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【惟任】明智十兵衛光秀・其之参【日向守】

1 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 12:43:03
戦国武将、明智光秀について語るスレです。

前スレ 【明智】惟任日向守・其之弐【光秀】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1137820002/
前々スレ 明智光秀の真実
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1091055281/

注・朝廷説○氏は、このスレには書込まないでください。
  もし○氏の書込みがあっても、このスレで反論しないでください。

○氏、及びその反論は、こちらのスレで↓
専用スレ 【明智】惟任日向守・其之弐【光秀】 U
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1143295102/

2 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 14:48:08
今年の大河ドラマ、いよいよ本能寺ですね

3 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 16:50:07
○にうんざりして立ち去った人間が多いだろうしなあ……
光秀について語りたい人、この板に何人残ってるんだろうか。

4 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 07:12:44
ここ、明智光秀に関して真面目に語っていいスレですか?

5 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 09:10:27
いっぺんくらい明智光秀主役の大河ドラマやらないかね。


6 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 17:19:56
天正十年に三人目との妻との間に子供が生まれたって書いてある所もあるけどホント?

7 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 17:32:30
ゲームの鬼武者みたいな感覚で、破壊魔でサディスティックな
信長に対する、保守派勢力の儚い抵抗、みたいな感じで大河に
してほしい。主役は光秀で。


8 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:54:46


9 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 07:24:16
昨日6月14日は、明智光秀の命日でした。

京都新聞 6/14
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006061400142&genre=J1&area=S00
 
【滋賀】 全国の明智光秀ファン、大津に大集合
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1150295858/


10 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:24:29
>>6
それはどこだろう?よくわからん。
側室を持たなかった、というのは伝説で、奥方関係については良くわかってないんじゃなかったっけ?
天正10年に子供が出来るって言うのは、年齢的にはギリギリありえなくはないかな。

11 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:09:24
柘植城主、喜多村保光の娘?男子誕生?
http://www.shinshindoh.com/akechi.html
本人が言ってただけかな?


12 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 04:39:56
光秀の末の男子、天正10年1月に坂本城で誕生。
内治麻呂、のち成人して喜多村弥平兵衛。

↑こいつのことか

>>11の系圖は、その弥平兵衛さん当人に、同じく光秀の子(長男?)
である妙心寺の坊さん玄琳が贈ったものだそうな。

13 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:19:42
明智系図はデタラメだと言う人もいるし、弥平兵衛誕生直後に喜多村出羽守にあてた手紙があると言う人もある。
んで、どうなんだろ


14 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:40:17
明智系図デタラメというか何もどう信用すればいいのかわからない代物

15 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 20:44:40
それでもやっぱり史料をもとにして考えない事には何も分からん。
おかしいとか、怪しいとか、文句付けようと思えばどんな史料にだって言える。
少なくとも、喜多村家の系図は、明智の系図の中では信頼度高い方でしょ。

16 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 02:03:30
そうなのか…
まぁ、玄琳も何か元があって書いたんだろうし…


17 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 04:52:58
明智軍記やら司馬遼太郎やら大河ドラマやら、
そういうので作られたイメージに引きずられるよりは、
少しでも信頼できる史料から考えた方がいいんだろうなあ。
明智光秀は同時代人と比べても、イメージで語られる事が
極端に多い人物だと思うし。
たとえそのつもりが無くても、知らず知らずのうちに
頭の中のイメージの光秀像に影響されてしまいがち。

18 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 16:54:07
この玄琳っていう坊さん、明智光慶と同一人物らしいけど、
光慶って光秀が死んでから間もなく、坂本城で討たれたと色んなとこに書いてある。
実際は僧として生き残ってて、六十五歳にこの系図を書いたってこと?

19 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 18:58:02
結局敗者になったから、勝者の秀吉によって光秀の良質の資料が破棄されたんだろう。

20 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 12:57:40
>>18光慶の首は晒されたのかな?生きてたって可能性はあるかも…

でも玄琳が寺にあった系図に勝手に自分の名を書き込んだって可能性も…

21 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 17:47:59
>>13
>>喜多村出羽守にあてた手紙が確かなものなら、その系図の信用度もかなり上がるのでは。
光秀以前のところは別としても、光秀の子等についてはちゃんとしていることになるかな。

その系図が書かれたのが江戸時代、寛永とあるから家光の時代、秀忠が寿命尽きるくらいの頃か。
当時、明智光秀が極悪人、謀反人と言われていたんなら、わざわざ子孫を詐称することはないだろうけど、
いろんな光秀に対する評価を見ていると、どうもそんなに極端な状況でもなかったような気がする。

22 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 21:09:23
明智光慶こと玄琳についてだが、イエズス会の記録にこう書いてある。
以下、資料サイトからコピペ

>安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、
>火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。
>この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、
>兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、
>また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、
>沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、
>まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、
>長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。
>彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。

この13歳の長子、これが明智光慶だろう。
>>11の系図が書かれたのが寛永八年(1631)で、玄琳は六十五歳とある。
本能寺やら山崎やら坂本城落城が天正十年(1582)で、上の史料によれば13歳だから、
年齢的にはおおむね、誤差の範囲内で合ってる。

23 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:56:41
>>彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。

つまり坂本城における明智光慶の生死は、かなり不確かな状況で、
推定死亡、しかし生存の証言もあったと。
当然、首とかが晒されたりはしなかったんだろう。

24 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 11:19:06
そしたら光慶生存の可能性はあるな…

しかし、妙心寺は…
「妙心寺史」には光秀が小栗栖で負傷して、一年後に妙心寺で死んだと書いてあるらしく…
信長公夫人が信長の一周忌法要を妙心寺でやったとも書いてあるらしい
光秀の供養のために建てたのが「明智風呂」ってのもよく分かんねw
まぁ、すくなくとも妙心寺は光秀を極悪人とは思ってなかったんだろうな

25 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 17:51:34
女子が何人も続いた後で、ようやく生まれた待望の明智家の男子。
わざわざ宣教師が書き残す程の優美な容姿。病弱だったと言う説も有る。
13歳前後そこらで、父光秀に随行して連歌会に出席し、
愛宕百韻の結びの句を詠む。最期は燃える坂本城の炎の中へと消えるが、
ひそかに逃れて僧として生きながらえたという生存説も有る………

結構、ロマンをかき立てられる人物ですね、明智光慶。
悲劇の美少年という感じで。
光秀の息子というと、娘婿で養子の明智秀満の方が有名ですが。

26 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 21:17:34
>>24
妙心寺。。
検索してみると、今年の大河ドラマの主人公である山内夫妻の墓所もあるらしいね
織田信長の墓所もあるらしいし、その筋の御用達だったのかな?
あるいはその手の伝説の寄りつきやすい寺なのか?
御用達だったからこそ、とも言えるか。
うーん…信用できるのか、できんのか、今一よくわからん

27 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 06:58:46
妙心寺がどうのこうの言うよりは、
その玄琳が書いたと言われる明智系図も、
それを補強する証拠の手紙も、
みんな喜多村家のものなんだから、
喜多村さんがどういう人かの方が重要では?

まあネットでああだこうだ言ってるだけでは
どのみち限界がある話題だと思うけど

28 :日本@名無史さん:2006/06/27(火) 17:06:17
喜多村氏は大事だけど…。その肝心の喜多村出羽守がどういう人なのか、あまり分かってない。ザザッと調べたけど

一説に喜多村出羽守の元の名は服部出羽守保章。伊賀越えをする家康を柘植城で殺害しようとして失敗。以後伊賀から逃れて喜多村に改名したらしい

で、柘植城の方は…柘植城の別名は福地城。天正の頃は福地伊予守が城主だったが天正9年の伊賀の乱で城を追われている。次の城主は池尻氏らしいが、もしかしたら北村(服部?)氏も短期間城主だったのかもしれない。…だったら話が繋がるんだけど記録がないんで不明。
福地城は天正10年廃城。家康の伊賀越えと関係あり、なのかね?


29 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 09:50:46
少し面白い光秀

http://www.asahi-net.or.jp/~BH3H-SMJY/zuiso/d251.htm


30 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:12:05
>>6の質問の、三人目の妻っていうのはどうなんだろう?
嫁入りの際の病気の話とか、黒髪を売った話で有名な煕子さんは、
細川ガラシャとか明智光慶らを生んで、天正四年に病死。
喜多村保光の娘が三人目の妻だとすれば、煕子さんの前か後にもう一人、
明智光秀の妻がいたことになるけど。
側室がいたのなら同時期ということもあるか。

31 :日本@名無史さん:2006/07/06(木) 08:51:55
元亀元年の『兼見卿記』
「明智十兵衛尉来たり、石風呂所望により焼き了ぬ」

光秀サウナ好きだったのか。妙心寺の明智風呂はそのためかな〜?


32 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 20:11:03
宮城系図ってのは信頼されてないのかね?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/akechi1.htm


33 :日本@名無史さん:2006/07/14(金) 20:32:54
喜多村家の明智系図を見て、ちょっと疑問なんだけど、
玄琳(=光慶)の下の兄弟の「安古丸」っていう人、
山崎合戦討死、とあるけど、
当時光慶が13〜15歳だったとして、それよりも年下の
兄弟が山崎にまで付いていって討ち死にしたっていうのは……
これって当時としては普通なんだろうか?

34 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 15:06:28
安古丸ってのは筒井順慶の養子になった定頼なのかな?山崎の後、坂本で死んだって書いてある所もあるけど…。山崎に行った、変の後に死んだ。ってのはどこも一致してるね。

35 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 14:17:58
坂本城は安土城に継ぐ壮麗な城だったんだっけ?スポンサーって誰だったの?

36 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 14:23:51
信長は、普段住んでいた安土城天主閣1階、京都宿舎である本能寺の自分の寝室の地下に
巨大な火薬壷を埋め、そこから導火線を寝室の床の間に出しておいて、
謀反が起こった際に、自分の首が晒し首にならないように、
床の間にある導火線に蜀台の火を放って自爆できるようにしていたんだって。
で、本能寺の時には見事自爆に成功したと。
信長のことだから罪人や捕虜で何回か実験したんだろうな…

それにしてもよく間違えて、寝タバコの火で自爆しなかったよねw


37 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 14:27:23
犯人を追及する際の定石、誰が一番利益を得たか?で考えると、
秀吉と正親町天皇ってことになるけど、
光秀が晒し首にならなかったことを考えると、秀吉は消えるね。

38 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 15:08:43
>>36ソースキボン

39 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 09:52:40
光秀の長男ってそんな子供だったんだ。
じゃあ年齢も言われているより若かったのかな?
と思ったけど、女の子が沢山いるんだな。
明智軍記の享年五十五歳には信憑性感じないけど。

40 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 10:56:25
てか67だか68歳説もありますな〜

41 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:25:40
某HPによると、55歳説の根拠になった明智軍記の辞世の句は、
明智軍記出版と同時代に、元ネタになった句があったらしい。

自分の勝手な感覚で言えば、それほど極端に齢が離れてなければ、
信長より光秀が年下のフィクションを見ても、特に抵抗無いかな。


42 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:06:46
そこで28歳説ですよ

43 :日本@名無史さん:2006/08/02(水) 05:53:04
>>42
28歳説って、享年28歳ってことか?

