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【冗官?】内大臣について語ろう【キングメーカー?】

1 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/23(月) 00:07:35 ID:JsEha19s0
三条実美から木戸幸一まで、
ある時は「冗官」と言われ、またある時は「首相奏薦第一人者」とも呼ばれ、
日本近代史において最も政治的な「宮中職司」であった内大臣について語り合いましょう!

1.三条実美     明治18(1885)年12月22日〜 
2.徳大寺実則    明治24(1891)年2月21日〜 
3.桂太郎       大正1(1912)年8月13日〜
4.伏見宮貞愛親王 大正1(1912)年12月21日〜
5.大山巌       大正3(1914)年4月23日〜
6.松方正義     大正6(1917)年5月2日〜
7.平田東助     大正11(1922)年9月18日〜
8.牧野伸顕      大正14(1925)年3月30日〜
9.斎藤実       昭和10(1935)年12月26日〜
10.湯浅倉平     昭和11(1936)年3月6日〜
11.木戸幸一     昭和15(1940)年6月1日〜

昭和20(1945)年11月24日 廃止


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 00:12:10 ID:xswqmjEv0
このスレは
「多岐」太平洋戦争直前の超大物「亡羊」
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1086608688/l50

で言われていたやつですか?

3 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/23(月) 00:25:07 ID:JsEha19s0
>>2
早速のレスありがとうございます。>>1です。
当該スレをざっと見ましたが、そのスレとは直接の関係はありません。
あくまでも三条から木戸まで、それぞれについて語ることで、
日本近代史の不思議な部分を解釈してゆこう、というのが目的で立てさせて頂きました。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 00:38:45 ID:LufiuXEy0
西園寺のお兄さんだけ20年以上とものすごい長期ですね

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 00:43:15 ID:g35NQ5qhO
斎藤実が好きだなぁー。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 00:43:34 ID:xswqmjEv0
わかりました。

内府のはじまりは総理大臣になりたかった三条実美を押し込むために作ったと言うことですが、
それが結局戦時中の大実力者木戸幸一に至るんですけど、元老の死のほかのポイントどこでしょうかね。
斎藤実あたりから西園寺は意識し始めたんじゃないかと思います。

>>4
三条の死後はどうでもいいポストだったんで別に変える必要もなかったんでしょうかね。

7 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/23(月) 01:21:50 ID:Mly3IgL10
>>4
徳大寺は侍従長と兼任でしたから、ちょっと毛色が違うことは事実ですね。

>>6
個人的には、湯浅の後期がターニングポイントと思っています。
特に、平沼奏薦に湯浅が難色を示すところや、
その後の阿部・米内内閣を作るところなどは、
すでに西園寺公望の影響を離れていますので、
一つの転機に見えます。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 10:32:59 ID:WWEUnH3a0
>>6の言われるように
当の西園寺が内大臣キャビネットメーカー制に取り組んだと言われているが
その辺どうなんでしょ?
原田日記持ってないんだけど、何か書いてあったりするんでしょうか?
鳥居民氏なんかは、西園寺は斉藤内閣→岡田内閣+斉藤内府という流れで
輔弼を海軍の穏健なラインで固め、独走しつつあった陸軍から天皇をお守りする
構想を描いたと、しかしそれが2.26で一気に瓦解したと言ってますな
そうならば、斉藤が長く在職していたらキャビネットメーカーになったかも知れない

9 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/23(月) 11:06:14 ID:gNHtJKEZ0
>>8
坂野潤治氏に拠れば、満洲事変後の牧野内府時代には
西園寺の推す「憲政の常道」と牧野の推す「協力内閣」の
方針の違いをめぐって対立があり、
結局西園寺側の方針通りに事が運び
政友会単独の犬養内閣が成立した、とあります。

また、斎藤内府を「内大臣キャビネットメーカー」にする件では、
なにせ在任期間が短すぎるので何とも言いようがありませんが、
当時の斎藤内府の年齢(77歳)を考えると、少々厳しいかもしれません。
また戦前に出版された『斎藤実日記』によると、
内大臣就任から2・26事件までの約3ヶ月間で、
宮中出勤は僅かに10数回程度で、それほどの大きな政治的権力を持っていたとも思えません。

愚見ですが、如何でしょうか?

