
ヴァイキングもあっちこっちに侵攻して領土分捕ってるしな。

316 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 04:03:11 0
現代でも大陸から日本を攻略することは、日本海のせいで難しいと言われているんだが

317 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 05:56:12 0
ヴァイキングだって強襲上陸なんてほとんどやってない
大航海時代でも同じ
大航海時代には数万の軍勢が長距離海上躍進できるようになったとでも思ってるのか?

318 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 07:14:38 0
391年に日本が対馬海峡を逆からせめて百済・新羅を征したことはどうなのさ?

319 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 12:47:15 0
やっぱ、
いつのまにか中国沿岸部を版図に治めていた事になってる高麗が最強なんじゃね?
教科書にも載ってる事実だし。

320 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 14:11:42 0
>逆からせめて百済・新羅を征したことはどうなのさ?
どこからそんな出鱈目をw

321 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 14:30:39 0
>>319
高麗の主力軍は騎馬だったのか?

322 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 16:06:34 0
>>320
広開土王を称える碑文からじゃね?
「倭国が攻めてきて、今のソウルのあたりは倭兵でごったがえしてた。それに打ち勝った広開土王超偉い」
って碑文。

323 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 17:37:19 0
高句麗って騎馬軍が主体だったらしいね

324 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 22:45:56 0
どうりで今でも半島のいたるところで
男が路上で女に馬乗りになっているわけだ。
先祖代々、馬に跨って略奪していたころの血が騒ぎ出すんですかね。

325 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 23:07:14 0
>>283 >>302
文永の役では、戦略目標を達したという意味では「負けてはいない」けど、
実際の戦闘では相当苦戦しているからな。菊池氏などはよく戦ったが、
総大将の小弐氏は本営としていた箔崎八幡を捨てて太宰府に移ろうと
している。防衛ラインを下げるつもりだったわけだから、優勢ではないと
判断したんだろう。
>>283が引用したのは、「博多を守った」という程度の意味で、戦闘で優勢だった
と言うことではあるまい。

ただ、弘安の役は日本軍の完勝と言っていいだろう。
上陸すら許さなかったのは戦術戦略ともに優れていたと言っていい。
江南軍が戦闘部隊だったら、あるいは危うかったかもしれないが。

326 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 00:19:11 0
>>325
総大将の小弐が水城に引き上げる決定をしたのは、単に夜になったからだろ。
大宰府防衛が目的の日本軍が、本来想定していた防衛ラインは水城。
その証拠に籠城戦に備えて、水城に豊富に兵站を蓄えていたりする。
元軍は日本軍にとって前哨戦に過ぎない博多で戦闘不能に陥ったわけで、戦闘では
まったく日本軍に歯が立たなかった可能性が高い。

327 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 02:27:11 0
確かに主戦闘陣地は水城だが、前方地域で出来るだけ敵の前進を遅滞し
戦力を漸減するのが陣地防御の基本
当初の計画通り夜になったから主陣地に引き上げたのか、
前地での戦闘が不利になったから主陣地に後退したのか、
今となっては推測の域を出ない
論理的に考えれば夜間は地形を知悉した防御側に有利だし、
前地を放棄することはすなわち夜が明けたら主陣地で
敵と渡り合うことを意味する

328 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 09:47:01 0
水城に引き上げた日本軍は、元軍に大打撃を与えた事を認識していたよ。
副将の劉復享を討ち取ったとの情報を、捕らえた捕虜から得ていたからね。
日本軍は水城さえ維持していれば、後方から援軍が到着して日毎に有利になるのだから、
日没後も博多を維持するリスクを犯すより、より堅固な水城で朝を迎えようとする判断は
別に不自然じゃないだろ。

329 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 16:11:42 0
通常、前地の戦闘を優位に進めている防御側は、主陣地の掩護と防御準備の余裕の獲得のために、
そのまま前地での戦闘を継続する
わざわざ優勢な戦場を放棄し、戦闘中の部隊を主陣地に収容する行為は、戦術的には論理性がない
また、日没後に博多を放棄する意義も非論理的
地形を知悉しているのは防御側であり、夜戦でのリスクは防御側よりもむしろ攻撃側にある
事実、戦後、博多放棄は非難されている
もし、前地での戦闘で元軍が戦闘不能に陥るほどの損害を受けていたとすれば、
水城への後退は戦術的には致命傷になりかねない大失策といえる
また、水城での戦闘は出来るだけ遅らせればそれだけ増援部隊の収容も容易になる
前地での戦闘を優位に進めていたと仮定した場合、博多の放棄に戦術的妥当性は薄い

また、封建軍制の日本軍で、指揮下の御家人衆に地域の放棄を容認させるほど
小弐景資の軍事統帥権が強力だったか疑問
彼の指揮下には博多周辺に所領を持つ御家人も少なくなかった筈である

勿論、戦場の霧効果も無視できないし、小弐景資の状況判断を示唆する史料が乏しいため、
水城への後退が予定の作戦行動だったのか、苦戦の末の撤退だったのかを判断するには
材料不足で、新たな史料の発掘が待たれる

330 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 16:34:22 0
博多周辺に所領を持つ御家人は、小弐景資の指揮下には入らず、個別に戦っていた。
そういった御家人たちは戦後「御家人が自分の所領を守るために戦うのは当たり前」
として、幕府の恩賞の対象から外されている。

331 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 16:47:42 0
つまり戦場には小弐景資の指揮の及ばない部隊が少なからぬ数存在していたことになる
これらの部隊が自分の部隊の周辺の状況のみを頼りに各個の判断で優勢な戦場を棄て、
整斉と水城に後退したとは信じ難い
状況証拠及び戦術的妥当性からいえば、水際〜博多周辺での戦闘で
日本軍が優位に戦ったとする推測はますます成立しにくい

332 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 17:28:32 0
>>331
博多周辺に所領を持つ御家人とは松浦党など。
こういった武将たちは文字通り元軍と死闘を繰り広げていたし、日本軍の中での
損害も集中している。
ただ、小弐景資自身は最初から博多周辺での戦闘には淡白だった。
この辺は外国との戦争経験が少ないことが影響してると思うし、そのため大損害を
受けた民間から非難されたのも仕方が無いと思う。
ただ結果的には20日の戦闘では、小弐景資指揮下の主力部隊はほとんど温存されたし、
元軍が翌日以降の戦闘継続が不可能との判断を下したのも事実だろ。

333 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 17:46:42 0
淡白というより状況がつかめず動けなかったと考えるのが妥当だろう
組織だった指揮系統も情報伝達組織も満足に整備されていない当時の日本軍が
組織的に内陸撃破型の対上陸作戦を展開できたとは考えにくい
統帥上の欠陥と情報不足のため水城から動くに動けなかった日本軍主力部隊、
全般の戦況もわからず各個に目前の敵と戦った挙句に損耗して
水城まで撤退を余儀なくされた水際部隊、というのが実情だろう
元軍の実情はともかく、小弐景資以下の前地の戦闘に対する状況判断は
相当に悲観的だったに違いなく、戦闘で日本軍が元軍を圧倒したとは考えにくい

334 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 18:21:11 0
>>333
それでは元軍が水城まで進軍できず、たった1日で撤退に追い込まれた説明がつかない。

当時の日本軍に組織だった指揮系統や情報伝達組織が整備されていないなどということは無い。
竹崎季長が小弐景資の陣を訪れた際、日本軍の大部分がその指揮下に集結し、元軍が進出してきた
ところを、一同にて追い物撃ちする作戦だと告げられている。
現実に日本軍はその作戦に沿って、夕刻まで4倍の敵に対して戦線を維持した訳だろ。

あと、文永の役では博多での戦闘で日本軍が大きな損害を受けた形跡が無い。
伝わっているのは、松浦党が多く討たれたと言うことぐらい。
竹崎とかも最前線で戦いながら主従5人とも生存。
菊池氏も赤坂で元軍に100余人で突撃したはずなのに、元軍を撃破して引き上げてきた時も同じく100余人。
これが弘安の役だと、小弐一族だけでも多数の戦死者が出ているのに。

335 :世界@名無史さん:2006/12/28(木) 19:46:09 0
20日日没までに水城に到達できなかったのは、元軍の損害が大きかったためと考えられるが、
それがすなわち日本軍が元軍を圧倒していたことを意味するものではない
日本軍の任務は元軍の撃退であり、上陸する元軍を水城以西に阻止することではない
戦場で戦闘を優位に進めていたとすれば、日本軍は元軍を水際で撃破できて然るべきで
わざわざ優勢な部隊を後退させて水城に全軍を集結させた行動は不可解極まることになる
事実、20日の戦闘で箱崎正面の島津勢と大友勢が押し込まれて夜に離脱し、
中央戦線も圧迫され今津、麁原等が奪取されている
少なくとも、量的に劣勢な部隊がほとんど無傷で突撃を敢行するような
圧倒的なキルレシオで戦っていたとは考えにくい
赤坂正面における菊池武房勢他約二百余名の突撃は、八幡大菩薩愚童訓では
成功と記されているものの、菊池武房は負傷、落馬して後退しており、
封建軍制下の軍隊で突撃に成功した部隊及びその指揮官の行動とは考えにくい

日本軍が水城に集結したのは、概ね三方向から侵攻する敵の圧迫に
対応できなかったからに他ならない
戦場には前線指揮官である小弐景資の指揮下に入らずに戦闘する部隊があり、
これらの部隊は小弐景資の与り知らぬ場所で各個に戦い、しかも当然ながら
戦況や戦闘を小弐景資に報告する筋合いは無い
こうした指揮系統及び情報伝達組織の混乱を回避して、全部隊を掌握するため
水城に集結させたと考えるほうが戦術的には妥当

336 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 09:08:58 0
>>335
八幡愚童訓って、もともと八幡神の霊験を強調するために書かれた文献だから、
元軍については誇張し、武士の戦果については控えめに書く傾向があるの。
更に後世の写本になればなるほど、その傾向が強くなる。
菊池次郎130騎、託磨別当太郎100騎、都合230騎と書かれているのは写本の方ね。

菊池武房は落馬したのではなく、馬当てといって当時の武士たちが敵の首を取る
ために行なう、ごく当たり前の戦い方をしていたのに過ぎない。
八幡愚童訓では何故、菊池武房の突撃が賞賛されたのかについては書いてないけど、
元軍はその後、他の日本軍の追撃を受けながら、二手に分かれて赤坂から麁原まで
敗走してるんだよね。
一方の菊池武房は、元兵の首を掲げて意気揚々と水城へと引き上げてる。
少なくともこの方面での戦闘では、日本軍が元軍を圧倒しているだろ。

あと、小弐景資は最初から元軍を水際で撃破しようとはしていない。
その理由は元軍の上陸した辺りは足場が悪く、騎兵の運用に適さないからだそうだ。

337 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 09:58:24 0
水際撃破を選択できなかったのは前述のとおり指揮系統と情報伝達組織の問題によるもの
水線部の砂浜は当然騎兵の機動を制限するが、当時の日本騎兵は随伴歩兵に掩護された弓騎兵で、
大陸のような重騎兵の集団突撃を行わない
砂浜で騎馬武者が戦闘した事例は決して少なくない
また、博多周辺が騎兵の運用に適さないとは考えにくい
武士は水田部や山間部でも易々と戦闘している
戦闘で常勝していた日本軍が水城まで後退する戦術的理由はない
もし、日本軍が元軍を圧倒していたのならば、日本軍は戦場で常に敵を撃破し
元軍の組織的戦闘力を破壊しかねないほどの大損害を与えながら、
後退を重ねていたことになる
これは戦史上でも非常に奇怪きわまる現象と言わざるをえない

