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【否定してみよ】他−他の構造〜観念論からの解脱

1 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/09(木) 22:58:32
緊張が、まずなければならない。
それは、配置される2つの他が、それぞれどこにあっても、互いに緊張しあうという
他としての責任を生むためであり、換言すれば、
2つの他がそれぞれどこにあっても他である、ということを可能にするためである。
この緊張があるからこそ、2つの他が互いに重なっても、
以前として他同士が他同士であることを可能にするのである。
この緊張は、空間的な意味合いに留まるものではない。
いずれ語られる他者心理−他者心理の場合においても、それは応用される。

他と他が、にとってを欠いて存在する、というのは、逆説的である。
それは、他は何か自体があって初めて他であるからであり、
言うまでもないが、他は自体ではない。
すると、他の自体は、もう一つの「他」に求めねばならない。
しかし、他を「自体する」のは、「他」ではない。
「自体する」という表現が欺瞞的であって、「他」は他の「自体」であるのみならず、
他は「している」、を引き受けねばならない立場にある。
自体は「する」ものではなく、「している」ようなものなのである。
ここで「している」とは、時間的経過を意味しない。
いかなる場合においても、している、という、存在の様態なのである。
しかし他の自体を「他」の下にあるにも関わらず、
他が「している」可能をどう説明するか。
それにはまず、他と「他」間に連絡が求められる。

続く

2 :考える名無しさん:2006/11/09(木) 23:00:35
http://music.geocities.jp/karolszymanowski2000/main.html

ちなみに俺のホームページ

芸術に憑かれた者。
絶えず届かぬ理想を才の乏しさに嘆き、
疲れた者。
「生も暗く死も暗い」
Kyrieの世界へどうぞ…
 

3 :しろうと ◆AUSirOutoE :2006/11/09(木) 23:44:06
他者論ですか

4 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/10(金) 21:55:56
ただの緊張、というのがあり得ないのであって、全面的に張られた緊張
は、無限の一点と一点を結ぶ仕方を知る、というのではなくて、
無限の一点−一点の結びを普遍する、という仕方を取っている。
この普遍も全面的に張られるのであって、
また他がもう一方の「他」だけを自体する方向性を他は常に把握している、
という自体がさらに「他」の下にある。
すると「他」の自らの位置の常なる他への方向、が、普遍し、
そうであるからこそ、他同士がいかに互いに相対変容しようと、
両者は互いに他でいられるのである。
この普遍を通じて、両者は初めて互いに他となり、互いに常なる方向が出来るのである。
この方向において、他−他間の緊張というものがあるのであって、それは、
先の全面的な緊張とは異なり、他−他間のみに存するからこそ、
外的な作用があるとすれば、その緊張のなかに留まらずに、
他から「他」へ、「他」から他へと流れるのである。
この緊張のなか、なんの自体だか分からなかった自体を、
「他」から他へと、「他」に連絡され、「他」に確認されるのである。
しかし2つの他は、緊張が普遍しているので、その場に留まれるのである。


5 :考える名無しさん:2006/11/11(土) 00:59:41
サルトルと対幻想論のジャンルだね。

6 :考える名無しさん:2006/11/11(土) 01:58:32
いきなり自作自演で終了

7 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/11(土) 02:59:40
>>5

対幻想論とはなんぞや?

8 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/12(日) 09:38:32
それにしても、自体の連絡が、なされるにも関わらず、
「他」に連絡される、とはどういうことか。
される、とは巧妙な言い回しである。それは、受動することを為す、
ということを意味するならば、それは自体の表現でさえある。
それだから、ここでは、「他」の他の自体が、他ではなく「他」に連絡されるのである。
「他」は他の自体を了解し、また他もしかりであり、それぞれに他として完結する。
この作業があって、初めて他−他の構図が可能になるのだ。

ここでの他−他は抽象に終始しているけれども、他のコンテクストにおける可能として、
他は「している」ことが必要となってくる。
他は存在する。その構造は、「他」が他の自体を防ぎ、他をいかなる場合にも
他たらしめんとし、その自体を奪い、自体の確認を他に洩らせぬことであった。
ここで問題は、自体を他に洩らせぬのに、どうして他が自体を確認するのか、である。
他が確認しないのであれば、「他」はそもそもなんであっても構わず、さらに言えば、
他はもはや他ではなくなるし、存在もしえなくなる。
しかし他が「他」と唯一の方向をなすのであれば、
自体はやはり「他」のうちに存しなければならないし、それを告げ知らせるのは、
他−他間の緊張においての他ない。「他」が「他」を保ちつつ、外的作用を含む場合。
それは、他において「他」が「他」である、ということは他のほうで確認ができる、
その可能が、他ではなく「他」の方に存するならば、「他」はなんらかの外部にまで
及ぶものがあって然りなのである。そのものは他−他の緊張のなか、絶対に他に
まで及ぶし、及ばれた他に、それは確認の契機となる、または「している」の契機となる。


9 :考える名無しさん:2006/11/14(火) 09:14:39
他者との相対的なルサンチマンに囚われているのかね?