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 22:51:09 ID:lxD3XHbV0
西園寺の意図は元老という個人から内大臣という役職にキャビネットメーカーの権能を移すことにあったのでは
西園寺にとっては誰が内大臣に在職しているかはあまり大きな問題ではなかったのだろう

11 :8:2006/01/24(火) 02:25:17 ID:7Pm0W0hV0
坂野潤治氏の説は初見でした、ありがとうございます
そうですか西園寺は牧野時代には「憲政の常道」で
犬養内閣・・・となると5.15で危機感を強めた西園寺が
方向転換したと・・・そう考えていいのかな

斉藤内府の件は、確かに期間が短くて想像を語る事になりますね。
実質的には内大臣秘書官長の木戸が内大臣府を取り仕切って
いたんでしょうか?

12 :8:2006/01/24(火) 02:28:17 ID:7Pm0W0hV0
>>10
キャビネットメーカーだけでなく、天皇の相談役補佐役としての元老の役割全般を
常侍輔弼の内大臣に持っていこうとしたと良く言われてますね

13 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/24(火) 09:54:25 ID:JhZx5DZy0
>>10
おっしゃっている「西園寺の意図」がいつの時代のものか分かりませんが、
『西園寺公と政局』では1938年10月25日の西園寺の発言として
「(近衛には陸軍だのの勢力が付きすぎているので)
今日近衛を内大臣にもっていくのは絶対に反対である」という西園寺の発言があります。
少なくともこの時点では「誰が在職していてもあまり大きな問題ではない」
役職では無かったことだけは事実のようです。

>>11
坂野氏の論文が今手許にないので私見が交じりますが、
確かこの論文の一つの骨子は、「元老と内大臣の“権力争い”」にも
あったと思います。
つまり、すでに犬養内閣成立前の1931年末の段階で、
元老職と内大臣職のあいだに何らかのバッティングがあったと見ることもできましょう。
また、このころ田中光顕がしきりに新聞紙上で「内大臣廃止論」を
ぶち上げているのも、西園寺とは無関係ではありますが
気になるところです。

1930年9月30日に木戸幸一が内大臣府秘書官長の就任を依頼された際
牧野内府から「内大臣府と言うところは仕事がほとんど無く極めて暇ですが
それでも良いですか」と言われたという話が『木戸幸一関係文書(日記に関する覚書)』
に出てきますが、2・26事件頃までの内大臣府は、
牧野の「協力内閣論」に見られるような政治的主導権把握に向けての動きはあるものの
まだまだ西園寺の影響力が強大だったと見ることができるのではないか
と考えています。


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/24(火) 10:43:09 ID:4aaGk84q0
>>8
鳥居民氏の『昭和二十年』での内府ネタは面白いですね。
小磯による近衛内府案説とか米内による石渡内府案説とか。

15 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/24(火) 11:20:44 ID:JhZx5DZy0
>>14 横レスご容赦!
その本は知りませんでした。今度読んでみます。
戦争末期になると、木戸内府の処遇に困ったりしている政府関係者が
いたことは事実ですね。
それにしても、米内の石渡内府って面白いなぁ。。。
(自分が首相だった時の書記官長を据えようってか?)

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/24(火) 15:38:56 ID:lW/qn6ZI0
結局元老というのは憲法外の非公式なものだから、政党政治が確立したら必要ないと思っていたのよ>西園寺侯
だから、権力は無いけど、憲法内で、内閣の外にいる内大臣が指名することを望んでいたみたいよ。
ただ、ファッショに近い者は西園寺公も嫌っていたから、そういう人は内大臣には出来ないと思っていたんでしょうね。
同じ理由で枢相人事にも介入してましたし。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/24(火) 18:41:26 ID:S0SSd5GS0
>>15
>戦争末期になると、木戸内府の処遇に困ったりしている政府関係者がいたことは事実ですね。
この部分できたら詳しく教えて欲しい。

18 :8:2006/01/25(水) 03:34:40 ID:ccKvEuP20
>>13
元老と内大臣のあいだに何らかのバッテイングですか、なるほど。
これは、全く想像に過ぎないのですが、
ただ一人残った元老である西園寺も老いて興津に篭る事が増える中、
天皇自身が新たなアドバイザを必要としたであろうと思われ、
そうした自然な流れから出ているのではないでしょうか。
当時の常侍輔弼の宮内官の中では、牧野がもっとも昭和天皇が頼りにしそうな
駒のように思えます。