338 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 16:30:09 0
水際撃破を選択しなかった理由について、小弐景資自身の説明が『一所にて合戦候べき由、
候申き。赤坂は馬の足立ち悪く候。ここに控え候はば、定めて寄せ来たり候はんずらん。
一道に賭けて追物射るべき由申さるる』なんだから、それで納得するしかないだろ。

あと、当時の日本の騎兵が集団突撃を行わない、というのも根拠不明。
小弐景資が博多でやろうとしていた一斉追物射ちなんて、重騎兵の集団突撃以外の
何物でのないじゃん。
小弐景資は自分の指揮下に集結した御家人に対して『言質の約束を違へじ』と誓わせて
いたから、かなり強固な軍事統帥権を持って、組織的に戦うことができたんだよね。

339 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 18:34:14 0
小弐景資のコメントは水際撃破を選択しなかったのではなく、
選択できなかったと捉えるべき
戦場には小弐景資の指揮下にない日本軍部隊が各個に戦闘しており、
彼は戦場を整理するためにも水城に部隊を集結させる必要があった

日本騎兵は随伴歩兵を伴う小規模な戦闘チームを組んで戦うため、
大陸で行われていたような重騎兵による騎兵突撃は行わない
それ以前に、追物射とは騎射のことであり、騎兵突撃ではない

小弐景資が御家人衆に要求した誓約は、封建軍制で封主から
軍の戦場指揮を委譲された封臣の軍事統帥権を保証しているだけ
これをもって通常の封建軍の水準を越えた強固な軍事統帥権を
有していたことにはならない

340 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 18:38:40 0
蒙古襲来絵詞のこの場面
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm
の一番右を見ると騎馬で集団突撃を行ってるね。

341 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 20:25:44 0
描かれているのは集団で騎射しているのであって突撃ではない
騎射は衝撃力を伴わない

342 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 20:42:19 0
突撃とは、敵を地域から駆逐しその組織的戦闘力を直接破壊するために
行われる攻撃の一形態
この時期の突撃は、騎馬であろうが徒歩であろうが白兵をもって実施される
古今東西、弓騎兵の騎射による騎兵突撃という事例は存在しない
フンやモンゴルのような弓騎兵で名高いステップ系騎兵ですら、
突撃は刀槍その他の近接戦闘装備の重騎兵が行っている

343 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 20:57:04 0
騎射の後、接近したら刀で斬りつけるんだろ。

344 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 21:08:27 0
躍進距離が足りない
嬲り殺しになる

345 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 22:32:55 0
そもそもこの時代の日本の軍制には、騎兵単一で突撃するという発想はない
騎兵である武士と、一部騎乗の場合もあったが随伴歩兵である郎党の
小規模な戦闘チームが当時の日本軍の最小戦闘単位
騎兵のみを抽出して独立的に運用することは当時の日本の封建軍制が許さないし、
それ以前に当時の日本で行われていた戦闘では、騎兵突撃を行う必要性も意義も無い

346 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 00:29:08 0
騎馬と歩卒がよーいドンで突進したら
一時的に騎馬だけが突出する。
歩卒は後から追従した。

騎馬が一時的に歩卒から離れる事を否定するなら
疾走しながらの騎射自体が成り立たなくなる。

平安末から鎌倉期では歩卒を伴わず騎馬武者だけで騎射する絵が多い。
蒙古襲来絵詞もその一つ。

347 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 00:32:21 0
>>344
止まって騎射する訳じゃないから。

348 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 00:36:20 0
一時的にでも騎馬が歩卒から離れる事を否定するなら
日本の騎射戦術だけでなく、
同様に歩卒を伴って行動した西欧騎士のランスチャージも否定する事なる。


349 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 08:37:42 0
>>346
だからといって、騎馬突撃が行われた根拠にはならないでしょう。
そのようにして騎射が行われていたってだけで。

350 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 09:26:10 0
西欧では国王直属軍や封臣軍、各召集軍単位で騎兵を抽出して
単一兵科部隊として運用する
同じ封建軍制ではあるが、こういう些細な点まで同じではない
騎射で騎兵が一時的に随伴歩兵と分離することと、
騎兵を集成して独立した単位として運用することは全然違う

騎射と騎兵突撃は戦術的な効果も役割も全然違う
騎射は主に襲撃や小規模な小競合いのような場面で大きな効果を
発揮する攻撃機動で、重歩兵の方陣が相手では戦術的効果は薄い
騎射の射程は概ね最大30メートル程度で、徒射に対して劣る
この上更に射撃の後に弓を棄てて突撃隊形に組み直し、
改めて抜刀突撃するためには躍進距離が足りないし、
当時の日本封建軍の編組を考慮すれば出来るわけがない

351 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 09:45:11 0
つーか日本武士が弓を射た後にそのまま突撃したケースなんてあったっけ?
どうも仮定に仮定を重ねた不毛な意見にしか見えない。

352 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 09:45:44 0
重装歩兵の密集陣と騎馬弓兵の戦闘っていうのもなかなか例がないな。
クラッススがパルティア人に壊滅させられたカルラエの戦いぐらい?

353 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:05:18 0
文永の役で、現実に騎兵突撃を行なう日本軍が資料に描かれているのに、
「騎兵単一で突撃するという発想はない」なんて言うのは、何の根拠もない
単なる思い込みじゃん。
「衝撃力を伴わない」とか言ってるけど、日本軍の戦法の「馬当て」なんて
騎馬の衝撃力を武器にした戦法以外の何物でもないだろ。

当時、小弐景資の指揮下には日本軍の大多数が集結しており、元軍はその強固な
組織力に、まったく歯が立たなかった。
攻撃を仕掛けた元軍副将の劉復享が逆に返り討ちに遭う始末だ。
文永の役は、『元史日本伝』が敗退の理由として「官軍整わず」と元軍側の軍法の
乱れを挙げているように、組織力で勝る日本軍が4倍の元軍を撃破した戦い。

354 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:17:25 0
騎射と騎兵突撃は別物
衝撃力とは馬の体当たりでなく機動の発揮による戦闘力の集中の意
元軍が全く歯が立たなかったのに日本軍が水城に後退、集結したのは戦術的に非論理的

355 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:23:33 0
小弐景資が部隊行動に適さないとしていた赤坂正面で
菊池勢他の小規模な突撃が大成功したというのは矛盾
しかもその突撃の成果を拡大せず、無為に水城に後退して
博多を放棄した行動も不可解
結局、戦闘は概ね一連の不期遭遇戦の形で推移し、
両軍ともに戦場では大損害を受けていたと考えるのが妥当

356 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:27:36 0
>>354
文永の役で敗退したのは元軍だろ。
博多から水城までなんて、騎馬なら30分程度で移動できる距離。
普通に同一戦場じゃん。
一方の元軍は、乗船して日本から離れている。
どちらが敗北したかなんて一目瞭然だろ。
「敗北した元軍が、勝利した日本軍に全く歯が立たなかった」のどこが非論理的なんだよ?

357 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:30:33 0
それだけ離れていればまったく別の戦場
現代とは戦場のスケールが違う

358 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:33:22 0
>>357
乗船して日本から離れた元軍を「敗退した」とは言わないの?

359 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:36:44 0
博多から水城まで直線距離で約10キロ程度
これを同一戦場と断ずるにはいささか無理がある

360 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:38:07 0
元軍が作戦企図を放棄して撤退することと
「戦場で日本軍が元軍を圧倒していた」こととは違う

361 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 10:48:19 0
>>359
文永の役の戦場は、今津から箱崎にまで及んでいた。
その距離は博多から水城までの距離と大して違わないぞ。

362 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 11:01:16 0
そもそも、騎兵突撃の「衝撃力」を「機動の発揮による戦闘力の集中」と定義するなら、
日本軍が集団で一斉に行なう追物討ちは、立派に「衝撃力」を伴っているだろ。

363 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 13:47:35 0
20日の戦闘は概ね三個正面で独立的に推移している
同一戦場ではない

364 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 13:48:40 0
突撃の要旨は、機動を発揮して戦力を集中し、その衝撃力をもって敵の隊列を崩し、
敵に地域の放棄を強要し、可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することにある
騎射の戦闘力はこのような要件を満たせない
騎射に限らず投射兵科の戦闘力の根幹を成す主たる要素は火力であり、
突撃を行う近接戦闘兵科の戦闘力の主要素である機動とは根本的に相容れない
戦術の歴史は機動と火力の相克を基調として発展しており、
投射兵科である弓騎兵に突撃を強要するのは、カラコールの例を問うまでも無く
ほとんど何の成果も伴わないだけでなく、弓騎兵の貴重な戦術的地位と役割を
否定することに他ならない

365 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 14:29:34 0
武士という当時の軍事エリートを成員とする当時の日本武士は、
イランの自由農民を起源とし、比較的重装で、村落や農地を略奪から防護し、
近隣の村落との紛争に対応するために生まれたカタフラクトに近い発展過程を辿る
カタフラクトも、槍や刀だけでなく、弓も装備した一種の中騎兵または万能騎兵で、
随伴歩兵を伴い戦闘に従事した
日本騎兵がどちらかと言えば弓に重点を置いていたのに対し、
カタフラクトが主に刀槍を用いていたのは、
周辺のステップ系騎兵が有力な弓騎兵の供給源として存在していたからで、
カタフラクトは後に東ローマで編制兵科に採用され、
更にフランク王国のカバラリウスの原型となり、その過程で
野外決戦における要求から集成統一運用の構想が発生、制度化されている
日本武士にはこうした動きがなく、騎兵を抽出して統一運用する発想は生まれていない

366 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 15:14:53 0
>>353
資料に描かれているって、>>340の蒙古襲来絵詞見る限りじゃあ、
日本軍がやっていることは正に騎射であって、突撃じゃあないでしょう。
資料を根拠にするなら、明らかに騎馬突撃はなかったという方に分がある。

367 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 16:34:15 0
衝撃力=馬当てという斬新な発想に噴いた。

368 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 16:44:26 0
>>364
突撃が必ず近接武器でなければならないという発想がおかしい。
じゃあ、突撃銃って何よ?
カラコール戦法が失敗だったのは、当時の銃が単発だったために射撃の終わった後は、
後方に退いて、弾込めを必要があったからだろ。
連射可能な弓騎兵と一緒にするべきではない。

369 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:00:51 0
突撃銃とは従来の歩兵用小銃にかわって弾を小型化させ
射程を犠牲にする代わりに連射性能を向上させた自動小銃
携行弾数が増加するという副次的効果もあったが、
一方で弾の小口径化による威力の低下や連射機能の必要性に対して
疑問視する声も少なくないが、当分は歩兵の標準的な小火器として
用いられると思われる
ちなみに突撃するから突撃銃というのは全くの誤解
近世以前の戦闘と、金属製薬莢式後装旋条銃が普及した20世紀の戦闘を
その軍事技術を無視して同一に論ずること自体に無理がある

