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離人症患者が哲学に触れようとするスレ 2

1 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/10/22(日) 05:50:54

自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
この先の自分の人生を、哲学の力を借りて切り開いて行けないものか
と思い立った次第です。

「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。
それがおそらく世界と一つだった頃の私。流動する私。

2 :考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:35:09
時間で考えればいいのではないでしょうか?生きとし生けるものはすべて時間に繋がれている。繋がれているものは自分でありクオリアだという言い方をすれば考える行為が時間の余りに相当します。しかし余りの時間というものが果たしてあるかというと

3 :考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:39:59
余りの時間というものが働いている時間同様に作られた時間ということになります。離人症は核に到達するすべを失った状態だと思います。核に到達するということは言葉にすると難しいですが喜びの感情に相等すると思います。そこに至るのが自分でありそれが生であると思います

4 :続き:2006/10/22(日) 12:00:33
核に到達しないのであれば原因があるわけです。万物は流動的に動き生物は必ずそれに応じて必要なものを必要なだけ獲得するための時間が生じます。余暇は不空(非連続的な時間)の時間でありせれはすぐに消えることになります。必ず獲得の時間はすぐに蘇ります。

5 :誘導:2006/10/22(日) 12:29:14
>>1
こちらでどうぞ。

【鬱】 哲学やってるメンヘラーっている? 【統失】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161328420/


6 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:37:35
>>905 ムートンさん
>「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
>本当の私は、という時も、それは私ではありません。いつまで経っても私は私を語れないのです。
>私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。それがおそらく
>町と、世界と一つだった頃の私。流動する私。

語られるものとしては存在できない‘それ’は、【魂】のことでしょうか?
離人症とは、自分自身や自分の行動、また外界などに対し、実感が伴わない状態。
(goo国語辞典)とあります。

自分自身や自分から開ける世界にたいして実感はないけど、それでもそれらの現前は、
いつかどこかで何ものかにたいして起きている。でもその何ものかが自分自身ではなく、
自分自身や自分から開ける世界とは位相を異にしているため、それらの否定としてしか
存在しない、という形式世界における背理そのものの存在、それが【私】なのでしょうか。
つまり、語られるものとしては存在できない【魂】のことですが。

「万物は流転している」(パンタレイ)のかもしれない。けれども、何ものもその姿を
一瞬もとどめられないのなら、何ものも存在することはできないでしょう。ですから、
今ここに現に万物が現象しているのは、変わらないもの「一」によってであり、「一」は、
万物が流転することの内に〈ある〉……「万物から一が生じ、一から万物が生じる」とも
考えられるでしょう。(ヘラクレイトス)

けれども「一」は比類なきものですから、万物のように「それ自身である」というあり方が
できません。言いかえると、存在者としては存在できないけれど、存在者の存在を可能
にする条件としての「場」として、自らは自らというあり方ができず、「それ自身ではない」
という不在の実体として【ある】、‘それ’が【私】ということになるのでしょうか。


7 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:40:32

わたしは神の言葉であり、わたしの言葉は万物をうつす。
でも、神だけはうつせない。だから、わたしは神に祈れない。
けれども、神を思うとき、祈りはもうかなえられているのです。

  汝ら神に祈るとき、その祈りはすでにかなえられたと信じなさい。
  そうすれば、その通りになるであろう。 (マルコによる福音書)

なぜなら、

  はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり。
  この言葉ははじめに神とともにあり、万物はこれによって成り、
  成りたるもののうち、これによらないものはひとつもなかった。
  言葉のうちに命があり、命はひとを照らす光であった。(ヨハネによる福音書)

ということだからです。

何ものかとして語られることのないあなたは、万物のひとつではないから存在しない。
けれども、語られることのないあなたがいなければ、何ものも、ムートンも、存在しない。

流動する私は、その姿をとどめられない、ゆえに存在しない。
流動する私は、あらゆる存在の否定としてのみ〈ある〉。
流動する私も、その存在の否定から逃れることはできない。

流動する私の自己(存在)否定は、現実になりうる可能世界の否定であり、
すなわち、この現実世界の成立です。それは流動する私の存在への刻印であり、
変わらないものの、すなわち「瞬間」(意識の生滅 = 現象)の誕生です。

変わらないもの(同一性)の成立は、同時に存在者(差異性)の成立であり、
流動する私が、この心、この体として、今ここに現実に〈ある〉こと、すなわち、
この「私の世界」の成立の条件が、この「私の世界」の外部、流動する私なのです。


8 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:58:08
>ムートンさん

いつのまにか落ちていたので、勝手にスレを継続させてもらいました。
(コードはバレバレだったので、そのまま使いました)

前スレ最後の発言は、一般の精神病理学的な離人症解釈を超えて
いるように感じました。哲学的にとても興味があります。
もしよかったら、またお付き合いしてください。(^.^)


9 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/24(火) 00:56:08

前スレ紹介、忘れてた!

離人症患者が哲学に触れようとするスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1105020202/

( 2ちゃんねるビューアがないと見れない = だれも見ない )

10 :考える名無しさん:2006/10/24(火) 20:20:31
私場賢治

11 :エヌ:2006/10/24(火) 23:43:07
呼ばれてきました
あっちのスレの話だけど
彼ら(彼女?)の頭に合わせて書いてあげなきゃ理解できないと思うよ
数ヶ月見た彼の傾向からすると
わけわからなくて、書くことなくてレベルダウンなんて書いてるのだろうから
反論してこないのが、その証拠だろうし

12 :エヌ:2006/10/24(火) 23:48:40
はてな?魂が得意分野だったかな

永久になくならないものが魂だと仮定して
全ての存在は、分解したり集められたりして形が変わろうとも
あるいは体積が変わろうとも質量は一定である
つまりは増えもせず減りもせず永久になくならない
つまりは存在が魂と呼べるのかも

13 :エヌ:2006/10/24(火) 23:51:33
しかしながら本当の実態は無形で
質量や物質はその表面上のものでしかない
これは余談

14 :エヌ:2006/10/24(火) 23:53:05
あと実態には境界がない
なのですぐに混沌へと吸い込まれてしまう
これも余談

15 :エヌ:2006/10/24(火) 23:54:35
カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?
>>9が見れない
Jane Doe Styleだと見れないみたい

16 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/25(水) 02:04:27
>>11 エヌさん

いらっしゃい! (^.^)

あのスレは前スレの途中から覗いただけで会話の内容はあまり知らない。(^_^;)

で、エヌさんへのレスに「たぶん魂の話し」って書いてたから気づいたと思うけど、
あれは彼(s)へのヒントのつもりもあって書きました。

もし心ある振る舞いが、心があることなのだとしても、それでも心ある振る舞いと
心は‘つながらない’というのが、彼(s)の言いたいことなのだとしたら、
それこそそれは、いわゆる心のことではなくて、真の心「魂」のことだと思ったから。

もしそうなら、彼(k)の論理に取り込まれて、魂が‘なきもの’にされてしまうのは、
──とはいっても、魂が唯一絶対の存在なのだとしたら、比べるものがなくて
無と見分けがつかないので、もとから‘なきもの’だけど──どうなのかなって。

とりあえず、哲学の範疇で魂を考えるにあたっての入口を紹介したつもりです。
でもここから先は、偉そうなことを言ってるわたしにも考えること自体が困難です。
だから、彼(s)と本質的なところの問題意識が同じなら、一緒に考えられるかも、
と期待したのです。彼(s)、安らかで穏やかなのに気分が悪くなるって言ってたの。
たぶんそれにやられちゃった。

エヌさんのレス、そんなに簡単に書けてしまうのねって感じです。やられたー!
あらためてレスさせてください。(レスありがとう)


17 :エヌ:2006/10/25(水) 23:53:20
へー、片方の相手は S だたの

彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
とても読む気になれない(暗すぎ・・・)


18 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/27(金) 02:17:04
>>17 エヌさん

あっちにかまけて今日もなおざり。ごめんなさい。
もうすぐ書き込まなくなると思うから、それまで見捨てないでください。

>へー、片方の相手は S だたの

いえいえ、そんなわけない。
でも、前にも書いたことあるんだけど、頭文字「S」には縁がありますね。
「sheep」さんも、ほらやっぱり!(笑)

>彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
>とても読む気になれない(暗すぎ・・・)

あっちでSGI(創価学会)ごときと決別できないで……と言いましたが、
宗教は麻薬ですから、実際のところムズカシイと思います。

組織のあり方や、組織の人間との人間関係から離れてみても、
たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!

彼がそのようなことをも含めて恥ずかしいことだと思ってて、今まで
話せなかったこと、その感性は貴重だと思います。でも、今はまだ
真実を見つめようとする感性より、刻印された信心の方が勝ってる。

まぁその意味では、無信心のkさんの教えは「棚からぼた餅」的幸運かも。
でもそれで何かが解決したとしても、それは「ちがう人」を信じた結果であって、
「ちがう神」でもよかった。つまり、自分を見つめたから、そうなったわけじゃない、
ってことです。ここが「分かれ目」かな。自分をみつめることができるかどうかの。

神さまを恥ずかしげもなく持ち出すわたしがいうのもなんだけど。(^_^;)アハ


19 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/28(土) 01:10:27
>>15 エヌさん
>カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?

彼の心の病と、その彼がもつ問題意識に関心があります。
心とは? 私とは? 人間の本質に迫れるような気がします。

今は、離人症の彼が、自分や自分の心さえ対象化してしまうこと
について、それはいったいどのような事態なのか、を解明したい。

もしも自分や自分の心をながめてしまう「私」が実在するなら、
それはもしかしたら「魂」のことかもしれないから。

どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
死によっては、「私」が終わらないということだもの。

以前、記憶がなくなればそれでいいようなことをエヌさんに
言ったけれども、魂が実在するならきっと、生まれ変わったときに
こんな問いを持つはず──私は、どうしてこの私なのか──って。
……ゾットします。(^_^;)

他のスレでも、この話しばかりしていました。
でも彼の場合、理念のそれではなく、実在する現実のそれです。
彼のように、あからさまにその事態を生きていることは稀でしょう。

形而上学的な試みとして、彼のいう言語で語ることのできない魂を、
それでもその実在についてどこまで語りうるか、に挑戦したいです。

>Jane Doe Styleだと見れないみたい

いつからか、有料になっているんです。
「2ちゃんねるビューア」がないと見れないんです。

20 :エヌ:2006/10/28(土) 01:37:51
>>19
カオルさん
> どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
> だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
> 死によっては、「私」が終わらないということだもの。

当初から実在しているものは決して失われることも無く
当初から実在していないものは生まれたり失ったりするものですがな
実在に恐ろしいという感覚はございませんので、ご安心あれ

21 :エヌ:2006/10/28(土) 01:43:12
>たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
>破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!
まだ、未成年の頃少しかじったな

あれね。木の棒に巻かれてるからけっこう硬い。
足でキックしないと折れないのね
火に入れたら、やっぱり紙と木なので燃えるし
人間だけだね、紙に書いた文字をあり難がって拝むなんて。

22 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/10/29(日) 21:19:25
トリップはやはりバレバレでしたか。すごい洞察力ですね。
私は私を語れないと言ったのは、この体の主導権を握っているのが、
だいぶ前に言った、作られた自己だからだと思います。
カオルさんの言い方や哲学者の言葉を借りると
せいぜい言える事は、私はどういう理屈か知らないけれど
現象を生じさせている何か、ということだけですね。作られた自己という現象を。

そう考えると、何も私だけが特別ということでは無いと思いますね。

私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)ことなどを優先することで
自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを持って生きてきました。
ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて過ごしていました。
私の離人の原点はここにあると思います。

>>5
私は治す事を目的とする段階にまでまだ辿りつけていません。
そしてそこにたどり着くことが目的という段階にすら未踏です。
ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。

カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
共に繰り広げられることになれば幸いです。

23 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:05:58
>ムートンさん

おかえりなさい。見つけてくれてよかった!(^.^)

今ちょっと余計かもしれないことにかかわっているので、レスできないでいます。

>ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。

>カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
>共に繰り広げられることになれば幸いです。

哲学的見地というものを、おそらくエヌさんは超えているけど。(笑)
エヌさんの見地とわたしたちの見地は共役不可能かもしれません。
でもなぜそうなのか、を問うことにも十分に意味があると思います。


24 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:33:44
>>20 エヌさん

魂は、エヌさんやムートンさんやカオルに、それぞれ「ある」ものなのでしょうか。
もしそうなら「存在が魂と呼べるのかも」(>>12)というときの「存在」とは何でしょうか?
たとえば、存在者としてのカオルの存在「〜である」と、存在そのものの「ある」とは
どのように区別されるのでしょうか。

もしも後者の存在を魂と呼んでいるのなら、後者の存在は「比類なきもの」です。
そうすると、エヌさんの魂、ムートンさんの魂、カオルの魂……というような事態は
考えられなくなりませんか。なぜなら、それぞれの魂の存在の承認は「比肩しうる魂」
の存在の承認なのですから、それらはどれも「比類なき魂」にはならないからです。
「かけがえのない魂」ではあっても。


25 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:47:08
>ムートンさん

質問です。

魂のあなたを、かりにあなた×(存在否定)と呼ばせてもらうと、
あなた×は、ムートンさんの「私」における自分の体や自分の心は
あなた×ではない、と言います。

この辺りについては、詳しく徹底的に議論していくとして、その前に、
あなた×は、そもそもあなた×が「比類なき存在」だと思いますか?
もし、そのように感じるのであれば、そう答えてくれますか。

これに類することを以前あなた×は、世界という言葉を用いて
言っていたように思います。

(前スレのデータが壊れてしまって、正確でなくてごめんなさい)


26 :エヌ:2006/10/31(火) 02:00:24
>>24 カオルさん
これまでに、存在が失われたものがあるでしょうか?
否、形を変えただけで何ひとつ失われたものはありはしません。

後者の存在そのものの「ある」には境界が無く区別できません
しかしながら、心の機能性によってこれとあれとを区別し、前者の存在(〜である)を認識するわけです。

よって魂には区別する境界を定めることは不可能で、魂の存在の承認は自らを承認するのみです。


27 :エヌ:2006/10/31(火) 02:03:49
それに、ここでいう魂というのは
身体の一部に入り込んでいるものが魂ではなく
魂の一部が身体として現れているといったものです

28 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 02:41:49
>>26-27 エヌさん

とても納得できます。もちろん、哲学的にです。(^.^)
哲学的な説明の例としては、>>6-7になるかと思います。
それにしても、なんという短文なのか、と思ってしまいますよ。

魂の顕現のことを、西田幾多郎という哲学者の言葉を借りると、

  絶対無の自己限定、永遠の今の自己限定。

になるでしょう。

魂の私が、現に存在するこの私を見て、

  私(魂)は、どうしてこの私(体、心)なのか。

と問うとき、哲学はこれにどこまで答えることができるのか。

アウグスティヌスは、私の存在の比類なさを

  わたしたちのうちひとりしかいないかのように、神はわたしたちみなを愛す。

と表現しました。(と、わたしが思っているw)

また、永井均という哲学者は、魂の私についてひたすら哲学しています。

  比類なき魂に隣人はいない。

ということについて、無限の言葉を用いて。

エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。


29 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 03:03:10

でも、これでいいのか!
懐疑はこれで打ち止めなのか。
いや、わたしはそれでも考えつづける。

すでに個別の魂の輪廻は否定された、と思っていいですね?
そういう論理ですもの。そうですよね、エヌさん。

この私の体、この私の心が、魂の呪縛から自由になること。
悟りスレから一貫して、わたしにはその思いがあります。
魂への嫌悪がぬぐいきれません。

5時起きなので寝ます。では、また。


30 :エヌ:2006/11/01(水) 01:04:16
>>28 カオルさん
> エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。
とんでもない。
誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
そういうものです
馬鹿げてるものなんてありゃしませんよ
皆、楽しんでるだけです

31 :エヌ:2006/11/01(水) 01:08:45
>>29
輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
5時に起きれたのでしょうか?
わたしゃいつも7時半ぐらいに起きるのでそろそろ寝ます

32 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/05(日) 00:11:56
>>25
私は自分が捕らえてる世界の像(モデル化した世界)と
実際の世界の相違に苦しむ存在だと思います。前に言っていたのはこのことでしょうか?
それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。
>>26
>存在が失われたもの
他者と関係性を築くと、自己が薄まってしまうような感覚の喪失を受ける私は特別でしょうか?
>>28
>私はどうしてこの私
この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
他からの視点を持つことが何故できないのか?
疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。

さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。

33 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 01:44:14

「私(ワタシ)」は、言語です。この概念をいったい私たちはどのように了解するのか?
7歳まで言語の習得を禁じられていたある聾唖者の自伝によると「私」の定義とは、
――「私」というものが存在している「定義」がある。つまり「生きている」――でした。
この「私」の定義は、同時に「私は、私である」という自我同一性をももたらしました。

  私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)
  ことなどを優先することで、自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを
  持って生きてきました。

というのは、役割同一性としての自我同一性でしょう。これは人間としてのあり方や人格を
になう主体としての自我についての認識です。「人間として」という前提があるのですから
そこに、すでに、正しさ、善さ、美しさの規準が立てられてしまっているのは必然でしょう。
その規準にしたがった行為は、そのまま真であり善であり美ですから鼻高々でも当然です。

  ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて
  過ごしていました。私の離人の原点はここにあると思います。

というのは、与えられた役割を全うする人生の主役である「自分」は「自分である」のに
与えられた役割から自由である「自分」、あるいはあてはめる規準がわからないために、
それがはたして「やるべきこと」なのかどうかもわからないような行為をしているときの
「自分」は「自分でない」ということでしょう。

「自分1が自分2である」ことの自明性(同一性)の喪失は離人症や統合失調症を引き起こすと
言われています。私見では、両者は構造的に合わせ鏡のような関係に見えます。離人症者は
「自分1は自分2でない」と言いますが、統合失調症者は「自分2は自分1でない」と言うからです。


34 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 01:55:11

さてしかし、この「自分は、自分でない」というのは、自分が理想とする「自分であること」
についての否定であって、それは‘自分が’モデル化した世界の理想と現実との違いを
認識して嫌悪して、現実の世界を否定することと構造的にはかわらないように思います。

重要なのは、この「自分は、自分でない」という自我同一性の否定が、「私が、私である」
ことについての否定ではないことです。

なぜなら、そもそも「私が、私である」ところの‘自分が’、自分を、世界を如何にあるべきか、
と問うのでないなら、自分や世界が肯定と否定のそれとに相対化されることはないからです。

  それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。

というのは、存在のあり方についての是非を問うているのであって、全知の神さまでもないかぎり
それはその人がどのような価値観に‘とらわれているか’の問題であって、そこで引き裂かれる
自我は、自我として確立しているからこそ、引き裂かれうるのです。

だから、ここで問題になっている自我の分裂は「自分が、自分である」ことの成立と‘同時’に
成立しているところの論理的必然としての否定「自分が、自分でない」こととの分裂なのです。

「自分は、自分でない」は「自分は、自分である」の否定ですが、「私が、私である」ことの否定
でないのは、どのような仕方であれ、現われるものを否定するためには、否定する何ものかが
いないとならないからです。この何ものかが「私が、私である」ところの「私」です。

けれども、おそらく、この「私」は「私である」というあり方はしていないのです。
主語を前提しない「私である」そのもの、あるいは「私である」こと以外に一切の属性を持たない
たんなる「私」、あるいはまた「私である」こと以外の一切の想定(他人の実在、世界の実在)を
許さない比類なき存在(唯一の実在)……だから「私」は、この世に存在しない……はずなのに、
どうしてだか「この私」なのです。だから――どうして私は、この私なのか――になるのでしょう。
もちろん「この私でさえない」と思うから、しかし「この私でしかない」からこその問いなのですが。


35 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 02:30:55

>前スレ最後のレス
>否定することから離れて自分の生に戻ってくるにはどうすればいいのでしょうか?