構わず芸術に精進するが良い

10 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/14(火) 18:12:23
>>9

俺は他者以前、つまりは空間上に配置される2つの他を論じているのだが・・・


11 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 09:27:28
>>10
そうか・・長文すぎて本当は読む気がしなかったんだ
当て推量な発言ですまない。

構わず芸術に精進してくれ

12 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 12:32:19
>>1
kyrieって聞くとレクイエムとかグレゴリオ聖歌を思い出すな。
なんだかよくわからんが、主観抜きに他ー他を定義したいのですかね・・。
デカルトの「私」を否定したいのですかね・・・。

音楽を続けて下さい。言葉で表現できないことを表現するのが音楽なんでしょう。

13 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/16(木) 07:17:10
>>11

ああ、俺だったら絶対読まんなw
読まなくてもいいから、他−他についての意見が欲しいところだ

>>12

そうそう、そのkyrie。神よ憐れみたまえ。
そうそう、第三者的な自体を介さず2つの他が存在しうる可能を、論じてみた。

14 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 19:05:47
>ここでの他−他は抽象に終始しているけれども、他のコンテクストにおける可能として、
他は「している」ことが必要となってくる。
他は存在する。その構造は、「他」が他の自体を防ぎ、他をいかなる場合にも
他たらしめんとし、その自体を奪い、自体の確認を他に洩らせぬことであった。
ここで問題は、自体を他に洩らせぬのに、どうして他が自体を確認するのか、である。
他が確認しないのであれば、「他」はそもそもなんであっても構わず、さらに言えば、
他はもはや他ではなくなるし、存在もしえなくなる。
しかし他が「他」と唯一の方向をなすのであれば、・・・・・

いくら読んでも、「他-他」も、「自体」も意味がわからん。
だから、何を語ればよいのかもわからん。


15 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 23:13:23
共通理念としての簡略化した定義が必要ですね

16 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/17(金) 17:23:58
それでは「自体」の定義をしてみます。
しかしいざ定義するとなると、簡略化はおよそ不可能でした。
以下はまだ定義の途中です。
_____________________________________________

自体とは、多様な体系の波に関わらずそれらにいちいち表現する、ということであり、
いちいち何々の世界をする、ということである。
いちいち表現するから、といって、世界を超越した本質がある、というのではなく、
従って表現部分がある、といったものでもなく、無限の世界を指示する、その指示であり、
同時に指示する無限の世界を表現する、その表現であり、同時に世界に表現する演繹であり、個である。
自体とは、表現であり個である、というのは、世界とはなべて表現であるとするなら、逆説的な
言い回しである。
それは、個が表現であることは疑いないが、表現が個である、というのは、表現が個に先行し、
従って、個が表現である、と言ったときとは異なり、新たな世界を要求するからである。
しかもその世界とは、個があることは断じてないのだから、
個を表現すべくあらゆる表現が、表現の一つ一つ、と言ったものでは無しに(それは個であるから)
用意されおり、従って個を表現することはそもそも不可能であり(判断者がいない限り)、
それはさらに無限の体系の別をも表現すべく、表現する個の「意味」を前もって知っている
必要があり、さらに意味とは体系を要するから、つまりはこの世界は、体系であり、しかも全ての体系に先行している、
という点で矛盾しており、矛盾が一つの仕方だ、と言い張るとしても、それは普通の意味での世界の定義を
満たすものではなく、従って「別世界」である。

17 :考える名無しさん:2006/11/17(金) 17:28:31
まず「我思う、故に我あり」を否定してからである。

18 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/11/17(金) 18:22:56
>>16は、いまだに意味不明。