カラコールを行ったピストル騎兵は複数のピストルを携行していた
一発撃ったら装填のために後方に退いたというのは全くの誤解

370 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:26:02 0
突撃銃云々は言葉遊びみたいなものだけど思いついたら書いてみたくなった。

突撃は、何の武器で行なわれるかではなく、何の目的で行なわれるかで定義されるべき。
中世の合戦が、楯突き戦から馳組戦へと移行するのは、武士に敵の隊列を崩し、 敵に地域の放棄を強要し、
可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することを期待しているからだろ。
武士に火力だけが求められるのなら、大鎧を着用する必要も、騎乗する必要も、大小の日本刀を装備する
必要もない。
重装弓騎兵みたいな兵科自体が、日本以外にあまり例がないんだから、世界の他の地域では違うとか言っても
無意味じゃん。
現実に文永の役で日本軍は弓騎兵による突撃を行い、元軍はその前に敗れ去った。

371 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:32:03 0
あのな、馬に乗って刀剣を持ってれば、世界中何処でも状況次第で騎乗突撃はやるんだよ。
遊牧民系の弓を所持した軽装の騎兵が射撃専門で全く騎乗突撃をしなかったと思っているならそれは大きな間違いで、彼らだって騎乗突撃を行う。
ましてや、日本の騎馬武者は重装である。

どうしても日本の騎馬武者だけは騎乗突撃しなかったことにしたい奴がいるようだ。

その理由として「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」とか言う。

しかし、例えば50メートルの距離で、盾を並べて弓による射撃戦をした後、敵が怯んだ隙を見計らって、
騎馬武者と歩卒の主従混成部隊が突撃を行ったケースを想定してみよう。
当然の事ながら、一時的に騎馬武者が先行し、歩卒が遅れる形になる。
ただし、遅れると言っても、50メートルの距離だと、ほんの数秒の時間差しか生じない。
まあ、3〜4秒差程度かな。
ほんの数秒程度歩卒の突入が遅れたところで決定的な問題を生ずるものではない。
むしろ騎馬の主人が刀で撃ち倒した敵を、駆けつけた歩卒が止めを刺すには丁度良いタイミングとさえいえる。
したがって「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」と言う論拠は全く成立し得ない。

372 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:50:03 0
弓騎兵は洋の東西を問わず珍しくない
重装か軽装かは装備の違いに過ぎず、運用とは関係ない
現実に文永の役で日本軍は騎兵突撃を行っていないし、
それを示す資料も存在しない
日本軍の突撃は専ら騎兵と随伴歩兵の戦闘チームによる歩騎協同の突撃

373 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:52:33 0
>>372
装備と運用とが無関係なわけないだろ。

374 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:54:24 0
>日本軍の突撃は専ら騎兵と随伴歩兵の戦闘チームによる歩騎協同の突撃

突撃してるじゃないか。

375 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:56:25 0
騎乗突撃すなわち騎兵突撃ではない
論じられているのは、封建軍隊であった当時の日本軍において
編制から騎兵のみを抽出して集成編成し、単一兵科部隊として運用し
騎兵突撃を行っていたか否か

376 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:57:32 0
装備を基準に運用が決定されるわけではない
運用があって装備が決定する
装備を基準に運用を決めるなど本末転倒

377 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 17:58:51 0
ちなみに、騎乗した兵士が突撃したら全て騎兵突撃と断ずるのは暴論
前述したように当時大陸で行われていたような騎兵突撃は日本では行われていない

378 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:00:33 0
無論、日本軍も突撃を行うが、それは大陸スタイルの騎兵突撃ではないし
まして騎射による突撃などは行わない

379 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:05:47 0
>>375
そんな事だれも論じてない。

380 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:06:34 0
ちなみに、現代の標準的な突撃銃であるAK47は装弾数30+1発で連射速度は毎分約600発
当時の鎌倉武士がいかに騎射に長じていたとしても突撃銃のような芸当は無理

381 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:08:05 0
そもそも日本で騎兵だけを抽出して単一兵科を編成してたなんて主張する奴はいない。

382 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:09:02 0
>>379
>>339を参照

383 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:12:48 0
当時の日本で騎兵だけを抽出して単一兵科部隊を集成編成して運用した事例はない
すなわち、騎兵突撃は行われていない

384 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:14:20 0
>>375
お前が言いたいのは
「騎乗突撃すなわち騎兵突撃ではない」ではなく
「騎乗突撃すなわち単一兵科として編成された騎兵部隊による突撃ではない」ではないのか?

それなら議論する余地も無く結論は出てるだろう。

385 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:15:13 0
>当時の日本で騎兵だけを抽出して単一兵科部隊を集成編成して運用した事例はない

当たり前

386 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:19:38 0
当たり前のことを何度述べても理解しない人ガイル

387 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:31:31 0
どこに?

388 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 18:36:04 0
>>386
>>381

389 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 19:05:51 0
>>387
日本軍超強い派

390 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 19:07:40 0
>>387
大陸みたいな騎兵単一兵科による騎兵突撃が行われていないという意見に
絵巻を頼りに反論している人。

391 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 19:12:41 0
>文永の役で、現実に騎兵突撃を行なう日本軍が資料に描かれているのに、
>「騎兵単一で突撃するという発想はない」なんて言うのは、何の根拠もない
>単なる思い込みじゃん。
>「衝撃力を伴わない」とか言ってるけど、日本軍の戦法の「馬当て」なんて
>騎馬の衝撃力を武器にした戦法以外の何物でもないだろ。

少なくとも一人はいるなw

392 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 19:20:38 0
突撃銃があるから弓で突撃するって言ってる人は?

393 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 21:53:36 0
日本の騎馬武者は徒歩の従者を伴って騎兵突撃を行ったが
騎馬武者のみで編成される部隊を形成することはなかった。

という結論でおk

394 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 08:37:21 0
>>368
ところでカラコール騎兵がピストル1挺しか持ってないっていう根拠は?

395 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 12:38:59 0
>>394
カラコール騎兵がピストル1挺しか持ってないとは書いてないよ。

396 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 14:55:22 0
>カラコール戦法が失敗だったのは、当時の銃が単発だったために射撃の終わった後は、
>後方に退いて、弾込めを必要があったからだろ。
>連射可能な弓騎兵と一緒にするべきではない。

397 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 15:01:35 0
>>396
何でだよ?
当時の銃が単発なのも事実だし、カラコール戦法が前方での射撃と後方での
装填を繰り返す戦法なのも事実だろ。

398 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 15:38:39 0
>>387
もう一人いた

>>371
>したがって「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」と言う論拠は全く成立し得ない。

つーか過去ログ読めよ・・・

399 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 15:45:34 0
>>398
>>371は少し違う
奇妙な論法ではあるが

400 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 15:50:00 0
つーか「おk」じゃないだろ。
勝手に一人で結論だすなってw
>>353の反論マダ?

401 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 16:44:51 0
お前ら中世の文献には、現実に騎馬武者が歩兵を伴わずに行動している場面が、
幾つも書かれているという点については、どう考えてるの?
まず固定観念があって、それに反する記述は全部間違い?

402 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 16:55:57 0
いきなり脈絡も無く何を言い出すんだ?

403 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 16:57:39 0
徒歩の郎党を伴ってる場面もいくつも出てるけど、固定観念?

404 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 17:00:40 0
つまり、徒歩の郎党を伴うこともあれば、騎馬武者だけで戦うこともあるってことだろ。

405 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 17:12:12 0
つーか誰もそんなこと論じてないだろ
いきなり何言ってるんだ?

406 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 17:14:25 0
>>401
どの文献のどんな場面?

407 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 19:35:48 0
近藤好和「騎兵と歩兵の中世史」吉川弘文館

「まず『太平記』で注目されるのは、次の記述である。
 巻八・山崎合戦
  (軍勢を)三手に分つ、一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す、
  一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす、一手をば
  混すら打物の衆八百余騎を汰て、
 赤松満祐による軍勢の手配を記しているが、この記述からは、その軍勢が「人」
で数えられる歩兵集団、野伏(おそらくは歩兵)に騎兵を加えた集団、さらに
「騎」で数えられる騎兵集団に分けられ、しかも集団ごとに役割分担があり、
歩兵と騎兵の連携を促していることがうかがわれるが、・・・」

408 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 20:34:59 0
足軽が登場した南北朝時代の話じゃん。
鎌倉時代のはないの?

409 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 20:45:23 0
「騎」というのは西欧の「ランス」と同じように
武士とその郎党を加えた集団でしょ。
純然たる騎兵集団とはいえないと思われ。


410 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:20:20 0
江戸図屏風・左隻第6扇中上
碑文谷、桧物屋(碑文谷)御鞭打
騎馬軍団
ttp://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/l62.html

411 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:22:06 0
単位としての騎の定義は様々で、文字通り騎乗兵の数のみを示す場合もあれば
騎兵である武士と騎乗または徒歩で随伴する郎党を一括りにした場合や、
騎乗も徒歩も合わせた兵士の総数を表す場合もあるし、
足軽や野伏のような非武士身分の兵士と武士身分の兵士を区別するために
足軽や野伏を人で、武士身分の兵士を騎で数えることもある
騎の表現が騎兵のみを示唆しているとは限らない
時代は下るが旗本八万騎が騎乗した旗本八万名を意味しているわけではないのと一緒

412 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:23:59 0
ちなみに南北朝時代でも大陸のような騎兵突撃は行われていない

413 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:32:38 0
>>412
そんなことを断言できるほど、南北朝時代の合戦の研究は進んでないだろ

414 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:37:03 0
つーか何故南北朝時代?
話題ずらそうとしてる?

415 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:38:22 0
すごい爆弾発言

416 :世界@名無史さん:2006/12/31(日) 21:39:16 0
>>413
では大陸のような騎兵突撃が行われていた根拠を

417 :世界@名無史さん:2007/01/03(水) 13:14:08 0
>>350
遅レスですが

>騎射の射程は概ね最大30メートル程度

というデータに興味があるので出典を教えて欲しいです。

418 :世界@名無史さん:2007/01/03(水) 13:49:17 O
>>416
やっていた根拠が無くとも、やっていない根拠も無い
断言するにはまだ早い
今はまだわからないとしか言えないんだから

419 :世界@名無史さん:2007/01/03(水) 13:57:53 0
流鏑馬とか見てると、人間のほうが的が大きいことを勘定に入れても
30mは十分長いと思うけど。

420 :世界@名無史さん:2007/01/03(水) 14:00:46 0
南北朝時代は騎兵突撃をやってたかやってないかわからないのに
元寇の時は騎兵突撃をやっていたって矛盾してません?

421 :世界@名無史さん:2007/01/03(水) 19:34:26 0
普通は、(騎兵突撃を)行っていたことを示唆する史料が存在しなければ
行っていなかったという結論になるのだが

422 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 19:34:17 0
射程30メートルと考えた場合、馬を疾走させながら前方に騎射を行なえば、
数秒後には敵陣の真っ只中に居ることになる。
射終わった後に回避しようとしても間に合わない。
これって突撃そのものだろ。

423 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 21:09:49 0
もう想像だけで騙るのは止めたら?