いつでも〈今〉、どこでも〈ここ〉、何ものでも〈ある〉、
だから、いつでもなく、どこでもなく、何ものでもない魂の私(私でしかない私)と、
その魂の私を了解してしまうこの私とのあいだの溝が、普通一般には、
「(魂の)私は(今ここにいる)この私である」という自明性によって埋められています。

たとえ魂の私が、すべての現われの否定として〈ある〉のだとしても、――――すべての現われは、
それぞれその現われ以外の現われの否定として存在しますが、あるリンゴが現われたからといって、
そのリンゴ以外の現われが消えないのは、すべての現われが起こりうるための、すべての現われの
否定ということが〈ある〉からです。この否定は、リンゴが現われたために、そこにミカンが現われない
ことの否定はできません。おなじように、世界を、人間を、この私さえも否定して、それらの否定として
〈ある〉のが、魂の私です。――――たとえその否定によって世界(現われ)が開かれる(現実になる)
のだとしても、世界はこの私の生を通してしか現われないのです。つまり、それが人生なのだから、
魂の私にできるのは、それを受け止めることだけなのです。

そうすることが、魂の私がみずから開いたこの私の世界に参加するということであり、魂の私が
この私の生の形式を受容して人間になるということではないでしょうか。

もちろん、魂の私が人生に参加しないといけないような理由があるのかどうかはわからないけれど、
本来、魂の私の、この私(自分)の人生の絶対否定とは、この私の人生の絶対肯定のことなのです。
わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。


36 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 03:03:50
>>32 ムートンさん
>この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
>あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
>他からの視点を持つことが何故できないのか?
>疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。

わたしはこのことについてばかり話していますが、他スレでもほとんど理解されませんでした。
わたしにこのことについての実体験がないので、その次元での共感が得られないのでしょうか。
もしかしたらまったくちがう問題を論じているのかもしれません。是非とも批判をしてほしいです。

>さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
>彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。

彼は、生きることを生きた。
戦場に赴くのに、戦うのに、生き抜こうとするのに、根拠なんてない。
彼は「1+1=2」と答えを出すように、志願し命懸けで戦いました。
『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。

是非、感想を聞かせてください。


37 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 03:18:29

>わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。

>『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。

確かなこと、ほんとうのことは、論理の外にあるのかもしれない。
でも、そこに至るために論理を駆使するのが哲学でもあるのです。

ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。


38 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 02:07:27
なんか必死だな。


39 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 08:15:34
離人症って病気でいいのか・・まあ、社会には適合しずらいだろうけど
今時カウンセラーだの心理セラピー等、商売が成り立つ変な時代だし
感情が気薄になったとはいっても、情念の柵からは決して逃れる事はできず
鬱か虚無的になるかルサンチマンに囚われるかの何れかだろう。

つか、病気治したいなら哲学より信仰向き、精神病を自覚したとしても
理性に頼ってばかりの手探り状態じゃ迷い易いよ。

役割を自覚せず演じる術すらも認識せず彷徨うばかり
学のないものは有りのままの認識表現を纏め上げ簡潔に延べられるほど理性的でもない。

そこら辺が、他者との認識の相違点。
偉人と呼ばれる者たちが、何故あれほどまでに他者に賞賛され
一般通念として広く受け入れられたのかを図り知るべきです。

40 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 10:18:58
ここはひとつ仏教に戻ってーー古臭いかもしれませんが
ーーーヤフー検索:生老病死とお釈迦様
よんでみては
ーーー離人症は病気ではありません

41 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 11:09:08
>ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
>『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。
スマートでいい言葉だと思うよ

42 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:18:00
>>30 エヌさん
>誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
>どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
>そういうものです

「なぜ私は、この私なのか?」の問いには、あきらかに「この私」への否定の契機があります。

この否定は、「自分は、自分でない」と否定する自分が、自分を見つめる(自身を対象化する)
ことによって成り立っている自分のあり方、すなわち「対自」への否定なのです。

すなわち、そのあり方が主客未分で無自覚なため「他」との媒介を要せず、だから非依存的で
自足的(無規定的、無制約的、完全自律的)、つまり比類なき(絶対的な)「即自」である無限の
「私」の、「対自」である有限の自分「この私」への、否定なのです。

この魂の私、無限の私が「なぜ私は、私なのか?」と問うとき、もはやそこには「私」の存在に
たいする懐疑は及ばない。ゆえに「私は存在する」というのが、いわゆるデカルトの「私」です。

けれども、哲学はここから先に一歩も出ていない。
「どうして私が、私なのか」も「どうして私が、この私なのか」もわからないのです。

魂の私が心のこの私‘としてしか’存在できないことのからくりや仕組みがわかっても
どうして魂の私が心のこの私として生まれて人生を送らないと‘いけない’のかがわからない。

どうして存在しないといけないのか、無であっては‘いけなかった’のかがわからないのです。


43 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:24:28
>>31 エヌさん
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ

考えが変わったのですか? まあ、わたしは輪廻があると考えてもいいです。

エヌさんが>>12で言ってるように、熱力学の第一法則「エネルギー不滅の法則」や
第二法則「エントロピー増大の法則」は、ある意味では「輪廻の法則」ですものね。
さまざまに形態を変えながらも存在しつづけることを、そう考えたらいいわけです。

でも、これらの法則が展開されるための、たとえばビックバンを可能にした原点は
論理の法則が必然的に要請してしまう。なぜなら、論理の起源は因果律ですから。
原初の「因」が、ともかくも「原点」-「ある」のでないなら、何もはじまらないですから。

この発想から「無からは何も生じない」という考えが生まれるのではないでしょうか。
でも、この原点は‘この’と指し示せるような‘何か’ではなく、比肩しうるなにものも
ないのですから存在しているとは言えない。ただひとつそれだけがかがやく太陽は
無とおなじなのです。

わたしにはわからないけど、おそらくそのような原点のようにして感覚?されるのが
魂の私なのでしょう。すべての原点なのですから、必然的にすでに存在するものの
否定としてしか存在できないのです。

でもひるがえってみれば、魂の私の絶対否定とは、みずからの存在も否定するはず。
だから、魂の私のみずからの絶対否定とは、存在者たちがみちあふれるこの世界の、
すなわち、その世界がそこから開かれる心の「この私」の絶対肯定でもあるはずです。


44 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:25:48
>>41 ありがとう。

45 :sew:2006/11/15(水) 14:45:21
お邪魔します。

お久しぶりですカオルさん。
あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
「心」と「心ある振る舞い」を中心に話しているのかと思ったらさらにその先があったんですね。
エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
「魂」については深く考えたことはないけど。

しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
嫌でしたらこちらとしては別に構いません。

失礼いたします。

46 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 20:25:45
えげつない。
孤独になってみるべきだ君は。
対象を失ってみるべきだ。
そうすれば、どうしようもなく自分を捉え捉えられるしかなくなる。


47 :エヌ:2006/11/16(木) 02:46:35
>>42 カオルさん
存在することに理由は要りませんよ
理由を必要とするのは人の脳内だけです
それに存在には対応する非在がないし
無と有の両方を兼ねてるものです

知れば知るほど真実から遠く離れるもので
わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ

懐疑があるから、それに対する答えがあり
否定があるから肯定するものや真実を追い求め
思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです

デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した
しかし思考の止んだ時自己はどこへ行くというのか?
思考を見守っているものは何なのか?
それがデカルトの抜けているところだと思う

48 :sew:2006/11/16(木) 14:48:04
>>46
そのようにしてみようと思います。

>カオルさん
余計なことを書いてしまってすみませんでした。
>>45は無視してください。書き込みはもう致しません。


49 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/18(土) 23:36:25
>>45 sewさん

いらっしゃい!(^.^)

>あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
はい。誤解しか招かないやり方だったかもしれません。ごめんなさい。

>エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたが謝ることではありません。わたしが素直にそのように言えばよかったんです。

>あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
もちろん、その気はあります。わたしもあなたと話しがしたいです。

>私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
一応、おなじやり方で不毛に見えるレスをしておきました。どうなっちゃうのかな?
(46に書いてあるようなことをあちらのスレに書いたけど、46はわたしではありません)

>「魂」については深く考えたことはないけど。
そうですね、わたしの思いちがいなのかもしれません。
でもわたしには魂のあなたが目覚めて叫んでいるように聞こえたのです。
ムートンさんとあなたがおなじ人に感じられたり……ついでにわたしも一緒に。
いったいだれが苦しんでいるのでしょう?……妄想がはげしいものだから。(^_^;)

>しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
>嫌でしたらこちらとしては別に構いません。
イヤではありません。べつにかまわないと言われてしまうと寂しい気持ちになります。



50 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:30:12
>>47 エヌさん
>存在することに理由は要りませんよ
>理由を必要とするのは人の脳内だけです


カオル)  どうして生きているの?
エ ヌ)   もちろん、生きているからさ。

カオル)  どうして存在しているの?
エ ヌ)   もちろん、存在しているからさ。


「私」が生きていることや存在していることにも価値はあり、
それはそのことが「価値の根源」であるという価値のことです。

それを否定してしまうと、ニヒリズムが招来されてしまうので、
それならそのような問いを生みだす脳の言語活動そのものを
成立させなければどうか、というのが宗教的な解決法でしょう。

それはソクラテスでいう「無知の知」の否定であって、この
「もう知ることはない」という思考の停止は、哲学の否定です。

理由を求めないなら理由などないのは当り前のことであって、
そこに問いなど生まれようもなく、問いは消滅してしまいます。


51 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:34:14

問いの消滅は、「私」が胎児や幼児であった頃のような主客未分の状態、
ゼロへのリセットです。

言語によって築き上げた「私」(0.999……)という砂上の楼閣の崩壊です。

「私」は言語とともに世界を分割(言分け)したけれど、ゼロにもどった「私」が、
どれだけ世界(1)を割ってみても、その答えはいつも無限大(∞)なのです。
ゼロは「自分自身でない」から、つねに無限大(世界のすべて)に等しいのです。

このような事態は体験としては、いわゆる「意識の拡大」と呼ばれる心の境地において
起こり、その人が「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚に象徴的に
示されています。

ここで問題なのは、まずどうして脳内にその記憶が残り思い出せてしまうのか、
次に、すべてを知っているその「私」とは、いったい「だれなのか」ということです。

また、世界の宇宙のすべてを知っている「私」と、脳をたずさえた「この私」とのこの「絆」は、
たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、ということも問題になります。


52 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:45:18

>この「絆」は、たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、

  たとえ可能な科学の問題がすべて答えられたとしても、
  生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。
  これがわれわれの直観である。もちろん、そのときもはや
  問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが
  答えなのである。―― 『論考』( 6.52 )

  生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
  (疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、
  それでもなお生の意味を語ることができない。
  その理由はまさにここにあるのではないか。)―― 同書( 6.521 )

語ることのできない「生の意味」を、人間は生の問題の消滅によって気づきます。
その語りえないところにこそ、倫理(生きる理由、存在する理由)が〈ある〉のです。

  倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
  倫理は超越論的である。(倫理と美はひとつである。)―― 同書( 6.42 )

生の意味について語ることは、魂の私について語ろうとすること。
それは語りえないものについて語ろうとすることだと思っています。


53 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:57:17

>それに存在には対応する非在がないし
>無と有の両方を兼ねてるものです

そのことについては、ヘラクレイトスを引用して説明しましたが、
古代ギリシアの昔から、そのような認識できないものへの探究はありました。
世界が〈ある〉こと、そのことそのものへの無垢な驚きが哲学の起源ですから。

ヘラクレイトスのいうように万物が流転しているのだとしても、万物が流転するためには、
流転しない何ものかが〈ある〉のでなければならない。だから、

  あるものはあり、あらぬものはあらぬ。―― パルメニデス

という反論がきます。でも、もしそうなら、あるものがあるためには、あらぬ何ものかが
〈ない〉ものとして〈ある〉のでなければならない。すなわち〈無〉が〈ある〉のでなければ
ならないことになります。

日々生まれ変わっていく「この私」が現に存在するためには、生まれ変わらない「私」が
〈いる〉のでなければならない。あらぬ「私」が〈いる〉のでなければならない。

いったいあらぬ「私」とは、だれのことなのか?


54 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 03:06:48

>知れば知るほど真実から遠く離れるもので
>わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ

わたしが疑問なのは、意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
じつは「何も知らない」ということです。もし何も知らないということがすべてを知っている
ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。

>懐疑があるから、それに対する答えがあり
>否定があるから肯定するものや真実を追い求め
>思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
>多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです

その通りだけど、その思考(言語)ゲームが「いかに成り立っているか」、
あるいは「いかに用いられているか」を、哲学が考察しようとするのは、
「いかに成り立っているのか」への問いが「そのように成り立っていること」そのものへの、
「いかに用いられているのか」への問いが「そのように用いられていること」そのものへの、
そのような〈神秘〉への思いがあるからです。思い煩うことを通して真理に接近するのです。

>デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した、しかし思考の止んだ時、
>自己はどこへ行くというのか? 思考を見守っているものは何なのか?
>それがデカルトの抜けているところだと思う。

わたしは、いま「魂の私」について考えようとしていますが、デカルトの「私」は、
あきらかに「魂の私」のことだと思います。デカルトを批判したパスカルの「私」も
おそらくそうです。けれど、おなじ「私」(とは言っても、比類なき唯一の私ですが)
について驚いていながら、パスカルでさえデカルトの‘それ’を読みちがえています。
いわゆるデカルト解釈によって抜け落ちている‘それ’こそが、ゆえにある私、です。


55 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 03:09:17


  ねぇムートンさん、ヘンなこと聞いていいですか?
  
  うん、いいよ。

  私は、どうして生まれて来たのかな?
  私は、ムートンさんでもよかったのに
  どうして私は、カオルなのかしら?
  
  ムートンさんと私はとても似てるし、
  きっとムートンさんが私でもよかったんだよ。
  それなのにどうして私は、カオルになっちゃったの?
  
  えっ? カオルちゃんが私だって?
  そんなわけないさ。
  
  えっ! どうして?

  だって、この僕が、私だからさ。


ふたりの私、共存することのけっしてないそれが「魂の私」です。
この比類なき私が、かけがえのないそれぞれの‘私たち’に読みちがえられて、
他人にも理解される私になったときが、いわゆる哲学における独我論の私の誕生です。

詳しくは、永井均『〈子ども〉のための哲学』が参考になると思いますが、
魂の私の体験は、だれにでも起こりうるし、あるいは起こっていること。
哲学者や特殊な人間の体験ではありません。永井の本が版を重ねるのも
そのひとつの証明です。(それにこだわり考えつづけるのは特殊ですが)


56 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/25(土) 01:09:38

  ひまわりの花のように
  わたしは校庭のまんなかで
  ふりそそぐ太陽の光をあびていました

  透明なからだと純粋なこころは
  盲目の歓喜にふるえていました
  すべての時間と場所をつらぬいて

  そこから世界がひらけるかのように
  消えてしまいそうなわたしのかわりに
  世界のすべてがあらわれていました

  存在の完全な安心
  そのまどろみを切り裂いたのは
  猛烈な吐き気でした

  今、今、今、沸き立つ今が流れ出した
  宇宙の塵のなかの一粒の砂の抵抗
  永遠のなかの一瞬、わたしの苦しみ


57 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 22:46:33
>>37
さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。
>>39
偉人たちはあくまで探求し続けたゆえにそう呼ばれるまでの何かを残せたのでしょうか。
>>40
仏教というか釈迦の教えや逸話は幼い頃から大体学んできました
まさにそれが今私を縛っているものなのです。しかしそれでも迷い、悩み、苦しんでいるのは
私に理解力が足りないからでしょう。
>>42
「何故私は私なのか?」その時点で私の存在が確立されるのがデカルトの論理でしょうか。
我思う 故に我あり
なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。

私はもう考えることに、知ろうとすることに、疲れたのかもしれない。
分からないまま時間は過ぎていき、確実に「貴重」な生の時間は
前に進むことなく潰されていく。
焦りなのか、答えを見つけたのか、分かりませんが
私は今とにかく愛に近づきたい。愛という行為を行いたい。
親は私に形式的な「博愛」と「同情」を教えてくれたが
「愛」そのものは教えてくれなかった。

58 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 23:00:32
>>51
気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。
>>52
そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。
>>53
答えは自分そのもののような気がしてきました。
「分からない」。それが答え。
>>54
人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。
人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。
>>55
私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。
まず最初に、別固体として意識しているから。そこに壁があるのだと思います。
私たちは物理的にも「愛」の力を持ってしても、その壁を越えることはできない。
それはそのスタンスのせいなのだと思います。別物だけど、近寄りたい何かがある。
与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。

59 :THE グル:2006/11/29(水) 23:11:33
いいですか、
愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。
大抵の人は愛と共に生まれ、愛をそれと気付くことなく過ごしてしまい、大人になる頃には失ってしまっています。
もし再び融合できれば、愛を知りつつ感じつつ存在できるようになり、時を忘れることでしょう。


60 :エヌ:2006/11/30(木) 00:24:37
>>50
カオル)  どうして生きているの?
エ ヌ)   生きることに理由が必要なのは人間だけだよ
カオル)  どうして存在しているの?
エ ヌ)   存在しないものなどどこにもないよ
存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ
問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
思考の停止は、哲学の否定だとしても
実存の顕現です

61 :エヌ:2006/11/30(木) 00:29:57
>>54
> 意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
> じつは「何も知らない」ということです。
> もし何も知らないということがすべてを知っている
> ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
> いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。

それが無知の知です

62 :エヌ:2006/11/30(木) 00:47:05
>>56
  消えてしまいそうなわたしとともに
  世界のすべてが消えてゆく
  すべての時間と場所はもはやなく
  世界のすべては閉じられた
世界の不在ゆえに完全な安心が訪れた
世界の代わりに落ち着きと静寂がある
  その静寂を切り裂いたのは
  猛烈な歓喜でした
祝福につぐ祝福
再び世界が新たに顕現した
妄想の世界ではなく
もとあった姿の世界
そこには沈黙があり
微笑があった

63 :エヌ:2006/11/30(木) 00:53:53
わたしが消えた時
わたしはいなくなった
わたしが消えた時
再び帰還することができた
わたしが消えた時
世界も同時になくなった
わたしが消えた時
元の鞘に収まった
わたしが消えた時
妄想は終わりを告げた
わたしが消えた時
現実があった
わたしが消えた時
沈黙があった
わたしが消えた時
わたしは死んだ
わたしが消えた時
祝福があった
わたしが消えた時
存在は称え合っていた
わたしが消えた時
存在は微笑していた

64 :エヌ:2006/11/30(木) 01:02:17
わたしが消えた時、自由であった
わたしが消えた時、何にでもなれた
わたしが消えた時、何者でもなかった
わたしが消えた時、一切全てであった
わたしが消えた時、境界はなかった
わたしが消えた時、一切の謎は解明された

65 :考える名無しさん:2006/11/30(木) 06:55:00
それはすごい。まじかよ。

ところでいつから哲学=自分で考えることという、
一行動を崇め祭り目的化するような倒錯、
いわば偶像崇拝が蔓延するようになったんだろう。


66 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:27:17
>>57 ムートンさん
>さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。

『論考』は精神の超越について、『探究』は身体の超越について、
だから、『論考』は神を、『探究』は歴史を、指し示しているように思います。
精神と身体とに引き裂かれた「私」の生の、その存在神秘に導かれた思想です。

>我思う 故に我あり
>なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。

「思う」というのは、すべての「現われ」のことで、
「私」において、すべての「現われ」が、ゆえに(=)〈ある〉ということ。

「私」という存在者が「いる」のではなくて、「私」=〈ある〉ということ。
「すべての現われ」は(=)「私において」ということが(=)「私である」ということ。


67 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:31:29
>>58 ムートンさん
>気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。

気づいたら、どうしてだか「私は、この私」でした。
現に存在する「この私」は、だからこの世界の中に存在するけれど、
どうしてだか、この世界の中に「私」はいない、という絶対の孤独感です。

>>52
>そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。

たとえば、あなたの言う「ほんとうの私」について、あるいは「愛そのもの」について、
わたしはそれらについて語ってみせようとしますが、その語りはけっして哲学ではない、
というのが、ウィトゲンシュタインの考えです。

  自然科学の命題以外は、それゆえ哲学とは関係のないこと以外は、何も語らぬこと。
  そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、
  あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。
  これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。―― ( 6.53 )

語りえないもの、それゆえ非意味的な( nonsensical )ものにこそ価値があり、
それらは人生において「実践」されるべきものである、と考えていたようです。
率先して戦争に参加したのも、おそらくそのような信念にしたがってのことでしょう。
そうすることは、もはや真偽や正誤の問題ではないからです。


68 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:40:39
>>53
>答えは自分そのもののような気がしてきました。
>「分からない」。それが答え。

答えがないということが、答えでしょうか。
なぜ答えがないのかというと、問いが消滅してしまうからです。
なぜ問いが消滅してしまうのかというと、生の形式を超えているからです。

すなわち、

  生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。( 6.52 )

けれども、疑いぬいてようやく明らかになった

  生の意味を語ることはできない。( 同 )

なぜなら、そもそも生の意味は問うことさえできないものだからです。

ゆえに、

  倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
  倫理は超越論的である。―― 同書( 6.42 )

と言われるわけです。

このような到達がもっとも根源的な生の形式だと思います。
わたしは、ここに人が神を思うことの必然性を感じます。


69 :sew:2006/12/06(水) 13:46:03
カオルさん、こんにちは。
お邪魔します。

魂についてですよね。
どういう話をしたら良いのかわからないので、簡単に箇条書きに私の考え(イメージ)を書きます。

1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)

多少重複してるかもしれませんが、こんな感じです。
カオルさんの方が私よりも魂について話をしてそうなので、
話の最初の方はカオルさんに主導をお任せしてもいいですか?
よろしくお願いします。

70 :考える名無しさん:2006/12/07(木) 03:20:04
あー、ホント、いつの間にこのスレは気持ちの悪いスピリチュアルスレになったんだ。

71 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:30:05
>>54 ムートンさん
>人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。

ふつうには、より良きより高きをめざして人は価値の選択をくりかえします。
より悪しきより低きに流れることは簡単かもしれないけれど、本心において
それをもとめることはかえってむずかしいのではないでしょうか。

より良きより高きの価値の選択の先には、いったい何があるのでしょうか。
もう比べうることのできない、そのような至高の価値があるのではないか、
と妄想するのは、おそらく必然的なことです。その想念が神を創造します。

それにしても、現にこのわたしがいるのは、いったいどういうことなのか、
と想像するとき、その想像は時空の果てをのぞみ、そうして自己の有限を
知ってしまうでしょう。

それでもわたしの意識の矢は止まらず、時空の果てのその先を突き抜ける。
そうしてついには、わたしは生まれなかったことにされてしまうのです。

>人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
>それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
>そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。

けれど、その原理は人間の原理であって、わたしの原理ではないでしょう?
わたしがいなくなっても世界はある、と自然科学者たちは口を揃えて言う。
けれど、そんな夢物語を聞いてあげてるのは、いつだってこのわたしです。

それなのになぜかしら、今日もわたしは地上に立って月を見上げています。
わたしがいなくなったら月もなくなってしまうのに、わたしの月はわたしの
思い通りになりません。いつだってわたしは月を見上げるばかりなのです。


72 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:31:51
>>55 ムートンさん
>私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。

私があなたではないのは、私がこの私だからです。
そうでないなら、私はムートンさんでもかまわなかった。

(語りえない)魂のあなたは、たまたまムートンでした。
魂のあなたは、幼少の頃から「私はどうしてムートンなのか」
と疑問に思っていた。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。

どうしてだか、すべてがこのムートンの視点を通して立ち現われてくる。
と、その一個体をながめているその視点は、だれのものなのでしょうか。

>与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
>その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。

相手のかけがえのなさを自分のそれよりも大切に思う気持を
お互いが持ちつづけられたらいいですね。いえ、相手が大切に思ってくれなくても
相手のことを大切に思うことが愛なのでしょうけど。


73 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:34:17
>>69 sewさん

レスありがとうございます。

> 1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
> 2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
> 3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)

「私は、どうしてこの私なのか?」を「私は、どうしてカオルなのか?」に言い替えてみます。
「どうしてカオルなの?」という疑問は「カオルでなくてもよかった」と思っているからです。
現に「今」こうして「ここ」に、この「体」と「心」をもって生きているのが不思議なのです。

「今、ここ」という時空も、同じ一つの「心、体」が継続してきたという自己同一性も
否定してしまえるということが、すなわち「魂という概念」を呼び寄せてしまうのです。
でもだからといって、いわゆる「魂」(上記1〜3)のことを、はじめから想定している
わけではなくて、そのように名付けることでしか共通理解のしようがないと思ったのです。

わたしたちの日常の共通感覚では「私は、どうしてこの私なのか?」は「私が、対象化した
私を指さしている」ような事態として理解されることでしょう。またそのように理解されて
しまうことで、わたしたちの共通感覚が可能になるのであって、その土台の上で日常生活が
営まれているのだと思います。

はたしてsewさんは、わたしの話しをどのように理解されたでしょうか?