…細川ガラシャが生まれたのが9歳のとき、
織田信長に仕えるようになったのが13歳か……
すごい男だな。。

44 :日本@名無史さん:2006/08/03(木) 09:10:45
陰徳太平記だと信長は午(ウマ)歳生まれ、光秀は子(ネ)歳生まれ

45 :通りすがり:2006/08/07(月) 22:47:51
あのさぁ・・・。光秀って本当に本能寺で信長殺したのかなぁ・・・。なんか
嵌められたとしか思えん。誰に秀吉に・・。ほんとに、あれだけの人が土民に
よって殺されたりするかなぁ。まともに考えると不思議でならん。南光坊天海
=光秀だとしたら・・いいなぁ。豊臣をあそこまでひねりつぶすだけの知恵が
回るんだから・・そうとう恨みがあったんだろうと思うし。
 桔梗の紋所は、確かに明智家以外にも多々使われていたらしいから・・紋で
判断するのは間違いだけど・・。信じたいなぁ。ど〜考えても秀吉が好きに
なれないから・・。

46 :通りすがり@十兵衛:2006/08/07(月) 22:56:49
光秀って熙子さんの前にちぎりを結んだ人いたん?

47 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:10:58
>>46
いたと思われる
ドラマとかだと大抵、熙子さんだけだよね。光秀の奥さんて。

48 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 07:32:59
光秀の家族構成を、史実に基づいて詳しくやったドラマって
これまでにあるんだろうか
大河秀吉の、嘘っぽい母親見殺されエピソードとかは別にして

正直、このスレを見て、本能寺の時は既に熙子さん他界してて
次の奥さんと一緒だったとか、長男がまだ十代半ばだったとか
イメージと結構離れてて意外だった

49 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 09:58:21
坂本龍馬や遠山の金さんとこも桔梗紋だよ!

50 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:44:17
秀吉はバカだよね。自分が死んだら
家康に天下取られるのはわかってるだろ。
自分だって、信長死んで、天下のっとったんだから。

51 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 19:50:34
>>49龍馬の先祖は秀満だって説があるしね。その説の真偽はともかく、三宅を継いだ秀満の孫は肥後細川藩に仕えた…
いろいろあるね〜あの人も


52 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 21:55:20
明智の妻が髪を売ったという話のネタ元がわからん。やっぱ江戸時代に語られた伝承なのかね?

月さびよ 明智が妻の 話せむ

みたいな…


53 :日本@名無史さん:2006/08/25(金) 19:56:52
age

54 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 06:57:56
>>52
江戸時代に作られた、絵本太閤記に出てくる

55 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 10:11:16
フロイスの回想録にある、明智光秀が体得していた
人を欺くための72の方法って、どんなだろうね。

ていうか、たとえ人を欺くのに長けていたとしても、
その方法をわざわざ72箇条に分類しておくなんて
なんか無駄に几帳面なやつだ。。

56 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 11:43:00
人を欺く方法、もし五とか十だったら、物書きたちが好き勝手に推測して
いろんな小説とかに使われてるネタになってただろうと思う
72個って大杉

57 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 11:54:29
しかし実戦で役にたたなきゃ…
変後の秀吉のハッタリ書状に比べて光秀は泣きの一手っぽい


58 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:04:42
フロイスによれば光秀はそれで出世したらしいから、役にはたってるかと
書状にしたって、残ってるのはあくまで一部分だけだろうし。

59 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 14:15:32
秀吉が光秀の評判を下げる目的で
「アイツってさー、人を騙す72箇条なんてのを考えてるらしーぞぉ」
みたいに言い触らしていたのかも。

60 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:00:16
>>54
?そんな話ないぞ?絵本大功記のどこら辺で出てくる話なんだ??

61 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 06:02:37
>>55
よく講談に出て来る天コウ36、地刹72の法とかと同じで、
単に「多い数」と言う意味合いで言ってるだけな鬼ガス

62 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:45:00
>>60逆みたい。絵本大功記の方にあって、絵本太閤記の方には無さそう

63 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 21:05:06
>>60
>>62
いやいや、浄瑠璃の「絵本太巧記」じゃなくて、
そのもとになった「絵本太閤記」の方。
「照子 断髪沽酒」という、そのまんまの表題。
三篇の八にある。
明智光秀がいろいろあって信長を恨んでから、
謀反を実行する前に、過去話として挿入されてる。

64 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:43:19
>>63なるほ…。
それだとやっぱ、光秀が貧乏だったかどうかははっきりしてないのかな?『当代記』に飲食に乏しかり身とか書いてあるみたいだけど、家康の孫が書いたんじゃ…


65 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 04:58:29
光秀ってその後徳川の方についたのですか?
あと、春日の局といとこだって聞いたんですけど本当?

66 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 07:46:47
>>64
朝倉に行く以前の光秀については、はっきりした資料が殆ど無いしね
まあいろいろ想像の余地があるってのは面白くていいのでは
>>65
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/

67 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 10:39:49
明智の門の桔梗は○の中に桔梗が書いてあるタイプかな
それとも桔梗のみですか?

68 :信長:2006/09/17(日) 16:21:33
丹波丹後、山陰をやるので
玉とさしてくれ

69 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 17:25:14
玉は親父がイエズスからボロクソに言われてたのを知ってたのかなw?

>>67明智は〇は無し。〇に桔梗って東照宮?


70 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 01:32:27 ?2BP(0)
義昭が何故光秀を頼りにしたかだよ
その辺が1つのヒントになるんじゃない?
訳の分からん人物を頼りにするはずがないと思うがね

71 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 15:00:37
織田にいる頃から春日と仲良しで文を交わしてて情勢を見てた
徳川側についた後、光秀を頼りにしてた
だけじゃ理由にはならないかな

家は桔梗門なんだけど実家は相当山奥でカーナビつけても山しか写らない。
なのに家の隣に徳川の門の寺があるんだよね
やっぱ一緒に行動するくらい仲良しだったんだよ

72 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 17:21:45
光秀はすでに一廉の人物
http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide03.html

73 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:52:54
京に信長が泊まれるほどの屋敷があり
足利義晴の子という説がある教養人の細川藤孝とも対等に付き合えた
…って感じの人だったのかな? 朝倉や織田でのスピード出世はそういうのもあったからか…


74 :信長:2006/09/20(水) 10:26:55
しかし、光秀は出生も謎めいてるし、死に際も謎。
ほんとうに土民に殺されたのか?わからない。

75 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 11:11:43
いや、天海として・・・



話しがループするな

76 :信長:2006/09/20(水) 11:43:59
宝塚に持っていけばループなし。

77 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 19:38:19
本能寺の変の原因は信長-蘭丸-光秀の三角関係

78 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 19:47:52
魔夜峰央のマンガに、そんなのがあったw

79 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 21:21:13
無双ね…

まぁ好きだけど

80 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 22:07:15
>>73
細川藤孝との付き合いが古いという、ちゃんとした史料はないのでは?

信長に仕えた後では、京都周辺の統治を任されたり、後には軍事上の
上下関係も出来たりしたので他の武将よりは関係が深くなったのは確かですが。



81 :バロン曽志崎:2006/09/22(金) 17:17:41
時期は不明だけど、光秀ってはじめ藤孝の家臣だったんでしょ。
光秀絡みの逸話は嘘くさいのが多いが、光秀が同僚にいじめられて、細川家
を去ったというのは意外と事実だったりしてね。

82 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 06:08:22
なんだか>>72とか読んでると、公の記録に残っていないだけで、
朝倉以前から知る人ぞ知る男だった、みたいな風にも想像できるな。

でも光秀の出自が謎って言っても、当時親交があった人達にとっては、
謎でも何でもなかったんだよね、きっと。

家康とか、多分知ってたような気がするし、彼を通じて、その後の
二〜三世代くらいまでは知られてたのかな?


83 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 10:03:47
これだと光秀より、義昭を抱えて東奔西走してた藤孝の方が苦労は大きかったんかも…


84 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 02:27:51
木村吉清についてだが、本能寺のあと蒲生氏郷に推挙されて秀吉に召抱えられ、
上杉景勝、大谷吉継、前田利家、浅野長政とともに奥州検知を行って三十万石もの領地を与えられたっていうところだけ見ると
それなりの器量があったようにも思えるけど
その後悪政の限りを尽くして一揆が起きたことを考えると愚将だったようにも思える。
木村吉清は名将だったのか愚将だったのか、一体どっちなんだ?

85 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 15:38:36
有力な説としては
光秀は土岐明智氏で可児長山城の城主
斎藤義龍に攻められ落城し、しばらく京で浪人。
溝尾庄兵衛を始め、股肱の臣の可児左衛門、肥田玄蕃らは可児出身
であることから、この説は有力だろう。
(土岐明智氏は東美濃の盟主といわれていた)

86 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 16:45:27
>>84木村吉清は有能でも無能でもないに1票。秀吉はそういう平凡が好きそうだし

87 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 21:16:48
光秀が信長と知り合いだったか、とかは証拠はないけど可児説だと近所だよね
http://www.kani-kankou.jp/meisyo/aketi/index.html


88 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:41:22
つまり、幼いころから東美濃で城主だったわけで、
京に屋敷があっても、信長からすぐに四千貫貰ってもなんら不思議はない。

89 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 12:32:04
>>85
美濃明智の一族とつながりはあった可能性はあると思うが美濃育ち、城主の家系とは断定できないでしょ?

代々京都で幕府に仕えてたとかさ。
(立場が逆だけど備中の出たけど京都の本家と姻戚関係があって幕府に仕えた伊勢氏(後北条氏)みたいに)

90 : :2006/10/07(土) 01:36:42
中学の頃、歴史の先生が、明智光秀はハーフと言っていましたが、嘘ですよね

91 :信長:2006/10/07(土) 02:40:03
社会科の先生

92 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 09:41:35
>>90
それはおそらく、マイケル富岡のことでは

93 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 11:18:28 ?2BP(0)
まあ、信長ほどの男ならそんな素性の知れぬ男に
すぐに四千貫与えるとは考えにくい罠

94 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 13:42:51
>>33
十代前半ってのは、当時は初陣の適齢期。
上杉謙信…13歳
武田信玄…16歳
織田信長…14歳
山崎はその位の年齢ではハードな戦場かも知れないけど、
明智の家が終るか否かの戦だったからこそ出たがったのかも。

あと、織田信孝と織田信雄の例とか見ると、生まれによって
一男二男三男ってのが実年齢とは別に前後させられることも
あったのかなと思うけど、何歳も齢を離すような極端な例は
まず無いだろうし、まあ安古丸も十代前半だったんだと思う。

95 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:53:13
初セクロスの年齢?