それ以前にも国務・政務人事に宮内官が影響力を発揮する場面はあるものの、
内府が強力な政治力を持ったのは、木戸内府の時が例外的に突出しています。
それは元老が居なくなったという事以外に、時代背景がそうさせたとも
考えられるのではないでしょうか?
天皇が高度かつ素早い判断や現状認識を必要とする場面が多い程、
内大臣の役割は大きく重くなるように感じます。
1930年代前半はまだまだノンビリした時代という事もあって、
常侍している者から直ちに意見を求めなければならない場面が少なかったから、
西園寺公お召の御沙汰というスピード感でOKだったとも思われます。

19 :8:2006/01/25(水) 03:45:57 ID:ccKvEuP20
>>15
横レスにまた横ですが
「昭和二十年」は凄く面白いですよ、著者が史料の行間を読むタイプだから
ダメな人はダメかも知れませんが、そういう見方もあって良いなと思えます。
米内は宮相の松平と組んで、天皇に一番近い位置にいながら、
自身の開戦責任を気にして、身動きが出来ない木戸を代えようとしたという話しです。
結果、木戸更迭は出来なかったが、追い詰められた内府は「時局収集案」を作って
言上せねばならなくなったと言うのが鳥居説です。面白いでしょ。

20 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/25(水) 10:11:45 ID:MWSRcD6E0
>>17
ソースは高木惣吉か細川護貞あたりだったと記憶していますが、
東条倒閣運動があった頃、木戸を動かさないことには政局が動かないので
そのあたりの運動をやった際(黒幕は岡田か?)、
木戸あたりには陸軍からの裏金(アヘン密売で蓄えたらしい)がかなり出回っており
宮中方面では東条の“覚え”めでたく、倒閣にも支障を来していたとの話です。
また、昭和20年に入っても、木戸は重臣たちから「陸軍より」と見られており
近衛の終戦工作が失敗に終わる一つの要因ともなっていたともあります。
このあたり、木戸内府更迭の動きと絡んでいると考えられます。

>>18
天皇のアドバイザとしての内大臣というのは、まさにおっしゃるとおりですね。
但し、2・26事件以前の内大臣(牧野・斎藤とも)宮中出勤が非常に少ない
(入江相政や岡部長章など当時の侍従たちの回想によるとせいぜい週1回とあります)
事がネックです。
2・26で鈴木貫太郎が襲撃されたことを考えても、
どちらかというと内大臣よりも侍従長の方が当時はアドバイザ的役割を果たしていた
と見ることも可能ではないでしょうか?
(鈴木は何と言っても、「たか」さんの旦那ですし、牧野並みに天皇の信任篤かったと思われます)
そして、もう一つ2・26以前の宮中四大官の布陣が、侍従武官長以外、
内府−牧野・斎藤、宮相−一木・湯浅、侍従長−鈴木、とある程度まとまっていたので、
内府だけが突出する必要がなかったと見ることもできると思います。
(一木は宮相のあと枢相になっていますから、より“完璧”ですねw)

1930年代前半は未だのんびりしていた、というご意見は
まさにその通りだと思います。
ただ、気になるのは、その「ノンビリ」がいつから「せわしなく」なったのか
そのターニングポイントを知りたいものです。

>>19
>自身の開戦責任を気にして、身動きが出来ない木戸を代えようとしたという話しです。
なるほど、これも>>17氏へのひとつの回答となりますね。
私見ですが、木戸内府もまぁ、自己保身に長けた人で、
うま〜く責任回避しまくりながらキャビネットメーカーを務めていますよね。
誰かが「木戸なんか(孝允の義孫じゃなかったら)官庁の課長止まりだよ」という
酷評を残していたことを思い出します。

21 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/25(水) 10:31:47 ID:MWSRcD6E0
>>16
ごめんなさい。レスしそびれました。

西園寺が、元老の再生産を否定しており、世間の動きもそれを許していなかったことは事実です。
(清浦奎吾あたりが、元老への野心を見せますが結局ポシャる)
政党政治(=憲政の常道)を確立しようとする西園寺の考えが、
牧野の「協力内閣」論を封じ込めたのは事実のようです。