>17
コギトエルゴスムスは、既に、「我疑う」、により、自も他も含めた否定を内包していることから、完結した命題である。

19 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/18(土) 19:02:45
定義の続き。

ここで我々は矛盾を受け付けないことにしよう、すると、改めて自体とは、
個をすることであり、その個とは、どんな体系にも表現され得る柔軟性を持っており、
それが体系に表現されたとき、世界が始まる、といった様なものであり、
かと言って、多様な体系にいちいち本質が態度を取る、といった仕方では無しに、
その個は体系に表現されて初めて存するような物であり、従ってそれは実存ではなく、また表現が先行し、
さらには個を乗り越える様なものである。
一度矛盾を否定したならば、我々はこのような矛盾が同居することを抵抗することに、尽力しなければならない。

_______________________________________________

>>18

何が意味不明か指摘してくれ。

20 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/18(土) 19:04:31
>>17
昔の日記から
________________________________

斥けること。それは前提を犯すことと同罪である。
前提を斥けるという営みは、前提を過程とする。
始め前提されたものは、斥ける段階において、
斥けられた結果が次々と生まれていくはずであって、
それは生まれた時点では先入ではないけれども、
それを考える段になるとたちまち先入性を帯びる。
次々と生まれていく、この作業を億劫するのが現象学
であり、「括る」という強引な、さらに言えば観念論的な
過失を犯すのである。

斥けることを徹底するとは、前提、先入を超越として括ることであるが、
括る営みが、それが私にせよ、「括る」自体にせよ、
によって遂行されるものであり、また、前提を括る作業とは、
前提を一つ一つ、によってから超越させていくのではなく、
終極的な「世界」に全ての前提が包含されているがごとく扱うのであって、
この前提の一つ一つが世界に包摂されていく過程として、世界は少しも
動じないのであって、それだから「世界」という表現が許されるのである。

21 :kyrie ◆.RYdSpBfEI :2006/11/19(日) 06:37:40
つづき
....φ(・ω・` )

_________________________________________________

最初の矛盾として、自体としての個が、個を乗り越える、とはどういうことか。
我々は本質なるものを嫌う、従って世界のない本質など存在せず、
いちいちの世界にその都度個をする、またその世界において初めて本質する、そうした個を考える。
というのは、もしそうだとすると、本質は、体系に態度すること、換言すれば実存することに
先立つことになってしまうからだ。
その問題は何か。
本質、といったものが存するならば、そうでない可変的な部分、があるはずで、
実存するとは、本質はそのままに、可変的な部分を諸世界の体系に合わせ自由に操作する、ということである。
操作という表現が気に入らないであろう貴方方に対しては、こう言おう、
本質が世界に現れるとき、その世界の体系に演繹し、可変的な要素を、少なくともその体系の許容範囲内において決定するのだ、と。
あるいは、無限の可変部分が、いきなり現れて、しかもそれは無条件に現れることを禁ぜられ、
体系に淘汰されていって、次第に世界に適合する部分だけ残るようになるのだ、と。
いずれにせよ、可変部分とは部分であり、その問題は、ある部分を纏った本質を常に見ているわけであり、
なんら部分を伴わない本質は、そもそも世界において不可能であり、従って本質なるものも、ひとつの幻想にすぎない。

さて、この場合想定されているのは、超越としての無限数の世界と、それらに態度する
無限数の個であって、無限を数として考えることのできぬ我々は、まさに個が無限数の世界に無限数に個する、
という状況をもって、初めの個が個として世界に布置される無限の可能性、といったものを所有する、と
考えるのであり、その可能性部分に、個のいつのまにかの無限数に、個の、個を越えるものを見るのである。
しかし個が本質を持たないとするならば、超越としての世界とは、何に対して超越なのか。
ここでもまだ、世界はそれぞれ一括りにされており、可能性としての無限数の世界に、先立つものが
あるとイメージしたからこそ、超越なる言葉を使うのである。


22 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/11/20(月) 21:36:58
>>19
>21
読めたかな、と思う文章からはじめてみましょう。

>実存するとは、本質はそのままに、可変的な部分を諸世界の体系に合わせ自由に操作する、ということである。

実存するとは、本質はそのままに、ということはないですよ。
(可変的なものすべてをもって、跳躍し続けること)=(実存するということ)。
確定されたと思われる「個」や「本質」というものは、そのつどの無化により、乗り越えられていく。
その行きついた先で、また、次の無化を強いられていく。
その反復が実存であり、「跳躍」。
それが可能世界内のことであっても、現実世界内であっても。

というようなことでしょうか?





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