96 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:36:21
長宗我部元親に嫁いだ、斎藤利三の妹だけど
異母兄妹説(よく聞く通説)と異父兄妹説(治代普顕記)
があるようだけど、彼女が利三と血縁関係だったことは
ほぼ間違いないと見ていいんだよね?

97 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 08:39:55
そのあたりの関係は、調べてみると結構ややこしいみたい
とりあえず、異父兄妹説の概要ざっと書くと

斎藤利三の母=織田と斎藤の戦のゴタゴタで、
       斎藤利賢の妻から、石谷空然の妻になる

斎藤利賢の子=斎藤利三、石谷兵部少輔(石谷氏へ養子に)

石谷空然の子=長宗我部元親の妻

養子等やりとりがあるし、斎藤氏と石谷氏は親密な仲だった様子

98 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 11:57:13
斎藤利三の周辺のことについては、長宗我部氏側の史料のが詳しいみたい
たしか息子が一人、本能寺の変の後、土佐に逃れてるくらいだし

99 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:02:34
          ,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  本能寺へ行こうぜ・・・・・・
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  久しぶりに・・・・・・
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  キレちまったよ・・・・・・
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /
        人、      `゙’゙::.   イ
             みつひで


100 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:15:15
愛宕100韻

101 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 20:42:34
フジテレビの新春時代劇、明智光秀やるらしいね。
「明智光秀〜神に愛されなかった男〜」

102 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 07:50:03
信長に折檻されるのはもういいから、ガ━━━━━━━━━っと新解釈でやってほしい

103 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 13:18:35
だよな。
国替えも折檻もノイローゼも無い本能寺を、そろそろやるべき。
これまでのパターンを繰り返すんなら、主役でやる意味ないし。

104 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 19:24:10
唐沢光秀、マクベスとか財前とかの系統になるんだろうか……
まああまりキャスト云々の話をすると板違いになるからあれだけど

ストーリー紹介を読んで思ったのは、光秀が秀吉にコンプレックスを持つ
っていうのは、ちょっとどうかと
光秀が秀吉ごときになんでコンプレックス感じなきゃならんのかと思う
秀吉主役なら、ライバル光秀みたいな描き方は結構あると思うけど、
やっぱり光秀が主役なら、秀吉なんかじゃなく信長の方だけ見ててほしい

105 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 22:36:58
秀吉にコンプレックス、どうだろ?
出来のいい生真面目な兄が奔放な弟に嫉妬、みたいな描き方もいいかもね


106 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 16:59:46
>>89元亀3年の『兼見卿記』に明智光秀が美濃の親類が山王社の領地に新しく城を築いてからどうも調子が悪いので、祈祷して欲しいと頼みに来たって書いてある。
光秀が明智城主だったかは解らんけど、とりあえず城が建てられる親戚はいたんでないかい?

107 :日本@uj5:2006/11/03(金) 07:06:48
>>97 斎藤利賢の妻から、石谷空然の妻になる
この説は考えにくい。斎藤伊豆守利賢の妻は濃姫の母・小見の方の妹とされます。
子も利三以外に石谷頼辰、斎藤大八郎利次 (天正6年越中今泉城攻略)、
斎藤吉兵衛、女一人は蜷川親長の室、更に稲葉一鉄の室だった女ありとも。

>>96長宗我部元親に嫁いだ、斎藤利三の妹
利三の兄弟(石谷頼辰)が石谷空然(光政)の養子になっており、
長宗我部元親に嫁いだ娘は空然の実子なので利三からみれば義理の妹と
考えるのが妥当と思います。
明智光秀の家臣となったのも石谷頼辰のほうが先で、
この繋がりもあって斎藤利三は稲葉一鉄のところから光秀のもとに走った。
石谷氏や進士氏が足利の幕臣であった事を踏まえると光秀も幕臣であった
可能性は高い。

108 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:05:50
          ,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  なんでおれの妻が
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  長澤なんだよ。
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /
        人、      `゙’゙::.   イ
             みつひで



109 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:28:34
>>107
とすると、家は違うわけだし、妹というより親交のある家の娘さんって感じかな?
長宗我部と斎藤利三の間で一応繋がりは出来るけど、義兄弟になったという程でも
なかったのかな。実際。
利三の息子が変の後に逃げてくるくらいだし、繋がりはちゃんとあったんだろうけど。

110 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 13:36:44
>>109
本能寺の変後、石谷頼辰は長宗我部元親を頼り仕えた。
そして元親の子に娘を嫁した。
利三の子が伯父とともに四国へ逃れたのですから、
一緒に四国へ逃れたと考えられます。

111 :日本@名無史さん:2006/11/19(日) 15:25:23
明智五宿老
 明智秀満 明智光忠 斎藤利三 溝尾庄兵衛 藤田行政

112 :日本@名無史さん:2006/11/19(日) 20:03:20
徳川史観で礼の人、明智光秀公を
侮辱するな!

113 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:52:05
すみません、この明智光秀の誕生日解る人居ませんか?
1500年代に生まれたとしか記録が無くて困ってます。
織田信長は解るのに・・・orz

114 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 06:10:27
明智光秀の生誕は伝わっていない。
「明智軍記」に辞世の句(褐)とされる
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」があり、
この五十五年夢から逆算して享禄元年(1528)生まれと
されるが定かとは謂い難い。
他説に大永六年(1526)八月十五日生まれとされるが
定かならず。
現時点では不詳とするのが正しい。

115 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 23:02:24
明智光秀と森蘭丸は偶然にも、同じ岐阜県可児(かに)市生まれ。




116 :日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:54:47
光秀と家康が会ったのは、坂本で接待した時だけ?
家康は光秀の、どこが気に入ってたんかな?

117 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 04:08:47
金ヶ崎では、たしか光秀と家康両名とも参戦してたから、
その時に会ってたかもしれない。

118 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:23:27
明智光秀ってのは、実像が本当に掴めない。
彼の人生の最後の十数日間の印象が異様に大きすぎる。
本当に彼の個性の成果としてあの死に様があったのかも解らないし。
無罪説とか部下の暴走説とかあるけど、もしそれが真相なら、
光秀個人の人物像と彼の最期の境遇とは大して関わり無い事になる。
そもそもたった一つの事件、それも謎に包まれた事件をもとにして
一人の人間像を推測する事自体が間違ってると思うんだけど、
光秀についてはそういう方向に興味がどうしても行ってしまう。
イメージとしての光秀像っていうのは、割と各人の中で確固として
存在するんだろうけど、それにしたって個人差がかなりある。
かなりどうとでも解釈できてしまう。

119 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 19:24:23
戦国時代で最も謎多き怪人?

120 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:29:36
正月に光秀主人公のドラマがやるからHP覗いてみたが……
キャスト表に明智家臣が秀満しかいない…しかも大泉洋だし。。
なのに秀吉の家臣は三人も名前が。
本当にこれ明智光秀が主人公のドラマなのか?
斎藤利三は誰がやるんだ。細川家の人々は出てくるんだよね?

121 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:08:18
一月三日か。。
期待しないで観てみよう

122 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:27:54
│       朝倉孝景
│         ├──────義景
│武田元信┬広徳院
│      │        ┌足利義昭
│      ├        └姉
│      ├元光┬信親  ├─元明
│           ├信豊┬義統
│           └信高├信方
│               └お牧の方
                   │
           明智光継┬光綱

123 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:29:25
│         喜多村保光─伏屋姫(光秀室)─喜多村弥平兵衛
│           ┌妻木広忠
│           └妻木範熈─熙子
│                    ├娘(秀満室)
│                    ├娘(光忠室)
│                    ├玉子(細川忠興室)
│                    ├娘(津田信澄室)
│                    ├光慶
│       お牧の方       ├定頼(筒井)
│         ├──────光秀
├明智光継┬光綱
│      ├光信(山岸)───千草(光秀室)─光重
│      ├景行(遠山)(光安?)─秀満
│      ├光忠(小里)
│      ├頼房(原)
│      ├光廉(三宅)
│      ├娘(斎藤利賢室)─斎藤利三
│      ││             ├利宗
│      ││             ├三存
│      ││             ├福(春日局)
│      ││      稲葉一鉄─娘
│      │└(石谷光政室)┬石谷頼辰
│      │ .         └娘(長宗我部元親室)
│      └小見の方(道三室)─帰蝶(信長室)
└土岐頼明─定明
         ├───定政
  菅沼定広─娘

124 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:32:53
>>120-121
キャストがなぁ…
村上弘明のが一番好きだった

125 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 17:25:10
1月3日21時G
明智光秀

126 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:09:50
テレビ見た人がいたら明智が信長を討った理由を教えて下さい。恨み説とか無難なものを選んでドラマを作ったのなら見なくて良かったと思う。

127 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:15:49
>>126
まあ、色々理由があるけど
全部後世の脚色
唯一信憑性のあるのが、ルイスフロイスに書かれてある
「信長と激しく口論した」ぐらいだな

128 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:19:38
それよりも長澤まさみケツデケー

129 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:22:21
なんで秀吉に撃たれてんの?

130 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:30:04
今のドラマの光秀・・・
普通に酒飲んでたなw

131 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:30:07
確かにwまあその辺はドラマって事で…なんだろうね

132 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:30:56
まあ…ドラマだったなw脚色ありありだ

133 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:33:06
一豊が前田利家に討たれて
前田利家が、よい先生に討れたのか・・・

134 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:40:41
光秀と秀吉が心の友してたというのは
割と新鮮な解釈だとは思ったが、
竹藪の一騎打ちはちょっとな....
OK牧場の決闘じゃないんだから

135 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:43:11
しかし、猿を指名するのはちょっと……。
嘘なら、ありそうな嘘をついてほしい

136 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:55:51
光秀:「敵は本能寺にありぃー!(`・ω・´)」
足軽一同:「(゚д゚)ポカーン」
足軽A:「ちょWW俺たち備中に行くんじゃWW」
足軽B:「つかホンノージてどこだよW」
足軽A:「すぐそこW」
足軽B:「うはっWWマジ?すぐ帰れっかもWWテラウレシス」
足軽A:「それより敵って誰よ?wktk」
―本能寺・信長の最期―
信長:「この世をば我が世とぞ思ふ望月の・・・」
蘭丸:「ちょWそれ道長WWWハライテーWWWW」

137 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 02:35:12
>>127 サンクス 光秀が天海だっけ?坊さんになったとかのドラマ見たいな。あと信長公記の口語訳の本って出版されてますか?結局、現存するものを読まなきゃ真実から遠くなってしまう。

138 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 02:36:22
>>136
ww足軽はそんなカンジかもw夜の行軍マンドクサー

139 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 02:38:22
明智光秀と秀吉ってマジで仲良かったのか?
明智光秀が歴史上裏切り者扱いになったのは秀吉が書かせた信長公紀のせいだろ。
嘘くせーなんか嘘くせードラマだった。
だいたい槍の又左に光秀やらせんなよ。
唐沢敏明は前田利家のイメージしかない

140 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 02:43:14
光秀のドラマはたけしのテレビがCMになった時だけしか見なかったけどそれで十分な内容だった。信長公紀って秀吉が書かせたものなんだ。信憑性も低い?