>ただ、ファッショに近い者は西園寺公も嫌っていたから、

ここで興味深いのは、西園寺の近衛への評価の変化です。
牧野内府退任直前の1935年12月22日付けの『西園寺公と政局』に
西園寺の科白として、近衛について
「結局内大臣にするとしても、その前に一遍はどうしても総理大臣をやってからの方が良いと思う」
と言っています。この科白から窺えるのは、この当時
1.西園寺は元老亡き後、内大臣にその役目を譲ろうとしていたこと。
2.そして自らの後継者として近衛を考慮していたこと。
の2点が上げられます。

しかし、この西園寺の近衛評はわずか3年後に一変します。
近衛内閣(第1次)時代末期に、近衛がいつものように「首相を辞めたい」と漏らした時、
「内大臣〈湯浅〉でも病気されたら、内大臣にでも転任してあとを木戸にでもやってもらい
そうして1年くらい内大臣をしてから御免蒙りたい」といいます。これに対して西園寺は
「もし内大臣として近衛を側近に置いたなら、やはり陸軍の勢力が宮中に及ぶ
ということになる。これは非常に困る。今日近衛を内大臣にもっていくことは
自分は絶対に反対である」
『西園寺公と政局』1938年10月25日の条に出てくる科白です。

このように、政局が刻々と動く中で、それぞれの人物のそれぞれの人物への評価は
めまぐるしく変化しています。
いつの時点のことか、しっかり把握していないと途惑うことになると
自分では思っています。

22 :未だに8:2006/01/26(木) 02:28:43 ID:10ns9/LM0
>>20
そうなんですよね。
昭和10年頃までは内大臣が活発に活動していたという感じは無い。
鈴木貫太郎ですが、仰るように天皇のご信任篤かった事は確かだと思うのです。
ただ、鈴木の性格からして政務に近い分野では、
天皇に影響を与えるような積極的発言はしなかったと思われるんです。
その点、牧野の方が内政、外交とも明るく頼りになったのでは?と思うわけです。
一方で、仰るように内府だけが突出するような宮中の人事構成ではない
というのは同意ですね。
まあ、天皇自身がまだまだ若殿なわけで、どの程度宮内官たちを自ら活用しようと
したかという点も考慮する必要があるとは思います。

木戸は保身上手というお話、ほぼ全面的に同意ですw

23 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/26(木) 09:04:39 ID:ig6yksv/0
>>22
いつもレスありがとうございます。

>ただ、鈴木の性格からして政務に近い分野では、
>天皇に影響を与えるような積極的発言はしなかったと思われるんです。

貫太郎は侍従長就任直後に「満洲某重大事件」の処理で、
田中内閣をぶっ倒しちゃったので、そういった事情もあると思いますね。
昭和天皇も後年、あの件については反省していたと巷間言われていますし、
貫太郎自身も、海軍出身だったこともあって、陸軍長州閥の田中を桂冠に
至らしめるという政治的な動きをしてしまったことは、反省していたのかもしれません。

>その点、牧野の方が内政、外交とも明るく頼りになったのでは?と思うわけです。

もちろん、牧野の方が鈴木よりも一枚上手であったことは想像に難くありません。
が、>>20でも書きましたように、なにせ宮中出仕日数が少なすぎる、
「内大臣府は極めて暇」とか自分で言っちゃってる、
そういった外的な条件から見ると、手腕はあっても発揮する機会がない。
それに比べると、毎日宮中に参内していた鈴木侍従長の方が、
昭和天皇へのアドバイザ的役割を果たし得ていたのではないか、と推測できます。

>まあ、天皇自身がまだまだ若殿なわけで、どの程度宮内官たちを自ら活用しようと
>したかという点も考慮する必要があるとは思います。

この当時はせいぜい30代前半で、まだまだこれから、って感じでしたものね>昭和天皇
ただ、この時期に西園寺の息がかかった連中が周囲を固めていたのは
結構意味が深いのではないかとも思います。
2・26事件後、宮中の陣容は大きく変わりますが、唯一残った湯浅内府に
ある種の期待を寄せていたのではないか、とも思います。

>木戸は保身上手というお話、ほぼ全面的に同意ですw

勝田龍夫の『重臣たちの昭和史』に木戸が跋文を寄せていますが、
戦争について「あれしか仕方なかった」なんて書いてあるのを見て、
思わず苦笑してしまったことがあります。w