(それから哲学の議論は面倒なので上記1〜3を検討するには時間がかかるかもしれません)


74 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 02:40:53
>>60 エヌさん
>存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
>それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ

知りうるものではないものへの知ということですね。
なにも知らないこと(知りえないこと)を知っている、と。
でも、それを知っている、このわたし、が哲学するのですよ。

>問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
>思考の停止は、哲学の否定だとしても実存の顕現です

実際に存在している「唯一のもの」の顕現ということですよね。
もちろん、唯一のものの顕現は、だれも見ることができません。

唯一のそれは、あらゆるものの存在の条件「ある」そのものであり、
それが「魂」である、というのがエヌ定義ですから、この場合の
「実存」とは「存在そのもの」と同義になりますね。

でも、このとき「私」は、どこに行っちゃったのですか?
たとえば、主題の範囲を私自身に限定したときの、私の
存在の仕方としての実存は、どこに消えてしまったのですか?

(つづく)


75 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 02:53:26

(つづき)

私は、自分が「いる」ことが「わかって」います。
この了解が、私が「実(際に)存(在)している」ということです。

私の起源へさかのぼります。

赤ちゃんは、生きていることそのものだから、まだ「私」ではなく、
言葉も行為もない。だから世界もない。すべて(∞)から、言葉が、
私が、何かを切り分けてきて、はじめて世界が形作られる。

赤ちゃんは「私」ではないから、行為の責任もとれない。
赤ちゃんは、引き受けるものがなにもない(ゼロ)から、
すべて(∞)から、何かを限定する(取り出す)こともできない。
けれど、だから、世界を持たなくても、すべて(∞)と同じなのです。

あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。

「はじめに言葉ありき」の超越的言葉(魂の私)が、自分自身「生きていることそのもの」を、
個体としての生命「生きていること」が、すなわち(=)「私である」と、自己限定するまでは。
(この規定が、この「私」の定義でしょう)

(もっとつづく)

76 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:01:13

(つづき)

だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。
この私が、世界が、魂の私がいてこその物種(永井均)にすぎないなら、
この私が生きていて世界があることに、何の意味もないではないですか。

だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
ここに留まってこそ、この私の生があり、死ぬまでは殺されないのです。

そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
この私が生きているということが、この私が存在しているということだから。

わたしたちが、――私は思う、ゆえに私はある――を、
魂の私ではなく、この私のこととして受け取るのは、
わたしたちが、有限の生における自由をこそ、選択しているからです。

なぜなら、この私にとって「この私であること」の選択こそが、
おそらく唯一の、そして至高の価値の選択に他ならないからです。

一方における至高の価値の選択「魂の私であること」の拒否は、
だから、この私が「生きて、存在していくこと」の選択であり、
すべての相対的価値の根源としての至高の価値の選択なのです。

この選択の先には、相対的な価値の選択しかありえないのだから、
そうであるなら、最初のこの選択こそが、唯一の、そして至高の
価値の選択なのです。

だから「生きているだけでいい」というのは、本来この意味で
‘なければならない’と、わたしは思うのです。


77 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:13:22
>エヌさん

相変わらずの論理には呆れたことでしょうが、
相変わらずでもないことにも気づきましたか?

さて、質問させてください。

a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?

b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
 (もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)

c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?

暇だったら、お願いします。


78 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:35:04
>>59 グルグルさん

いらっしゃい!

ごめんなさい、気づきませんでした。
でも哲板1,2の論客、碩学の人がなぜ?
いえ、よかったらまた来てくださいね。(^.^)

>愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。

乖離しているからこそ、愛とはなにか、私とはだれかを、問えるのです。
問うことをやめたなら、愛に擁かれ言葉は死ぬでしょう。いえ、わたしが。

愛とともに生まれ、それに気づくことなく、わたしがわたしになったとき、
恐ろしい影がやってきて、やがて大きな顔になって、わたしを覗き込む。

わたしのやること為すことが、大きな顔の視界の中の出来事にすぎない。
わたしの生きていることさえわたしの出来事ではないのだ。わたしなの?

カオスの海にとけるとき、泡沫はもう生まれないと夢を見て消えるのです。
いったいだれがそれを叶えないのか。だからきっとわたしは神を赦さない。


79 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 04:34:05
>>62-64 エヌさん

魂の私、実存の顕現の表現ですね。

ひとは、魂の私と心の私とのあいだで人間になるのでしょう。

( わたし + エヌ ) ÷ 2 = 人間、でしょうか。(^.^)

  ――― パスカル 『パンセ』 から。

  私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。
  自分が、この広大な広がりの中の一隅に繋がれているのを見るが、
  なぜ、ほかのところでなく、このところに置かれているのか、
  また、私の生きるべく与えられたこのわずかな時が、
  なぜ、私よりも前にあった永遠と、私よりも後にくる永遠の中の
  ほかの点ではなく、この点に定められたのか、知らない。

  私は、あらゆる方向に無限しか見ない。
  それらの無限が、私を一つの原子か、一瞬あとには、
  ふたたび帰ることのない影のように閉じこめているのである。

  私の知っていることのすべては、
  私が、やがて死ななければならない、ということであり、
  しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
  私のもっとも知らないことなのである。
  
  私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。


80 :sew:2006/12/09(土) 17:15:07
>>73
確かに「私」という概念は「私」というものを対象化しないとないと思います。

「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。

というようなことを本で読みました。
だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。


「私」という1つの個体は、カオルさんが仰る様に時空や心・体などの
無数の条件が折り重なって初めて個体となるのかもしれない。
しかし実際はどうなのかわからない。
自分という個体がいかにして成り立ったのかは生物学的な面(物的な面)ではある程度の形ある説明がつくかもしれない。
実際に見たり、触ったりすることが可能だから。
しかし、別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、と認識することが出来ないから。
結局は精神論の領域なのだと思います。

カオルさんが話したいことがなんとなく理解できました。
「魂」そのものの検討ではなく、自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。

私が書いた1〜3についての検討はやってもやらなくてもどちらでもいいです。
カオルさんのレスを見ていて、少し違うことを書いてしまったような気がしたので。


81 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 19:46:09
『この私』は滅びます。必滅です。
その死骸の上に一輪の花が咲きます。
不滅です。きっと。

82 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:48:32
カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w

>あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
>もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。

赤ちゃんが「じつは宇宙そのもの」っていうのは、存在そのものと一体化してるっていう意味かな?
だったら、赤ちゃんでなくても、普通の大人の人間以外の存在は、存在そのものと一体化してるんじゃないの?
まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
旧約聖書でいえば、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたときに、自分で自分を見て、自分が裸であることを知ったのが始まりですね。
ギリシャ神話でいえば、プロメテウスの火が「自己意識」のことだと解釈する人もいるけど・・

「自己意識」・・
つまり人間には自己が二つあるということですね。
キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
ニーチェは「自己と自己とはあまりにも熱心に対話する」と言ってる。
クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。

>だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。

「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?


>だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
とか
>そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
とかは、まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)


83 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:49:32
>a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?

逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。

>b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?

カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、問いの立て方が稚拙なんですよw  人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、そういう問いは哲学的じゃない。
そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w

>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?

「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。
存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、生命と存在の境界はありませんよ。古代ギリシャの物活論なんかもそうでしょうけどね。

84 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 00:45:13
アホクサw


85 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:38:33

はい。カオルは不滅です。ガクガク((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
(((( ;゚Д゚))))ブルブル

86 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:43:32
>>80 sewさん
>「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。

たしかに見ている「私」は、見られている世界の中の「私」ではないでしょう。
見ている「私」を世界を限界づける外枠のようなものとか、そこから世界が開ける
原点のようなものとか想像することはできるかもしれませんが、その外枠「外」や
その原点「以前」は、もはや想像することさえゆるされないでしょう。

もしもほんとうにその外枠の中にしか世界がなかったり、あるいはその原点からしか
世界が開かれないのであれば「世界は私の世界である」と言えるかもしれません。

>だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
>それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。

たとえ私の「唯一さ、特別さ」が、私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界が
ないからこその「唯一さ、特別さ」なのだとしても、それを知りうるのはだれなのか?
世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?

>別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
>見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、
>と認識することが出来ないから。

ええ、だから「私の世界が唯一の世界なんだから、私は他の人たちとはちがって特別なのよ」
とか言えてしまうんです。「いや、オレのほうこそ、その唯一で特別な私ってやつだよ」とか
言われたら「いいえ、この私が私に決まってるじゃない」とか言い返すわけです。
そうしないと、私の「唯一さ、特別さ」がどこかに消えてしまうので。

>自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。

はい、そうです。


87 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:50:10
>>81さん
>『この私』は滅びます。必滅です。
>その死骸の上に一輪の花が咲きます。
>不滅です。きっと。

その一輪の花の前世が、その死骸だったら、
「オーラの泉」で説教されそうで、最悪です。(^_^;)


88 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 04:39:34
>>82
>カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w
>>85だけでは申し訳ないので。

>まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
この私がどうのこうの言ってるんだから、そうでしかありえないでしょう? 
禁断の木の実を食べた証拠は、男性にしか現われていないです。ええ、その(アダムの)喉仏です。

>「自己意識」・・
>つまり人間には自己が二つあるということですね。
自己反省的(言及的)、あるいは自己帰属的な主体「自己」については、そうでしょうね。

>キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
これは、今↑言った「自己」とはちがいますね。

>クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。
「自己言及のパラドクス」と呼びますから、そうでしょうね。

>「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?
そうですね。

>まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、
>たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)
そう思ってもらってかまいませんよ。わたしには意味不明どころか自明なんですけどね。


89 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 04:46:53
>>83
>>a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
>逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
>ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。
ん? 意識の過剰(肥大した自我)の縮小が意識の拡大では? なぜに逆?(興味津々)

>カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、
>問いの立て方が稚拙なんですよw  人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、
>そういう問いは哲学的じゃない。
>そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w

すでに生きていて生きていないことができないし、すでに存在していて存在しないこともできないし
ってことですね。双方について知りうる者だけが、一方のこともわかる、それが、神さま、と。

ウィトゲンシュタイン先生の言うとおりにするのが良い子なんですか?
じゃあ、わたしは悪い子ですね。(笑)

>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
>「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。

それを言うなら、そもそもの時空についても考えないとね。でも、

>存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、
>生命と存在の境界はありませんよ。

ということでいいなら、それにしておこうかな? 落差激しくないですか?(笑)


90 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 05:42:08
>>89
>ん? 意識の過剰(肥大した自我)の縮小が意識の拡大では? なぜに逆?(興味津々)

あー・・
今「意識の拡大」で検索して気づいた・・
これは《精神世界》の用語みたいねw
http://www.interq.or.jp/sun/sela/sela/sekaiju/6-16.html
「自らの神性を顕現せよ。そのために愛と調和に基づいた発想をせよ。そしてどんどん意識拡大し神と同じレベルまで昇ってくるのだ。」

カオルちゃんが、《精神世界》のお話しを《哲学》としちゃうことをすっかり忘れてました [苦笑]

91 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 06:18:57
>>90
>カオルちゃんが、《精神世界》のお話しを《哲学》としちゃうことをすっかり忘れてました [苦笑]

体験そのもののことはともかく、そのような体験の記憶の想起が
どうしてだかわからないけれどもできてしまうので、そのような体験の
報告がされているのですよ。それについて検討しているのです。

よく指摘されるのは、脳内麻薬の分泌との関係です。
つまり、人工的にそのような現象が引き起こせるのですよ。

べつに珍しい体験でもないように思いますよ。
エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。

今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?
だって、あなたはググッただけで何も知らないのだから。


92 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 09:35:53
>エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
>もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。

>今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
>でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?


エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。
エヌさんの哲学的発言の例↓

>>31
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
>>47
>存在することに理由は要りませんよ

仏陀だって、死後の世界などの形而上的事柄については、基本的には「無記」(答えない)という立場だったはずで・・
仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
仏教で輪廻について語られるのは、古くからインドに伝わる輪廻を信じている民衆のための方便だったんだろうね。

ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。
その仮説がどういう意味を持つかといえば、キリスト教の終末論的で有限な直線的時間論に対して、
永劫回帰という仮説を対抗させることで、目的論的思考を超克しようとした、という意味をちゃんと持った仮説であるわけで・・

《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。

「魂」って何ですか?
霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、カントによって証明されたことではないの?


93 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 14:09:28
>>92
カントが証明したからといって
それが正しいと盲信するのはどうかな?
哲学の問題にしても良いんじゃない?

94 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 16:35:28
>>93
>カントが証明したからといって
>それが正しいと盲信するのはどうかな?
>哲学の問題にしても良いんじゃない?

いいですよ。 だめだとは言ってない。
ただそれがアンティノミーに陥ることは、カント以降に生きる我々にはすぐに分かることでしょうね。
カント以降に神の存在証明とか霊魂不滅を証明しようとする哲学者は、ほとんどいなくなった。
そういう意味では、哲学にも過去からの積み重ねっていうものがあるわけですよね。

で、私は
>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
>全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
と書いたわけだけど、
「霊魂」という語が哲学で使われていたのは主に古代から中世の哲学であって、19世紀以降(つまりこれがカント以降
だと思うんだけれど)はほとんど使われなくなったと思う。
そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、「霊魂」という語で何を示そうとしているのか
を明確にしてほしいということです。

(あと、「妄信する」というような何の根拠もない罵倒言葉に等しい言い方は、できれば使わないほうがいいですよ)

95 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 22:30:25
>>94
なんでも小難しく言葉を羅列させるのが哲学と思ってる馬鹿の典型

96 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 23:47:31
>>92
>エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、
>いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。

かれは、形而上学的な想定(仮説)としてしか語られないことについて、
その体験知を言葉にしているのです。

そもそもその体験知のない者にとって、それは理解できない。
正確に言うなら「悟れない」ことです。

語りえないと言ってみせることが哲学的なわけではない。
そこに至る思索の軌跡そのものが哲学ではないですか。

>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ

以前彼は、輪廻があるという想定で話していたので確認しただけ。

わたしにとっては、もっとも安易な問題の解決の仕方が輪廻です。
もちろん、だれにでも当てはまるような、だから問いの本質を取り
逃がしてしまうような結論に飛びつくはずがない。

あなたは「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」は、
問いの立て方が稚拙だと言った。言いたことはわかるので回答もした。
でも、まったくもって完全な的外れなのですよ。わたしの問いは、

  私は、どうして生きているの? 私は、どうして存在しているの?

であって、問いから「私」を省略したら、まったく意味がなくなります。
あなたはそもそもそこがわかっていない。


97 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 23:51:33

>仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
>〜ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。

わたしはわたしの問題意識において輪廻は否定しています。
わたしにとっては論理的帰結としてのそれですが、
その論理を超えるものについて問うてることもまた事実です。

ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。

>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、
>その言葉が何を指しているのかが、全く明確でないからでもあるし、
>それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。

わたしは、あなたが勝手に思い込んでいるような、いわゆる「魂」について
話したいのではなく、そのような「魂」が存在しつづけるようなことを前提
しているのでもまったくない。そのような話がしたいのではないからです。
わたしの書いてきたことを読んでもらえば明らかなはずです。

>霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、
>カントによって証明されたことではないの?

霊魂の不滅について話しているのではない。
「私が私であること」と「私がこの私であること」について話している。
あなたにはそれがわからないのでしょう。それでいいのですよ。


98 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:14:07
>>94
>そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、
>「霊魂」という語で何を示そうとしているのかを明確にしてほしいということです。

わたしに聞くべきでは?

「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?

「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
それについて哲学しているのですよ。

ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
なぜなら、存在は存在者ではないからです。

「何か」(対象)として「示す」ことで「明確に」する、というようなものでは
ないからです。すなわち、言語(論理)の形式、あるいは生の形式を超越して
いることについて語っていることを「明確に」自覚していたのです。


99 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:15:11

ウィトゲンシュタインは、語っています。

  私は、ハイデガーが存在と不安について考えていることを十分考えることが出来る。
  人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。
  例えば、あるものが存在する、という驚きについて考えてみよ。
  この驚きは、問いの形では表現され得ない。
  そして、答えは全く存在しないのである。
  
  我々がたとえ何かを言ったとしても、
  それは全てアプリオリに、ただ無意味でありうるだけなのである。
  それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。
  キルケゴールもまたこの突進を見ていた。
  ……  
  言語の限界に対するこの突進が倫理学である。
  ……
  しかし、この突進という傾向は或るものを暗示している。
  それはすでに聖アウグスティヌスが、
  
    なんだと、この不潔な奴め、お前は無意味なことを語ろうとはしないというのか。
    お前みたいな奴は無意味なことだけを語れ、そうすれば害はないから。
  
  と言ったとき、知っていたものである。

  Dune's Home Page ――『倫理学講話』(1929-1930)について
  ttp://www.kotoba.ne.jp/~dune/index.cgi?k=wit_ethic から。


100 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:22:25

また、HP製作者のDune氏は、言っています。

  ただし、重要なことは、この「言語の限界」で語りたがる人間の傾向を、
  ウィトゲンシュタインは「敬意」を払うべき事柄であると結語している点でしょう。
  決してあざけることはしない。と、ウィトゲンシュタインは重ねて言明する。

と。ハイデガーの自覚があるか、ウィトゲンシュタインのように身を捩るような断念があるか、
ということを、もしあなたが言いたいのだとしたら、あなたには何も言えない、とわたしは思う。

ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?

意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。
かれが苦を回避する方法として説いた、神との合一、悟り、イデアの認識は
あきらかに意識の拡大と関係しているように、わたしには思える。

まちがっているかもしれない。でも議論する価値はあると、わたしは思う。
しかしあなたの態度では、そもそもかれのいう「盲目の意志」について語ることが、
すでに禁止されているのではないですか?

形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。

それはそれでかまわない。それがあなたの格率なのでしょうから。
でも、それはあなたの思想であって、他人に押し付けるものではありません。


101 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 01:29:08
なんだ カオルは 誰かのコピペ貼って
そうだ!そうだ!って同調するスネオみたいな奴なのか?

102 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:32:54
>>97
>ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
>仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
>だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。

「超越をこそまなざしていた」って、どういう意味なの?

(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)


>>98
>「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
>「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
>なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?

カオルちゃんの妄想ですw  私は「進歩」なんて書いてませんから。

私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。

カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。



103 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:33:48
>「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
>それについて哲学しているのですよ。

だから・・

私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を『再び持ち出す意味、意図』。そして、
『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、当然過去の用法を引きずるわけですよ
(要は手垢がついているってこと)。だからたとえばソクラテスが言った「魂」と考えていいのか、
それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、そういうことを明確にしてほしいっていうこと。

(カオルちゃんはレスの量が多い割には内容が少ない・・。
そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )


>ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
>なぜなら、存在は存在者ではないからです。

違うんじゃないの? だって存在論的差異は『存在と時間』の頃からの思想だけど、
「存在」にバツをつけたり他にもいろんな書き方をするようになったのは、後期だからね。
後期の「四方域」とかのハイデガー独自の意味を持たせるには「存在」っていう、
過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。

(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)

104 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:36:27
>>100
>ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
>ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
>自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?