141 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 09:57:26
秀吉は公記を多少改ざんさせただけだろ〜

142 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 12:30:38
どうせフィクションで作るなら、最初からそれを強調した
光秀→天海なドラマを一度くらい作って欲しい

143 :日本@名無史さん :2007/01/04(木) 13:06:31
秀吉によって、光秀の一族郎党はなぶり殺しになった話は
どこにいったのか?
特に、光秀の妻女は残酷な仕打ちにあっている。かわいそうに。


144 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 16:58:48
妻木氏の娘なら変の前に病死してるよ。

145 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 09:10:42
光秀の家族は堂々と誇り高く自ら死んでいったんじゃなかったっけ。
かのガラシャ夫人の伝説のごとく。
そのガラシャはクリスチャンだし自害はできなかったけど、美人なのに目を付けた秀吉が食指を見せたが懐剣を隠し持って気概を見せて追い払ったとか。

光秀は徳川初期までは特に裏切り者扱いされていないよね。
家康が家臣の水野に「明智光秀に見倣え」と明智の紅槍を渡したくらいだから。
一応秀吉は信長の敵をとった名目とってたけど織田を滅ぼしたのは実質秀吉だし、当時は誰もが知っていたから柴田などは市と共に反乱したわけで。
後にあれじゃ信長さまには人心はついていかないと批判もしてるし。
光秀が裏切り者扱いされていったのは、政治的に取り入れていった後の世の儒教の影響では。

146 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 17:34:40
個人的には裏切り者・光秀の人物像が確立されていく過程に興味あるけどね。
生真面目で信長とはソリが合わず…なんてのは下手したら明治以降にできた、
本能寺の変で主君を殺したっていう結果から導き出された推測でしかないし。
同時代人の評価はむしろ冷徹怜悧、野心もじゅうぶんに持ち合わせた陰謀家
って感じだし、信長とはソリが合わないどころか似た者同士だった。
結局、ビジネスマン向けに好まれる現代世相のパターンに当てはめた、
信長型人間・秀吉型人間みたいな定型的な人物像の方が理解しやすい、
ということなのか。光秀の場合、その事跡が意外と知られていないわりには
信長殺したっていうわかり易すぎる、しかも巨大な成果があるぶん、
その手のパターン化の陥穽にはまりやすかったというのは悲劇。

147 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 22:38:15
野心はあったような気する。比叡山攻めの時の裏工作や、その恩賞で貰った坂本に安土城に継ぐような壮麗な城を建ててるしな〜。
ドラマみたいに気に病む性格だったかな?どうだろ?

148 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:03:51
フロイスの描写だと、
「裏切りや密談が好きで、残酷な刑を科し、独裁的な性格、抜け目がなく、
 軍事面では謀略、計略に優れていた」
なんて書かれてるけど、光秀敗死後の人物評だからそこらへんは差し引いて
考える必要はあるかも。負けたから言いたい放題言われるってのもあるし。
でも、信長のやり方に着いていけない清廉潔白の士、みたいな後世に
ありがちな人物像からはほど遠いなあ、と。

149 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:27:26
前半生不詳なのに、織田家で頭角をあらわすような人物が
清廉潔白で生真面目で・・・なんて嘘臭いと思ってるけどね。

根本的に武人として信長と波長があう部分が多くあったので
あそこまでの出世もあったのでは?という説に賛成している。

150 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 08:50:02
例の正月時代劇、意外と良かった。
特に前半。ただただ有能な武将として活躍する光秀が観られたのが、
素直に嬉しかった。
光秀を活躍させる見せ場も、金ヶ崎、軍事行動としての延暦寺討ち等々、
ちゃんと押さえどころを心得てたと思うし。
秀吉が琵琶湖を越えて、光秀が左馬助に「お前に出来るか?」
とさりげなく訊くところとか、ニヤリとさせられた。

坂本城が出来てから、奥さんに説教?されたり、民衆に謝ったり
なんだか妙な感じにはなっていったけど、
延暦寺焼き討ちで出世しながら民衆には好かれていったみたいだから、
多分領民に対しては何らかのフォローみたいのがあったのかも知れず、
それを分かり易く表現したのがあの演出だと思えば、まあ許せた。

最期の林の中で秀吉と対面するのは、絵本太閤記からきてるんではなかろうか?
絵本太閤記では、山崎の合戦の前に密かに両雄が対面する場面だったけど、
ドラマでは合戦を省いてそこで決着をつけてしまったという。

後半の展開に多少難は感じたけど、さほど期待しなかった分、結構楽しめた。

151 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 10:20:29
>>148
まあ、その当時は秀吉の天下だから
光秀をよく書くなどありえんだろう

光秀の実像については、彼の統治した福知山で未だに地元民から敬われている
事でわかると思う
かなり善政を布いたからね

152 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 13:29:48
案外、光秀と信長って、実は親友っぽいところあったりして。

153 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 16:33:58
天海上人のスレはここですか

154 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 17:02:54
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/l50

それはともかく今よく知られている光秀の人物像については、明智軍記の影響が大きいよねえ。

155 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 17:21:31
>>139
表面上のつきあいはあったみたいだねえ。
ただ信長公記だと光秀、徐々に柴田寄りになって言った感じはあります。

156 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:38:22
言った→行った
一日もミスに気が付かず、何やってんだ俺orz

157 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 16:48:58
質問です
明智光秀に関する小説や書籍というのはあんまり存在しないのでしょうか?
Amazon等を探しても数種類しか出てきませんでした
それと明智に関する小説でコレがオススメ
ってやつがあったら教えていただけないでしょうか?

158 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:16:11
光秀配下で本能寺に討ち入った人で、、信長討った後で「家康討つのかと思った」
とか言い出してた人いたよな。だれだっけ、それにしてもそう思ってた足軽多いだろうな

159 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:18:36
>>157
もう読んだかもしれないが、司馬先生の国取り物語。
前半は斉藤道三が主役で、後半は織田信長・明智光秀のダブル主役。

160 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:46:37
>>157
明智生誕地の郷土の方が詳しいの書いていた。
読んだのはもう7年ほども前だけど。
大手の本屋の歴史コーナーに行けば今でもあるんじゃないかな。

161 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 08:30:59
秀吉が倒した時は惟任退治とか言ってたんだよな
いつから呼び方は明智に戻ったんだろう。呼ぶ時はやっぱ明智だよな、みたいな。
惟任なんて当時の人間でも全然浸透してなかったんだろうとは思うけど。

162 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 10:10:35
当時は明智なんて呼んでいないよ。ボケ。

163 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 19:30:32
うんうん金柑頭だよね

164 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 01:06:57
明智光秀と秀吉ってマジで仲良かったのか?
明智光秀が歴史上裏切り者扱いになったのは秀吉が書かせた信長公紀のせいだろ。
嘘くせーなんか嘘くせードラマだった。
だいたい槍の又左に光秀やらせんなよ。
唐沢敏明は前田利家のイメージしかない

165 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 04:15:09
>>164
>秀吉が書かせた信長公紀のせいだろ。

またバカが一人いました。
『信長公記』は太田牛一が個人的に著したもので、別に誰に命じられたものじゃないよ。

166 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 12:43:15
>>164は太閤記と完全に取り違えているものと思われ…

167 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 14:12:55
>>165
お前のがアホ!
太田牛一は秀吉に囲われてたんだから秀吉が口出ししたという推測は今や常識

168 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 14:38:13
嘘くさいも何も、最後に「このドラマはフィクションです」ってテロップがあっただろうが…
作り話であるという認識が前提にあって、それでも「何だこれ、嘘くさい」となるなら
それは脚本家の力量の問題。

信長への反感を謀反の動機にするなら、領民に土下座なんて展開じゃなくって
立場上信長の命令で、騒ぎ立てる領民を武威を持って押さえつけるしかなく、
それが自分がとった行動への後悔と贖罪意識として信長への殺意につながった、
ってほうが個人的には納得がいったが…

169 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 14:42:10
伝聞が多いんだから、偏るのは仕方ない気がす
太閤記の方は思い切り口出ししたろうけど

170 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 17:42:04
>>167
負け惜しみ。

171 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:15:37
『太閤記』の著者は小瀬甫庵。

172 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:46:27
あ、そうかw『甫庵信長記』と間違ったw

173 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:33:20
ここらで仕切りなおしと行きましょうか。
生涯で40勝近く上げたそうですが、主に得意な戦術はなんだったのでしょうね?

174 :日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:02:14
鉄砲四段撃ちじゃないか

175 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 18:58:04
>>173
光秀は何でも屋さん

176 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:13:04
築城・法治・交渉事・鉄砲戦あたりか
野戦はやや弱い?
彼の敗戦はそのパターンだし
まあ最後のアレは戦術以前の問題か

177 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:23:08
そうだな

得意な戦術というより
「築城」「法治」「交渉事」「鉄砲戦」に能力を発揮したようだ

178 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 01:34:31
えっと、つまり光秀に予算と兵与えてここんとこよろしくって
言っとけばOKってくらい有能なんか?

179 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 08:04:22
そつなく、そこそこ

180 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 09:09:56
人望はあったのかな?
もし信長の首を晒せたら、味方は増えてた?


181 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 10:13:14
本能寺の変、山崎の合戦で奮迅の働きをさせた(らしい)から
家臣にはあったんだろう。
上、もしくは並列の地位の者に対してはどうかな?
何とか副おうと努力はしていたはず。

信長の首は、晒すことが例え出来ていたとしても
(抜け目のない、と思われる)秀吉が黙ってはいなかったのでは?

182 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 20:24:04
>>180
は、どう思う?