424 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 00:39:15 0
騎射しながらそのまま敵の方陣に突っ込むなんて自殺は
大陸でも日本でも行われていない

425 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 02:01:02 0
"Firearms"って本に載ってた明末の兵書の抜粋で
軽騎兵が馬を馳せながら騎銃を発射し
撃ちつくすと銃を左手に持ち替えて盾にしながら
抜刀してそのまま突撃する図があったが
それはまた別か

426 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 07:59:41 0
攻撃してたら何でも突撃だと思ってません?
突撃は重騎兵のお仕事ですよ。

427 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 08:01:14 O
攻撃なら何でも突撃だと思ってませんか?
突撃は重騎兵のお仕事ですよ。

428 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 08:06:46 O
攻撃なら何でも突撃だと思ってませんか?
突撃は重騎兵のお仕事ですよ。

429 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 08:09:17 O
うわ。
多重レスごめんなさい。

430 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 09:55:00 0
16世紀の明で重装騎兵と軽騎兵の役割分担があったかどうか、興味深い。

ネット上で中国人が書いてたけど、三国時代の末から五胡十六国の時代にかけて鐙の普及があり
それと関係あるかどうか分からないが重装騎兵がランスチャージを行なうようになる。
でも歩兵も野戦築城や密集陣でその脅威に対抗するようになり、また軽装の騎兵には接近戦に
持ち込もうとしても逃げられるので重騎兵の使い途がなくなり、唐の時代までに衰退してしまったそうだ。

12世紀には金の鉄騎兵に対抗して南宋の重装歩兵が戦っているけど、詳しくは知らない。

明ではラメラー装甲やチェインメイル、ブリガンディンのようなものなどが使われていたようだから
少なくともプレートアーマー普及以前の騎士程度には重装甲にできたはず。
戚継光の騎兵の装備とか見ても武器しか書いてないのでさっぱり分からないが。

当時の明の騎兵は歩兵部隊に突撃する機会などほとんどなかっただろうが(たいていの場合敵兵力の
ほとんどが軽騎兵)、騎兵相手にどう戦っていたのか。

431 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 15:01:34 0
>>424
現実に元軍は蹴散らされて逃げ帰っただろ。

432 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 16:41:31 0
>>431
弓と歩兵に蹴散らされたかもしれないじゃん。

433 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:12:53 0
近世西欧の抜刀騎兵は前列がピストルで射撃した後に突撃したりしてるケースもあるが、
これは携行に便利で突撃隊形のまま射撃できるピストルだからできることであって、
弓や弩でこれをやったケースはないな。
流鏑馬だって的に向かって駆けたりはしない。

434 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:14:23 0
しかも近世西欧のケースはあくまで抜刀突撃が主で、ピストル射撃は
景気づけみたいなものだし。

435 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:21:07 0
>>433
現在行なわれている流鏑馬と鎌倉時代の騎射は完全に同じという訳ではない。
文献や絵巻で見る限り、当時は進行方向への騎射の方が主流。

436 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:59:41 0
当時の絵巻とか見てると真正面じゃなくて斜め横だね。

437 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:06:48 0
真正面だと馬の後頭部が邪魔で弓射れないよな
しかも和弓って大きいし

438 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:18:20 0
中世日本の騎射術には馬の首の右側に弓を構える馬手射のように
正面に弓を射る射法もあり、鎌倉武士の射角はかなり広い
ただし、三十年戦争の頃のスウェーデン騎兵のような、
騎射した後にそのまま突撃に移行するような事例は皆無
本来、鎌倉時代の軍制は主に小規模な小競合いや襲撃、遭遇戦等を
想定して練られているので、騎兵突撃のような機動を行う必要はなかったし、
そうした訓練も行っていない

439 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:39:12 0
源平の戦いや承久の乱で、何度も万を超える軍勢が動員されているのに、
それに対応する軍制が無いわけないだろ。

440 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 19:43:37 0
>>439
いや、それがないなんて誰も言っていないでしょう。
ただ騎馬突撃はなかったよってだけで。

441 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 22:29:42 0
>>439
あるのならば根拠ヨロ

442 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 22:37:10 0
>主に小規模な小競合いや襲撃、遭遇戦等を
>想定して練られている
誰も一言も無いなんて言ってないなw

443 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 11:29:22 0
根拠が絵巻だけじゃな。
しかもその絵巻だって騎兵突撃じゃないし。

444 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 11:55:36 0
絵巻のは騎兵突撃だろ。
日本軍の騎兵部隊の戦闘にかんする文章表現は「駆け入る」もしくは「駆け散らす」。
敵部隊に突入してるじゃん。

445 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 12:04:39 0
蒙古襲来絵詞に描かれているのはどう見ても追撃で突撃じゃないね。
突撃と追撃は全然違うよ。

446 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 12:05:54 0
上のほうのレスにもあるけど、攻撃=突撃だと思ってるの?

447 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 12:06:35 0
「駆け入る」もしくは「駆け散らす」ってのが突撃じゃないのなら一体何?

448 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 12:15:18 0
そんなの文章の前後から推測するしかないでしょ。
それもせずに「駆け入る」「駆け散らす」=突撃って短絡的に解釈してるの?
そもそも騎馬武者と徒歩の郎党の協同突撃は誰も否定してないし。

>源平の戦いや承久の乱で、何度も万を超える軍勢が動員されているのに、
>それに対応する軍制が無いわけないだろ。
これだって相当に短絡的だよね。

449 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 12:21:12 0
結局、騎兵突撃肯定派の人の根拠って、
蒙古襲来絵詞に書かれてるからってことだけなの?
それじゃあもう「参ったって言わなければ負けない状態」だね。
レスの無駄だよ。

450 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 14:29:22 0
ここまで読んでもよく分からないんですが

とりあえず隊伍を組んで上陸してきた元軍に
鎧武者が騎馬で接近して矢を放つ。ここまではいい。

で突撃派の人はそのまま突っ込んで戦うと考えている?
その場合近接兵器に持ち替えて斬りまくる?
それともある程度距離を維持したまま弓矢?

非突撃派の人によるとどうなるの?
ステップ遊牧民の騎兵のように後から来た連中と
入れ替わりに後退する?
それともやはりある程度距離を維持したまま射撃を続ける?

451 :世界@名無史さん:2007/01/06(土) 16:17:36 0
元軍は概ね三箇所から上陸して橋頭堡の構築は概ね達成
日本軍は各個に独立的に行動しつつ上陸地点を目指して進撃
元軍の内陸侵攻の過程で各侵攻経路上で一連の不期遭遇戦が生起し
両軍にかなりの損害が発生
日本軍は水城に後退して再編成
元軍は内陸侵攻の企図を放棄

452 :世界@名無史さん:2007/01/08(月) 04:25:33 0
スー族 VS カスター将軍

453 :世界@名無史さん:2007/01/09(火) 17:06:30 0
age

454 :世界@名無史さん:2007/01/09(火) 17:07:49 0
age

455 :某研究者:2007/01/10(水) 07:39:07 0
西欧の騎兵では騎馬弓兵には勝てず
モンゴル騎兵の弓もトルコ弓と同様の物だろうが
近接戦闘では重装のトルコの騎兵の方が
強いと言う事かも知れぬが
騎馬武者も重装だろうが
弓は威力不足と言う事かも知れぬが

456 :某研究者:2007/01/10(水) 07:42:32 0
リチャードや
グスタフ・アドルフの騎兵の様に歩兵の支援が有れば
サーベル騎兵や槍騎兵も
弓騎兵に勝てると言う事かも知れぬが
(故に歩兵の支援を受けた重装槍騎兵が
 最強なのかどうかだが)
日本の騎馬武者は歩兵の支援は常に受けているだろうが
トルコやモンゴルはどうなのだろうか

457 :某研究者:2007/01/10(水) 07:48:26 0
歩兵の支援が有る場合は兎も角
騎兵単独ではどうなのかだが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ティムール対トルコでは
アンカラの戦いでは兵数が違う訳だろうし
余り参考とは成らぬかも知れぬし
装備もほぼ同じと言う事だろうか

458 :某研究者:2007/01/10(水) 07:55:42 0
歩兵の支援を受ける場合は
歩兵対歩兵の勝負に成る訳だろうし
16世紀辺りでは砲兵の多い仏やスウェーデン等が
有利と言う事かも知れぬが
15世紀ではトルコの方が砲は多いかも知れぬが
野戦向けの軽量砲は無いので
フス戦争の戦車の様な物が一番
有用かも知れぬが

459 :某研究者:2007/01/10(水) 07:58:26 0
13−14世紀では英のロングボウ兵では無く
トルコやモンゴルの徒歩の弓兵の方が
強いと言う事かも知れぬが
リチャードの様に馬車等を盾にすれば
クロスボウでも対抗可能だった訳だろうか

460 :某研究者:2007/01/10(水) 08:00:11 0
まあしかしローマレギオンや
ギリシャのファランクスの様な物に
弓は何処迄有効なのかだろうし
飛び道具は石や投げ槍が主流だったのは弓が余り
通用しなかったからと言う事では無いのかだが

461 :某研究者:2007/01/10(水) 08:03:56 0
ノルマン・バイキングのシールドウォールと言うのも
弓は可也止まるかも知れぬし
ヘースティングスでは歩兵に対して弓は
殆ど通用しなかったかも知れぬし
盾で騎兵の突撃も止めていた訳だろうが
(まあ後で出て来る
 槍に体重を掛けて突撃するタイプの騎兵は
 盾で止めるのは無理だろうが)
矢を上に放ち盾を上に向けさせた後
騎兵が突撃して勝ったと言う
事だっただろうか

462 :某研究者:2007/01/10(水) 08:06:57 0
スコットランドのシルトロンも
盾は有ったのかどうかだが
左右からロングボウの射撃を受けた為に
盾が役に立たなかったと言う
事だったかも知れぬが
(クレッシーのジェノバのクロスボウ兵も
 盾(パビス)は
 持って居たかも知れぬが
 左右から打たれたので盾が役に立たなかったと言う
 事かも知れぬが)

463 :某研究者:2007/01/10(水) 08:15:23 0
シールド・ウォールは
ノルマン勢力衰退後は
廃れたと言う事かも知れぬが
シルトロンが使われて居た時は
未だ有ったのだろうか
(十字軍歩兵がシールドウォールで
 イスラムの弓を止めたと言う事は
 有ったのかだが
 包囲されて射撃されシールドウォールが
 無効化されると言う事も
 多かったと言う事かも知れぬが)

464 :某研究者:2007/01/10(水) 13:43:32 0
鎌倉時代の日本軍と
十字軍が戦ったら
騎兵隊騎馬武者で戦えば
後者が弓で馬を倒して勝つかも知れぬが
(馬を狙わないと盾で矢を止められる恐れが
 有る訳だろうか)

歩兵対歩兵ではシールドウォールで
矢を止められて
一方的にクロスボウや単弓でやられる恐れも
有るかも知れぬが
発射速度の遅いクロスボウを打つ相手に対して
突撃を掛ければだろうが
接近戦で徒歩武者が別段有利なのか
どうかだが
両手用の重い長巻が主体と言うのは
有利かも知れぬが
(十字軍の場合盾と短槍が
 主体だろうか)

465 :某研究者:2007/01/10(水) 13:47:07 0
十字軍騎士が篭って
シールドウォールで騎馬武者の弓を止め
弓で反撃すると言う方向はどうなのかだが
徒歩武者と騎馬武者が同時に突撃したら
アウトと言う事は
無いのかどうかだが
(騎士の突撃は弓歩兵や騎馬武者に
 阻止され
 シールドウォールは徒歩武者の攻撃で
 崩されると言う事だろうか)