あのねぇ・・w

カオルちゃんは『いわゆる「意識の拡大」』と書いている。「いわゆる」というのは「世間一般に言われる」
という意味である。ところが私は「意識の拡大」という用語を知らなかった。だから「意識の拡大」で検索した。
その検索結果の上位は、いわゆる《精神世界》と思われるサイトで占められていた。
そこで私は『これは《精神世界》の用語みたいね』と書いた。

これは、ごく自然な流れだと思いますが・・


>意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
>物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。

そうなの? 私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
みたいな事を書いてるの?

(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、話にならないけどね・・
私が>>94で言いたかったのはそういうこと。つまり「語りえない」で通したらそれは哲学じゃない。
その事柄そのものは「語りえない」とすれぱ、
その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。)

(「意識」っていうのも、すごく手垢がついた言葉で、したがってすごく多義的だからね。
多義的な言葉をそのまま曖昧に使うのがカオルちゃん流かなw)



105 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:37:09
>形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
>形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
>形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。

これも、「形而上学」っていう多義的な言葉を曖昧に使ってるから間違ったことを言ってしまういい例だね。
(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)

現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。
意味が全然違います。


106 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:23:31
>>102
>(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
>仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)

ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。

仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。
その意味で、現実的とは言えるのかもしれませんね。

>私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
>「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。

変化なんてしていませんよ。
新たな概念装置の発明、新たな解釈の仕方、新たな専門分野の開拓……
「新たな」それはどうでもいい。哲学とは何の関係もない。

哲学は問いかけることからはじまります。
問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。
その問いについて自分の頭で考えることが哲学するということです。

たとえだれかの哲学を利用するにしても、その人が自分の哲学をしているなら、
必然的に自分の哲学になってしまうはず。あなたの大嫌いなマイ哲学に、です。

哲板自治議論じゃないんだから、かんべんしておくれよー!


107 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:25:38

>カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
>カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
>簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。

超越論哲学が引いた境界線とは何か、どのような意味での境界線なのか、
境界線を定める方法論は正しいのか、どのような意味で正しいと言えるのか……
自力で一生賭けたっていいし、到達できなくたっていいじゃないですか。

わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)

で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
ではないのか、とわたしは疑っています。

つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。
わたしの問いは、物自体としての「われ思う」そのものに向けられています。
当然、純粋理性の誤診やアンチノミーの問題がかかわってくるのでしょう。


108 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:27:58
>>103
>私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を
>『再び持ち出す意味、意図』。そして、『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
>古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、
>当然過去の用法を引きずるわけですよ(要は手垢がついているってこと)。

  私は、どうしてこの私なのか?

最初の「私1」と、後の「この私2」は、A=Aじゃないのですよ。
「この」が指示する「私2」についても、固有名のカオルなのか、体なのか、心なのか、
あるいは、カントでいう非人格的自我としての統覚なのか……何れにしても、最初の「私1」が
それらすべての「この私2」ではないのだとしたら、私1ってだれ? じゃぁ魂ってことで。(笑)

>それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、

込めていないけど、いい表現がみつからない。
でも、上に書いた問いが理解できる人なら、きっとわかる。


109 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:29:24

>そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )

最近では、永井均と<独在性> 2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151940034/ です。

信頼している人に嫌われてしまって、一度去ったのだけど、また復帰しました。
あいかわらず、だれにも相手にされてないですが。(T_T)

>過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。

わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
そうすることの本質的な意味について言っています。

>(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を
>「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)

別にそれでいいです。かまわなければいいじゃないですか。


110 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:36:01
>>104
>私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
>みたいな事を書いてるの?

議論が厳密ではない? あなたと話しているわけではないもの。

ショーペンハウアーは、物自体としての意志の断片にすぎない表象が、
それ自身の存在の仕方で(根拠も持たずに)実在(努力)しつづけようと
永遠に循環しなければならないことを「苦」と考えました。
その苦を回避する方法として「神との合一」「悟り」などを想定しました。

「自己意識を捨てる」に関連づけていうと、
(ショーペンハウアーの個別的意志を自己意識と考えて)

「個別的意志を捨てる」というのは「個別的意志による個別的意志の否定」ではなく、
「美的観照は個別的意志を沈(鎮)静化させる」みたいなニュアンスのそれです。
たとえば、無念無想がそれを意識しているかぎりは、無念無想ではないようなこと。

「個別的意志の消失」→「主客の合一」→「無」(神との合一、悟り)でしょう?
物自体としての意志の断片である「個別的意志(私)の表象世界の消失」について
もし言語によって表現しようとするなら「無」と呼ぶしかない、みたいな感じです。

無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。

もちろん、まじめに議論してないよ。どうでもいいから。


111 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:38:28

>(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、
>話にならないけどね・・

話にならないなら、話さなければいい。

>その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。

そうですか、がんばってください。

>>105
>(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)

はいはい。

>現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
>ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。意味が全然違います。

わたしの発言は、ポモの代表格デリダを念頭においたものです。どうでもいいけど。
あなたの知識は「サルでもわかる哲学史入門」に書いてありました。どうでもいいけど。
わたしの発言もあなたの知識もどうでもいいものだと思う。全く無意味、時間の無駄です。
哲学史の知識は哲学とは何の関係もない。それにあなたよりわたしの方が多分詳しいし。


112 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 01:51:13
哲学ってものがまだよくわかってない素人なんですが
哲学ってのは相手をやりこめるのが目的なんですか?

113 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 02:15:50
カオルは自分が嫌われやすいというのは自分でもわかってるのでしょう?
皆に嫌われる理由 それは幼いからです
自分に向けられた意見に対して、攻撃的に反応してしまっているのです
カオルは自分ではそんなことはないと言うかもしれませんが
文章に攻撃性が滲み出てきてしまっているのです
もっと自分を見つめてみることが必要です

114 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:35:44
>>106
>ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
>簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。

(なんだか、詭弁っぽいですけど・・)
「超越」そのものではなくて、まさにその「超越へのまなざし(つまり彼岸世界への信仰)」
をニーチェは批判しているんですよ?
「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
その「超越へのまなざし」によって現代のニヒリズムが生じたとニーチェは考えるわけですからね。


>仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。

カオルちゃんはどうして、仏陀の実践が「超越に至る実践」だったと思うの?
私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。


>変化なんてしていませんよ。
>・・・
>哲学は問いかけることからはじまります。
>問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。

(2年ほど見ない間に、カオルちゃんは本当に詭弁家になってしまったのかな・・)

「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
(たとえば、ソクラテスは霊魂の不滅を証明しようとしましたね。霊魂不滅の証明は、
古代ギリシャの哲学としては認められるとしても、現代では普通は哲学とは見られないっていうこと)




115 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:37:21
>>107
>わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
>デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)

デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。


>で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
>ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
>ではないのか、とわたしは疑っています。

>つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。

カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。

(そもそもカントのいう「現象」というのは、人間悟性によって認識されたもののことですよ?
「われ思う」が現象だとしたら、「われ思う」を認識している人間悟性は???)

116 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:38:21
>>109
>わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
>そうすることの本質的な意味について言っています。

ええ。だからその本質的な意味をカオルちゃんは知らないんですよ・・

「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
それは「交差」を表してます。それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に
「存在」が現成するっていうことを表す「交差」です。


>>110
>無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
>このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
>消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
>比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
>つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。

少しわかってきました・・

カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
世界霊魂は神と同一視されることもあるわけだから、
「魂」なんていう(現代では)分かりにくくなった言葉を使うより、
いっそのこと、もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
(だめですかねw )




117 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:09:11
>>114
>「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
神への誠実さ、ということを考えてみてください。
誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。

>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?

>「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
「哲学史入門」に書いてあるような問いの内容?なんてどうでもいいのですよ。
ひとり自分からはじめて、どこにも到達しなくたっていいのです。

>>115
>デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
>「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。
デカルトの、その思索の結末(精神的実体の想定)が真実なわけではないです。
カントだって『オプス・ポストゥムム』への零落の道をたどったではないですか。

>カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。
その自覚ってだれがするのですか? 自覚の定義は?

とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
ですから、物自体でも現象でもないのですが、現象界の外にあるとはいえない、という意味で
現象界を否定する物自体としての「われ思う」とは対照的に使いました。



118 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:11:58
>>116
>「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
>それは「交差」を表してます。
>それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に「存在」が現成する

現存在は徹頭徹尾言語存在者であり、現存在に開かれる世界は意味連関の世界ですが、
ハイデガーの想定した四方域の一方である「死を能くしうるもの」としての現存在は、
言語存在者としてのみずからの超越において(死において)あるものとしてのそれです。
すなわち、現存在の両義的な存在の仕方、存在論的差異における差異そのものとしての
あり方(運動)を示しています。

けれど、ハイデガーは世界を構成する原因であり、またみずからがその要素でもある
現存在の両義的なあり方の他に、神的なもの、大地、天空の三原因まで加えてしまった。
それらは必然的に四方における差異そのもの‘として’の性格を残してしまうがゆえに、
意味連関の世界に引きずり込まれてしまうこともまた必然なのです。

ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。

しかし、現存在以外の三方の想定は端的に議論の後退にしか見えないです。
そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
「存在者」が「現成」するならまだしも……。

『存在と時間』が未完であることにおいて示しえたその限界の美しさを
容易に飛び越えてしまったかのような醜さを、わたしは感じてしまいます。


119 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:22:56
>>110
>カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
>〜もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
>(だめですかねw )

そうかもしれないけど、だめです。

『ORION』(中原紀生)―― 不連続な読書日記 No.43
ttp://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/43.html

ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。

ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。

とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。

この不可避とも思える「世界霊魂」の「この私の世界」への超越が、
「私は、どうしてこの私なの?」という問いを生み出します。

(この事態を「存在」の現成とかいうなら理解できます)

視線の向きが逆なんです。でもそれは「神の視線」ではありません。
だって、わたしの視線なんだから。

で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
わかりますよね? 気遣ってくれますか。


120 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:43:36
>>117
>>「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
>神への誠実さ、ということを考えてみてください。
>誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
>でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。

ニーチェが考えていたことについての話しなのに、なんで唐突に「神への誠実さ」が出てくるのか、
意味がわかりませんw  どういうことですか?


>>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
>そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?

とんでもない実践・・?
苦を滅するための実践として仏陀が説いたのが「八正道」ですよね?
「正しい見解」「正しい思惟」「正しい言葉」・・・
これらがどうして、「超越に至る実践」であり「とんでもない実践」であるのですか?


>とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
>という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
>ですから、物自体でも現象でもないのですが、・・

いえ違います。アプリオリとアポステリオリが物自体と現象に対応するわけじゃないんです。
(カオルちゃんはたぶんアプリオリとアポステリオリの意味を勘違いしている)

物自体は経験を超越した認識の対象で、現象は経験的認識の対象で、どちらも認識の対象ですけど、
統覚は認識に常に伴うものであって、認識の対象ではないから、物自体でも現象でもないんです。
(カントの「われ思う」において、「主観」が確立され、「客観(対象)」が確立されたわけです)


121 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:44:42
>>118
>ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
>「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。

これは、私が「存在×」の「×」は、単なる抹消ではなくて 「四方域」の「交差」だ
と教えてあげたことに対する反論なんですか??

(じゃあ一応ハイデガー自身の言葉を引用しておきますね。
「十字交差の徴は、上に言われたことに従えば、勿論、抹消という単に否定的な徴ではあり得ない。
その徴はむしろ、方域の四つの方面とその四つの方面が十字交差の場所において集まっていることの内へ、
示し入っている」『有の問へ』)


>そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
>「存在者」が「現成」するならまだしも……。

カオルちゃんはハイデガーを読んだことがありますか?
「現成」っていうのは、ハイデガーがWesen(本質、実在)っていう名詞を動詞として使った言葉なんですけど、
道元の用語である「現成」って訳されるのが普通です。

(用例はたとえば、「存在は、性起として現成する」『哲学への寄与』みたいな感じです。)
(ちなみに上の「性起」も仏教用語ですね。)


122 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:47:49
>ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。
>ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。

この読書日記を書いた人は、ヴィトゲンシュタインの単なる覚え書きに過ぎないものを、安易に著作に結びつけ
ているから、たぶん学問的研究のし方を知らない人ですね。
覚え書きっていうのは、単に人の本から書き写しただけのものとかが混ざっているのが普通だから、
もっと慎重に扱わないとだめなんです。

ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「魂」について書いているのは、こういうことですよ。
「人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されていない。
それだけでなく、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。」
(6.4312)


>とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
>そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。

「存在論的差異を乗り越える」って、どういう意味ですか?


>で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
>わかりますよね?

わかりません。
カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
煙に巻くこと、と私は見ていますw

だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
不幸なことです。

(私は「嫌い」というほどではないです)

123 :考える名無しさん:2006/12/14(木) 19:01:27
嫌いじゃないけど問題を共有できないから書くことないんだよね、、
価値論スレみたいにまったく分からないってことはないから読んでておもしろいけど。。

124 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 00:40:25
>>77
> a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
たぶん意識に大きさはないと思われ

> b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
>  (もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)
思考停止とは妄想の欠落です
意欲はバリバリに出てきますよ

> c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
存在とは生命のことなんですか?

無機物など非生命も存在していて
生命非生命に関係なく同質ですよ
さらに有形のものから無形のものまで存在は全て同質ですよ
その上、存在とは同質の意識があるものですよ
それゆえ、交流が可能なんですよ

125 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 01:00:18
>>124はエヌです

意識は無口でただ黙っている
それゆえ、それに気がつきにくい
意識はいつもそこにあるのだが、もの静かなため気がつかない
意識に気がつかせない原因は四六時中活動している思考にある
思考がカーテンのように意識を閉ざし気づかせない
カーテンはただの思考であって現実ではないのだが
それが現実のように感じ
それゆえカーテンに写るものが現実であると考えるようになる
思考のカーテンが下りたとき
初めてカーテンに写っていたものは妄想であったと気がつくことができる
妄想がないとき、現実に触れ、意識に触れる
いや触れていたけれども気がつかなかったのだ

126 :エヌ:2006/12/16(土) 01:13:53
思考のカーテンはカーテンに写るものが無くなったときに自然に下りる

>>79
>   私の知っていることのすべては、
>   私が、やがて死ななければならない、ということであり、
>   しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
>   私のもっとも知らないことなのである。
>   私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。

生まれた(と見なしている)ものはやがて死ぬでしょうし
生きている時には死はまだ訪れていないのでどのようなものかわからない
しかし死が訪れた時にはそれを伝える術はない
言えることは、
変化し続けるものは、やがて生⇒死⇒生へと変化し続けるでしょう
しかし変化しないものは、いつまでも生死の変化はしないものです
無形でこれまで変化したことのないもの不変であり普遍なもの
それを仮に魂と命名してみたのです

127 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/16(土) 01:58:02
>>122
>わかりません。
>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>煙に巻くこと、と私は見ていますw

哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
また、あなたが言うように思われていることは客観的な事実です。
いまさら無意識のせいにもできないでしょう。

>だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
>「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
>不幸なことです。

たぶんそうなのでしょう。
でもそのような不幸ではなく、わたしの哲学が純粋にわたしの哲学であるために
だれにも理解されない不幸を求めたいと思います。

>(私は「嫌い」というほどではないです)

わたしのもっとも嫌いな評価です。よくわたしを知っていますね。

その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
答えようがありません。失礼しました。

それから、当り前のことですがこのスレにあなたが書き込むことはあなたの自由です。
当然、あなたはわたしの発言があってもなくても、ご自分の意志にしたがって行動されるでしょう。
けれど、あなたにたいしてあなたの行動の抑制を意図した不適切な発言をしてしまったことを
ここに深くお詫びさせてください。すみませんでした。


128 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/16(土) 02:50:20
>エヌさん

あなたは、もうわかっているでしょうけど、
わたしには、あなたの言っていることの何一つもわからないです。
まったくわからないのに、それを哲学で重ね描いてみせることに
いったいどのような意味があるでしょうか。

世界中には「わたしは、どうしてこのわたしなのか?」と問い掛ける子供たちが
数え切れないほどいるというのに、そのひとりですらないわたしが、この問いに
こだわるのは、現に今ここに生きているわたしだけが、わたしであることを、
このわたしが、わたしの身体の死によって、確実に永遠に消えてしまうことを、
ただただそれだけを信じたいからです。

わたしの生の唯一の価値であるそれを否定するいかなるものも許したくない。
そのためには、見ることのできないものの一切はないのでなければならない。
それなのに、わたしはわたしであったためしがない、それがすべてのはずの
わたしがどこにもいない。わたしがわたしであることが、わたしの夢なのです。

わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。


129 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 10:02:40
ヒラガナ キョーシツハ ココデツカ?

130 :考える名無しさん:2006/12/19(火) 00:11:28
>>128
>わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
>ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。


こういうことを書く人って、どういうつもりで書いているのかな。
「わたしの病気」を人に理解して欲しいのだろうか。
「わたしの病気」を、他の人にも感染させたいのだろうか。

(病人の行動は、健常者には理解できないか。。)



131 :エヌ:2006/12/20(水) 01:15:28
>>128
>わたしの消滅
その前に「わたし」が何かわからないなら消えようがないと思う
私のモノがわたしであろうか
私の身体がわたしであろうか
私の思いがわたしであろうか
私の一体何が私であろうか

許すも許さないも
既に決まった事実があるだけで
私が有るなら、私はずっとあり続けるだろうし
私が無いなら、私は元からない

新しく生み出されたり、消滅したりできるものが
どこにあるだろうか
あるモノが無くなった
しかし本当は無くなってなどいない
形が変わっただけで消滅などしない
同じように
あるモノが生まれた
しかし本当は生み出されてなどいない
形が変わっただけで新しく創造することなどできない

それならば「わたし」とは一体何だろうか
「わたし」が生まれたり消えたりできるのだろうか
この謎が解かれぬうちは
その先もまた謎なりけり

132 :エヌ:2006/12/20(水) 01:23:41
人の心は、いつでも飛んでゆく
今この時この場所を楽しめない

人の心はいつでも、ここに居ない
考え事をしているだろうか
先の計画をしているだろうか
過去を悔やんでいるだろうか
とにかく、いつも思いを馳せている

人の心はいつでも、止むことが無い
常に思いを馳せている
内容はくだらないことばかり

いつになれば正気になるのだろう
いつになれば思考から抜け出せるのだろう
いつになれば切ったり入れたりできることを覚えるのだろう

133 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 00:41:22
>>131-132
>「わたし」とは一体何だろうか

馬鹿だね、お前はw
「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
そんなの謎でもなんでもないだろw

>いつになれば正気になるのだろう 

お前はいつだって正気なのよ
お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
でもお前はそれを認めたがらない

そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
運ばないことだらけなんだからw

そこでお前は小さなその脳味噌で考える
こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw

世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪

この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
できないほどオツム弱いのよ、お前はw

134 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 01:32:16
>カオル
自殺美化と教祖願望の結合か・・・・・・
はやく夢から覚めてね

>>130
カオルは断じて病気なんかじゃない。
自分が凡人であることを認められない凡人なのだ。
インターネットによって自意識を肥大させられた犠牲者かもしれない。
こういう人はいまどきけっこう多いのだ。

135 :エヌ:2006/12/23(土) 23:51:46
>>133
なんだかな
変なのがくっ付いてくるなぁ

> 馬鹿だね、お前はw
> 「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
> 物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
> そんなの謎でもなんでもないだろw

どっかの本でも読んで考えた結論がそれか
実際にわからないことを知ったように書いてもなぁ
間違い

> お前はいつだって正気なのよ
> お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
> でもお前はそれを認めたがらない

話の脈絡がないんだが・・・

> そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
> 運ばないことだらけなんだからw

君がいつも感じていることがそのまま出てるぞ

> そこでお前は小さなその脳味噌で考える
> こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
> 考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw
> 世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
> 現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪

良くわからないんだけど、おそらく君の脳内の葛藤なんだろうな

136 :エヌ:2006/12/23(土) 23:52:16
>>133
> この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
> できないほどオツム弱いのよ、お前はw

いつも、そんなこと言われてるの?
君の日頃の葛藤が良くわかるけど
八つ当たりして、脈絡のないことを書いても伝わらないぞ

137 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 00:46:10
>>135-136
あはははw オマイの「脈絡」に沿って書いた結果なんだがナ、、、
それより、ヒトのレスを長々と並べるしか能が無いのかオマイはw

どうしてオマイには主張というものが無いのかわかるか?
わかっかんね〜だろなぁ〜〜w
それはね、考えずに生きて来たからなのよw

>>131-132 
不明に不明を重ねてますます不明の深みに・・それがオマイなのよw
不明の深みとは(ここでは)混迷の極みを指すが、
オマイの小さな脳味噌は、それを人生の意味や感覚の深みと錯覚し
結局脳内では処理し切れなくなって脳外へ生ゴミのまんま放り出すw


    感受性をとっくに失くした感覚と

          自らの頓挫した思考の関わる余地も無く・・w




138 :◆4Ijqvx1jbw :2006/12/24(日) 01:54:52
>>カオルさん

 わたしという自己意識とわたしの眼前に広がる世界とが、わたしにとって預かり知らぬまま
何らに成立している以上、わたしとわたしに連関する事象がどうであれ、わたしは(自律自足した)
わたしであったことはなく、これからも無いように思います。
 わたしをわたし成さしめているあらゆる根拠はわたしの認識のかなたにあり、
わたしはただ、わたしというかなたからかなたへ移ろう儚い現象にすぎない。
日常にただ邁進する多くの隣人と多少違いがあるとすれば、自己自身を無垢に享受しているか
訝しげに懐疑しているか程度。しかしその懐疑も、或いはカオルさんが最後の拠り所にしている
自死でさえ、かなたから享受している能力である以上、かなたを超え出る力は無いです。
同様に、例えば悟りの境地云々といったことどもについても。

 わたしが(自律自足した)わたしである為には、かなたとしてのわたしのくびきを脱し、
かなたの彼方としてのわたしであらねばならない。けれどもかなたはかなた故に
わたしにとって認識不能であるのに、そのまた彼方など無内容な言葉遊びにすぎません。
ショーペンハウアーの語る意志否定が相対的な否定に留まって絶対無には及びもつかないように、
かなたを超えた境地など、わたしには想像すらできません。
 それではわたしがわたしである為に一体何が出来るのか。前述のように根本的には何一つ
出来はしないけれど、かなたを超え出ることを断念することによってのみ、
一矢報いることは出来るかも知れません。裏の裏が表であるように、
かなたの彼方は現象としての現にこうして笑い泣き思考しているわたしそれ自身である、と。
 かなたとしてのわたしから逃れようとするからこそ、いつまでもわたしは(自律自足した)
わたしに成れない。そうではなくて、かなたを意識しつつも、それと自己とを断絶すること。
それで初めてわたしはわたしという現象を自己の基盤とし、それを起点に自律することが
出来る!