183 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:35:22
部下の怪我を気使った手紙が残ってるんだっけ?部下には人望あったかもね。
でももう下克上の時代は終わってたのかな?味方が付かなかったのは人望のせいだけじゃないか、やっぱ。


184 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 09:46:06
合戦で負傷した家臣への見舞い書状のことか?
数多く残されているらしいな。
他の武将にはあまり見られない、家臣に対するいたわりぶりに感服。
滋賀県大津市の西教寺には戦死者供養米寄進状も今なお残されているし。

185 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 11:49:16
一時資料ではないのですが、どのサイトにも明智の経歴は不明なことが多いとある
ので、以下の書き込みも一の資料と見たいと私は思う。

[29] さちこさんからのコメント(2003年01月13日 16時20分48秒 )
本能寺の変の当時光秀の妻は伊賀の服部家の人だったのは間違いないようです。
光秀の妻は美濃妻木家の煕子で側室はもたなかったとされてますが、煕子は本能寺の変以
前に病死したそうです
で服部家(北村、喜多村ともありますが服部家一族です)の娘と再婚したらしい。
実は側室もいて川勝家へ嫁いだ娘もいます。
30] 秦義則さんからのコメント(2003年01月13日 22時47分46秒 )
また美濃と言えば斎藤家なんでしょうけど、摂津池田氏の姻戚関係に美濃の池田氏があります。
光秀の前妻が美濃出身後妻が伊賀の服部家だとしたら、秦氏と繋がるんですね。
中部地方と近畿が結構近いんですね。伊勢から愛知にかけても渡来人の多いところ。
[32] さちこさんからのコメント(2003年01月15日 15時32分44秒 )
明知光秀は土岐氏ですが、この土岐氏は闘鶏(都祁とも書きます)からではないかという話があります。
伊賀の柘植氏も同じではないかと思うのですが。
伊賀氏というのがありますが、これが土岐氏と関りが深いようです。
伊賀光宗が鎌倉時代岐阜城主をしていたこともあります。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100362.html


186 :その2:2007/01/23(火) 11:51:32
きんか様 投稿者:広元 投稿日: 9月18日(月)04時54分4秒
光秀の最初の妻は、従妹の千草(父の次弟山岸光信の娘)と考えられます。同族の熙子と結婚したのは
光秀が若狭に流寓していた32歳のころとなります。服部保光娘と結婚したのは、熙子の死後のことですから、3
人とも正室と見てよいと思います。側室としては、原仙仁の娘が伝えられています。
秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。秀満は、
秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景玄を称しています。
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。現在の明智町の三宅氏はこの系
統です。この辺りはまだ十分に整理できていません。
三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父です。光秀の長女、次女は、
実際には三宅長閑斎の娘です。このことは、喜多村家に伝わった「明智系図」と『美濃国諸旧記』を見比
べればすぐにわかります。繰り返しますが、高柳光寿氏の『明智光秀』は、悪本ですからあまり
参考にされないほうがよいと思います。歴史学者は、生活がかかっていますから大変です。
http://6206.teacup.com/mituhide_akechi/bbs

187 :その3:2007/01/23(火) 11:52:59
広元さんへ 投稿者:きんか 投稿日: 9月12日(火)09時59分56秒
喜多村氏については、「柳営婦女伝系」の西郷局の項に記載されています。これによれば
光秀の妻「伏屋姫」の父は、伊賀名張(一説に柘植)城主・服部出羽守保章(保光)で、明智氏滅亡後
近江喜多村に隠棲し「北村氏」を称したとあります。そして、伏屋と光秀との間の子が「喜多村弥兵衛」
です。出羽守親子の存在については、「寛政重修諸家譜」の蓑氏(初代服部平太夫正尚のち蓑笠之助は、
出羽守の従兄弟)の系図にも記載あるところなので、信頼できると思います。とすると、光秀の妻は少
なくとも、妻木範熙娘と服部保光娘の二人いたことになりますが、彼女らが正妻・後妻なのか単なる妻
妾関係なのか気になるところです(更に、「天正紀聞」では永原仁左衛門娘・「細川文書」では三宅綱
朝娘・田能政守娘が妻とされている)。なお、仕官できなかったのは喜多村の子孫
でした(柳沢氏への仕官ができず、結局松平近禎の家老に仕官)。また、三宅氏関係でいえば、
明智滅亡後ガラシアに従って細川氏に仕官した秀満の子・三宅藤兵衛重利(のち、寺沢氏に仕え富岡
城主)と、三宅一族(式部大輔綱朝・藤兵衛秀朝・周防守業朝・孫十郎光景・出雲守某)の関係はとて
も興味あります(これについては、宝賀寿男氏が「宮城系図」から詳細な検討をされています)。
ご存知の方、教えてください。
「明智系図」の信憑性については、誤謬がひどすぎるので正直信頼できないと考えています。
http://6206.teacup.com/mituhide_akechi/bbs


188 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 15:47:05
服部家と織田信長の対立

[18] さちこさんからのコメント(2001年07月07日 21時33分44秒 )
(前略)
服部友貞が信長のだまし討ちで自害したそうですが、
これは長島の一向一揆の最中、それともその後でしょうか?

[19] 服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 00時20分24秒 ) パスワード
 服部友貞公はいつ亡くなったのか?というのは
永禄11年(1568年)正月ですから
伊勢長島一揆の前になります。←伊勢長島一揆=元亀元年(1570)〜天正2年(1574)

服部友貞公の死は伊勢長島一揆と結び付けるより
もう少し前からくすぶっていた織田信長と石山寺の争いや
織田信長の伊勢・伊賀進攻作戦に絡める方が良いと思います。

もともと伊勢・伊賀を手中に収めようとする信長と
伊勢の名門北畠具教を中心とする勢力の攻防戦の1つで←南朝名門の北畠親房の子孫でしょ
友貞公が北畠の城に正月の挨拶に行って信長方の罠に掛かって米野で死ぬことになった。

伊勢長島一揆の指導者だった実際の人物は友貞公の弟になります。
伊勢長島一揆は織田信長の石山寺合戦の1つの局地戦ですから
織田信長が足利義昭をかついだ時から既に芽があったと捉らえる方が
歴史を誤たないと思います。
信長と服部家との争いは永年くすぶっていたモノが伊勢長島一揆で一気に火を噴いたと捉らえる方が良いと思いますよ。
伊勢長島一揆の時に「服部水軍」というのが信長の敵として戦っていました。
そのご子孫でしょうね。
白子なんていかにも「平家」ですね。



189 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 15:48:52
42] 皇竹さんからのコメント(2002年02月07日 08時50分30秒 )
さて服部左京亮友定さんのことですが、(以下弥富町史による)
永録年間、織田氏が彼のいる鯏浦島(城の腰)の目と鼻の先に鯏浦城を築き、
弟の信興を城主にすえた。(史跡跡あり)
左京亮さん頭にきて、信興を攻め殺した。更に頭に来た信長はこの地を始め
伊勢長島の大せん滅作戦を展開した。猫一匹生かさぬほどのものだったという。
2年後、各地に散らばった服部党の生き残りがボチボチ戻り始め、
その中の服部弥衛門尉正友(30才)が、この荒廃した村村を再興したという。
この人が荷之上服部家の先祖といわれ、代々庄屋をつとめた。

現在の服部本家は天正年間に服部祐乗氏が建てたもの。
戦国時代の民家の様式を伝えるものとしてS49年2月5日に、
国の重要文化財に指定された。現在のご当主は服部通也氏(70才)。
屋敷は南に土塀をめぐらし長屋門、主屋、住宅、茶室、離座敷、道具蔵、
文庫蔵から成り、その内土塀、長屋門、主屋、離座敷が重文。
見学は予約制だそうです。入場料300円也。

190 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:09:12
[99] 川口 信さんからのコメント(2002年07月03日 13時47分43秒
そうです。同じ本です。高価な本ですのに。私は図書館からですので無料ですがお金は有効に使ってくださいね。83ページの記事が「都祁」「闘鶏」「柘植」が本命みたいですね。俗説に惑わされずもっと服部姓との関係について探って見たいとおもいますが。
[100] 隈さんからのコメント(2002年07月03日 18時28分20秒 )
え!そうなんですか?
土岐氏といえば、昨日明智光秀に関する本を買ったのですが、結構興味深い事が書かれているのですよ。
光秀は妻木氏の娘と結婚し、それ以外に妻を持たなかったと一般的には言われていますが、
実は服部(北村)氏から後妻をもらった、という話が以前ありましたよね(本能寺の真相関連のスレッド)。
昨日読んだ本によると、さらにお妾さんが居たという説もあり、あるお寺にはその事を記した系図が残っているそうです。
お妾さんが産んだ子の一人が出家してそのお寺に入った関係だとか。
そのお寺に入った人物の兄弟のうちの一人が、後の服部笠之助だというんです。

服部笠之助・・・覚えていますか、さちこさん?
本能寺の変をいち早く徳川家康に報せ、伊賀越えのお供をしたといわれる人物!
その系図の真贋が分からないので断言できませんが、
もし本当に服部笠之助が、明智光秀の実子だったとしたら・・・
怪しすぎる!!

・・・と話が反れましたが、やはり明智家と服部家は姻戚関係にあったということで、秦氏に繋がりがあるらしいですね、というお話でした。


191 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:12:01
☆★明智光秀は矢張り、秦氏といえる。

[98] さちこさんからのコメント(2002年07月03日 13時05分19秒 )
大和岩雄さんの秦氏の研究ですか?
私は買ってしまいました。(笑)

都祁国というのが凄く気になってきました。
やはり都祁=柘植みたいですね。
土岐氏も同じだそううです。
[99] 川口 信さんからのコメント(2002年07月03日 13時47分43秒
そうです。同じ本です。高価な本ですのに。私は図書館からですので無料ですがお金は有効に使ってくださいね。83ページの記事が「都祁」「闘鶏」「柘植」が本命みたいですね。俗説に惑わされずもっと服部姓との関係について探って見たいとおもいますが。

192 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 18:27:04

なるほど・・・・。
もっと他にもあれば宜しくお願い致します。

193 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 18:56:52
[106] 秦義則さんからのコメント(2002年07月03日 23時58分56秒 ) パスワード
京都、太秦と妙心寺にはさまれて、双ヶ岡古墳があります。
奇妙な古墳で、丁度南北一列に北から大中小の三つの古墳があります。
秦氏が眠っているようです。
その南西に松尾大社があり、また、南東の方角には稲荷神社があります。
稲荷神社から松尾大社まで線を引き稲荷神社を起点に30度方向に愛宕山
松尾大社を起点に30度方向に比叡山があり、
それぞれが夏至●●の時の日の出と日の入りの地点だといわれています。
不思議ですね?
        ↓
本能寺の変があったのが 天正 10年 1582年 6月 2日 。これは旧暦です。
新暦に変換すると(以下引用)

旧暦→新暦変換結果 No. 旧 暦 新 暦 その他
元号 西暦年 月日 元号 西暦年 月日 曜日 六耀 干支 十二直
1 天正 10年 1582年 6月 2日 天正 10年 1582年 6月 21日 木曜 先勝 戊子 −
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0101.htm
     ↓
つまり、光秀は夏至の日を意図的に選んだのです。しかも愛宕山は日の出か、日の入り
の地点になる。其の地点の持つ意味は(以下引用)
三重県二見浦夏至祭
そして、その海中には興玉神石があり、昔からその沖の石は、常世の国から神が
寄り付く聖なる所といわれてきました。そして、夫婦岩はその鳥居とみなされてきました。
http://iroha-japan.net/iroha/A04_24sekki/06_geshi.html