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/28(土) 21:51:41 ID:8HZvXogDO
木戸なんか課長止まり、は確か原熊だったと思います。
近衛、原田と木戸は結局ケンカになったようですね。
もし原田が戦後も長生きすることになれば大変な争いになったかも。

25 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/28(土) 22:44:50 ID:EOMw1ysP0
>>24
>木戸なんか課長止まり、は確か原熊だったと思います。

だとすると、それこそ勝田龍夫の『重臣たちの昭和史』で読んだんだと思います。
何せ、勝田氏は原田熊雄の女婿ですからねぇ。

>近衛、原田と木戸は結局ケンカになったようですね。

「園公三羽烏」なんて言われ、年齢も学歴も近いこの3人ですが、
出自がそれぞれ違いますからね。
五摂家筆頭の近衛、維新華族の木戸、原田一道の孫で男爵となった原田。
『西園寺公と政局』自体は、園公の死をもってその記述を終わりますが、
「その後の原田日記」とでも言うようなものがあれば読んでみたいものです。
実際、「原田日記」を見ていると、どうも原田自身は内府就任後の木戸には
余り良いおもいをしていなかったようにも見受けられます。

いずれにせよ、戦後長く生きたのは木戸だけでしたので、
結構言いたい放題だったこともあり、正直言って私も少し苦々しく見ています。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/28(土) 23:48:09 ID:8HZvXogDO
細川護貞が、『重臣たちの昭和史』の前半は原田日記からだから正確だが
後半は木戸から話を聞いたものでアンフェアであり、
ソースの材料の価値が少ない、という話になって、

私は勝田氏とは学生時代からの付き合いだが、
あの人は本を読むとか文章を書くとかが苦手で
あの人があんな大著を書けるとは考えられない。
大蔵省か勝田のつとめていた銀行のスタッフがゴーストライターだと思う。
私はあの本が出たとき、私をやっつけるために書いたんだなと思った。

と言っています。
別に護貞が悪く書かれたりしているわけではないので、
細川日記の木戸批判に対抗するために
木戸の関係者がゴーストを使い勝田氏を担いだ、と感じたということでしょう。

27 : ◆esgAa5yCiM :2006/01/29(日) 00:22:33 ID:EITmzx7O0
>>26
『重臣たちの昭和史』と言う本は、非常に興味深い叙述もあり、
また他の資料にはない、「談話」などが書かれている点から見て、
一次資料的な使い方ができるのではないか、と発刊当時思ったことがありました。
しかし、現実に精読してみると、それら「談話」の取扱い方に非常に問題があり、
同書に間々載せられている「談話」をそのようにに使えないことはすぐに分かりました。

確かに、「原田日記」が生きていた木戸内府就任直後あたりまでは
それなりの面白さがあるのですが、その後は私自身もあまり詳しく読んでいません。
また、銀行家として多忙な勝田氏があれだけの大著を書けるとも思えず、
口述筆記の編集かな、とも思っていたのですが、
ご指摘を伺って、さもありなんと思いました。
まぁ、勝田氏の名前で出せば売れますし、功成った勝田氏にとっても名を遂げるチャンスでしたから
そういった思惑があったことは想像に難くありません。

>細川日記の木戸批判に対抗するために
>木戸の関係者がゴーストを使い勝田氏を担いだ、と感じたということでしょう。

『日本の一番長い日』も現実には半藤一利氏の著であるように、
そこらへんが正解と言ったところなんでしょうね。
そう思うと、かの木戸の「跋文」の意図が非常に明確になると思います。多謝!


ところで、このスレは「内大臣について語ろう」ですので、
そろそろまた内府の話題に戻りたいと思います。
三条や徳大寺でも良いのですが、個人的には平田東助に興味をもっていたりします。
そのあたりお詳しい方、いらっしゃぃましたらレスをお待ち申し上げております。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/02(木) 00:26:12 ID:F4njoRKT0
木戸内大臣に関する本ってありますか?