139 :◆4Ijqvx1jbw :2006/12/24(日) 01:55:38
 Sがこうして思考していることも N・H・K の仕業かも知れませんし(笑)、カオルさんの語る
神様のせいかも知れません。でも、だから何?
 神様に引きずられるわたしの世界は未来永劫に神様の悪戯。けれど、かなたへの従属意識
を断ち切り独立宣言したその時から、わたしはわたしとわたしの連関を引き受ける代わりに、
わたしの意識が継続するかぎりわたしであり続けられるんです。あとはわたしが一生懸命
わたしの世界を生きるだけ。何もムツカシイことなんてないんです。
 って要するに見えないものを切り取って今を生きるみたいな、それってカオルさんがずっと
主張してきたことですよね。でも、都度に神様云々と恨み節を言ってしまうあたり、
やっぱり見えないものに囚われているように思えるし、もし神様(或いはわたしであった
ためしがないわたし)への当てつけの究極として自死を選ぶとするなら、それは全くもって
わたしとして死ねない、わたしを不本意に否定するだけの他律的な選択ではないでしょうか。
そう、強く思います。
結果としてどうとかはどうでもいいけれど、どうかカオルはカオルとして胸を張って生きましょうよ。
ね。

140 :エヌ:2006/12/25(月) 03:22:57
>>137
> あはははw オマイの「脈絡」に沿って書いた結果なんだがナ、、、

何度も書かせるなよ

> お前はいつだって正気なのよ

この↑と
この↓と
の脈絡を書いてくれ

> お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
> でもお前はそれを認めたがらない

具体的に何を認めていないのか
書いてみな


> それより、ヒトのレスを長々と並べるしか能が無いのかオマイはw

君さぁ、自分の書いていること自分で解からないだろう
脈絡もなく被害妄想的になってるし

> どうしてオマイには主張というものが無いのかわかるか?

わかるも何も脈絡なさすぎ。君、大丈夫?

> わかっかんね〜だろなぁ〜〜w
> それはね、考えずに生きて来たからなのよw

君さぁ、自分が言われてることを、そのまま八つ当たり的に書いてるだろ

141 :エヌ:2006/12/25(月) 03:25:37
> >>131-132
> 不明に不明を重ねてますます不明の深みに・・それがオマイなのよw
> 不明の深みとは(ここでは)混迷の極みを指すが、
> オマイの小さな脳味噌は、それを人生の意味や感覚の深みと錯覚し
> 結局脳内では処理し切れなくなって脳外へ生ゴミのまんま放り出すw
>     感受性をとっくに失くした感覚と
>           自らの頓挫した思考の関わる余地も無く・・w

なんかさ、落ち着きなって
妄想ばかりしてちゃ
みんな呆れるばかりだぞ

142 :考える名無しさん:2006/12/25(月) 13:31:24
>>140
間抜けな会話が好きなんだw
それともマシに書いてんの?

だいたいオマイ脈絡の意味わかってないだろw
何故それがわかるか教えとくねオマイIQ低そうだから
脈絡の意味わかってたら、しない質問ばっかしてるのよオマイってw

   わはははは !! 

>みんな呆れるばかりだぞ 

  みんな ←って誰w



143 :考える名無しさん:2006/12/25(月) 13:32:00
マシ→マジ                   あははw !! 

144 :sew:2006/12/27(水) 17:03:20
>>86

>たとえ私の「唯一さ、特別さ」が、私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界が
>ないからこその「唯一さ、特別さ」なのだとしても、それを知りうるのはだれなのか?
「知る」という表現ですと、少し語弊が生じるかもしれませんが、
そのような感覚などは誰でも感じることはできるのではないかと思います。
自分だけが特別な存在なのだと。

>世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
自分自身しかいないと思います。

>世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
たぶんそれは、「私」とか「自分」とか「自分自身」と言うのだと思います。
それが厳密に「これこれこういう人」というのは難しいと思います。

145 :考える名無しさん:2006/12/27(水) 18:35:04
>>144
>>世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
>たぶんそれは、「私」とか「自分」とか「自分自身」と言うのだと思います。

はぁ?
【世界の外】って、何なんですか?
【世界の外】については、哲学板ではなくて
こういうところで話したほうが良いかと。。
http://www.tamba.ne.jp/kaiindex.htm

146 :sew:2006/12/28(木) 20:24:47
>>145
>【世界の外】って、何なんですか?
一度書いたことを質問するのはどうかと思うけどね。
読めばわかるから。

>こういうところで話したほうが良いかと。。
そこ会員制じゃん。
どこが良いんですか?

147 :考える名無しさん:2006/12/28(木) 21:17:52
>>146
>一度書いたことを質問するのはどうかと思うけどね。
>読めばわかるから。

ああなるほど。
>>86を読んだらわかりました。
「私の中にしかない」もののことを「世界」と言っているんですね。
しかし、「世界」が「私の中にしかない」のなら、
「私」が「世界の外」にいるのは当たり前のことじゃないですか。
なんでそんな当たり前のことが、意味のある質問みたいになっていて、
それに対して「たぶんそれは、・・・」なんて答えているのですか?

148 :sew:2006/12/28(木) 21:57:57
「世界」が「私の中にしかない」というような書き方はしていないと思いますが、
少なくとも「世界」は「私の中にある」と思っています。
「世界」の中に「私がいる」と思っている人もいるかもしれません。
あるいは「私」が「世界」であると思っている人もいるかも。

>「世界」が「私の中にしかない」のなら、
>「私」が「世界の外」にいるのは当たり前のことじゃないですか。
そういう表現をすると少し意味が違ってきます。
「私の中にしかない」ものが「世界」ではなく
「私の中の世界」が「世界」であると私は解釈しています。

>なんでそんな当たり前のことが、意味のある質問みたいになっていて、
>それに対して「たぶんそれは、・・・」なんて答えているのですか?
おそらく、世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?の問いかけは、
「私」が「世界の外」にいると認識した上で、「それでは、その世界を見ている『私』とはどのような存在なのか」
という意味で聞いているのだと思います。
「私」というのはどのような存在なのかについてはまだ言及していませんから。

ところで、「世界の外」については哲学板でないところで話したほうが良いと仰っていたのは?


149 :考える名無しさん:2006/12/28(木) 22:09:13
>>148
>少なくとも「世界」は「私の中にある」と思っています。

>「私の中の世界」が「世界」であると私は解釈しています。

だから「世界」を「私の中にある」ものと規定すれば、
私がその「世界」の「外」にいるのは当たり前じゃないの?
ということを書いたのですが。。。

>おそらく、世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?の問いかけは、
>「私」が「世界の外」にいると認識した上で、「それでは、その世界を見ている『私』とはどのような存在なのか」
>という意味で聞いているのだと思います。

それなら、その『私』というのは当然、「世界」を「私の中にある」と
規定している(そう考えている)存在者のことですよ。

150 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 01:26:00
>>131 エヌさん
>私の一体何が私であろうか

‘私の’とか言ってしまっている、その‘わたし’です。
一切のある何か‘でない’わたしです。

「一体何が」と言っているのですから、もちろんそのわたしは、
エヌという固有名でもないし、記憶や肉体の連続性にもとづく
同一性の主体「私(エヌ)」でもないですね。

だとしたら、まったくもって論理矛盾した表現なんだけれども、
そんなことおかまいなしに‘私の’とか言えてしまうんです。

>既に決まった事実があるだけで

この私が、私たちの世界に生まれたようにではなく、
なぜかしら、わたしであること(事実)への驚きが
「わたしは、なぜ私なのか」の問いなのです。

>私が有るなら、私はずっとあり続けるだろうし

わたしは、となりのトトロの生でもよかったのに、
どうして、この私(カオル)の生なのでしょうか。
どうして、この有限な肉塊の生とともにあるのでしょうか。


151 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 01:28:34

>あるモノが無くなった
>しかし本当は無くなってなどいない

ある日、世界中の空に飛来した宇宙船から悪魔が舞い降り、
まちがった信仰、神や仏を愛したすべての人間たちの心を
最後の審判によって裁く「殺す」と宣言しました。

恐怖に震え迎えた審判の日、人類には何も起こりませんでした。
殺されるはずのカオルの泣き言も、後悔も、恋人に永遠の愛を
もとめる我が侭も、いつものように心ある振る舞いなのでした。

その日以来、悪魔が空にあらわれることは二度とありませんでした。
人類はそれぞれの信仰する神仏が勝利したのだと確信するのでした。

そうしてあるモノが無くなり、本当に無くなってしまったことに
だれひとり気づくことも無かったのでした。

カオルの日記には、そればかり書かれていました。

  わたしは、どうしてこの私なのだろう?

何が書かれているのか、もう彼女には思い出せませんでした。


152 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 01:30:32

>「わたし」が生まれたり消えたりできるのだろうか

わたしは、どうしてこの私に生まれてきたのでしょうか。
わたしは、たまたまこの私だけれども、この私の生の終わりは、
わたしのいない世界の始まり、それとも世界の終わり、でしょうか。

>>132

カオルの心は、だれかの心のなかの思いかもしれない。
だれかの今この時この場所にただよう思いかもしれない。
だからカオルの心は、いつでもここにいないのかもしれない。

だれかの考え事が、カオルの考え事かもしれない。
先の計画は、だれかに、すでに、計画されているのかもしれない。
いつも思いを馳せているのは、本当のカオルの思いなのでしょうか。

それが本当のカオルの思いだって、どうしたらわかるのでしょうか。


153 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 02:10:33
>エヌさん

128は、この私、カオルの言葉でした。
今回の返答は、128にたいするエヌさんの返答へのものではないですね。
すみません。読み返して気づきました。

たぶんこちらが、この私、カオルの返答だと思います。以下……


154 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 02:15:13
>>131 エヌさん

この肉塊の活動が停止しても、エヌさんに話しかけることができるでしょうか。
もちろん、それができない理由が「わたしが消えたから」とはいえないけれど、
カオルがエヌさんに話しかけることは、もう二度とできないように思うのです。

もしもこの肉塊の死のお知らせが、このスレに書き込まれたとしたら……
そして……お葬式に参列してくれて、カオルの笑顔の遺影を見たとしたら……

そのときエヌさんは、カオルの死を認識しないのでしょうか。
それともカオルの死は、わたしの死ではないのでしょうか。
カオルの笑顔は、わたしの笑顔ではなかったのでしょうか。

どうして問いは生まれるのでしょう。きっと、この肉塊が生きて
存在してコトバを知ったから、わたし(問い)は生まれたのです。

胎児はわたしじゃないし、無脳ならわたしは生まれなかったし、
オオカミに育てられたら、わたしにはなれなかった。

わたしは、100年前の、100年後の、どこにもいないけれど、
この思い、わたしは、永遠の時の無限の空間に絶対に存在します。

今ここに、この思い、わたしが絶対に存在するから
わたしがどこにもいない、100年前、100年後、があるのですから。

だから、永遠の時の無限の空間も、やっぱりわたしの世界です。
だから、わたしの終わりは永遠の時の無限の空間の終わりです。
だから、100年前、100年後、わたしはどこにもいないのでしょう。


155 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/29(金) 02:21:15
>Sさん

あなたに誠意を尽くせないです。
あなたが傷つくのも見たくないです。

あなたのような生き方にこそ神さまは微笑むのでしょう。
あなたという精神の存在を、わたしは美しく尊く感じます。

わたしが神さまなら、あなたを傷つけるすべてのものから
あなたを守りたい。けれど、わたしはあなたをだれよりも
傷つける人間でしかないのです。

もう泣きたくないです。ごめんなさい。


156 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/12/29(金) 16:06:25 ?2BP(123)
今年ももうすぐ終わりですね。

157 :sew:2006/12/29(金) 19:36:53
>だから「世界」を「私の中にある」ものと規定すれば、
>私がその「世界」の「外」にいるのは当たり前じゃないの?
そうです。
そのことを言っているのではなくて、「私」の中にしか世界がない、と言うのは表現的に違うのでは
ということを言っていました。

>それなら、その『私』というのは当然、「世界」を「私の中にある」と
>規定している(そう考えている)存在者のことですよ。
ここでは、そう定義付けされてますから、それは当たり前のことです。
その他に『私』というのがどのような存在なのか言えることはありませんか?

158 :考える名無しさん:2006/12/29(金) 23:30:51
>>157
>そのことを言っているのではなくて、「私」の中にしか世界がない、と言うのは表現的に違うのでは
>ということを言っていました。

「私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界がない」というのは、
あなたがレスした>>86の表現ですよ。

>ここでは、そう定義付けされてますから、それは当たり前のことです。
>その他に『私』というのがどのような存在なのか言えることはありませんか?

僕は世界が僕の中にあるなんて考えないので、わかりませんが、
じゃ、とりあえず一つ質問したいと思います。

世界があなたの中にあるとすれば、
僕もあなたの中にあるということですよね。
僕はあなたの体の中のどこにいるんですか?

まさか・・・・


159 :sew:2006/12/30(土) 14:17:39
>「私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界がない」というのは、
>あなたがレスした>>86の表現ですよ。
>>86は私がレスしたんじゃないんですけど・・・
「たとえ」ってあるだけで断言はしていません。

>じゃ、とりあえず一つ質問したいと思います。
いいですけど、私からも質問します。
このような類の話は哲学板でしてもいいのですか?

>世界があなたの中にあるとすれば、
>僕もあなたの中にあるということですよね。
そうです。
ここで私と話しているあなたは確かに私の中にいます。

>僕はあなたの体の中のどこにいるんですか?
内臓のどこか、という答えがほしいのですか?
私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
強いて言うなら、頭の中、です。


160 :考える名無しさん:2006/12/31(日) 22:00:26
>>159
>いいですけど、私からも質問します。
>このような類の話は哲学板でしてもいいのですか?

いいです。
人間と世界との関係は哲学の重要な問題ですから。

>内臓のどこか、という答えがほしいのですか?

いえ。どちらかと言えば、胃袋の中よりは、下着の中のほうが楽しそうです。

>私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
>強いて言うなら、頭の中、です。

僕があなたの頭の中に存在しているというのは、僕にとっては奇妙なことですが…
そうすると、僕が見ている世界も、すべてあなたの頭の中の出来事ということなんでしょうね。

じゃあもうひとつ質問します。
世界があなたの頭の中の出来事だとすれば、それは夢に似ていますね。
あなたは、夢や幻想と現実との区別がつきますか?
区別できるとすれば、それはどういう点で区別できるのですか?


161 :sew:2007/01/02(火) 14:16:40
>人間と世界との関係は哲学の重要な問題ですから。
そうですか。

>僕があなたの頭の中に存在しているというのは、僕にとっては奇妙なことですが…
下着の中のほうが良かったですか?

>そうすると、僕が見ている世界も、すべてあなたの頭の中の出来事ということなんでしょうね。
そうです。
ここで私と話をしているあなたは確かに私の頭の中にいます。

>あなたは、夢や幻想と現実との区別がつきますか?
区別はつきません。
こうしてPCのキーボードを叩いていることが現実であると私には断言できません。
生きていること自体が幻想であると思うこともたまにあります。
夢や幻想が現実であるかもしれません。
その逆も言えます。
人は他者と共存しながら生きています。
自分以外のものが自分の想像であり、その想像が具現化したものとも考えられます。
あなたには夢や幻想と現実の区別がつきますか?

162 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 23:45:32
>>161
>ここで私と話をしているあなたは確かに私の頭の中にいます。

そうですか。でも、「私の頭の中にいます。」の意味が、まだわかりません。
それは、あなたの頭の中にだけ存在していて、あなたの外には存在していないという意味ですか?
それとも、あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?

>下着の中のほうが良かったですか?

そうですね。寒いから、あったかそうで良さそうですね。
という僕の答えは、あなたはすでに知っていたんじゃないんですか?
僕はあなたの頭の中にいるんだから。頭の中にいても予測不可能ですか?

>区別はつきません。
>こうしてPCのキーボードを叩いていることが現実であると私には断言できません。

生活の中でも、リアリティーを強く感じるものとそうでないものがあって、ネットはリアリティーを感じにくいと思う。
視覚や聴覚よりも、触覚がリアリティーを強める気がする。だからスキンシップは大切かなと思う。

>生きていること自体が幻想であると思うこともたまにあります。
>夢や幻想が現実であるかもしれません。
>その逆も言えます。

そう思うことも、たまにはあるかも知れませんね。小学生の頃、そんなことをよく考えていた気がする。

>あなたには夢や幻想と現実の区別がつきますか?