466 :某研究者:2007/01/10(水) 13:49:45 0
塹壕等で歩兵の攻撃を止めればだろうが
相手が攻撃しない限り
何も出来ぬ訳だろうし
此れは16世紀の西欧の塹壕戦の様な
状況にも成り得るだろうか

467 :某研究者:2007/01/10(水) 13:55:55 0
モンゴルやトルコには
シールドウォールは有るのか
どうかだが

468 :世界@名無史さん:2007/01/10(水) 14:11:22 0
話の種提供
1981から1983の間にK谷市H陽中にてS間K里5XXの
7某西山家系太市の子禎孝とその仲間たちは
5弱者にいじめがバレたら親族に危害を与えると脅迫し、
2えたひにんと呼び、遺書や奴隷契約書を書かせ、
3殴る蹴る汚すを繰り返し、金銭も恐喝していた。
2こういう類は親族ともども不幸とは無縁の
7社会的信用を得たお金持ちの生活をしている


469 :世界@名無史さん:2007/01/20(土) 00:46:12 0
山桜に風 2005-05-23 20:04:25 No.163454
--------------------------------------------------------------------------------
佐藤鉄太郎氏は「軍事史学」特集・元寇(第38巻第4号)のP.63でこう述べられています。

【源平の争乱時代から合戦の通常の戦法は騎馬隊が集団で敵陣に突撃する戦法
であり、双方が合意して一騎打ちを申し合わせたというような特別な事情の場
合のみ一騎打ちが行われたのであり、合戦に於いて一騎打ちは通常の戦法では
ない。
『八幡愚童記』に日本の武士達が一騎打ちの戦法をとったと記されているため
に、その記述を真に受けて日本の武士達が蒙古軍に対して一騎打ちの戦法をと
っていたかのように誤解されてしまっているが、日本の武士達は各武士団それ
ぞれが騎馬隊を中心とする一団となって突撃する集団戦の戦法で蒙古軍と闘っ
ている。絵五はそのような日本の武士達の戦法を描いている絵である】
ttp://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=162712&genre=sougou

470 :世界@名無史さん:2007/01/20(土) 01:40:47 0
>>451
単に内陸侵攻の企図を放棄しただけなら、わざわざ真夜中に出港する必要ないよな。
正確な海図もない時代、土地に不慣れな元軍が深夜に外洋に出たりすれば、座礁したりして
大損害を受けるリスクが高いし。
文永の役の元軍は、一刻も早く日本から逃げ帰ろうと必死だったってことだろ。

471 :世界@名無史さん:2007/01/20(土) 13:04:07 0
蒙古襲来絵詞の原文には「馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り」と
なっているから敵の中に突撃したのは間違いないだろう。

この中で「馬も射られずして」という表現があったのは日本の国内戦では
敵の集団に突撃すれば途中で馬を射倒されることがあったことを教えている。

472 :世界@名無史さん:2007/01/20(土) 13:37:55 0
>>445
追撃と突撃は矛盾する概念じゃないんだよ。

歴代戦争において敵軍が浮き足立って後退するところに
突撃を命ずることは全然珍しくない。

逃げる敵を追うんだから追撃になるんだろうが追撃に使う移動形式は
突撃ということになる。

というか逃げ惑う歩兵の群れに騎兵が突撃して蹂躙するのは
近世ヨーロッパでは良く見られた風景なんだがね。


473 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 18:33:14 0
>というか逃げ惑う歩兵の群れに騎兵が突撃して蹂躙するのは
普通はそれを追撃といいます

>追撃に使う移動形式は
>突撃ということになる。
なりません

どーも突撃と追撃を混用されてるようで


474 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 18:41:24 0
突撃は敵の組織的戦闘力の破壊
追撃は組織的戦闘力を喪った敵に対する戦果拡張
前者は敵隊列を崩す衝撃力が、後者は敵を捕捉する機動力が求められます
従ってそのやり方は全く違います
突撃が戦闘力の集中のため緊密な隊形を組むのに対し、
長駆機動しなければならない追撃は主に行進隊形で行われるものです
騎兵が突撃隊形のまま追撃するなんてケースのほうが珍しい
どんな戦例ですか?

475 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 18:48:20 0
>>474
中世の騎馬武者が騎兵突撃にため緊密な隊形を組むことは当時「魚鱗駆け」と呼ばれていました

476 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 20:32:19 0
騎兵突撃と追撃は違いますよ
追撃に密集した隊形を作ることは非論理的です

477 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 21:08:44 0
つーか>>475って答えにも反論にもなってない気が・・・。

478 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 22:13:22 0
話を蒙古襲来絵詞に戻すけど、あそこに書かれている武士団は、追撃ではなく
騎兵突撃をしているところだよ。

「凶徒麁原より鳥飼潟の塩屋の松の下に向け合わせてかせん(合戦)す。一番に
旗指馬を射られて跳ね落とさる。季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、
肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に
上がる。」

白石六郎通泰率いる武士団は、向かい合って合戦している元軍に対して駆けている。
白石六郎通泰の騎兵突撃によって元軍が敗走し、それを日本軍が追撃する様子は、
別の場面として書かれているし。

479 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 22:47:05 0
騎兵突撃を示唆してるとはとても思えないが・・・・

480 :世界@名無史さん:2007/01/22(月) 23:10:29 0
『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて・・・・・・
(『蒙古襲来絵詞』)

『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし・・・・・
(『八幡ノ蒙古記』)

これ突撃してないか?

481 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 00:55:49 0
これだって騎兵突撃を示してるとはとても思えませんね
騎馬武者には徒歩の郎党が随伴していますからね
上位の武士なら騎乗の郎党もしたでしょうが、大半は徒歩です
騎兵突撃と解釈するには無理がありすぎです
蒙古襲来絵詞も八幡蒙古記も戦闘詳報ではありません
字面通り捉えるのは無理がありますね
凶徒の陣を破ったと記されていますが、絵詞の描写は
主防御陣地の前衛部隊を追撃しているとしか見えません

大陸スタイルの騎兵突撃を行うには、封臣軍から騎兵を抽出して
集成して部隊を編成しなければなりません
封建軍隊であったフランク王国や中世西欧諸国には、
動員兵力を兵科単位で集成して部隊を編成することを示した勅令が
現存していますが、鎌倉時代の日本にははそれが行われたことを
示す動員文書は存在しません

482 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:10:33 0
西洋騎士は徒歩の郎党が随伴してても突撃するよ

483 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:13:21 0
徒歩の郎党と混在した状態じゃランスチャージは出来ませんよ

484 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:13:57 0
つーかそもそも薙刀という武器自体が騎兵突撃には向かない得物なわけで

485 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:18:50 0
中世西欧でも大規模な野戦軍が編成されない小競合いや襲撃のような
小規模な戦闘では騎兵突撃はほとんど行われてません
そのような場面では、騎兵と随伴の歩兵による協同突撃が行われています
戦闘は何も大規模な会戦ばかりじゃありませんからね

486 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:23:58 0
竹崎季長は下級武士だが郎党まで全員騎乗していたよ

487 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:26:23 0
郎党の一部が騎乗していたの間違いです
そもそも下級武士が揃えられる程度の人数では騎兵突撃にはなりませんw
それは単なる自殺

488 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:28:06 0
そもそも郎党は当時の書物では員数外ですからねえ
特別な場合を除けばほとんど無視です

489 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 01:35:59 0
書物では無視されているが、騎馬武者には必ず徒歩の郎党が随伴した・・・
なんてことを何を根拠に言ってるの?

490 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 04:48:21 0
西洋騎士は徒歩の郎党が随伴していても突撃することは明確であって
日本の武士が徒歩の郎党が随伴を理由に突撃を否定するなど戯言にすぎない。

491 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 06:07:03 0
誰も突撃してないとは一言も言ってないぞ。
つまらん揚げ足取りだな。

492 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 16:54:28 0
蒙古襲来絵詞では、郎党は員数外の扱いになっていない。
普通に騎乗して戦闘に参加しているし、その負傷は恩賞請求の際に報告の対象になっている。

「旗指の馬、同じき乗り馬を射殺され、季長・三井三郎・若党一人、三騎痛手を蒙り、
肥後国の白石六郎通泰、証人に立て候て・・・」

「親類野中太郎長季・郎従藤源太資光、痛手を蒙り、乗馬二疋射殺されし証人に、
豊後国御家人橋詰兵衛次郎を立つ」

蒙古襲来絵詞は、鎌倉まで共をした中間の名前まで書き込まれている史料だぞ。
何で徒歩の郎党だけ無視しなけりゃいかんのよ?

歴史上の出来事なんて、史料に書かれていることから推測するしかないよな。
史料に書かれていない存在が、戦場で必ず随伴していたなんて、断言できる根拠は何だよ?
史料に書かれている騎兵突撃を、史料に書かれていない存在を持ち出して否定するなんて、
ありなのか?

493 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 21:33:59 0
たった騎兵3名で騎兵突撃?

494 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 21:39:55 0
つーか、騎兵突撃の根拠って絵巻だけ?

495 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 21:44:01 0
なかった根拠は妄想だけ

496 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 21:49:54 0
騎兵突撃を示唆する史料が存在しないだけなんですけどね(苦笑
騎兵単一兵科による突撃が慣用的に行われていたことを示す動員文書とか
軍令書とか示して貰えれば有難いんですが
挙句に突撃と追撃が同じと強弁されても困ります
上のほうで主張してる蒙古襲来絵詞の絵は騎射で騎兵突撃じゃありませんし

497 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 22:01:01 0
そもそも中央集権軍や後の絶対主義軍に比べて相対的に軍事大権が弱体で不安定な封建軍において、
従軍する成員の動員範囲を越えた戦闘編成を行うことには先天的に困難が付きまといます
このため、例えばフランク王国では封主の陪臣に対する軍事大権を保証する勅令が幾つも残っています
一方で、鎌倉時代の日本には、御家人が自弁で準備した編組を解体し、
新たに兵科単位で編成し直すことを示す史料が見当たりません
また、明文化されてなくても慣用的に行われていたことを示唆する史料もありません
また、当時の日本の戦術的環境では、騎兵突撃を行う必然性も妥当性も存在しません

498 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 23:41:56 0
ところで竹崎季長の騎兵突撃って何騎で行ったの?

499 :世界@名無史さん:2007/01/24(水) 01:39:19 0
単一兵科の問題と突撃の問題は分けて語らんといかん

500 :世界@名無史さん:2007/01/24(水) 07:45:33 0
中世の合戦にかんする史料自体が少ないんだよ。
だから、この時代の合戦を考察するには、大抵の場合は軍記物なんかに頼るしかない。
でも、そうした史料の多くは制作者が不明だったり、成立時期が合戦から歳月の経過したもの
だったりと問題が多い。
その点、蒙古襲来絵詞は実際に戦った武士が監修しており信頼度は随一。
蒙古襲来絵詞に騎兵突撃が描かれている以上、それを否定できる信頼度の高い史料でも無い限り、
騎兵突撃はあったと考えるしかない。
>>496-497が当時の合戦をどのようにイメージしているのかは知らんが、そんなの単なる妄想で
裏付けとなる史料なんか何一つ提示してないだろ。

501 :世界@名無史さん:2007/01/24(水) 10:07:02 0
>>496-497
>>480が書いてる八幡ノ蒙古記の『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし・・・・・』
については、どう考えてるの?
菊池次郎の部隊は、蒙古襲来絵詞でも同じく百余騎。
>>492に書いてあるように、蒙古襲来絵詞では郎党も員数外ではない。
これって騎兵単一兵科による突撃だろ?