29 : ◆esgAa5yCiM :2006/02/13(月) 23:57:46 ID:mxQQc3Hh0
>>28
レス遅れてごめんなさい。>>1です。

実は、木戸に関する本というのが一番難しいのかもしれません(期待値が高いだけに)、
>>28さんが、もしこれから興味を持とうと思われる方でしたら、
まずは図書館で『木戸幸一日記』を年表片手に重要な日付のところだけ
拾い読みするのはいかがでしょうか。

そのうち、ゴルフ日程なんか気になるようになると思いますよ。
やっぱり何であっても「一次資料」です。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/14(火) 14:12:52 ID:ziPoCDj8O
ごめ…ww一瞬肉大臣て読んじゃったw

31 : ◆esgAa5yCiM :2006/02/14(火) 18:16:00 ID:M0nirTKd0
>>30
キン肉マンのネタではございませぬ。w

32 :ひさしぶりの8:2006/02/18(土) 05:17:47 ID:JS2N5Lh60
ごぶさたです
>そのうち、ゴルフの日程なんか気になるように・・・

そうなんですよ
この時期にこんなメンバーとハーフ終わってから何相談したんだろうなって

ちょっと高価だけど、持ってて損はないですね『木戸日記』
私は『原田日記』を揃いで買うか、今回は『杉山メモ』だけにしておくか思案中ですじゃ

33 : ◆esgAa5yCiM :2006/02/18(土) 17:18:39 ID:BL+DLaQg0
>>32
レスありがとうございます。毎度の>>1でございます。

>この時期にこんなメンバーとハーフ終わってから何相談したんだろうなって

そうそう、その怪しげな動き、気になりますよね。
今、木戸日記の現物が実家にあるのでちょっと‘うる覚え’ですが、
確か、昭和15年6月1日の内大臣就任の前日か前々日にも
ゴルフをしていた旨の記述があり、苦笑していました。
ただ、もしかするとこれも「何相談したんだろう」の1つかもしれませんね。

『原田日記』ですが、私は15年くらい前に神保町の古本屋で
索引(9巻)を除く全8冊揃い(箱無し)を1万円で入手しました。
『原田日記』の記述で面白いところは、口述なので
話題が飛んでいて、その事件が起こっていた「その時」ではなく、
後になって「あの時はこうだった」「あの人がこう言っていた」などと
書いていたりする点があることですね。
その分注意深く読まないといけないと言うことですが。。。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/24(金) 04:34:36 ID:nyyYN7cN0
ここでだけコテハン付けようか迷っている8です

>『原田日記』ですが、私は15年くらい前に神保町の古本屋で
>索引(9巻)を除く全8冊揃い(箱無し)を1万円で入手しました。

リーズナブル!良い買い物をされましたね。
日記というものは一次史料だから、照合すると面白いですね。
ちょっと前は『高松宮日記』と『細川日記』の照らし合わせに没頭してました。
細川さんは割となんでも書いているけど、宮は案外そうでもない。
失礼ながら宮の心中を忖度すると・・・みたいな。

そういえば宮も近衛ラインの考えに乗って、色々と天聴に達せようとするけど
陛下はそれぞれ職責に応じた対応を重視するし、弟宮からの諫言も煙たいのか、結構冷淡です
宮もだんだん嫌気がさして来て
「それは木戸の役割だ」みたいな事を言ってますね(これも細川日記かな?)
いまさらの話しになりますが
こういうのを読むと、木戸というかこの時期の内大臣というかの影響力は非常に大きいし、
職責も重大だったと思うんです

でも、政府や統帥部の関係者に比較して、こうした場で語られる事はあまり多くない気がします

35 :さねとみ ◆esgAa5yCiM :2006/03/05(日) 12:26:28 ID:YNwDbi+30
>>34
お返事遅くなってごめんなさい。>>1です。

>ここでだけコテハン付けようか迷っている8です

是非つけてくださいまし。その方が話しやすいかもしれません。
で、私もコテつけさせて頂きました。w

>リーズナブル!良い買い物をされましたね。
>日記というものは一次史料だから、照合すると面白いですね。

ありがとうございます。
「原田」と「木戸」は基本中の基本文献ですが、
これの照合も私が思うに十分なされていないのでは?
と思うのが実情です。
というか、>>33にも書いたように、それぞれの日記内での精査や
個々人に対する評価の変遷だけでもまとめると面白いと思います。

>ちょっと前は『高松宮日記』と『細川日記』の照らし合わせに没頭してました。
>細川さんは割となんでも書いているけど、宮は案外そうでもない。
>失礼ながら宮の心中を忖度すると・・・みたいな。