つきますよ。夢と現実を区別できることが、普通に働いて生きていくための前提じゃないの?
幻想と現実の区別はもうちょっと微妙かもしれない。
「恋愛は美しき誤解であり、結婚は惨憺たる理解である」という言葉があって、
つまり恋愛は幻想であって、恋が終わってはじめて現実を見るということなんだろうけれど、
たとえ誤解であっても、自分の心の中では強いリアリティーがある場合もあるから。

163 :エヌ:2007/01/03(水) 02:27:41
>>150 カオルさん
わかっているのかいないのか
2つの事柄が解かれば自ずと解は導かれる

1)自動車はどの部分を指して自動車といえるのか
 もちろん自動車でなくても一向にかまわない
 タイヤを指して自動車と言えるのか
 あるいはハンドルを指して自動車と言えるのか
 それともエンジンか、もしくは車体か

2)私の所有物とは何か
 あるものが私のものだとして
 それはどうして私のものと呼べるのか
 どのような状態だと私のものではなくなるのか

> そんなことおかまいなしに‘私の’とか言えてしまうんです。
結局のところそうなんですけどね

> わたしは、となりのトトロの生でもよかったのに、
> どうして、この私(カオル)の生なのでしょうか。
> どうして、この有限な肉塊の生とともにあるのでしょうか。

心の思いは身体と密接ですよ
身体の調子が悪い時は頭も冴えていない
身体と心の思いが分かれていると考えるより
一体であると考えるほうが自然です

164 :エヌ:2007/01/03(水) 02:28:12
>>151
> その日以来、悪魔が空にあらわれることは二度とありませんでした。

そりゃーそうです
神や悪魔の正体は・・・orz

165 :エヌ:2007/01/03(水) 02:36:45
>>154
路傍の石は文句など言ったことはない
見上げる空は笑ってる
流れる雲も笑ってる
人間だけがいつも深刻な悩みに執り付かれている
人間の頭の中だけが・・・

路傍の石は単なる無機物ではない
存在の価値は我々と違いはない、全く同質の存在である
決して空想物語ではない

未来のことはまだ起こっていないのでわからない
過去のことはすでに過ぎ去ったことでもう存在しない
どちらも頭の中にしかない
こちらは空想物語である
深刻な悩みもまた・・・orz

166 :エヌ:2007/01/03(水) 04:16:55
>>154
路傍の石は文句など言ったことはない
見上げる空は笑ってる
流れる雲も笑ってる
人間だけがいつも深刻な悩みに執り付かれている
人間の頭の中だけが・・・

路傍の石は単なる無機物ではない
存在の価値は我々と違いはない、全く同質の存在である
決して空想物語ではない

未来のことはまだ起こっていないのでわからない
過去のことはすでに過ぎ去ったことでもう存在しない
どちらも頭の中にしかない
こちらは空想物語である
深刻な悩みもまた・・・orz

167 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/03(水) 05:02:20
>>144 sewさん
>「知る」という表現ですと、少し語弊が生じるかもしれませんが、

するどいです。たしかにわたしは「疑いようのない確かな何か」について
言おうとしています。けれども、それは外的実在ではなく、だからそれは
知において達する何か、というようなものでもないでしょう。

言語を獲得した人間が環境と交わるときの「そのような仕方だからこそ、
そのようにあるしかない」というような世界の枠組みを形作っているのが、
知るという行為なのだとしたら、私たちは知りうるものしか見ないでしょう。

見ることは知ることです。私たちは、見ることのできるすべての対象が
知の範疇にあり、知りうるもののすべてが「そのように向き合うからこそ、
そのように立ち現われてくる」ということにおいて、おそらく一致しています。
この知の一致が、私たちのコミュニケーションを可能にしているのでしょう。

けれど、わたしの存在の比類なさへの知は、「わたしの知」なのであって
「私たちの知」ではないのです。この「わたしの知」は、けっして他人には
理解されてはならないものとして理解されなければならないというような
パラドキシカルな知なのです。


168 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/03(水) 05:04:45

>そのような感覚などは誰でも感じることはできるのではないかと思います。
>自分だけが特別な存在なのだと。

先に言った知の一致は、「世界が私の世界」であり、私たち一人ひとりが
「かけがえのない」存在であることにおいても、おそらく一致しています。

けれど、わたしが「世界はわたしの世界」と言うとき、それは他の誰ともちがう
仕方での現にそうであること(事実)なのです。他の誰ともちがうというのは、
AさんやBさんがちがうようなちがい方ではなく、ということなのです。

それなのに、わたしの存在の比類なさは、それを言葉で表現してしまうと、
どうしても誰にとってもの、私たちの生の形式(そのように世界と向き合い、
世界がそのように立ち現われること)の一致に、「わたしの知」ではなくて、
「私たちの知」に、「わたしの比類なさ」から「私たちのかけがえのなさ」に
変質してしまうのです。

わたしの存在の比類なさは、あまりにも素朴に、あまりにも圧倒的に、
ただただ――わたしである――と、たったそれだけの感覚‘として’
――この私――に立ち現われてきます。

もちろんだから、‘として’のその感覚をも否定しなければならないけれど、
その感覚がなければ、つまりこの私「カオル」がいなければ、それは「無」
でしかなかったように思うのです。

ただひとつ輝く太陽は、無と見分けがつかないからです。

だから、わたしはどうしてこの私なのか、と問わずにはいられないのです。


169 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/03(水) 05:08:01

>>世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
>自分自身しかいないと思います。

わたしは、たまたまこの私「カオル」だけれど、そうでなくてもよかった。
でも「わたしの存在の比類なさ」は、そうでないことができないのです。

わたしの存在の比類なさは、この私「カオル」の「かけがえのなさ」のように、
誰にとってもの「それ」ではないからです。

それなのに、わたしの存在の比類なさは、誰もの「それ」として理解されて
しまうのです。だから、もうそれは「比類なさ」ではなくなってしまうのです。

私たちのかけがえのなさのうち、いったいどれが比類なき〈それ〉なのか。
それを規定しうるのは、いったい誰なのか。もちろん、それはわたしでしょう。

でも、わたしは世界の外にいると言えるでしょうか。自分(カオル)を見ている
わたしと、夢の中で自分(カオル)を見ているわたしは、同じわたしでしょうか。

夢の中で自分を見ているわたしは、夢の中には登場しません。だからといって、
わたしは、夢(世界)の外にもいません。わたしが、夢(世界)だからです。


170 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/03(水) 05:12:25

>>世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
>たぶんそれは、「私」とか「自分」とか「自分自身」と言うのだと思います。
>それが厳密に「これこれこういう人」というのは難しいと思います。

わたしの存在の比類なさは、それそのものは絶対の孤独です。
でもこの孤独は、他のわたしの存在の比類なさ、けっして交わることのない、
話しかけることも、理解し合うこともできない他者への態度をとらせます。

けっしてわたしの隣人ではありえないはずの、だから祈ることさえできない
神さまへの祈りのように。

これは孤独という概念が、すでにして他者の存在を前提にして成立するから、
ということではなく、

  世界の魂がただ一つ現実に存在する。私はこれをとりわけ私の魂と呼ぶ。
  私が他人の魂と呼ぶものも、もっぱらそのようなものとしてのみ把握する。

  ―――― ウィトゲンシュタイン『草稿 1914〜1916』より。 >>119

のような世界の魂「わたしの存在の比類なさ」‘たち’を知りうる者への祈りが、
そうさせるのです。すべてを知りうる者、世界の外(他者)の外、それは神さま
しかいないように思うのです。

※ 「わたしの存在の比類なさ」という表現は、
  永井均の著書『〈私〉の存在の比類なさ』から借用しています。
  (永井は、ウィトゲンシュタインから借用しています)
  これからも使いますが、そのときはわたしの表現として使います。


171 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/03(水) 05:37:40

みなさん、明けましておめでとうございます。

昨年は、たくさん考えさせていただいて、ありがとうございました。

考えているかぎり、みなさんもわたしも生きています。
それだけしていたいけど、そうもいかないのが悲しいです。
でも、それもまた哲学することの糧にしていけたらいいな。

今年もたくさん考えさせてくださいね。

よろしくお願いします。(^.^)


172 :考える名無しさん:2007/01/04(木) 17:50:13
>>171
>考えているかぎり、みなさんもわたしも生きています。
>それだけしていたいけど、そうもいかないのが悲しいです。
>でも、それもまた哲学することの糧にしていけたらいいな。

あなたの病気は、「哲学なんかじゃ直らない」ようです。
そしてあなたは「わたしの存在の比類なさ」を「わたしの消滅によって証明する」ようです。

>>128
>わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
>ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。

173 :エヌ:2007/01/06(土) 00:19:08
なぜ?
>>165>>166>>164の直後に2〜3回書き込んだが、エラーで書き込めなかったはずなのに
なぜ書かれてるの?しかもこんな遅くに・・・

174 :エヌ:2007/01/06(土) 00:27:04
>>128
マジレスすると

> ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できない

わたしがない神にはわたしの死は起こり得ないよ

> その決断だけが
> わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。

わたしの消滅に立ち会った時のことを思い出したよ
立ち会うには身体は必要だよ
わたしとは身体のことではないからね
わたしが消滅すると
そう、わたしがわたしである自己が現れる

175 :エヌ:2007/01/06(土) 00:32:14
> わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。

そう。「わたし」というのは一種の病気だ。
人間だけがかかる病だ。
哲学では治り様が無い。

夢から覚める時
思考が落ちる時
永遠に叶えられないという夢の性質を見破った時
はじめて治るもの

176 :エヌ:2007/01/06(土) 00:43:35
>>170
> 世界の魂がただ一つ現実に存在する。私はこれをとりわけ私の魂と呼ぶ。
> 私が他人の魂と呼ぶものも、もっぱらそのようなものとしてのみ把握する。

そうそう。それを指して今まで魂と呼んでた。

177 :考える名無しさん:2007/01/06(土) 01:36:56
>>175
>そう。「わたし」というのは一種の病気だ。
>人間だけがかかる病だ。

ばかばかしい。
>>128の「わたし」がそんな一般的な「わたし」でないことは、すぐわかるだろう。
話が通じていないのに通じているふりをするから、君たちは中身のある話ができないんだ。






178 :sew:2007/01/06(土) 19:29:25
>>162
>あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?
そういう意味です。

>僕はあなたの頭の中にいるんだから。頭の中にいても予測不可能ですか?
>>159
>私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
よく文章を読みましょう。

>夢と現実を区別できることが、普通に働いて生きていくための前提じゃないの?
そうなんですか?
私はまだ学生なのでそれが前提になるとかはわかりません。
ですが、区別することは必要なことだと思います。

>つまり恋愛は幻想であって、恋が終わってはじめて現実を見るということなんだろうけれど、
>たとえ誤解であっても、自分の心の中では強いリアリティーがある場合もあるから。
そういうものなんですかぁ。
恋愛をしているうちがはなですね。


179 :考える名無しさん:2007/01/08(月) 19:49:15
>>178
>>あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?
>そういう意味です。

それなら僕も同じだし、多くの人はそうだと思うので、
わざわざ【あなたは確かに私の頭の中にいます】なんて、ふつう言わないでしょう。
外の世界と、頭の中の世界(思い込み)との食い違いを
修正したりしながら生きてるわけですよね。

>私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
>よく文章を読みましょう。

感覚的なものだと、予測不可能なんですか?
僕が知りたかったのは、【世界は私の中にある】と言うあなたは
その「世界」をコントロールできるのかな? みたいなことでした。
夢なら、かなりコントロールできる場合もあるし、夢でなくても、
頭の中の世界は外の世界よりはコントロールしやすいと思うから。

>恋愛をしているうちがはなですね。

そんなことないでしょう。
この前の文は亀井勝一郎の文でした。正確には、
【恋愛とは、美しき誤解であり、誤解であって差し支えない。そして結婚生活とは
恋愛が美しき誤解であったという事への、惨憺たる理解である】(『愛の無常について』)
外の世界と頭の中の世界(思い込み)ということで言えば
「美しき誤解」は、実際の相手と、その相手についての思い込みとの
大きな食い違いの上に成り立っている。
そのまま人間関係を続けていって、その食い違いを修正して
お互いを理解することができれば、「惨憺たる理解」であっても
理解しあえることは、良いことではないですか?

180 :考える名無しさん:2007/01/08(月) 20:57:52
誤解は、された方は不快で腹立たしいだけじゃネ?
いったいどこが美しきよ?
こいつ馬鹿なんじゃネ?

181 :考える名無しさん:2007/01/08(月) 21:36:13
>>180

こいつって、亀井勝一郎?
たぶん馬鹿ではないと思う。
不快で腹が立つとすれば、アプローチのされ方とかに対してであって、
好きになられること自体は、それほど悪い気はしないと思う(よほど嫌いなタイプでなければ)。

「美しき」といえば、「美しき嘘」という言い方もよくする。
「嘘」や「誤解」みたいな、ふつうはネガティブな意味で使われる言葉でも、
その内容によっては「美しき」ものでありうるということだろうね。
「美しき」というのは、主観的な要素が大きいものだとは思うけれども、
恋愛の場合は、その当事者(恋愛している側)にとっては誰にとっても
「美しき」ものになるんじゃないのかな。


182 :考える名無しさん:2007/01/09(火) 00:24:19
恋愛を誤解と解釈する馬鹿があるかよ
きれい汚いは二の次の話だ

183 :考える名無しさん:2007/01/09(火) 01:37:46
恋愛は美しき夢とか言えば文句ないわけ?
解釈じゃなくて表現上の問題でしかなさそうなんだが

184 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/09(火) 05:04:48
>>163 エヌさん
>自動車はどの部分を指して自動車といえるのか
自動車の部分を指して自動車とは言わないでしょう?

>私の所有物とは何か
どの私についてでしょう?

>身体と心の思いが分かれていると考えるより
>一体であると考えるほうが自然です
心身一体のカオルが、なぜわたしなの?(という問いです)

>>164
>神や悪魔の正体は・・・orz
うーん、そこに注目されましたか。(^_^;)

>>165
路傍の石になりたい!って昔から言ってるけど、
頭の中のニューロンの発火が、そういう気持らしいです。
(そういうこと信じられる人が羨ましい)
無機物も有機物もニューロンの発火も存在しているのに
どうしてだか未来や過去は論理的には存在しないらしい。
でもそんなこと全然おかまいなしに今こうして書き込める。
ほんとうは今だってどこにもない。それなのに書き込める。
未来現在過去のお陰さまで。当り前は奇蹟の宝庫ですね。


185 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/09(火) 05:37:23
>>174 エヌさん
>わたしがない神にはわたしの死は起こり得ないよ
神さまじゃなくて、カオルの自然死ではない自死の選択は、
さすがの神さまも、ただ見守るしかない、ということです。

>わたしの消滅に立ち会った時のことを思い出したよ
わたしが消えていくのだから同じですよね。
目覚めない睡眠でも同じかな?
(もちろん、夢も見ないという前提ですが)

>そう、わたしがわたしである自己が現れる
西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
と言っていました。

>>175
>哲学では治り様が無い。
ウィトゲンシュタインという哲学者は、ひたすら考えつづけることで
生涯持ちつづけた自殺衝動に打ち勝ち、精神病の発症の危機をも乗り越えたと、
哲学しつづけることが、そのまま治療的行為そのものだった、と言われています。
自死の話しは、最近ではめっきり思想的な意見ですので、心配しないでください。

>はじめて治るもの
考えるわたしがどこにもいないのだから、そうですね。

186 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/09(火) 06:03:58
>>176 エヌさん
>そうそう。それを指して今まで魂と呼んでた。

さっき言った「絶対無の我」も、おそらく同じ‘それ’です。
とは言っても、それは予測される結論にすぎないので
哲学的に大切な、そこに至る議論の方をしたいと思っています。

>>177
>>128の「わたし」がそんな一般的な「わたし」でないことは、すぐわかるだろう。

128の「わたし」は、一般的な方の、いわゆるカオルとか呼ばれているアレでした。
世間にいくらでもいる個性豊かな面々の一人にすぎないかけがえのない方の。

私的には、言語存在者「カオル」だけが唯一無二の「わたし」だとは思っていますが、
議論を誘導するために、あたかもそうでないような書き方を(すでにしていますが)
して行くと思いますので、よろしくお願いします。

やはり、128のようなレスを差し挟むと議論が混乱して台無しになるので
今後、注意します。すみませんでした。m(__)m


187 :考える名無しさん:2007/01/09(火) 13:09:12
>>185
>西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
>と言っていました。
>ウィトゲンシュタインという哲学者は、・・・

相手を変えて同じことを何年もくりかえす「わたしの病気」は、治りそうもない・・


>>127参照)
>>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>>煙に巻くこと、と私は見ていますw
>
>哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
>また、あなたが言うように思われていることは客観的な事実です。


188 :sew:2007/01/09(火) 16:51:24
>それなら僕も同じだし、多くの人はそうだと思うので、
>わざわざ【あなたは確かに私の頭の中にいます】なんて、ふつう言わないでしょう。
はい。
普通は言わないし、誰もがそうだと思います。

>外の世界と、頭の中の世界(思い込み)との食い違いを
>修正したりしながら生きてるわけですよね。
そうです。
外と内を何度も見て、食い違いがあれば何度も何度も修正していきます。
これは多くの人が知らず知らずのうちにしていることなので、当たり前にしていること、です。

>感覚的なものだと、予測不可能なんですか?
当たりはずれは別としても予測することは不可能ではありません。

>【世界は私の中にある】と言うあなたはその「世界」をコントロールできるのかな?
私の頭の中にある世界は、いくらでもコントロールすることは可能です。
夢やら妄想やら、たくさんコントロールする術はあります。
外の世界は難しいですけど。

「美しき誤解」は「惨憺たる理解」につながるということでしょうか。
「美しき誤解」という言葉は少し矛盾するような気がしますが。
「惨憺たる理解」も。
理解できないので、細かく説明していただけますか?

189 :考える名無しさん:2007/01/09(火) 22:57:10
>>128(カオル )
>その決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
>>174(エヌ)
>そう、わたしがわたしである自己が現れる
>>185(カオル )
>西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
>と言っていました。

こういう会話を見ていると、
空海の「即身成仏」思想を曲解して、土中に篭ってミイラになった人々を連想してしまう。

なんだか、自分の自殺願望を哲学に結びつけてるように見えますけど、
哲学は自殺を正当化するものではありません。

『西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我 と言っていました。』
と書くからには、あなたはこの『それ』を知っていて、『絶対無の我』も知っていて、
その二つが一致しているということだから、 一致していると言うならその根拠を説明してください。

190 :考える名無しさん:2007/01/09(火) 22:58:18
>>188
>理解できないので、細かく説明していただけますか?

どこがどう理解できないのか分からないので、
どこをどう細かく説明すればいいのか分かりません。


191 :エヌ:2007/01/09(火) 23:45:46
>>184
> ほんとうは今だってどこにもない。それなのに書き込める。
> 未来現在過去のお陰さまで。

そうですよ。今現在というのは過去と未来に対比してあるものです。
時間というのは人間が考え出した概念にすぎないということを言ってるのです。
過去と現在と未来に別れているものではないです。

最近の物理学者も時間は存在しないことに気づいたみたいですけどね。

192 :エヌ:2007/01/10(水) 00:12:55
>>185
> さすがの神さまも、ただ見守るしかない、ということです。

わかってますよ。
>>174はわざと曲解してレスしたのです。
それしかレス書けないですから。

> 考えるわたしがどこにもいないのだから、そうですね。
そうですね。

> ウィトゲンシュタインという哲学者は、ひたすら考えつづけることで
> 生涯持ちつづけた自殺衝動に打ち勝ち、精神病の発症の危機をも乗り越えたと、
> 哲学しつづけることが、そのまま治療的行為そのものだった、と言われています。

電車に乗っていると、稀に独り言を大声で言っている人を見かけます。
そういう人は、いつも怒鳴っていたり、言い訳していたり、パターンが決まっています。
ある過去の出来事があって、それを何回も何回も思い出して言い訳したり怒ったり、延々とやっているようです。
何か認められない出来事があって、それに対してどうにもならないことを思い出して言い訳して、また過去の同じ事を思い出して、怒ってと繰り返しているだけです。
彼らがそこから抜け出すには、2つの方法しかありません。
考えないようにするか、それとも起こった出来事を受け入れるか
どちらかです。

193 :考える名無しさん:2007/01/10(水) 00:26:02
>>191
「今はない」とか「時間は存在しない」って、それで話が通じているの?
どういう意味で「今」と書き、どういう意味で「時間」と書いているのか・・
存在そのものが常に変化しているから、それは時間と密接に結びついていると思われるが・・
時間がなければ、運動も変化もない。そういう意味での「時間」について話しているのだろうか。
だとしたら、そういう人たちは、自分も世界も常に変化しているという実感がないんだろうか。
どういう意味の「時間」なんだろうね?

194 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/10(水) 05:48:29
>>187 名無しのヘンタイ君へ

キミさ、何年もシツコイよ。
病気なのはストーカーのキミじゃん。

いい機会だから、次いでに。
(キミが127のレス相手でもそうでなくても)127の

>哲学用語を使わないで済むように努力してみます。

は、撤回します。

>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>煙に巻くこと、と私は見ていますw

も、哲学に詳しくない人を「サルでもわかる哲学史入門」(もちろん、その類の本すべてを指す)で
仕入れた哲学用語で煙に巻く趣味はないので、全否定します。

>その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
>答えようがありません。失礼しました。

も、撤回します。


195 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/10(水) 06:42:52
>>191 エヌさん
>最近の物理学者も時間は存在しないことに気づいたみたいですけどね。

よかったら詳しくお願いします。

>>192
>電車に乗っていると、稀に独り言を大声で言っている人を見かけます。

わたしは、なぜかよく見かけますよ。
わたしと視線が合うと、みなさん一瞬やめます。
でもすぐに視線をそらしてまた始めますが。(笑)
いつも友人には危ないからって叱られています。

>彼らがそこから抜け出すには、2つの方法しかありません。

抜け出せなくたっていいじゃないですか。
妹は障碍をもってるけど、とても強くてやさしい子。
わたしは健康だけど、とても臆病で泣き虫な子。
抜け出せなくたっていいと思う。

わたしはすごく恵まれています。
わたしは独り言を大声で言う必要がないです。
そういう必要があったら生きていけないからだと思う。
だから信じられないほど恵まれているのだと思う。

ウィトゲンシュタイン哲学は、彼だからこその彼の哲学なんです。
抜け出すんではなく、真っ只中をあるがままに全力で走り抜けたんです。
みんなもそう見えなくたって、きっとそれぞれにそうなんだと思います。


196 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/10(水) 07:00:54
>エヌさん

絶対無について、少し書いておきます。
たぶんどの西田哲学の解説書にも書いてない解釈だから
西田は忘れてもらっていいです。(あぁ、めんどいよー!)