502 :世界@名無史さん:2007/01/24(水) 21:39:52 0
無いものを証明しろなんていわれても困りますね
悪魔の証明って奴です

503 :世界@名無史さん:2007/01/25(木) 16:54:34 0
>>502
八幡ノ蒙古記に書かれている菊池次郎の騎兵突撃について、「徒歩の郎党の随伴」を理由に否定したんだよな?
蒙古襲来絵詞には描かれていないが、竹崎季長にも「徒歩の郎党の随伴」があったんだろ?
“あった”と書いた菊池次郎や竹崎季長への「徒歩の郎党の随伴」を証明すればいいだけじゃん

504 :こここっこ ◆TJ9qoWuqvA :2007/01/25(木) 23:28:27 0
2007年3月3日公開の超大作「蒼き狼 地果て海尽きるまで」大迫力の戦闘シーン
ttp://streaming.yahoo.co.jp/c/y/mov/00011/0001100004/

映画をネタにするのもなんだが、ここでモンゴルの騎兵が騎射の後、抜刀して突撃している。

『蒙古襲来絵詞』
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm
ここの右寄りの騎馬武者集団も騎射の後、抜刀して突撃すると考えたほうが自然じゃないか。
>>480の文献と照合して考え合わせて。

505 :世界@名無史さん:2007/01/26(金) 09:28:18 0
>>504
鎧が安っぽいな・・・
というかモンゴルや元の小札鎧の肩のパーツってあんなローマの鎧みたいのじゃなく
こういう上腕部を覆うような感じだったと思う
ttp://www.tgorod.ru/contentimage/shpak/shpak_mongol.jpg

加藤和秀って人がティムールの戦争について書いてたけど
ステップ遊牧民同士の戦争ではああいう両サイドが一度にぶつかっていく感じではなく
右翼・左翼・中央に分かれて、通常右翼が敵左翼に猛攻を加え、左翼は敵右翼の攻撃を
持ちこたえる役割だとか(馬上からの射撃が右側にやりにくいことと関係してるらしい)。
で、敵左翼がつぶれると自軍中央と共に敵の本陣がある中央を攻撃するんだろう。
(アンカラの戦いではティムール軍左翼が先に攻撃してた気もするが・・・)

506 :世界@名無史さん:2007/01/27(土) 00:35:41 0
>>504
抜刀して騎兵突撃してる絵ある?


507 :世界@名無史さん:2007/01/27(土) 22:10:47 0
史料が少ないからといって公文書が一件も残っていないと主張するのは余りに不自然

508 :世界@名無史さん:2007/01/27(土) 22:34:34 0
つーかそれ以前の問題でしょ
絵巻一つで全ての矛盾を無視してんだからw
件の絵巻だってどこまで信用していいものか
絵巻の内容鵜呑みにすると戦場の日本軍の大半は騎兵ってことになっちゃって、
極東の島国に遊牧民族に匹敵する騎兵軍が存在したことになるんですけど
あれ、後に修正や改竄(好意的に言えば編集w)が行われたって説もあるし
グスタフ・アドフルのサーベル騎兵みたいな射撃即突撃移行なんて荒業が自然というのも初耳
詳細キボンヌ

509 :世界@名無史さん:2007/01/27(土) 23:42:12 0
モンゴルの騎兵は騎射して突撃移行しないの?

510 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 07:57:36 0
しないお
少なくとも慣用じゃないお

511 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 09:29:56 0
追撃とかなら馬上で弓を射てから抜刀して接近ってのはあるけど
歩兵方陣に向かっての突撃じゃ自殺行為でしょ。
突撃のための隊形を組む時間も距離も不足してるし。

512 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 09:31:54 0
ヨーロッパの抜刀騎兵の突撃も最初のピストル射撃は景気づけみたいなもんだし。
しかも射撃するのは前列だけ。
後列が射ったら前の列の味方の後頭に当たっちゃう。

513 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 14:45:53 0
>>509
モンゴル騎兵が突撃するのは、騎射で敵を混乱させた後のとどめの時

514 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 16:55:56 0
モンゴルにも白兵戦用の重騎兵いたしね?

515 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 23:36:17 0
最近の研究ではモンゴル兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。
あのような小さな馬でトコトコ突撃する姿を想像できるだろうか?
ポニーサイズの馬は乗り物に過ぎないのだ。
刀は殆ど使われなかった。精々首取り用に使われた程度。
揺れる馬上では射程2百メートルを誇る蒙古弓を正確に命中させることは出来ない。
現実では、弓は下馬して射撃したと考えられる。

516 :世界@名無史さん:2007/01/29(月) 05:35:45 O
下馬して戦うほうが不自然だよ。

今でもモンゴルでは騎射競技が行われているが、これは何のための訓練だよ。
何のための短弓で、何のための退却戦法だ。

517 :世界@名無史さん:2007/01/29(月) 11:54:40 0
ゆれる馬上で正確に弓を射れるから強いんじゃないの?

518 :世界@名無史さん:2007/01/29(月) 18:00:43 0
矢を大量に使うから不正確でも問題ないよ
数撃てば当たるし

519 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 09:59:12 0
John Masson smith Jr.の"Mongol Society and Military in the Middle East"で
モンゴルの騎射戦術をルブルクの記述などを元に再構成してますが、こんな感じですね
(日本語訳は面倒なのでパス)

As I see it, successive waves of archers charged the enemy at the gallop, and shot from
40-50 yards distance, just close enough to pierce armor, but far enough away to evade a
counter-charge; they then turned away, retired, turned back and charged again. As the
attackers turned and rode away, the powerful urge to pursue fleeing foes might indeed
provoke the enemy to counter-charge; the "fleeing" Mongols then let their pursuers come
close enough for the point-blank, armor-piercing, so-called "Parthian" shot. I suggest that
"hit-and-run," for a Mongol unit of Hundred, with 80 men participating in four waves of 20
men each (assuming that 20 men of the Hundred wore armor and did not attack), meant
hitting--or at least shooting at--the enemy with 20 potentially armor-piercing arrows
every ten seconds in an assault lasting about four minutes. At this rate of activity, a
Mongol soldier, equipped with 60 arrows and five ponies, could sustain active combat for
about 45 minutes: he expended five arrows in four minutes, and his ponies probably needed
to be changed after eight to ten minutes of fast action (judging by the comparable performance
of polo ponies). Assuming that half of the units of a Hundred in any larger formation (Thousands
or Ten Thousands) were in action at a time, so as to maintain steady pressure on the enemy
while some inits reloaded and remounted, a Mongol attack could be kept up for around an
hour and an half. The enemy, the Mongols hoped, would be unable either to retaliate against
this bombardment or to resist its punishment for long.

520 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 10:29:31 0
>>511
普通に突撃隊形とってるように見える

521 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 16:49:23 0
モンゴル最大の祭典ナーダムの祭りで行われる弓の競技は騎射ではなく
下馬した弓手による競技である。
これはモンゴルは主に騎射ではなく、下馬して戦っていた証拠である。
最近の研究ではモンゴル於ける騎射とは、追撃や逃走の際の補助的戦法に過ぎないことが判明している。

522 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 20:37:27 0
騎射よりも馬を停めたり下馬して射撃したほうが有利だから、
そう出来る場合はそうしたことは間違いないだろうな
フランクの弓騎兵なんかは騎射はやってないし

>>520
ど こ が ?

523 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 23:04:38 0
> 最近の研究ではモンゴル兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。
下馬して戦うこと「も」あった、の間違いでは。

モンゴル高原周辺に展開していた遊牧諸部族出身の純粋な騎馬軍団の兵士ならば
騎乗での戦闘は、最初は弓矢やはじまりやがて槍、太刀&鎚矛と手持ちの武器を
敵との距離と用途に応じて段階的に代えていたようだ。
プラノ=カルピニのジョヴァンニ修道士の報告にしても騎乗戦闘を前提に闘って
いたような書き方をしていたと記憶しているが・・

『集史』あたりに記録に残るモンゴルなどの遊牧騎馬軍団同士の戦闘の場合、
双方ある程度弓矢を撃ち尽したら槍で突撃したり、近接戦闘になったら刀や鎚矛で
戦っている。乱戦になっても矢は数本必ず残していたようで、撤退などで殿軍が
友軍の退路を確保するため前線を死守する場合など、「騎馬兵は馬を降りて馬匹を
盾にし、敵軍に矢を浴びせ付けてこれを守った」みたいな記述が見られる。

有名なチャガタイ家のバラクがイルハン朝のアバカに惨敗したヘラート近郊の
カラスウ河畔の戦いで、退却時に落馬したバラクが、敗走する自軍のアミール
たちに向かって、自ら名乗って代わりの馬をよこすように叫ぶ場面がある。
友軍兵士は退却に夢中で、一人の兵卒が気付いて自らの馬を明け渡すまで、
周囲は彼の言葉をほとんど聞き流し状態だったようで、ここでも声の届きの
悪さを考えると、兵の殆どは騎乗していたのではないかと思わせる。


524 :世界@名無史さん:2007/01/30(火) 23:18:53 0
また、アバカの計略にはまったバラク軍が動揺しつつも戦闘準備しているが、
劣勢を挽回しようと「(アバカの軍の)左翼を騎兵で攻撃」したことも書かれてある。
「兵士」や「男たち」ではなくて「騎兵(サヴァール)」と書かれていることは
重要な点だと思う。また、戦闘中に両軍の間にわざわざ椅子に座って友軍を激した
イルハン朝軍の老将スニタイ・ノヤンの話しも載るので、状況的に考えれば、
恐らくはじめから両軍騎馬することを前提に戦闘してしていたと考えるのが
自然では無いだろうか。

攻城戦ではさすがに下馬して弓矢を撃つ場合も多かったようだが。撤退時に
追撃してくる敵軍に対していわゆる「パルティアンショット」で迎撃などしていた
らしいことは、絵画資料からも伺える。
この時、追手側は追い付くと槍で突いたり、刀や鎚矛で攻撃していたらしい。

>>519
ルブルクもプラノ・カルピニも護雅夫先生の邦訳が有るからちょっと調べてみようか。

>>521 最近の研究では
日本や西洋みたいに騎馬武者or騎士に従者や歩兵が随伴する形式なら下馬しても
戦闘にあまり支障は無いだろうけど、純粋に騎馬戦力だけでも双方1〜5万なんて
数がざらなテュルク・モンゴル系の遊牧民の戦闘で、合戦時にいちいち下馬して
いたら馬の置き場が無くてあきらかに邪魔になると思うんだけど・・

情報のもとはどこの誰の論文?