194 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 19:08:33
夏至の日の出か、日の入り地点の松尾大社

67] さちこさんからのコメント(2002年04月24日 13時08分51秒 )
秦氏と賀茂氏を繋ぐ記録は沢山あるのですが面白いところでは
秦氏の記録で秦都理(伊賀の長者で松尾大社を建てた人)●と鴨の何とかが兄弟。
賀茂氏の方では鴨の何とかの子が秦都理とされてます。
いいかげんな記憶でごめんなさい。


195 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 11:10:19
信長の首を晒すメリット
敵がまだ信長が生きてる可能性を考慮する必要があり、状況把握で混乱する。
デメリット
政権を引っくり返したと主張しにくい為、中立層へのアピールが弱い。

196 :194:2007/01/24(水) 17:41:02
夏至は、太陽の日差しがもっとも強い日。日の光を命の源とする生命にとって、もっとも
恵みの多い日といってもいい。天照大神は、日神とも称されるように太陽そのものでもある。
天照大神を祭る伊勢に、力を一杯たくわえた天照大神が降臨する。夏至のこの瞬間は、まさに、
伊勢という土地を象徴している。
夏至の日、太陽は夫婦岩の間から昇り、遥拝所の鳥居を潜って、輿玉神社から伊
勢の神域へと導かれる。これは、天照大神の使いとして邇邇芸命が地上に降り立つ「
「天孫降臨」そのままの構図を描き出している.
http://www.ley-line.net/motoise/motoise_04.html

■本能寺の変の前、信長は比叡山を討ち次ぎは熊野山の討伐も予定していました。
 光秀は信長に反対して 人前で激しく叱責されています。

熊野神社について
[69] 秦義則さんからのコメント(2002年04月26日 23時18分23秒 )
加茂氏といえば「賀茂建角身命」を思い出します。「賀茂建角身命」は八咫烏(ヤタガラス)となって
神武天皇を熊野の地から大和へ道案内したと言われています。熊野神社にヤタガラスが
祭られていますが、ヤタガラスと秦氏は関係があるように思えてきました。少し調べてみたいと思います。

[89] そりちゃんさんからのコメント(2002年07月01日 16時41分16秒 )
「古事記」や「日本書記」によると、天皇家の初代とされている神武天皇は
九州から大和を平定するため戦いながら目指した道中、手助けしたなかに「八咫烏」がでてきます。
いわゆる、「神武東遷」です。


197 :194:2007/01/24(水) 17:44:51
94] 服部 明子さんからのコメント(2002年07月02日 11時22分05秒 )
八咫烏とは 
神魂命(かみむすびのみこと)
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
の化身と云われています。

また中国の古代説話で太陽の中にいるという
三本足の赤色のからすのことでもあります。
八咫(やた)とは長さの単位であり巨大なものを表すのに使うそうです。 しかしただ大きさを表
すばかりでなく三種の神器の第一にあげられる 「八咫鏡(やたのかがみ)」の名が示すように
尊貴の意味も含んでいます。

伝説によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は
須佐之男命とされるが、実際は正体ははっきりしない。 太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太
陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE


家津御子大神(素戔鳴尊)新羅から渡来した神。 
            渡来人に信仰された。



198 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:39:57
はあ

199 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 16:54:42
ひい

200 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:20:32
ふう

201 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:22:59
へえ

202 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:14:38
ほう

203 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 19:53:43
稲荷神社は秦氏の信仰神ですよ

204 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 08:14:30
まあ

205 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 08:51:47
>>197
八咫烏はJFA(日本サッカー協会)のロゴマークにも採り入れられていますね。

206 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:50:57
>>205
そうです。マークを取り入れた人が熊野出身だそうです。

○「吉田兼見の日記」光秀親友の彼の京都吉田神社は奈良の春日大社{藤原氏の氏神}の分霊。
兼見は近衛家の家礼。
また愛宕山偽装連歌会にいた里村紹巴は近衛前久{藤原氏}の子飼い。(引用終り)

近衛家について、渡来人と言われている。 根拠は
一、『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』
   http://barclay.e-city.tv/oldhist/nakatomi.html
ニ、    藤原氏の閨閥 Y 
>藤原氏の事実上の祖は中臣鎌足である。中臣氏の始祖は天児屋根命といわれている。
>大鏡によれば、鎌足の出身は鹿島とも言われている。奈良にある春日大社は藤原氏の氏神である
>それにもかかわらず、始祖天児屋根命を第三殿を祀り、鹿島神を第一殿、第二殿を祀っている。
>藤原氏がもともと中臣氏ならば、第一殿に天児屋根命を祀ったにちがいない。このことは、
>鎌足が天児屋根命直系の中臣氏出身でなく、傍系もしくは自称中臣一族として養子に入った
>ものと思われる。
>よって、春日大社は鎌足の本当の先祖と中臣氏の始祖を合祀したものと思われる。
  http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/fujiwara.htm





207 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:35:55
[126] 隈さんからのコメント(2002年07月12日 09時55分05秒 )
最近、『消された王権・物部氏の謎』という本を読みました。
題名の通り物部氏についての話題が中心ですが、それ以外の古い豪族についても、天皇家とは裏表の関係で、
歴史の表舞台から姿を消して落ちぶれた後も、陰で天皇家&藤原家を操った、と書かれていました。

どうしてそんな事が可能だったか?というと、

藤原氏によって律令体制が整えられ、多くの民がそれに組み込まれた後も、
政争に敗れて『消された』人々はそれに属さず、定住を避けて遍歴漂白の民となったといいます。
すなわち、芸能民あるいは鋳物師、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売り等の行商人、それに修験者(神仏に仕える人々)等々、身分的には低いとされた人々です。
身分は低い代わり、彼らは法律に束縛されず、自由に行き来し、同族ネットワークで情報交換しました。

彼らを潰そうとすれば、そのネットワークで逆に消されてしまう。
天皇家にとって彼らは不気味な存在でしたが、彼らの持つ情報は充分利用価値のあるものでした。
例えば天武天皇は、彼らを上手に利用しました。

著者曰く、『この闇の社会を本気で潰しにかかった人物は、歴史上織田信長一人と考えられる。
ただ多大の犠牲を払いながら、野望は完璧に成し遂げられた訳ではない』と。

・・・これって、まさしく忍者のことですよね!?

そして、得体の知れない闇社会の人間達は、『鬼』と呼ばれたのです。
この世で人間ではないのは、天皇=神と、闇の人間達=鬼だったという訳です。
人間ではないから、税を納めなくても良いんですって。


208 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:36:01
 安土古城図は本能寺の変の犯人達を教えている
 安土廃城約百年後に描かれた物で何の目的で描かれたか判らない。大手道の脇
に羽柴秀吉、家康公、武藤助左衛門、江藤加賀右衛門、武井肥後入道夕庵の屋敷
がある。本丸に堀秀政の名がある。しかし、この大手道は繖山から流れる川の流
域にあり、沼と湿田に阻まれて道として機能していない。普通大手門は玄関であ
るから城下町に続く筈だがこの大手道は続いていない。道幅も広く直線的で、防
御面から見ると不可解である。この大手道は偽りの道で本当の大手道は百々橋に
続く道である。すると安土古城図は何を言いたいのか。城攻めは大手門から攻撃
するから、本能寺の変の犯人を教えているのである。
 武藤助左衛門、江藤加賀右衛門、武井肥後入道夕庵は信長の家臣名簿にない。
暗号になっていてそれぞれ、武門の誉れ高い五郎左衛門尉である丹羽長秀、加賀
の太守前田利家、信長の死後仏門に入り肥後へ移った細川藤孝と読める。
 また、本能寺の変の犯人はその後の出世度でも判る。変の前から変の後にどの
様に変わったか。
 光秀 34万石→0 信長の死後、後継者争いの生存競争の為に事前に味方を
作って置かなかったとは考えられない。
 秀吉 12万石→200万石 毛利との短期間の和睦、中国大返し、短期間で
武将を味方にする事は無理。
 家康 200万石→250万石 変後の混乱中に駿河と甲斐を手に入れた。
 丹羽長秀 10万石→123万石 山崎の戦いの戦功だけでは恩賞が多すぎる。
 前田利家 12万石→100万石 賤ヶ岳の戦いでの柴田軍離脱だけでは恩賞
が多すぎる。
 堀秀政 2万石→29万石 大した戦功もないのに加増されている。
 細川藤孝 11万石→39万石 戦功もないのに加増されている。
 6月2日は信長の中国出陣の日で、明智軍は早朝2条城の周りで待機していた。
藤孝が書いた信長の偽の朱印状(信長は中国出陣を中止して安土へ帰った)に騙さ
れ、事情を聞く為に安土へ向かった。周山城に隠れていた秀吉軍が明智軍にすり替
わった。2条城は堀秀政の裏切りで大手門が開き秀吉軍、丹羽軍に攻撃されて信長
が討たれた。安土城は家康の指揮で利家軍、信雄軍に攻撃されて信忠が討たれた。

209 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:38:57
 安土古城図は本能寺の変の犯人達を教えている 続編
 本能寺の変の犯人はその後の出世度でも判る。
 京極高次 0→1万石 浅井氏に滅ぼされてから再興、手柄なしの再興はな
い。高次と近江衆が裏切って安土城の大手門を開いたのである。家康は信雄に
信忠を討ったら天下を取らせてやるとそそのかしたのである。
 安国寺恵瓊 0→3万石 手柄なしの加増はない。
 小早川隆景 6万石→63万石 手柄なしの加増はない。
 毛利輝元 160万石→112万石 秀吉との和睦の条件である5ヶ国割譲
は小早川隆景がその代わりの領地を得ているので成り立たない。毛利は秀吉と
同盟を組み八百長の戦争をしていた。高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜多
軍である。
 信長の妹・お市の3姉妹の茶々は秀吉の側室、小督は家康の嫡男・秀忠の正
室、お初は京極高次の正室になっている。なぜ、利用価値のない信長の血筋の
娘を嫁にしたのか。それは信長の怨霊封じの為である。怨霊は自分の血筋の者
には祟れない。
 信孝らの四国渡海は6月1日の予定であったが、本能寺の変の知らせを待つ
かのように延びていた。とても偶然とは思えない。
 大化の改新で朝鮮人の蘇我氏(中大兄皇子ら)が聖徳太子を暗殺した。本能
寺の変の首魁は秀吉である。いつまで嘘の歴史を引きずって行くつもりか。日
本の恥である。  