絶対無とは、絶対否定のことです。

かりに私たちの世界や私が普通の意味で実在しているとしたとき、
二つの仕方で、私たちの世界や私の実在にかかわります。

1.絶対無は、私たちの世界や私の実在を絶対否定します。

2.絶対無は、それ自身になろうとすることを絶対否定します。
  すなわち、私たちの世界や私の実在を絶対肯定します。
  ゆえに、絶対無=絶対有、です。

この矛盾的同一が最高でしょう? 以上、簡単ですが。


197 :sew:2007/01/10(水) 12:56:11
>どこがどう理解できないのか分からないので、
>どこをどう細かく説明すればいいのか分かりません。
言葉の意味です。

198 :ペットのぶた:2007/01/10(水) 20:26:44
>>194
>名無しのヘンタイ君へ
>キミさ、何年もシツコイよ。
>病気なのはストーカーのキミじゃん。

誰かと勘違いしてるのかもしれませんね。
僕がカオルちゃんと話すのは三度目か四度目ぐらいです。
普段僕は2ちゃんねるはめったに見ませんし。
初めて話したのは4年ぐらい前かな。
その時の、「家畜のブタより、ペットのブタのほうが価値が高い」
っていう〈カオル説〉が印象に残っているので、
それをハンドルネームにしておきましょうかw

>>その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
>>答えようがありません。失礼しました。
>も、撤回します。

じゃあ>>120-122の僕の質問に答えてください。
カオルちゃんがハイデガーを読んでいないのは分かりましたが、
ニーチェや仏教について、〈カオル説〉をもうちょっと聞いてみたいです。
カオルちゃんはニーチェについても何か書いていましたからね。


199 :ペットのぶた:2007/01/10(水) 20:27:46
>>196
>この矛盾的同一が最高でしょう? 以上、簡単ですが。

カオルちゃんにかかると、仏教も「超越に至る実践」とオカルト的になってしまいますが、
西田哲学だって、カオルちゃんが思ってるよりずっと現実に即した思想ですよ。

自己がなくなるところに真の自己が現れる、みたいな会話をしてたようなので、その点について言えば、
「我は、我ならずして、我なり」という矛盾的自己同一は、たとえば道元の、
「仏道をならふは自己をならふなり、自己をならふといふは自己を忘るるなり」と同じことで、
それは現実を遊離した事柄ではなく、逆に、現実に密着した事柄なんです。

西田哲学の言葉を引用すれば、
「自己自身を超越することは、何処までも自己に返ることである、真の自己となることである。…
我々の自己が自己自身の根底に徹して絶対者に帰するということは、この現実を離れることではない。
かえって歴史的現実の底に徹することである。絶対現在の自己限定として、何処までも歴史的個と
なることである。」(『自覚について』)

つまり「真の自己」になることは、「現実を離れることではない」のであり、「現実の底に徹する」こと。
「現実の底に徹する」というのは、仏教で言えば「三昧」「無住心」「無心」ということであり、
時間的に言えば「即今」、つまり今の自分(今自分がしている行為・仕事)に徹するということです。


200 :ペットのぶた:2007/01/10(水) 20:28:43
禅ではこれを剣術についてよく言いますけど、スポーツでも、芸術でも、ふつうの仕事でも、
何にでもあてはまることです。

柳宗悦はこれを、陶芸の「美」にあてはめます。
「天下の名器と呼ばれた茶器類の作者たちは、美への狙いなどに心を住まわせる機縁を、何一つ
持ってはおりませんでした。そんなことに少しも心を煩わされてはいないままに、只作っていたので
あります。この事は何処にも心を住まわせていなかったことを意味します。そういう「無住心」から
おのずから現れ出たのが、名茶器の美しさなのであります。…
益子窯に「山水土瓶」と呼ばれる土瓶のあることは、既にご承知の方も多いことと存じますが、
その山水絵が描かれる様を見ておりますと、描き手と描かれる山水とが相対しているのではなく、
描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去るほどに、手早く淀みなく描き続けて
おります。…それ故に、仕事の中に人があり、人が仕事の中に活き、仕事がおのずから仕事を
導いて行くのであります。」(『美の法門』)

この、「描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去る」ことによって
「人が仕事の中に活き、仕事がおのずから仕事を導いて行く」という事柄が、
「自己を忘るる」ということであり、「我ならずして」ということです。

仏教も西田哲学も、「真の自己」になるとは、こういうことを言っているんです。
(オカルト的なことを言っているんじゃありませんw )


201 :ペットのぶた:2007/01/10(水) 20:45:12
>>197
>言葉の意味です。

言葉の意味・・?

人間関係を考えると、
お互いを100パーセント理解しあうことはあり得ないように思われるし、
お互いを100パーセント誤解しあうことも考えにくいですね。

また、お互いをできるだけ理解しようと努力している関係もあれば、
あまり知り過ぎないようにしている関係もあるでしょう。
だから誤解にも、理解しようと努力した結果としての誤解もあれば、
誤解してもいいと思ってする誤解もあるでしょう。
「誤解」にも「理解」にもいろいろありますね。

また、「美しき誤解」の「美しき」は、
誤解することそのものが美しいと言っているのか、
誤解した結果としての、幻想の相手を美しいと言っているのか・・

ということで、いろいろ考えられます。
考えることが「哲学」なので、自分で考えてくださいw

ちなみに僕は「美しき誤解」とか「惨憺たる理解」という言葉から、
「知らぬが仏」という言葉を思い出しましたが・・



202 :その1:2007/01/10(水) 23:24:18
で、もし「答え」というものがあるとして、それがどんなもの(こと)だったら
「これが答えだ」と満足できるのだろう、私(たち)は? 「これは答えではな
い」と言えるってことは、「答え」のイメージを持っているってことだから、そ
れ以上の答えってなんなのだろう?


203 :その2:2007/01/10(水) 23:42:53
生き物の脳は、生きるための道具として発達してきたものなので、「なぜ?」
と問うことは・・・人間社会の中だけでは有効性があるけれど・・・、なぜ世
界があるのかとかに使えるようにはできていない。脳の「副作用」に振り回さ
れてはいけないと思う。でもゲームとしては大いに楽しめるし、そこから想像
もできなかったようなものが出てくることがあってもおかしくはない。楽しく
やりたいものですね。
さあ、さらに続けてください。

204 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 05:02:52
>>198 ペットのぶた以下の変態ジジィへ

>>127は、もう話したくない!!!というメッセージ。
ブタのくせにプライドばかり高いから、気をつかってウソを書いた。
つきまとわれたくなかったから。それくらい分かれよ!バーカ!!

>「家畜のブタより、ペットのブタのほうが価値が高い」
ゴキブリよりペットのにゃー(猫)のほうが価値が高いのは当り前。
もちろん、生命そのものに価値的差異があるわけじゃない。
なぜなら、価値は人間がつくったものだから。※ にゃー:わたしのペットだよん。(^.^)

>じゃあ>>120-122の僕の質問に答えてください。
ハイデガーは、四方域に関係のないコンテクストでも抹消記号「×」を使用しています。
(勉強してください!)また「存在の現成」とは、けっして現前しないものの現前であり、
だからこその抹消記号「×」であることが、そうすることの根本的な意義であることを
ブタはちっともわかっていないようでしたので、あえてそこに「存在者の現成」を対置
させることによって理解を促がしたのですが、まあ無駄でしたね。

超越論的統覚が「超越論的」と言われている時点で「物自体でも現象でもない」のは
当り前。そんなことはカントについて議論する上での前提です。(とりあえずの前置き)

で、超越論的統覚が「経験を可能にする条件」であるということは、当然それが
ア・プリオリな能力(働き)として想定されていることを示します。
しかし、超越論的統覚は「経験なし」にそれのみで発現するような能力ではない。
ゆえに、ア・ポステリオリな能力でもあると言っているのですよ。

わたしが用意したツッコミ所は、それなのに「現象でもない」と言っているところです。
そこに気づいてくれたら議論しようかな、と。まあ無駄でしたね。

どうでもいいことを書いてきましたが、その他は省略します。どうでもいいことなので。
ブタから得られる価値ある情報は皆無なので時間の無駄です。これで終わりにします。


205 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 06:20:37
>>202
>で、もし「答え」というものがあるとして、
> 〜 それ以上の答えってなんなのだろう?

答えを求める「問い」そのものが消滅したときに、私たちは「答え」を得たと思うけれど、
もはやそれが「何であるか」を言うことができない、という答え(問いの解決の仕方)が
あるようです。(>>68参照)

また、私たちは自動車でもバラの花でも、それらが「ある」ということを知っているのに
「ある」ということがどういうことなのかを言うことができません。ウィトゲンシュタインは、

  神秘とは、世界が‘いかに’あるかではなく、世界があるという‘そのこと’である。

と、言いましたが、哲学は、この「そのこと」への驚きから始まり「そのこと」を追究します。

>脳は、〜 なぜ世界があるのかとかに使えるようにはできていない。

そうかもしれない。それでも哲学が、この「そのこと」について何かを言ってみせようと
することが、たとえ社会的人間の人生にとって無益無意味で倒錯した行為だとしても、

>脳の「副作用」に振り回されてはいけないと思う。

などという単なる個人的思想によって「いけない」としてしまうことには賛成できません。
養老さんのように、哲学することを病気のように言う人もいますが、そのような言表を
為してしまう彼の脳こそ、まったくもって脳が生み出した傲慢という病気だと思います。

>でもゲームとしては大いに楽しめるし、そこから想像もできなかったようなものが
>出てくることがあってもおかしくはない。楽しくやりたいものですね。

には、まあ賛成です。命懸けの思考が哲学という言語ゲームに他ならないのだから。
あなたがブタでないことを祈るばかりです。楽しくやりたいものですね。


206 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 06:52:56
>>199 ぶた
>「真の自己」になることは、〜 今の自分(今自分がしている行為・仕事)に徹するということです。

こんなたんなる説教のための解釈と、わたしの解釈を倒置するな!
もちろん、わたしが倒置してるんじゃなくて、ブタがそうしているだけなことに気づけ!

ブタの議論は、「現実」とかいう、ジジィが思想的に落ち着いた場所にすべて帰着するように
なっているから、そのようにしか為されない議論だから、議論以前にまったく魅力がないんだよ!

身につけた浅はかな知識によるドグマの主張は「主義主張板」で、お願いします。

それから、くれぐれも!もう二度と!わたしの発言にレスをつけるな!!!


207 :考える名無しさん:2007/01/11(木) 06:57:31
このスレ熱いな。
で、何の話?


208 :考える名無しさん:2007/01/11(木) 07:13:37
ストレスで自律神経が狂って、世の中何だか分からなくなっちゃった
バカな奴らの話です。

209 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 07:16:18
>エヌさん

絶対無とか、そういうのが余計だったら、そう言ってください。

あの時は、上の方で紹介している別スレに西田関連のレスも
同時に書いていたので、思わず書いてしまったのです。

今日は別板ですが、バカと付き合って疲れました。ハァ〜
これからは、できるだけ「ながら」はやめようと思いますので
よろしくお願いします。

それから、エヌさんの言いたいことはわかっているつもりです。
あのハルカと話していたくらいなのだから、その意味でですが。

哲学徒としては、なかなかエヌさんのような体験知にもとづく
言説には、すなおに対応できないところがあります。ご存知でしょうが。

最初にしていただいたいくつかのレスで、体験知的な真理と
哲学的思考による到達点が、非常に近いところにあることは
なんとなく直観できました。

ただやはり、そこには一歩づつ言葉によって近づきたいと。
そのようなばかげた努力に同意していただけたら嬉しいのですが。

失礼なレスが多かったように思います。お許しを。m(__)m


210 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 07:29:32
>ムートンさん

いかがされていますか?

じつは、ずっとあれから愛について考えています。
辛い記憶のために、なかなか感情的な思いに引きずられてしまって
思考がうまくいきません。

それと今、離人症について調べています。
苦しいことが苦しいと実感できない苦しい病気のようですね。
とりあえず、木村敏という精神病理学者の著作を5,6冊読んでみたので
いくらかそこから何か書いていけるかもしれません。

それから、このスレはムートンさんがいないと意味がないです。
ムートンさんが、ウィトゲンシュタインを読んだというので
できるだけ彼を引用したりしているのですが、余計でしたら言ってください。

日常の言葉と、言葉づかいで話しましょう。

よろしくお願いします。m(__)m


211 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/11(木) 07:42:18
>Sさん

わたしは、あなたに誠意は尽くせない。
でもそれでもいいなら、お話ししましょう。
真剣とは言えない会話になってしまうけど、それでもいいなら。
そういう会話だってできるはずです。
それだって、Sがいて、カオルがいる、ということです。

時間のあるときに、あらためてレスをお返しします。

(ほんとうはレスをもらえて嬉しかったです)


212 :ペットのぶた:2007/01/11(木) 21:39:57
>>204
>つきまとわれたくなかったから。それくらい分かれよ!バーカ!!

ほんとに、何か勘違いしてるんですかね・・??

>ハイデガーは、四方域に関係のないコンテクストでも抹消記号「×」を使用しています。
>(勉強してください!)

そういうことを主張したいなら、そういう使い方をしている「存在×」を引用するとかしないと、
何も言っていないのと同じです。何かを主張するには、それなりの根拠が必要です。

ハイデガーからもう一度引用します。
【十字交差の徴は、上に言われたことに従えば、勿論、抹消という単に否定的な徴ではあり得ない。
その徴はむしろ、方域の四つの方面とその四つの方面が十字交差の場所において集まっていることの内へ、
示し入っている。】(『有の問へ』)

>また「存在の現成」とは、けっして現前しないものの現前であり、
>だからこその抹消記号「×」であることが、そうすることの根本的な意義であることを
>ブタはちっともわかっていないようでしたので、

知らないことは知らないと認めて、自分の間違いを間違いと認められることが、
ちゃんと議論できるための前提だと思います。
カオルちゃんがハイデガーの「現成(wesen)」の意味を知らなかったのは明らかですから・・
>>118
 >そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
 >「存在者」が「現成」するならまだしも……。 )


213 :ペットのぶた:2007/01/11(木) 21:40:52
>あえてそこに「存在者の現成」を対置
>させることによって理解を促がしたのですが、まあ無駄でしたね。

ハイデガーは「存在の現成」とか「存在は現成する」とはよく書きますが、
「存在者の現成」という書き方は見た憶えがないので、あれば引用してください。

前に書いたように「現成」は、ハイデガーがWesen(本質、実在)という名詞を〈動詞〉として使った言葉だから、
「存在の現成」というのは、「存在」が動詞的〈動的〉なものであることを示しているんです。


>わたしが用意したツッコミ所は、それなのに「現象でもない」と言っているところです。
>そこに気づいてくれたら議論しようかな、と。まあ無駄でしたね。

意味がわかりません。「現象でもない」と書いたのは僕ですよ?(>>115
この話題を整理すると、
カントの「われ思う」についてカオルちゃんが
>>107【現象としての「われ思う」になってしまっている】と書いたことに対して
僕は、それは【「物自体」でも「現象」でもない】と書いた。
それでもなお、カントの「われ思う」は「現象」であるという〈カオル説〉
を主張するなら、その主張の根拠を書いてください。


ニーチェと仏陀についての僕の質問に対する答えはありませんが、
〈ニーチェには「超越へのまなざし」があった〉
〈仏陀の実践は「超越に至る実践」だった〉
という〈カオル説〉は、撤回したということでいいですか?


214 :ペットのぶた:2007/01/11(木) 21:41:38
>>206
>ブタの議論は、「現実」とかいう、ジジィが思想的に落ち着いた場所にすべて帰着するように
>なっているから、そのようにしか為されない議論だから、議論以前にまったく魅力がないんだよ!

「現実に帰着する」というと、固定的・静止的になってしまいます。
「我は、我ならずして、我なり」というのは弁証法だから、もっと動的なものです。
弁証法というのは、事柄そのものの〈プロセス〉であり、常に移行していくものです。
だから、その〈プロセス〉そのものである「現実」を、西田幾多郎は〈歴史的現実〉と言っているんです。

「真の自己」になることは、西田幾多郎が言うように、「現実の底に徹する」ことです。
この「現実の底に徹する」ことの中に、「我ならずして」「我を忘るる」という否定的契機が含まれていて
それを媒介としているから、固定的・静止的にはならないのです。




215 :その3:2007/01/11(木) 22:14:17
ことばについて思うに、人間の脳は、山と山でないものとに2つに分けて山と
いう名をつけ、山でないものの中から川と川でないものを分けて川と言う名を
つけ、こうやってどん名前をつけていったと思うけど、その分けるときの観点
は、「生活、生存に有用」というものだったであろう。つまりものの名は、も
の全体を表そうとしてつけられたというより、ものの有用性につけられたとい
うべきなのだ。そのことは奥ゆかしくも「ことの端」という語源にもみえる。
そして共同体の共通言語であるからには、有用の観点は共同体にとっての有用
ということになる。人の名前もそのように理解すべきものと思う。それは現在
でもかわらない。遠くの国のミスター○○はほんとに単なる名前だけだよ。私
にとっての有用性がほとんどないんだから。同様にこの人間世界でお前とよば
れているこの私(の名)は、私の有用性に貼られたラベルなのだ。これが「私2」
である。動物たちのような「ことばによらない認識」のなかから生まれた「ことば
による認識」。ここにおおきな飛躍、断絶があると、古来から言われている。
サルと人とのちがいでもある。ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」
と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。

216 :ペットのぶた:2007/01/11(木) 23:09:21
>>215
>ことばについて思うに、人間の脳は、山と山でないものとに2つに分けて山と
>いう名をつけ、山でないものの中から川と川でないものを分けて川と言う名を
>つけ、こうやってどん名前をつけていったと思うけど、その分けるときの観点
>は、「生活、生存に有用」というものだったであろう。
>・・・
>動物たちのような「ことばによらない認識」のなかから生まれた「ことば
>による認識」。ここにおおきな飛躍、断絶があると、古来から言われている。
>サルと人とのちがいでもある。ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」
>と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。

そうでしょうね。
「分ける」ことによって「分かりやすく」なった。
しかしそれによって失ったものもあるということでしょうね。

それがどこまで「言葉」によるものなのかは分かりませんが、
「言葉」も含めて、他の動物よりもずっと明晰になった
人間の「意識」によるものでしょうね。

だから、二つに「分かれる以前」のものを重視してきたと言われる東洋(特に禅)では、
「意識」に対して「無心」、「言葉」に対して「不立文字」が重視されたわけですけど、
ヘーゲルの弁証法も、「分かれる以前」のところから世界を見ているんじゃないですかね。



217 :その4:2007/01/11(木) 23:20:44
これは「想定外」だっと思うけど、人がことばを使うようになって、
「論理」という(とんでもない)ものに出会ったのですね。これは人間
がつくったものではない、世界の側にあったんですね。金属や石油など
がいわれなく地中にうめこまれていたように。
最初は単に数学のように美しいものとしてものめずらしげにいじくって
いたのかもしれませんが、じつはこれはものとものとが「関係」という
関係で関係していることの発見であったのですね。
ことばとセットになった「論理の目」「論理の脳」で、あらゆるものが
「関係」しているその関係を利用(逆用というほうが正確です)して
「予測」し飢えや恐怖をのがれるばかりでなく、生物進化の目玉であ
った「効率」にまで采配を振るうようになった。
このあらゆるものから糸が延びてる「関係」の網の目のなかでことば
による認識でバーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。そ
こでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。離人症
ということばも出てこようというものではないですか。
私こそはこのような人間の典型だと思っています。自分自身を上部
(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。で、ことば
によらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人をたいへ
ん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、こ
れは「論理的に」むりですよね。

218 :ペットのぶた:2007/01/12(金) 20:58:56
>>217
>このあらゆるものから糸が延びてる「関係」の網の目のなかでことば
>による認識でバーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。そ
>こでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。離人症
>ということばも出てこようというものではないですか。
>私こそはこのような人間の典型だと思っています。自分自身を上部
>(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。

このスレで〈私〉を二つに分ける場合、その二つの〈私〉が何を指しているのか、
人によって違っているから、話が通じにくいですね・・

〈意識しつつある自分〉と〈意識された自分〉とに自己分裂しているのは
人の通常の在り方だと思いますが、
(実存思想ではふつう、〈意識しつつある自分〉の方を〈実存〉といって
本来の自分のように考えているようですが・・)
「私の有効性部分=私2」というのはたぶん〈意識された自分〉に近いんでしょうね。
とすると、「(うわべ)人間」というのは「私1」なのか「私2」なのか・・
それとも「私1」と「私2」を合わせたものが「(うわべ)人間」なのか・・
そして「離人症」という現象が現れるのは「私1」「私2」のどこに問題があるからなのか・・

>で、ことば
>によらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人をたいへ
>ん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、こ
>れは「論理的に」むりですよね。

たとえば東洋的な体験的知を言葉で表そうとすると、
「色即是空」とか「多即一」みたいになっちゃって、その「即」を
もっと論理的に展開すると西田哲学みたいに難解になりますね。
事柄そのものが、(人間の目から見て)矛盾を含んでいるからでしょうね。


219 :その4:2007/01/13(土) 12:21:47
↑の<意識された自分=私2>は、「有用性」の網の目で構成された「世間」
のなかだけのハンドルネームなのであり、それを<私>として生きざるをえな
い状況におかれている? それは困る/それでよいのだ/それがよいのだ/そ
れしかないのだ・・・

220 :ペットのぶた:2007/01/13(土) 20:51:32
>>219
そういう葛藤や迷いは誰でもあるでしょうけど、
人によってその葛藤の大きさが違うんでしょう。

世間の中でのハンドルネームは一つではなくて、
家庭では「パパ」であるかも知れないし、会社では上司に対しては部下、
部下に対しては「だめ上司」であるかも知れない。
そういう多重ハンドル的自分のそれぞれが、〈本来の自分〉とは、ズレている
という感覚はあるけれども、では、そういう世間的役割を離れた〈自分〉というものが
あり得るのかと考えてみると、それもなさそうに思われる・・

世間的役割にとらわれ過ぎれば、劣等感に落ち込んだり、
優越感で傲慢になったりして、〈本来の自分〉を見失ってしまう。
〈本来の自分〉を見失わずに、〈多重ハンドル的自分〉の役割を演じられる
バランス感覚みたいなものが大事なんじゃないかと思う。

道元門下の沢木興道は、〈自己〉とは「自分が自分を自分すること」だと言いましたが、
以下は今の話に関連して思い出した彼の言葉(正確ではありません)。

「食事をするのも、便所に入るのも、道を歩くのも、修行である。
ところが人は、これが終わったらあれをしようとかばかり考えている。
勉強する学生は、将来のための準備として勉強しているように思っている。
しかしこれでは学問に腹応えがなくなってしまう。
小僧は和尚になるための準備のように思っている。
それではいけない。
一歩も浮き足立たずに、小僧は小僧をすべきである。」