高松さんは海軍だから余計に「敗勢」に敏感だったのでしょう。
それゆえに書けることと書けないことの区別にも配慮したような気がします。
あーゆー人たちって、死後日記が公刊されることを予期してつけていますからね。


>そういえば宮も近衛ラインの考えに乗って、色々と天聴に達せようとするけど
>陛下はそれぞれ職責に応じた対応を重視するし、弟宮からの諫言も煙たいのか、結構冷淡です
>宮もだんだん嫌気がさして来て
>「それは木戸の役割だ」みたいな事を言ってますね(これも細川日記かな?)
>いまさらの話しになりますが

昭和さんは、秩父さんとの関係なんかもあるのか、それとも「帝王学」のなせる技か
弟宮と距離を置きますよね。
2・26の時に、昭和さんが本庄繁に「壬申の乱になる」という科白を言うシーンが出てきますが
そもそも“壬申の乱”を知らない本庄が、(゚Д゚)ハァ????になるところなど興味深いです。

>こういうのを読むと、木戸というかこの時期の内大臣というかの影響力は非常に大きいし、
>職責も重大だったと思うんです
>でも、政府や統帥部の関係者に比較して、こうした場で語られる事はあまり多くない気がします

では、何故に、いつ頃から、内大臣の影響力や職責が重大になったのか?
それをお話ししたいのがこのスレを立てた最大の理由です。
是非ともお考えをお聞かせ願い、建設的な議論ができればと思っております。
D=タイタスの『日本の天皇政治』には少しまとまって書いてありますが、
これでも全然足りませんので・・・


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/07(火) 16:10:55 ID:PuEU1Sy6O
40万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾

『嫌韓流2』発売中

意外とおもしれーぞ

37 :さねとみ ◆esgAa5yCiM :2006/03/08(水) 11:45:34 ID:r4nKPJm60
そういえば、斉藤内府は朝鮮総督の、湯浅内府は斉藤総督の下で政務総監の
それぞれ経験者ですな。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/13(月) 11:07:26 ID:g5bxkMvf0
西園寺が首相推薦をしなくなって内大臣主催重臣会議になったというのが
やはりシステム的な転換点で無視できないところだが、
思うに、若年の天皇にいろいろ好きなことを吹き込んでいるのではないかという強迫観念が
牧野の頃には既に存在していて、そういう類のものが根底をなして
周囲が重大なものたらしめた側面もあると思う。

39 :世界@名無史さん:2006/03/24(金) 16:48:04 ID:8/1cRgr80
age

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/06(木) 17:56:26 ID:qH7GM9ox0
実は内大臣は統帥に関与できた。
木戸がたまに陸海軍の調停をやっている。
しかし木戸は保身に長けたタイプなので、国家のためには必要なものであっても、
軍部を刺激するようなレベルでの統帥事項への関与を行わなかった。
西園寺がはやいうちに内大臣に国務と統帥の調停役をやらせていればと悔やまれる。
斉藤が長生きしていればよかったが、しかし海軍出身の彼では陸軍を怒らせただけかもしれない。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/25(火) 00:00:27 ID:5EicsiTZ0
あげます

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 04:19:07 ID:QD8tZ97Y0
敗戦後の憲法改正の時、近衛文麿が「内大臣府御用掛」のポストで改憲に関わってるが
「御用掛」のポストは法令に規定が見当たらないんだが臨時職なの?

用語解説 | 日本国憲法の誕生
ttp://www.ndl.go.jp/constitution/etc/yogo.html
内大臣府の改憲調査
ttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennpousisirou.htm

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 11:46:56 ID:lzFDlBfu0
保守


44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 23:35:41 ID:nEYGRfdA0
閣外相としての内大臣を復活しよう。
宮内庁を宮内省にして、政府から独立した地位とする。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 00:56:57 ID:NNmyo4P70
で内大臣に玉ジの保管を任すのかい?

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 09:55:53 ID:SmuSDL+i0
英国の王璽尚書は下院院内総務が兼任。なんかしょぼい。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 23:51:18 ID:rZ0DODuB0
>>46
党幹事長は党務が忙しいから国務大臣としては軽い職務を担当するんだよ。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 02:23:09 ID:/B30JdYG0
日本でも一時期話題になったな

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