210 :服部氏:2007/01/26(金) 21:41:06
西郷氏於愛の方は秀忠・忠吉の生母である。遠州の住人秋山十郎の女、伊賀者●服部平太夫の妹、
三州の住西郷弾正左衛門正勝の養女なり。(徳川幕府家譜)
於愛の方は戸塚作左衛門某の女、西郷弾正左衛門家員の養女で、秀忠を生んだのち、西郷局と
号した。(源流綜貫)
また戸塚五郎太夫忠春の女である。一女於愛の生母は西郷弾正左衛門正勝の女である。
於愛は初め蓑笠之助正尚の養女になり、西郷正勝の嫡孫義勝に嫁いだ(寛政重修諸家:
戸塚譜・西郷譜)と記したものがある。
西郷正勝は、初め今川義元に仕え、のち家康に帰属し、三河八名郡西郷庄の五本松城を守り、
子元正は月谷城にいたが今川氏真方に攻められ父子共に戦死した。元正の子義勝は幼少であ
ったけれど、叔父清
員の請により、祖父正勝の遺跡を相続し、諏訪定久の女を娶り、後に蓑正尚の養女於愛と
婚した。義勝と清員等は武田との戦いで討死し、於愛は寡婦となった。天正六年三月、
家康は蓑正尚の邸に赴いて於愛の方を浜松に伴い、伯父西郷清員の養女として側近に
仕えしめた。等々。
以上は「家康の族葉」(中村孝也著)より
蓑笠之助のHPにも同様のことが書かれておりますね。

211 :服部氏:2007/01/26(金) 21:42:28
西郷氏於愛の方は秀忠・忠吉の生母である。遠州の住人秋山十郎の女、伊賀者●服部平太夫の妹、
三州の住西郷弾正左衛門正勝の養女なり。(徳川幕府家譜)
於愛の方は戸塚作左衛門某の女、西郷弾正左衛門家員の養女で、秀忠を生んだのち、西郷局と
号した。(源流綜貫)
また戸塚五郎太夫忠春の女である。一女於愛の生母は西郷弾正左衛門正勝の女である。
於愛は初め蓑笠之助正尚の養女になり、西郷正勝の嫡孫義勝に嫁いだ(寛政重修諸家:
戸塚譜・西郷譜)と記したものがある。
西郷正勝は、初め今川義元に仕え、のち家康に帰属し、三河八名郡西郷庄の五本松城を守り、
子元正は月谷城にいたが今川氏真方に攻められ父子共に戦死した。元正の子義勝は幼少であ
ったけれど、叔父清
員の請により、祖父正勝の遺跡を相続し、諏訪定久の女を娶り、後に蓑正尚の養女於愛と
婚した。義勝と清員等は武田との戦いで討死し、於愛は寡婦となった。天正六年三月、
家康は蓑正尚の邸に赴いて於愛の方を浜松に伴い、伯父西郷清員の養女として側近に
仕えしめた。等々。
以上は「家康の族葉」(中村孝也著)より
蓑笠之助のHPにも同様のことが書かれておりますね。

212 :服部氏:2007/01/26(金) 21:46:13
西郷氏於愛の方は秀忠・忠吉の生母である。遠州の住人秋山十郎の女、伊賀者●服部平太夫の妹、
三州の住西郷弾正左衛門正勝の養女なり。(徳川幕府家譜)
於愛の方は戸塚作左衛門某の女、西郷弾正左衛門家員の養女で、秀忠を生んだのち、西郷局と
号した。(源流綜貫)
また戸塚五郎太夫忠春の女である。一女於愛の生母は西郷弾正左衛門正勝の女である。
於愛は初め蓑笠之助正尚の養女になり、西郷正勝の嫡孫義勝に嫁いだ(寛政重修諸家:
戸塚譜・西郷譜)と記したものがある。
西郷正勝は、初め今川義元に仕え、のち家康に帰属し、三河八名郡西郷庄の五本松城を守り、
子元正は月谷城にいたが今川氏真方に攻められ父子共に戦死した。元正の子義勝は幼少であ
ったけれど、叔父清
員の請により、祖父正勝の遺跡を相続し、諏訪定久の女を娶り、後に蓑正尚の養女於愛と
婚した。義勝と清員等は武田との戦いで討死し、於愛は寡婦となった。天正六年三月、
家康は蓑正尚の邸に赴いて於愛の方を浜松に伴い、伯父西郷清員の養女として側近に
仕えしめた。等々。
以上は「家康の族葉」(中村孝也著)より
蓑笠之助のHPにも同様のことが書かれておりますね。

213 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:46:53
3連投はみすです。ごめん。

214 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:05:25

3連投とは、また豪快な(笑)
読んでいるうちに暗記してしまいました。

215 :津軽家:2007/01/28(日) 19:38:09
津軽藩最後の藩主
>ところで、津軽藩の最後の藩主は12代承昭(つぐあきら)である。彼は
>細川斉護(なりもり、熊本藩12代藩主)の4男として生まれ、養子となって
>津軽に来ている
>近代の名君といわれた津軽藩11代藩主順承(ゆきつぐ)の4女常姫の
>婿養子となったのである。承昭は、義父のあとを継いで、最後の藩主となり
>天皇方に味方したことで有名である。津軽藩は、明治維新のときに東北・越後の諸藩と
>奥羽越列藩同盟を結び、時の明治政府と対決姿勢を当初示した。
>しかし、津軽藩が藩祖為信以来近衛家と親しかったために津軽藩は同盟を脱退し、
>東北では唯一勤皇方として倒幕に力を注いだ。
>その12代津軽承昭の兜・鎧・具足が天守閣の中に展示されていた
>婿入りするときに、実家の細川家から持たされたものであるという。
>私は、議論うずまく藩にまるでいくさでもしにいくかと思ったりもした。なお、承昭は
>近衛家から婿養子をとり13代目は英麿である。14代目も養子であり徳川家か
>ら来ている。この14代目のお嬢様が、常陸宮妃の津軽華子さんである。
http://www.telework.to/sasWeb/tsu1-2.htm

■■細川家は明智光秀と姻戚関係にあり、津軽家が近衛家と関係が深かったという事から
  津軽家は渡来系の可能性があるよね。 明治になっても 近衛家細川家ってひたしかったんです
  ね。



216 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:56:43
5] 隈さんからのコメント(2002年07月23日 09時35分50秒 )
それとは別に、光秀の子としてもう一人山岸光重がいる。その母は、最初の妻
従妹の千草とされる。
この関係であろう。美濃側の史料に、光秀の母を山岸貞秀の女とするものがある。
だが、光秀の実母は、「明智系図」にあるように若狭守護武田義統(よしむね)の妹と考えてよい。
義統は、足利義昭の姉婿にあたる。(後略)

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100338.html


217 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 23:10:39
>>214
おまい、いいやつだな。
和んだよ。

218 :日本@名無史さん:2007/01/29(月) 00:16:00
あはっ! そうでしたか(照笑)

光秀公にまつわることなら何でも興味津々なもので。
皆さん、良くご存知で楽しいですね。

また、お邪魔します。

219 :日本@名無史さん:2007/01/29(月) 06:42:04
三人目の妻(?)伊賀出の伏屋姫の伝承って>>63にある「照子 断髪沽酒」と同じだよね。
「月さびよ…」の句を詠んだ芭蕉も伊賀の人だし、昔は伊賀出の人がガラシャとかの母だと思われてたのかな?


220 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:26:40
クリス・ペプラーって明智光秀の子孫だったんだね
かなりびっくり

221 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 12:11:57
信長とキリシタン大名とイエスズ会

鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は、次のように述べている。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改
宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に
連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の
原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。(←ここ注意 )
http://www.gameou.com/~rendaico/nihonchristokyoshico/zinshinbaibaico.htm
秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じている。
>「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、
>これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られ
>て行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。
>2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人
>女性人身売買」について触れている。豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の
>「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べている。
>「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが
>分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった」。

>これらを踏まえて、「株式日記と経済展望」氏は次のようにコメントしている。
>ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘するのは歴史
>教科書やNHKなどでは無理だろう。しかしこのようなことを教えないからユダヤ人が
>なぜヨーロッパで差別されるのかが分からなくなる。彼らは金になれば何でもやるところは現
>代でも変わらない。


222 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 12:27:26
1579年7月、巡察師注7アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、

さらに彼は信長に謁見し、キリスト教保護を手厚いものにしました。

商人*注1ルイス・デ・アルメイダが協力者として加わりました。
ルイス・デ・アルメイダ(1525〜1583年)
 リスボンのユダヤ系家庭に生まれ、医学を学んだ。裕福な商人であったが、インドでイエズス会と交わり
1552年に来日する。
注6 ルイス・フロイス(1532〜1597年)
1563年、来日し、翌年入京。織田信長に好遇され、十数回にわたり会談する。

>ヴァリニャーノは龍造寺氏に攻められていた有馬鎮貴を軍事物資で援助し、キリスト教信
>者に改宗させた。先に受洗していた大友宗麟、大村純忠の布教の援助を受け、さらに織田
>信長の寵愛も得たことで、セミナリオ、コレジオのキリシタン学校も開校され希望は明るくなっていった。
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/tenshou.html

(私見)キリシタン大名はヴァリニャーノとの間で 軍事物資で援助の見返りにキリスト教への入信、代金支払いの為
日本人売買、神社仏閣の破壊を請け負ったのでしょう。
それでは信長はキリシタン大名以上に戦闘をしたのだから、軍事物資への支払いはどうしたのでしょう?
日本人売買の記録はないが、仏閣の破壊、僧侶の皆殺しは有名です。僧侶達が堕落していたというのが
従来の通説でしたが 残酷さはそれ以上です。ひょっとして 信長も軍事物資の代わりに仏教徒の殺戮を
要請されたのでは?