小僧が、地に足をつけて「小僧をする」ことをしなければ、
小僧にとっての〈本来の自分〉は働き出さないということだろうと思います。
西田幾多郎が書いた「現実の底に徹する」というのも、そういうことだと思う。

221 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 02:55:17
>>138 Sさん
> わたしという自己意識とわたしの眼前に広がる世界とが、わたしにとって預かり知らぬまま
>何らに成立している以上、わたしとわたしに連関する事象がどうであれ、わたしは(自律自足した)
>わたしであったことはなく、これからも無いように思います。

完全な自律自足があるとしたら、それそのものを「自律自足した」とは言えないでしょう。
なぜなら、完全な自律自足とは他律で成り立つ部分がひとつもない絶対のことだからです。
絶対とは、他に比べうるもののない、あるいは他に連関する何ものもないことだからです。

「私1は、なぜこの私2なのか」と問うとき、私1はこの私2を否定しうる存在として現前します。
しかし「私1の現前」というとき、私1には抹消記号「×」を付与しなければならないでしょう。
なぜなら、私1とは現前しないこと、すなわち現前するもの(存在者)一切の否定だからです。

たとえばそれは、私2という生の連続創造に、私1という死の不連続が嵌入することによって、
言いかえるなら、私2という生の連続創造が、私1という死の不連続の嵌入を契機にして現前
している、というようなこと。けれども、私1「死」が現前するはずはないから「×」印なのです。

あまりにも空しい錯覚、けっして世界が関心をもたないそのことに、子供は無関心ではいられ
なかった。なぜなら、私1の存在の比類なさへの目覚めは、私1が世界やこの私2との永遠の
別れへの淵に立ち、まったき孤独が私1の存在の比類なさなのだと気づくことだったのだから。

この私2にしてみたら、それは自分が永遠の闇に引きずり込まれ、そこで砕け散っていくこと
に他ならないのだし、私2を介して自覚された私1にとっては、自分(私2)をも含めたすべての
他者がロボットだったりゾンビだったりして、自分を欺いたり迫害するものとして感じられたり、
世界は偽りの世界であり、自分の後方に世界はなく、目をつむっているときには何もないの
かもしれないと思ったり、それは奇妙な想像ではなくて、世界の真実として迫ってくるのです。

だから当然、私2は抵抗します。この抵抗の仕方が、この私2における理性の理念でしょう。
それがたとえば輪廻転生の思想であり、独我論の真実として現われるのではないでしょうか。


222 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 02:59:22

> わたしをわたし成さしめているあらゆる根拠はわたしの認識のかなたにあり、
>わたしはただ、わたしというかなたからかなたへ移ろう儚い現象にすぎない。

「私2」は、彼方から彼方へ、死から死へと転生する死という大河に湧き出た
淡い泡沫にすぎないでしょう。でも、そのようでしかない一回限りのこの生こそ、
それぞれがそれぞれにかけがえのない比類なき奇蹟です。

>自己自身を無垢に享受しているか訝しげに懐疑しているか程度。
>しかしその懐疑も、或いはカオルさんが最後の拠り所にしている自死でさえ、
>かなたから享受している能力である以上、かなたを超え出る力は無いです。
>同様に、例えば悟りの境地云々といったことどもについても。

カオルは不死ですから、カオルの自死は彼方(死、永遠の生)に
回帰することではなくて、たったひとつ輝く太陽になることです。
神さまの慈悲でさえ届かないところで、永遠にたったひとり輝きつづけることです。

彼方からの贈り物を享受し、それにさえ気づかずに有限の生を燃焼することが
彼方へと帰還するための条件なのだとしたら、その条件にしたがって彼方を
思うことを、生きるということを、すでにそのように生きてしまっているのに
否定したりはできないけれど、生きないということを決断することはできます。
生きないというのは、条件にしたがわない、不死の太陽になるということです。

> わたしが(自律自足した)わたしである為には、かなたとしてのわたしのくびきを脱し、
>かなたの彼方としてのわたしであらねばならない。

ということです。すばらしい!


223 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 03:07:34

>けれどもかなたはかなた故にわたしにとって認識不能であるのに、
>そのまた彼方など無内容な言葉遊びにすぎません。

まったくそうです。だからこそカオルには、生きていること=哲学すること、
の等式が成り立つのです。どうせ遊ぶなら真剣にやってみようかな、と。

>ショーペンハウアーの語る意志否定が相対的な否定に留まって絶対無には及びもつかないように、
>かなたを超えた境地など、わたしには想像すらできません。

それを何千年も言い続けてきたのが、それを言うことが、哲学という営為です。

> それではわたしがわたしである為に一体何が出来るのか。前述のように根本的には何一つ
>出来はしないけれど、かなたを超え出ることを断念することによってのみ、

彼方からのプレゼントを受け取らないこと、突き返すこともできます。
彼方の言いなりにならないと、彼方はプレゼントを返せと言ってきますから、
そんなものは突き返してやればいいし、そんな奴はひっぱたいてやればいい。
彼方という超越をひっぱたいた瞬間に、カオルもこの世からひっぱたかれて彼方になるのです。

>一矢報いることは出来るかも知れません。裏の裏が表であるように、
>かなたの彼方は現象としての現にこうして笑い泣き思考しているわたしそれ自身である、と。
> かなたとしてのわたしから逃れようとするからこそ、いつまでもわたしは(自律自足した)
>わたしに成れない。そうではなくて、かなたを意識しつつも、それと自己とを断絶すること。
>それで初めてわたしはわたしという現象を自己の基盤とし、それを起点に自律することが
>出来る!

すばらしい!!!
断絶しきれなくて生命的実感という感覚だけを切り離したのが離人症で、
断絶を無自覚に敢行しているのが統合失調症で、自覚的にしようとしているのが、
Sさんやかつてのカオルですよ。


224 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 03:30:29
>>215
>つまりものの名は、〜 ものの有用性につけられたというべきなのだ。
>〜 共通言語であるからには、有用の観点は共同体にとっての有用ということになる。

共同体にとっての有用性とは、このような生物学的な発想のいきつくところ、「生き残ること」
へのそれでしょうが、それが言語によって担われなければならない必要性がどこにあるので
しょうか。言語によって自覚的に強化された論理は、感情の起源である本能とは、それ自体
相容れない原理ではないでしょうか。双方の原理が起こすコンフリクトは生存目的にとって
はたして有用でしょうか。思考の法則(論理)は、生殖や生存の否定を否定しないでしょう。

>この人間世界でお前とよばれているこの私(の名)は、私の有用性に貼られたラベルなのだ。
>これが「私2」である。〜 「ことばによる認識」。〜 サルと人とのちがいでもある。
>ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。

あらゆる個物が、いかに存在していようと、それらが存在することを可能にしている条件は、
〈ある〉ということ〈そのこと〉です。同じように、あらゆる生物が、いかに生きていようと、
それらが生きていることを可能にしているのは、〈生きている〉ということ〈そのこと〉です。

生命そのものの「生きていること」から、個体としての生命の「生きていること」を分離し、
生きていることそのもの「死」と同化していた「死のない生」から「有限の生」に目覚めること、
この個体としての生命の跳躍、個体としての生命の「生きていること」が、すなわち(=)「私」
になった瞬間が「私2」の誕生でしょう。それを可能にしたのは、もちろん「言語の獲得」です。

わたしは、この文脈においては、「私1」を「生命そのもの」として想定しています。


225 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 04:20:05

――木村敏の現象学的精神病理学の知見について――

木村敏の現象学的精神病理学に示されている、「私1」と「私2」との葛藤による生命的
実感の喪失(離人症)、あるいは双方の統合不全による論理の崩壊(統合失調症)など
の知見は、じつに――「私1」は、なぜ「私2」なのか?――の問いが、『わたし』(「私1」と
「私2」との存在論的差異における差異そのもの「矛盾的自己同一」)の存立現場の解明
にとって根源的であることを感じさせるものです。

ところで木村は、この問題における哲学的探究の先駆者である永井均の思考にたいして
謝辞を述べるほど評価しているのですが、永井は木村の思考にたいして「空しさと苛立ち」
を感じたらしく、それによって「この問題の真の意味を自覚した」という評価しか与えません。
木村の理論には、「私1」の存在の比類なさが示されていない、ということなのでしょうが、

でもわたしは、生命そのものへと回帰した自己――「私2」が極限まで縮小することによって、
みずからの成立条件であった生命そのものに同一化すること、かつて個体としての生命が
そうであったようになること――が、すなわち「私1」ということなら、論理的にも納得のできる
議論だと思うし、「比類なさ」においても、「私1」が「生命そのもの」なら矛盾は生じないように
思うのです。

もちろん、存在そのもの、生命そのものは、‘それ’として指示することはできないですし、
そのような説明をしたとしても、その説明が‘それぞれの’「私2」に理解されてしまうなら、
それと同時に‘比類なさ’もどこかに消えてしまうでしょう。すなわち、言語ゲームの領野、
意味(表象)の世界へと(比類なさが、かけがえのなさへと)解消されてしまうことでしょう。

いくら追いつめてもすり抜けてしまうその事情を言語によって説明しても、それは‘再び’
それぞれの「私2」に理解されてしまうのだから、それをも‘再び’否定しなければならない。
でも、この終わりなき存在論的な差異化の運動そのものを担う『わたし』の生には‘それ’が
疑いようもなく、まざまざと示されているのではないでしょうか。


226 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 04:28:58
>>217
>これは「想定外」だっと思うけど、人がことばを使うようになって、
>「論理」という(とんでもない)ものに出会ったのですね。これは人間
>がつくったものではない、世界の側にあったんですね。

「論理が世界の側にあった」とは、どういうことなのでしょうか。
かりにそうだとしても、なぜ私たちは論理を理解できるのでしょうか。
あるいは、なぜ言語は論理の法則にしたがっているのでしょうか。

人類誕生以前から世界はあり、私たちはその世界の側にあった論理を理解し、
その論理を利用して言語を編み出した? そんなことが可能なのでしょうか。
子供は、なぜその過程を経ないでも易々と言葉を用いるようになるのでしょうか。
いったいそれは、どういう理由によってなのでしょうか。

>ことばとセットになった「論理の目」「論理の脳」で、
>〜 「予測」し飢えや恐怖をのがれるばかりでなく、

人類の進化や生存は、いかなる理由で「良きこと」なのでしょうか。
そのような思考の前提が見受けられますが、それを疑ったことはないですか。


227 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 04:33:14

>バーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。
>そこでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。
>離人症ということばも出てこようというものではないですか。

世界は「私2」の表象であり、その表象の認識は「私2」の解釈の仕方によります。
それだから、「私2」は実在に到達できない、ということが、「私2」がバーチャルに
生きているということなら、「私2」が「私1」との生命的接触におけるその実感を
斥けた場合、つまり「私1」と「私2」との矛盾的自己同一の均衡が破れてしまうと、

1.「私1」が「私2」である・ところの『わたし』という実感の喪失。

2.「私1」という「場」における「私2」の位置『ここ』という実感の喪失。

3.「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における現(に)在(る)の未成
  (今が離散し連続しないために時間が流れない)による「今」という実感の喪失。

のような障碍が起こりうることになるでしょう。


228 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 04:42:43

>私こそはこのような人間の典型だと思っています。
>自分自身を上部(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。

タマネギ人間は、わたしもよく使ってましたよ。
皮剥かないでくれよー!って、アリシンをばらまいて抵抗するのです。
私2こそわたし!とか思ってても、けっきょく私1に食べられちゃうのでしょうか。

>で、ことばによらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人を
>たいへん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、
>これは「論理的に」むりですよね。

そのようなことを表現(厳密に概念規定)するための言葉が日常言語にはないのです。
もちろん、新たな言葉(概念)を作ったとしても、形而上学的な思考は、いつもつねに
言語の限界を超えているから、私、〈私〉、「私」、『私』、“私”、わたし、のように一々に
概念規定を施して区別してやらないとならなかったりします。なぜなら、肝心のその
言葉が論理の法則にしたがわないからです。


229 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/01/14(日) 18:36:44
>>227
>「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における現(に)在(る)の未成
>(今が離散し連続しないために時間が流れない)による「今」という実感の喪失。

「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における「私2」の現(に)在(る)ことの未成
(今が離散して連続しないために時間が流れないこと)による『今』という実感の喪失。

に訂正します。


230 :ペットのぶた:2007/01/14(日) 22:25:59
われわれ凡人がこうして、「矛盾的自己同一」といった、いわば「般若の知恵」を前提とした
話をしても、それは宙に浮いたような話になってしまう。

西田幾多郎が大きな影響を受けた鈴木大拙は、次のように書いている。

「仏教が口を極めて強調するのは、差別と平等という矛盾した概念の自己同一性または円融無碍性であります。
しかしこれは一般の論理的思索では体現不可能の事実なのです。互いに相容れないものが一つであるということは
論理の上では無稽のきわみです。仏教を会得しようというときには、この究境地に一たび到達して、絶対に相容れ
ないものが、そのままで自己同一性をもっていることを明らめなくてはならぬのです。これを霊性的直覚という
のですが、仏教的にいって、得悟でも開悟でも体現でも得菩提でも般若の開発でも浄土往生でもよいのです。」
(『仏教の大意』)

西田幾多郎自身もこう書いている。

「矛盾的自己同一の根底に徹することを、見性というのである。そこには、深く背理の理というものが把握せられ
なければならない。禅宗にて公案というものは、これを会得せしむる手段にほかならない。」(『自覚について』)


われわれ凡人にとってはまず大事なのは、現に存在する「矛盾」に耐えることだと思う。
矛盾に耐える力がなければ、真に宗教的なものには到達できないと思う。
矛盾に耐える力がなくて、一足飛びに現実世界を飛び越えてしまうのが、オカルト的なものだと思う。

231 :その10:2007/01/15(月) 23:04:01
「人は人間として生まれるのではなく、人間になる」ということを重く受け止
め「私」問題を個におけるそれではなく、「人類」のそれとしてとらえること。

ことば、そして思考は共同体のものです(時間の観念も共同体に由来するらし
いです)。早く人類が共闘して「神」に異議を申し立てたいものです(その前
に神をみつけて)。これこそヒューマニズムではないですか。

話がずれて、ごめんなさい(その5〜9は没)。応答不要です。これまでの誠意
ある応答(愛と言わずにはいられません)に感謝します。木村敏さんの文章は
いいですね。

232 :◆4Ijqvx1jbw :2007/01/20(土) 01:09:38
>>221 カオルさん

 「私1は、なぜこの私2なのか」と問うとき、私1も私2も現前していますし、
それらが生または死の連続創造であるという解釈は、例に挙げられた輪廻転生や
独我論のように、その当事者にとって尤もらしく捏造された物語に過ぎないでしょう。
それがナンセンスか否かというような違いあるにせよ。
 そうではなくて、今まさにそう問うてしまっている(はずの)当のもの。
表現したくても決して出来ない(それは×ではない)そもそも何であるかもわからない。
けれども例えば私1私2とかけがえることによって初めて予感される(だけの)。
そんなかけがえられないかなたが、>>138で書いたかなたです。
 なんだ私1や物自体としての意志と同じではないか、とは思わないでください。
見えないものを当て推量で認識の掌に納めようとするそれらのムツカシイ企て
(形而上学)と、かなたが意識されることとは全く異なるからです。
 たった一欠けらでもかなたが意識される限り、完全あるいは絶対という定義の如何に
係わらず、少なくとも自ら律し自ら充足しうることはありえない。そしてかなたが
意識されるという転換がなされたなら、仰るように、全て他者であることが世界の
真実として迫ったり、自らであろうと必死に抵抗したりするのですが、尚また
そのように無根拠に反応してしまうこと自体、かなたとしての顕現に過ぎないのだと
いっそうに予感されるのです。

233 :◆4Ijqvx1jbw :2007/01/20(土) 01:10:17
>>222 カオルさん

 私1私2と言うようにかけがえていることは全て相対的な区分に過ぎず、
かけがえのない奇跡とは言えないでしょう。また、経験情報が何らに消失してしまえば、
例えば一回限りの生という思い込みも簡単に変容してしまうことでしょう。
 たったひとつ(あるいは完全、絶対)ということがどういうことなのか不明で、
条件設定自体も思い込みにすぎない(ようにしか見えない)のに、どうして不死の太陽
が具現できるでしょうか。また、仮に仰った条件が妥当だとして、=かなたとしてのわたしの
くびきを脱したこと、にはならないように思えます。そのように意志する事自体が無根拠
である限り、どこまでもかなたとしての顕現であると予感されるからです。
 そして、わたしは自死・・つまり死あるいは任意の条件に従わないという相対的な
移行をかなたからの所与として意志する(決断する)ことは許されていても、
自殺・・つまり所与としての意志それ自体を抹殺することは許されていないのです。

234 :◆4Ijqvx1jbw :2007/01/20(土) 01:10:57
>>223 カオルさん

 Sはカオルさんが生きていること=哲学することとして真剣に取り組んでいる姿勢に
共感します。だからこそ、納得できない点も隠さず挙げてみました。所与としての意志には
所与としての意志それ自体を抹殺することができないゆえに、仰っている、かなたからの
プレゼントは受け取らない、かなたという超越をひっぱたく、等にも賛同できません。
 裏の裏は表である式の・・というのは、かなた自体には触れない、一種の認識転換に
過ぎません。かなたとしてのわたしは依然として変わらない。そしてかなたをわたしは
知りえない。しかし見えないかなたのくびきを脱するためにかなたを返す、つまり
かなたからかなたを差し引くことは(認識の上では)可能なはずです。残るのは見えるもの、
わたしという自己意識と眼前に広がる世界。いつもの日常です。
 何らかの感覚を切り離すのでも分裂させるのでもなく(それでは何も変わらない)、
かなたを超越することでも忘却することでもなく(それは無理)、かなたという衆人環視の
もとで敢えてかなたをスルーしつつ、わたしとわたしの連関を引き受ける、みたいな。
わたしという自己意識を起点に、見える現象を自己の基盤として再構築すること。
それぐらいしか、わたしには可能ではないように思うのです。

235 :◆4Ijqvx1jbw :2007/01/20(土) 01:12:54
衆人環視→衆人監視

236 :エヌ:2007/01/21(日) 22:58:32
>>209 カオルさん
>体験知にもとづく言説には、すなおに対応できない

過去の話はしていませんよ
昔の知識を元に書いていると思っているのですか?
それは違いますよ
今起こっていることについて書いているのです

237 :エヌ:2007/01/21(日) 23:05:35
>>195 カオルさん
ぐぐってみたら下記のようなサンプルが出てきました

http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0212/sp3.html

このあたりを参照あれ

>現代物理学には,時の経過という概念がないのだ。
>アインシュタイン(Albert Einstein)が友人あての書簡の中で「過去・現在・未来という考え方は幻想にすぎない。抜きがたい考え方ではあるのだが」と書いたのはよく知られた話だ。



238 :エヌ:2007/01/21(日) 23:08:10
>>193
>>237を参照して


239 :エヌ:2007/01/21(日) 23:17:34
>>215その3
>>217その4
これ、あなたが考えたの?
ざっと読んで大きくは間違ってなさそうだけど
わかる人がいることにたまげたよ

240 :sew:2007/01/29(月) 20:47:10
>>201
お久しぶりです。

そうですね。この世に100%なんてものはないと私は思っています。
お互いが理解しあうにしても程度がありますし、様々な気持ちも入れ込んでくることでしょう。
「美しき誤解」「惨憺たる理解」については、自分で考えることにします。
この2つの言葉にしても解釈する人によっていくつもの解釈の仕方がありますよね。
それが人によって一致するかしないかはともかくとして、
自分で考えることが哲学である、ということを、あなたのレスから学びました。
人から教えられることってたくさんありますね。

私は私なりに、独自の解釈をしていきたいと思っております。

241 :ムートン ◆Sheep2h65. :2007/02/02(金) 20:45:02 ?2BP(124)
だいぶ書き込まれてますね。1週間ぐらいかけて全て読んでみます。
私の近況報告は・・・一つだけ挙げるとすると、仕事が楽に感じるようになりました。
暇になったわけではなく、むしろ仕事量は増えたのですが、その間、様々な発見があったからです。
いろんな無駄をそぎ落とし、全てに優先順位をつけ、常に他人の気持ちと自分の気持ちを考える。
そしてそれを持続するための下地を築く。そういう作業をこつこつと続けてきた結果だと思います。
しかし依然、自己の探求は進んでいないような気がします。プライベートも満たされない感が強い。
人の心の動きがまだ分かりません。臆病者だと思います。

242 :考える名無しさん:2007/02/02(金) 23:23:51
ムートン、、すっかりわるれてたw
安定してる様でなにより

243 :エヌ:2007/02/17(土) 23:27:25
あせることはない
自己がなくなることはないし
自己を見失うこともない
常にあるために
背景としてあるために
気づきにくい
動いているものは分かりやすいが
動かないものは気づきにくい

244 :エヌ:2007/02/17(土) 23:31:20
自己を知らぬはずはない
まれにそのごくわずかに片鱗に触れることもある
笑っている時
楽しい時
夢中になっている時
その時だ


245 :考える名無しさん:2007/02/19(月) 19:46:11
俺は哲板で共通の敵(悪)は存在しないと言い張ってるんだが、悪いことするのが怖いからそう思わずには居られないんだよな。。。

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