525 :世界@名無史さん:2007/01/31(水) 01:28:01 0
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4883178323/ref=dp_image_text_0/503-2161555-7797510?ie=UTF8&n=465392&s=books
下馬だな

526 :世界@名無史さん:2007/01/31(水) 04:36:45 0
いやそれ「現代の欧米」の人間が描いた、ただの「想像図」だから。
それにそのシリーズのイラストレーター、バーブルの想像図を現存する肖像と
あまりに懸け離れた顔で描いた前歴が有るからいまいちアジア関係の再現イラストの
出来はあてにならないんだよね・・

例に出すならせめて↓このくらいのレベルのモンゴル系の政権が直接関わっていそうな
同時代性のある資料は欲しいところ。

・トルコ・イスタンブールのトプカプ・サライ博物館所蔵の資料(博物館のサイトの画像)
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im9.jpg
『集史』「イスラム諸王朝史・預言者ムハンマドおよび歴代カリフ伝」部分の
バドルの戦いの場面。いわゆる「当世風」の挿絵。写本はイルハン朝末期、
オルジェイトゥ時代後半かアブー・サイード時代にかけてのもの。

ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im9.jpg
タブリーズ派の絵師による『王書』の一場面。いわゆる「サライ・アルバム」と呼ばれる
作品群の一部。イーラーンとトゥーラーンの軍勢との合戦で、場面で両方の将軍が一騎討ち
している場面らしい。14世紀後半、ジャライル朝時代。

ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im20.jpg
同じく「サライ・アルバム」収録の『王書』の一場面。イーラーンのマヌーチフル王が
トゥーラーンの軍勢を撃ち破っている場面らしい。これも14世紀後半、ジャライル朝時代。
上記の『王書』と同じタブリーズ派の工房が手掛けたと思われる。

527 :世界@名無史さん:2007/01/31(水) 09:45:47 0
>それにそのシリーズのイラストレーター、バーブルの想像図を現存する肖像と
>あまりに懸け離れた顔で描いた前歴が有るから

それは本文を書いてるデヴィッド・ニコルの責任だと思う。
アンガス・マクブライドが自分で史料を漁ってるのでなく指示通りに描いてるだけ。

528 :世界@名無史さん:2007/01/31(水) 15:22:37 0
気鋭の研究者・鈴木眞哉氏の研究でポニーサイズの馬での騎馬突撃は無理な事が判ってきました。
蒙古馬はポニーサイズであり、モンゴルのポニー軍団では騎馬突撃は無理という結論に達します。

529 :世界@名無史さん:2007/01/31(水) 15:25:02 0
何時までもモンゴルの騎馬突撃という「古典的通説」を盲信するのは愚か者の証と言えます。

530 :世界@名無史さん:2007/02/01(木) 00:31:33 0
>527
イラストレーターに責任を負わせるのは酷にしても、資料としてその想像図を
参考にするのはやはり無理っぽいということにはなりそう。

> 鈴木眞哉
モンゴル学会や東洋史関係の雑誌ではあまり聞いた事が無いような・・
ポニーといっても種類は色々あるし、文献学的な調査とか、モンゴル時代の
墳墓から発掘された軍馬の骨とかもちゃんと参考にしているのだろうか?
検索かけると論述の仕方に問題があってあまり評判が良くない人みたいだけど。

531 :世界@名無史さん:2007/02/01(木) 02:22:13 0
ニコルとマクブライドのコンビは未邦訳のThe Age of Tamerlaneではティムールを描いてたけど
ソ連の学者の頭部復元図みたいな顔だったな。

532 :世界@名無史さん:2007/02/01(木) 16:56:41 0
>>508
実際モンゴル軍には勝ったわけだし、極東の島国に遊牧民族に匹敵する騎兵軍が存在した
という認識で問題無いのでは?
八幡愚童訓とかでも、歩騎混合編成の部隊の場合は、ちゃんと区別して書いてるし。

533 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 16:29:12 O
笑わすな

534 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 17:21:28 0
刀にそりがついたのは騎馬で駆け抜ける際に振るい易いようにしたためではなかったか。
単に騎乗で刀を振るうだけでは反りは生まれてこないような。

535 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 19:12:17 0
直刀を使う騎兵も珍しくないが

536 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 19:45:42 0
サーサーン朝は直剣だったみたいだけど、同じ時期のソグドは刀身がえらく長い細刃の
直刀を使っていたみたい。アラブは良く分らないが現存するアッバース朝時代あたりの
ものをみると全て両刃の直剣。サイズからして多分サーサーン朝あたりの意匠を受継いで
いる印象がある。

突厥はどうだったか忘れたが、10世紀頃のハザルの墳墓から発掘された武具には、全身
くさび帷子に刃渡り100cmくらいあるかなり反りの入った太刀が含まれていた。
セルジューク朝もよくわからないが、モンゴルは発掘されてものも写本などの挿絵からも
反りの入った太刀を持っていた事が分かっている。

日本の刀も大陸の遊牧民の刀も、だいたい同じ時期くらいに「鎬」が入った刀を使うように
なっている感じがする。


537 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 20:01:05 0
モンゴル騎兵を破ったシリア騎兵が最強

538 :世界@名無史さん:2007/02/02(金) 20:02:10 0
大体モンゴル騎兵は鉄砲を持っていたかもしれないから反則負け

539 : あだち:2007/02/02(金) 20:07:09 0

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540 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 00:15:56 0
> シリア騎兵
?耳なれない単語だが、普通は「マムルーク」と言うと思うが・・・

バイバルスにしろ先代のクトゥズにしろ、マムルーク軍団の騎兵は
エジプトやシリアなどマムルーク朝統治下の各地に食邑を持っていたから
兵員の根拠地はシリア限定では無い。だから「シリア騎兵」というのは
表現として誤り。

アイン・ジャールートの戦いにしろマムルーク朝軍とイルハン朝の戦いは
だいたい装備は同じだったようだが、大抵の場合イルハン朝軍が寡勢が殆どで、
対してマムルーク朝側が騎兵だけで1〜数倍+歩兵が数千。しかもアイン・
ジャールート以降はイルハン朝側はおおよそ防戦状態。両軍とも敵からの
攻勢にはよく耐えていたが、要はずっと決定打が無いまま膠着状態だった。
あまり両者に最強がどうだの言うのは意味が無さそう。

> 鉄砲
『ナースィル史記』や『世界征服者史』、『集史』や『元史』でも
当時の記録からモンゴル帝国の騎馬兵が火砲、火器を使用していた
ような記事はお目にかかった事が無い。どこからの情報だろうか?

541 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 07:13:22 0
>>540
元寇の絵巻にでてくる花火のことでは?

542 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 09:20:09 O
ありゃ鉄砲には見えないぞ

543 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 22:31:54 0
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝が原始的な銃器を使ったらしい。
モンゴル軍の馬を驚かせる撹乱効果ぐらいしかなかったらしいが。

そういやマムルーク朝には「花火騎兵」というのもあったなw

544 :世界@名無史さん:2007/02/04(日) 00:28:08 0
モンゴル?

545 :世界@名無史さん:2007/02/06(火) 04:18:26 0
>>506
春日権現験記絵の朝廷軍と興福寺の僧兵の戦闘場面に、弓を左脇に抱えながら抜刀する
騎馬武者の姿が描かれている。
この「弓を脇に挟みながら抜刀突撃」ってのは、源平盛衰記の木曾軍と勅使河原軍の合戦でも

『弓をば脇に挟み、太刀の峰打つるべて、勅使河原余すなとて、蜘蛛手十文字、縦様横様
切り廻りければ、三百余騎の大勢も、五十余騎にに駆け立てられて、馬の足立つる隙こそ
なかりけれ』

みたいな感じて登場する。

546 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 03:02:17 0
>>528
>気鋭の研究者・鈴木眞哉氏
わろすわろす

547 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 15:39:28 0
歴史研究の最先端を行く鈴木眞哉氏の主張を否定する守旧派は思考停止の馬鹿。

548 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 16:37:15 0
ポニーサイズの馬に乗ったモンゴル兵の戦闘方法は下馬によるとしか考えられません。
その証拠にモンゴル相撲は下馬での格闘術です。もしも、モンゴル兵が騎乗での戦闘を主としていたなら
モンゴル相撲は騎乗スタイルで行われていたでしょう。
更に、モンゴル民族最大の祭典であるナーダム祭での弓の競技は下馬で行われます。モンゴル兵が主に
下馬で射撃をしていた証拠です。
同じくナーダム祭で長距離の競馬が行われますが、この時途中で弓を射る事も無く、何らかの形で格闘術が行われる事もありません。
モンゴル兵が馬に乗るのは、単に移動の手段だったという事です。

549 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 16:56:21 0
だいたい、馬乗って弓を射たって振動で正確に射れないし、馬の首が邪魔で剣を振るいにくい。
どんな武器でも両足をしっかり地面につけて両手で扱ったほうが強力だ。
モンゴル兵が乗馬戦闘したなんて妄想レベルの有り得ない話だな。

550 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 17:03:07 0
まあ、議論を見てるとモンゴル兵は騎乗戦闘は無かったという考え方
が優勢に見えるな。最近ではこれが定説となってきたようだ。

551 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 22:55:54 0
ポニーサイズのお馬さんで鎌倉武士は騎乗戦闘したので
ポニーサイズだから無理ってのはないんじゃね?

552 :世界@名無史さん:2007/02/10(土) 23:23:15 0
いまだにモンゴル騎乗戦闘の神話を信じてる奴がいるんだなwwwwwwww
神話は神話として楽しもう!!!!!!!!!!

553 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 00:25:40 0
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im9.jpg
これとか
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im17.jpg
こういうのは証拠にはならないのか?

>>549
そんなことを言い出したら、近代の欧州や日本陸軍の騎兵がサーベル持って戦っていたことも
妄想になると思うんだが。

それに騎馬兵が騎乗して弓矢を撃っていたのは別にモンゴル帝国の騎馬兵だけじゃ無くて、
前近代の中央アジアからイランのテュルク系の遊牧民の騎兵はどこでも同じ事をしていたし、
マムルーク朝やオスマン朝の騎馬兵(ファーリス、スィパーヒー)も騎射や槍での突撃、
騎乗しての刀剣や鎚矛での戦闘の訓練を積んでいた。その訓練として推奨されいたひとつが、
ポロ(ペルシア語でチューガーン)で、これはイラン系やテュルク系を問わず、騎馬部隊が
主戦力として戦われていたところはどこでも愛好されていた。文学作品でもチューガーンは
王侯貴族の嗜みとして良く登場する。

その鈴木眞哉なるのことは全く知らないが、13世紀半ばにグユクの宮廷を訪れたプラノ・
カルピニの報告だと、モンゴルの騎兵はよく落馬するが、すぐに体制を立て直して馬等を
盾にしながら馬上と変わらず盛んに敵に弓矢を浴びせるなどと証言しているし、モンゴルの
相撲は、日本の武芸と同じく「落馬させた」相手を組み伏せる技術なので、
「モンゴル兵が騎乗での戦闘を主としていたならモンゴル相撲は騎乗スタイルで行われていたでしょう。」
という意見は的外れ。そもそも「騎乗スタイル」の相撲って何?

ポニーサイズってどこかのスレであったけど、サラブレッドみたいなのは戦闘には全く向かなくて、
むしろ日本の在来種とかモウコノウマみたいなサイズの方が適しているって無かったっけ?