223 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 21:16:35
16代・前久(さきひさ)
15代近衛稙家の子 母は久我通言の養女
生没・天文5年(1536)〜慶長17年(1612)
従一位関白
正室・不詳
子女・17代信尹 前子→後陽成天皇女御(後水尾天皇生母、院号は中和門院)
17代・信尹(のぶただ)
前久の子 母は武田氏 ●●
生没・永禄8年(1565)〜慶長19年(1614)
秀吉の朝鮮出兵に呼応して朝鮮に渡海しようとするほどの武張った公卿だが(これにより薩摩へ3年間の流罪)、
従一位関白
正室・不詳
子女・養子信尋(18代)
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/k1.html
☆★
明智光秀の母も武田氏

224 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 21:19:50
224 :日本@名無史さん :2005/09/20(火) 18:32:43
近衛前久は本願寺と信長の講和の使者、関ヶ原後の島津家本領安堵のとりつけなどをやったが、
丁度文麿の子文隆が本願寺の大谷家、昭子が島津家の人と結婚している。
さらに近衛前久と文麿次女が嫁いだ細川家の幽斎は島津義久に古今伝授しているから、
やはり名族というものはどこかで縁があるものだね。
        ↓
細川が明智光秀に味方しなかったのはひょっとして、前久の指示かも

225 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:10:57
31] 秦義則さんからのコメント(2002年06月13日 23時01分57秒 ) パスワード
  
皆さんこんばんは。鞍馬寺について書き込みます。
京都の北方に位置する鞍馬寺。ご本尊は毘沙門天。毘沙門天は寅年寅月寅日に出現したといわれて
いるそうです。毘沙門天は別名を多聞天といいます。三つの寅が毘沙門天に関係するようです。「ミトラ」です。
古代アーリア人の太陽神「ミトラ」なのです。毘沙門天はインドでは、クベラと呼ばれる財宝の神様です。クベラが
なまって鞍馬と呼ぶようになったと言う説もあります。ミトラはマイトレーヤです。つまり、弥勒菩薩。鞍馬寺の創建
には、秦氏の影があるのは言うまでもないようです。広隆寺の弥勒菩薩です。かつて広隆寺の境内にあった大辟神社
の祭りである牛祭りで登場するのが、マタラ神といわれ、マタラの正体は、ミトラであり。さらに、マタラ神の周りに
は4人の鬼がいて、彼らは四天王と呼ばれています。曼荼羅の世界が鞍馬にあります。
義経が鞍馬に預けられたのも意味があるのかも。鞍馬の天狗とは忍者だったとしたら、秦氏
が関連していると思います。奥州藤原氏を頼っていったのもバックに秦氏があったのかもしれません。平家方
にも秦氏がいたことも間違いないようです。
島津氏も秦氏ですね。家紋の○に+の字。田の原型です。田は水田ではなく囲いの中に植物が植わっている様子を描
いたものだそうです。つまり桑畑だったようで、日本の畑は焼畑を表しており、畠は焼いた後の灰が白く見えるところから
畠とされています。僕の家の紋は丸に木瓜。よく見ると○に+の字に見え、その上、○のなかに植物が植わっています。

※※NHKの大河ドラマの武田家に毘沙門天が奉られてるのがよく映ってます。と、いうことは武田家は秦氏

226 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:19:14
最澄(767〜822)は平安時代初期の僧。日本の天台宗の開祖。近江国(滋賀県)に生まれ,
渡来人の子孫。19歳のときに東大寺で正式の僧となったが,当時の仏教のあり方に不満をいだき,故郷に帰
って比叡山寺(ひえいさんじ・のちの延暦寺)をたてて12年の間,一人で修行した。さらに深く仏教を学ぶため,
804年に遣唐使にしたがって唐(中国)にわたり,天台宗の教えを受けて,翌年帰国。桓武天皇の保護を受けて,
新しい宗派をおこした。死後,朝廷から伝教大師とおくり名された。
と言うのが最澄の一般的な説明。
渡来人の子孫とするのは秦氏を指すのだろうか?そういえば東大寺の良弁和尚も秦氏。
法然も秦氏だったよね。秦氏で僧侶になっているものも多いですね。密教ともかかわりが深いようです。

比叡山を焼き討ちした信長

227 :信長は自称日本の王:2007/02/15(木) 11:30:56
 当時、信長は将軍や朝廷、宗教勢力が持っていた権威に対抗し、自分が日本の国王であると広言。
自らを神として祭る寺院を作ったり、自分の誕生日を聖なる日と定めたり、さらに天皇にしか許されないとされて
いた暦の改定に着手するなど、それまで日本のタブーとされていた領域にまで改革の手を伸ばそうとしていた。
www.nhk.or.jp/sonotoki/2002_07.html - 59k

そうとは知らぬ信長は、毛利攻め仕上げのために中国に出陣すべく、京の本能寺にあった。
その出陣前、おそらくここ数日の京都滞在中に、朝廷の官位提供の申し出にも回答するはずである。
征夷大将軍をよこせと言われれば、義昭の政治的抹殺。
なにもいらん、わしはちまちました日本秩序でなく、世界秩序の中の日本国王になる、と言われれば、
朝廷の権威が音を立てて崩れる。
イエズス会を先遣隊とする南蛮勢力と信長のただならぬ関係からすれば、南蛮勢力
をスポンサーとする東アジア軍事革命政権を、信長が構想していたとしても不思議はなかった。
事実この時期信長は、欧州でやっと導入されようとしていたグレゴリオ暦(現在の太陽暦)を採用するよう
朝廷に迫っていた。神道の専売特許である暦の決定権を、奪い去ろうとしていたのである。
一度沙汰止みになっていた暦の変更を再度朝廷に迫ったのが、本能寺滞在中、なんと変の前日。
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/nobunaga/01.html


228 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:39:59
天正少年遣欧使節団

本能寺の変で織田信長が暗殺される数カ月前、 1582年(天正10年)2月20日に長崎の港を出航
した一行は、マカオ、ゴアを経て、喜望峰を廻り、2年半後にヨーロッパに上陸。1585年3月にロ
ーマに入り、同月23日、ヴァティカンにてローマ教皇グレゴリオ13世の謁見を賜った。

驚くべきことに戦後、ヨーロッパのイエズス会の史料から、この大友・大村・有馬によるものとされていた使節
は、実は大友宗麟は何ら関係しておらず、ヴァリニャーノ独断の行為であったことが判明した。しかし大村・有馬氏の両
者はこの使節の事を知っていたふしがあるという。それは1587年10月15日付けの九州の平戸近くの生月島
(いきつきじま)からのペドゥロ・ラモンという宣教師がイエズス会総長に出した手紙から判明した。

使節は日本の王子という触れ込みもあって、行く先々で大歓迎を受け、彼らがまだヨーロッパ滞在中に夥しい書物が発刊されました
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/tenshou.html

「イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡」は次のように記している。  「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱●
いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である」。
※※
ヴァリニャーノは信長から受け取った安土城を描いた屏風をグレゴリ―13世に献上している

229 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:43:51
1582年にグレゴリオ13世が改暦をすることによりようやくこの問題に決着をつけることが出来ました。

 このグレゴリオ暦もローマ教皇が決定した暦であったためカトリック
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_1700.htm
  
※信長は日本を東洋のキリスト教国にしたかったの

230 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 11:47:30
イエスズ会の胡散臭さ


使節は、ローマ教皇に信長からもらった安土城絵屏風を贈っている。美しい衣装を付け
、大小の刀を腰に
2003年、ポーランド・クラクフ市のヤギウェオ大学図書館で、銀板のガラスフレームの
中に挟まれた文書が発見された。旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節がラテン語と日本
語で、「諸人よ、デウスを誉め奉るべし。諸人よ、天の御主は計り給うなり」と記されていた。「ローマ教皇
に謁見した時にポーランド人司教が天正遣欧使節の若者たちの誰かに書いてもらったと推測されている」。
使節の知性の高さを如何なく立証する新史料となった。

現在は非公開とのことである。しかしこれは奇妙なことになる。「天正遣欧使節」の若
者が書いたとされる聖書の一節は、キリスト教のそれではなくユダヤ教の教義の一節を記してい
ることになる。なぜなら、キリスト教の一説であればイエスの珠玉の言葉を記すのが普通であろう。そ
それを何故に「天正遣欧使節」は、「旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節」を記したのか。謎である。
http://72.14.235.104/search?q=cache:gqj-XHcK4CYJ:www.gameou.com/~rendaico/nihonchristokyoshico/tenshoshisetuco.htm+%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%80%80%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4&hl=ja&ct=clnk&cd=5&lr=lang_ja&inlang=ja

イェズス会宣教師たちの歴史上での役割 処方箋
www.asyura2.com/0403/bd34/msg/471.html - 10k


231 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 15:17:59
イエズス会

1534年イグナチウス・デ・ロヨラが創設.ロヨラは教皇首長権が実現していた時代ーーカトリック支配力
の黄金時代だね、この体制を復活させようとこの修道会を作った。

1517年にルターが宗教改革運動を勃発させて、教皇なるものを認めない教会が各地に出来ていった。
ロヨラはこれではいけないと考えた。
教皇首長権とは国家の首長として、教皇が皇帝の上に立つ権利.9世紀以降実現した.この考えでいくと
教皇はヨーロッパを永遠の救済に導く権威があるのではなく、キリスト教諸国を導く権威を持つという。

この理論でいくと「教皇を最高権威に頂く世界にしなければならない。
その体制で世界を運営しなければならない」となるのが道理。

イエスの教えは世俗的な運営に乗り出してはいけなかった。.動機に政治的な面が混じっていた。
イエスズ会はイエスの教えからするといくらかズレがある.(引用)

キリスト教のことがおもしろいほどわかる本ー中教出版

232 :日本@名無史さん:2007/02/21(水) 06:08:11
昨日、午後4時からNHKで島原の乱のことを放送。

要点を書くと
・キリシタン信者は仏教寺院に押し入り仏像など持ち出し、破壊した.。放火もした。
バテレンが追放される時、日本人信者に将来、日本に火の玉みたいなのが天から落ちてくる。
特別な方がやがて現れる.(日本人は天草四郎をその人だと受け取った)

日本人信者にローマ教皇からの伝言として、宣教師を大量に日本に送り込んで信者を
助ける、と約束.(守られなかった)
キリシタン大名は硝煙や鉛等の軍事物資の交換として、大名を入信させ神社仏閣を破壊させた。
●ルイスフロイスのジェス教会への報告書に
「キリシタン大名の武力をもってすれば、日本のキリスト教改宗は容易である。」と、ある。
当時スペインポルトガルはローマ教皇から世界を分割領有することを許可されていた。
実際にマカオ、ゴアなどが植民地化された。

※NHK放送では日本人奴隷のことは

233 :日本@名無史さん:2007/02/21(水) 06:09:29
232のつづき

(放送)

234 :日本@名無史さん:2007/02/21(水) 16:25:34
最新50レスだけ見ると何のスレだか全然わからんw

235 :233:2007/02/22(木) 13:38:20
233
パソの調子がわるく、文章が完成してない。

訂正;(放送)されなかった。

信長が本能寺の変の前日、公家に強要したグレゴリ‐暦はローマ教皇が公布権をもつ。

ローマ教皇は当時、キリスト教国の首長任命権を持ち、日本がキリスト教国になれば。信長を日本の首長に
任命は可能であった.フロイスのジェス教会への報告書にも「武力」で日本をキリスト教の国にできると書いてる。
フロイスと記憶してるが「日本史」に「ぼうず」がキリスト教布教に障害になると 度々書いている。
この障害物を信長、キリシタン大名の武力で フロイスは除去し、キリスト教国にする予定だったのでは?

一方、光秀は武田家、足利家、服部家、近衛家と遠近はあるが姻戚関係にある。



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