554 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 01:18:31 0
騎乗戦闘がなかったと言い張ってる人はおそらく鈴木アンチなのだろう。

555 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 01:59:49 0
>>553
>そもそも「騎乗スタイル」の相撲って何?
騎乗格闘術

本当に騎乗での戦闘が主ならモンゴルで騎乗格闘術が発達しただろう。
しかしそのようなものは無く、あるのは下馬で行われるモンゴル相撲のみ。

騎乗格闘術の他に騎乗槍術や騎乗剣術も未発達。
もし騎乗での戦闘が主ならこれらが発達していなければ道理に適わない。


556 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 02:07:38 0
モンゴル兵騎乗戦闘肯定論者は
モンゴルでの騎乗格闘術・騎乗槍術・騎乗剣術を提示しないと説得力がない。

557 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 02:28:54 0
中東方面の大型馬を使う地域なら騎乗戦闘は可能だが
ポニー並みのモンゴルでは極めて困難と言わざるを得ない。
精々逃走時のパルティアンショットに限られるだろう。

558 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 02:34:19 0
>>553
その絵は当のモンゴルに残るものではないので証拠にはならない。

559 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 03:53:23 0
とりあえずハッピーな妄想は聞くに耐えないので、マナスとかバーブル・ナーマとか
カーブース・ナーマとかシャー・ナーマとかエルデニイン・トブチとか色々あるから
それらをまずひとつでも読んでからにしてくれ。

>>553
上は『集史』「カリフ伝」のイラスト。イルハン朝末期のタブリーズ派の絵で、
ばりばりモンゴル政権の御用絵師の描いたもの。
下はジャライル朝時代に描かれたシャー・ナーマのイラスト。ジャライル朝は
イルハン朝麾下の中核部族集団が建てた政権。これもモンゴル系の政権で、
「当のモンゴルに残るものではないので証拠にはならない。」という反駁は
意味不明。

> モンゴルでの騎乗格闘術・騎乗槍術・騎乗剣術を提示しないと
そんな現代の感覚で格闘術とか言うものが近代以前にあったか疑問だが、戦闘直前に
モンゴルの騎兵が下馬して戦ったとかいう話しは西方でも東方の資料でも聞いた事が
ない。なぜわざわざ騎乗戦闘を否定したがるのか全く理解出来ない。

むしろ、そちらがモンゴルの騎馬兵が戦闘が有る都度に下馬して闘っていた、
或いは戦場まで騎馬で移動した後、一旦下馬して闘うスタイルがモンゴル騎兵には
一般的だったという記録なりの証拠があるなら、その方を明示すべき。

560 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 03:54:21 0
何でこんな意味不明な釣りが湧くのか・・・

561 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 04:58:02 0
結局、さも証拠のように出してくる物は全て中東等の他地域のものばかり。
モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した
連中が残した記録であって、純粋なポニーサイズのモンゴル馬を維持し続けた
連中が残した記録ではないのだ。
従って、非モンゴル地域の記録は、たとえモンゴル系政権であってもモンゴル
兵騎乗戦闘論の証拠として採用することはできない。
モンゴル兵騎乗戦闘の信憑性のある証拠が何も存在しないかぎり、ポニーサイ
ズの馬に乗ったモンゴル兵の騎乗戦闘は理論的に無かったと見るのが妥当であろう。

562 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 05:14:32 0
ポニーサイズの馬で騎乗戦闘が不可能な事はNHKが実験を行い証明している。
実験では分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばって
しまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310
メートル、はるかに劣っていると言わざるを得ない。

563 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 09:27:33 0
>騎乗格闘術 騎乗槍術

俺の知っている例ではキルギスの「マナス」叙事詩で
主人公と女武者サイカルの一騎打ちの場面で出てくる。

564 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 15:05:22 0
そもそもポニーサイズという基準が漠然的。
有名なファラベラみたいに体高70cmのものから軍馬として有名だった木曽馬みたいに
体高130cm強まで色々いる。モンゴル高原在来種のモウコノウマも体高120〜140cm
ほどであり、体格も木曽馬等の日本の在来種と遜色ない。

チンギス・カンによる統一以前の群雄割拠時代やモンゴル帝国の遠征などで「馬を太らせる」
記事は『元朝秘史』でも『集史』でも『蒙韃備録』その他漢籍や欧州からの旅行者たちが
言及している。わずか数cmの体格の違いが決定的であったとは思えない。

中東の当時の軍馬が大型種というがその根拠は?

いわゆるアラブ種とよばれる馬種も体高150cm前後と、モウコノウマなどとそんなに
大きく違う訳では無い。アラビア半島で飼育されて来た馬はもともとイラン高原のファールス地方
あたりから移入されたものだったそうで、その歴史はサーサーン朝がアラビア半島内陸まで覇権を
拡大した3〜6世紀頃まで遡ると言われている。正統カリフ時代に始まるアラブ征服の原動力は、
当時アラビア半島の各々の部族で飼育されたものやイラク地方で馬群を大量飼育されていた
サーサーン朝の系統の馬だった。

突厥墳墓やモンゴル時代の墳墓に馬も埋葬されている例がよくあるそうだが、特に大きく体型が
違っていたという話しも聞いた事が無い。概してモンゴル高原周辺の在来種はやや小柄だが
中東以南のアラブ種をはじめとする馬種よりも頑健で忍耐強いと聞く。

そのNHKが実験を行ったと称するが、軍馬として調教された物かも分らない例をあげ、
しかも現役の軍馬が活躍していた時代である戦前のデータと比較するのは公正に大きく欠ける。
そもそもモンゴル高原の在来馬だとも説明していないようだが、おなじ比較をするなら現在の
木曽馬とかユーラシア全般の軍馬だったものともすべきだろう。そのNHKの実験とやらも
いつ、どこでやったか説明が無いので判断しようが無いが。

565 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 15:34:21 0
> さも証拠のように出してくる物は全て中東等の他地域のものばかり
エルデニイン・トブチや元朝秘史はモンゴル高原のほうの情報だけどね。

> モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した
> 連中が残した記録であって、
それだとモンゴル帝国軍の騎馬軍団が西遼やホラズムシャー朝の騎馬軍団と中央アジアや
アフガニスタンで熾烈な戦闘を繰り返していたことを伝える南宋やモースルのイブン・
アル=アスィールの年代記、プラノ=カルピニあたりの記録の説明がつかない。

> モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した
> 連中が残した記録であって、純粋なポニーサイズのモンゴル馬を維持し続けた
> 連中が残した記録ではないのだ。
これもマムルーク朝あたりやイブン・バットゥータあたりの記録を見ても、馬の大きさに
ついては特にイルハン朝やジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルスで違いがあったとも聞かないし、
ジュワイニーあたりにしても、モンゴル帝国が拡大する件で西方のその「大型馬」を入手した
という記録があるとも聞かない。もしモンゴル高原在来種と西方の種類で決定的な違いが有り、
それが意識されたならばその旨記録が残るはずだ。軍事的な問題は政権側の死活問題だから。

『元朝秘史』にはチンギスたちモンゴル部族の人々に対してナイマンの王あたりが「匂い」が
どうだのチンギスも「森の王」だのと田舎者扱いされて馬鹿にされているが、ホラズムなどで
西方の遠征で馬が劣っていると問題にされたような話しは記憶に無い。むしろ頑健で手強いと
いう話しなら聞いたような覚えがあるが・・

566 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 18:08:38 0
中東から中央アジアにかけての西方大型馬のモンゴル馬に対する優越性を無理矢理否定したい奴がいるようだ。
それではなぜ漢の武帝はわざわざ李広利を大宛に遠征させ汗血馬を入手したのか?
その理由は明らかで、西方大型馬がモンゴル馬に優越しており軍事的に有用だったからだ。
また馬の歴史で最高の走力を誇るサラブレットの起源も中東のアラブ種だ。

567 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 18:10:51 0
>>563
>キルギス
中央アジアはモンゴルじゃないんだな。

568 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 18:27:41 0
>>564
「馬を太らせる」 がなぜモンゴル兵騎乗戦闘の根拠になるのか?
長期間の遠征に際し餌を十分に得られない事態に備えて太らせただけだろう。
それは馬が移動の手段であったことの根拠になるだけで、モンゴル兵が騎乗して戦闘
を行った根拠にはならない。

569 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 18:47:50 0
実はモンゴル帝国の戦闘の多くは攻城戦であり、野戦の比率は小さい。
馬に乗って攻城兵器を扱うのだろうか? 馬に乗って城壁を越えるのだろうか?
答えは否である。攻城戦で騎馬戦術は役には立たない。
攻城戦が多かった事を考えると、実際のところ戦いの殆どで彼らは下馬して戦っていたのだ。

570 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 22:13:54 0
> 実はモンゴル帝国の戦闘の多くは攻城戦であり、野戦の比率は小さい。
資料的根拠は?

571 :世界@名無史さん:2007/02/11(日) 23:42:22 0
自分で南宋攻略戦でもホラズム攻略戦でもロシア方面でもサンプルにして調べてみれば。
まあステップ地帯を除けば攻城戦が多くなるだろうけどね。

572 :世界@名無史さん:2007/02/12(月) 13:14:26 0
> 自分で
いや、そんなのは東洋文庫の『モンゴル帝国史』があるから、そっから原資料あたるのは
難しくはないんだが・・・

> 南宋攻略戦でもホラズム攻略戦でもロシア方面でも
いまいちよく分らんのだが、一昨日あたりから見られる>>548-551,>>561-562,>>566,
>>568-569のモンゴル帝国の騎馬兵は騎乗戦闘が出来なかったって主張しているのの根拠は、
モンゴル帝国の戦争の記録の多くが都市攻略の話しで占められていたから、モンゴルの騎馬兵は
馬上戦闘は「出来なかった/(もともと技術的に)不可能だった」ってこと?

攻城戦で「下馬して戦う事もある」ってことと、「下馬して戦う=騎乗戦闘などもともと出来なかった」
と主張することでは言っている事の意味が全然違うが・・・

573 :世界@名無史さん:2007/02/13(火) 01:22:13 0
>だいたい、馬乗って弓を射たって振動で正確に射れないし、馬の首が邪魔で剣を振るいにくい。
>どんな武器でも両足をしっかり地面につけて両手で扱ったほうが強力だ。

>中東方面の大型馬を使う地域なら騎乗戦闘は可能だが
>ポニー並みのモンゴルでは極めて困難と言わざるを得ない。
>精々逃走時のパルティアンショットに限られるだろう。

この二つの主張はどう両立するんだろう。同一人のレスだと思うが。

まあ多分鈴木信者を装ったアンチって所だろうが。

574 :世界@名無史さん:2007/02/13(火) 15:46:07 0
やたらとポニー並みの馬だから戦闘に使えないって言う人がいるけど、ポニー
というと大抵の日本人はシェトランドポニーのような小さな馬だけを思い浮か
べる。でもこれは間違っていて、実際は体高147cm程度の比較的大きな馬も含ま
れる。ポニー並みの馬だから戦闘に使えないって言う人はこうした間違った印
象を利用していて悪質だと思う。

575 :世界@名無史さん:2007/02/13(火) 20:58:46 0
その頃のモンゴル人の身長って156センチくらいで、
今で言うと小柄な女の子ぐらいじゃないの?

150センチ位の馬に乗って戦うの可能じゃない?

576 :世界@名無史さん:2007/02/17(土) 02:20:14 0
>>567
モンゴルだと「蒙古源流」や「ゲセル」
あとオイラートの「ジャンガル」に馬に乗って弓や剣、槍で戦う場面がある。

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