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【百花繚乱】戦国女性を語れ!【壮絶運命】

1 :脳天気姫:2006/05/29(月) 23:18:08
築山殿抹殺を指示したのは於大の方だった?!
生涯に三度の落城を経験した淀殿
浅井シスターズの勝ち組・負け組は誰?
濃姫は最後まであのコワイ信長と連れ添ったのか?

・・・さぁ、語ろーゼ!

2 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:19:13
勝ち組といえばそりゃあんた、次女のお江与でしょー

3 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:22:49
築山殿vs.於大の方の確執・・っていう話は
諸田玲子著・「月を吐く」で展開されている説だね。
山岡宗八ものとかだと於大の方は理想の女性のように描かれているが
どうも彼の作風は終始強者・勝者の側に立って書かれているようで
自分的には馴染めない。
築山殿ってホントに悪女だったのかね?

4 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:28:13
あの事件が家康という人間のすべてをあらわしていると思う。
愛情の冷めた妻を殺すなんてことは別に乱世じゃない現代でも
結構ある話。
しかし、跡取りである長男を殺す、っていうのは結構凄いことだと思う。
今川の血が忌まわしかったのか、それにしても
妻子ともども抹殺してかかわり自体をなかったことにしたい、という発想は
10年位前にあった筑波大のドクター野○岩○の事件を髣髴させられるな。


5 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 09:31:20
濃姫は信長と連れ添って本能寺の変後も生き延びて78歳で死んで養華院っていう説信じてるな。
信長って、身内には意外に甘いし、御台を連れて色々出掛けてるしね。

6 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 09:46:53
妻殺しが珍しくないにしても、ちょいエゲつない。今川から押し付けられたって話も嘘っぽい気もする

7 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:49:43
寿桂尼も話題にしてくれよん

8 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:53:46
寿桂尼それ誰だよぴょ〜ん?


9 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 22:25:14
>>8
本当の意味で女戦国大名
淀君とはぜんぜん違うよ

10 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:37:09
なぜそこで淀?おねや前田松ならまだわからなくもないが。

11 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 07:08:33
>>6
築山殿は、桶狭間の時点で家康とは事実上の離婚でしょう。
岡崎城に住むようになったのも、息子が城主になってからだし。

12 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:03:41
このスレ、イマイチ伸びないと思ったら
よく似たスレがあるんだね。
『悲劇のお姫様云々・・』というスレが。
ココは「悲劇」にこだわらないで
戦国女性(室町後期・江戸初期も含む)全般を扱うということで
独自性を出していきましょー。

13 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:07:46
離婚状態だったけど、正室としての座は信康の件まで安泰だったろ。
信長の陰謀で、親子とも殺されたけど。

14 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:07:48
女城主、女戦国大名といえば
恵那に嫁いだ織田信長の叔母(名前忘れた)
武田軍に包囲され苦し紛れに武田方につき
後で信長に逆襲され逆さハリツケに・・・

また、竹千代時代の徳川家康の初恋の人・亀姫
最後はどこぞの女城主になって
これまた敗戦で非業の死を遂げるんだよね。
大河では竹下景子が演じてたっけ。

・・・結局誰を語っても戦国女性は
ほとんど悲劇のお姫様じゃんか!!!

15 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 08:13:20
>>11於大の方が同居を嫌がってたって話もあるけど、同居を始めたら家康はとっとと浜松に行っちまうし…家康、何とかしろよ

16 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 11:21:53
>>13
築山殿と信康が殺されたのは、徳川家のトラブルであって、信長は関係ないのでは?

17 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 11:36:34
信長が武田家とつながりがあると、徳姫が信長に告げたから、信長の命をうけて、
家をとるか、妻子をとるか悩んで、妻子を切り捨てたとこういうことだろ?

18 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 11:47:52
>>17
でもさ、仮にそうだとしても一つ謎が残る。
翌年にお竹の方が家康の側室になり同年に於振を産んでいる。
於竹の方は武田と縁がある人(秋山信友の姪?)
武田との関係を信長に突っ込まれて渋々妻子を処罰したなら
舌も乾かないうちに武田と縁がある女を側室になんてするかな?

19 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 11:51:15
於竹の方の出自は確定していないはずだがな。
俗に武田氏に縁があるんじゃないかとという風聞があるだけで、
それも当時からいわれていたかどうか疑わしい。

20 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 11:57:33
>>11
そもそも、独立後に築山殿と一緒に岡崎入りしてない。
生家が関口し氏であることを考えると
さもあらんという気もしないではないが、
伴ったのは西郡の方だったからな。

21 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 12:40:21
>>20
西郡の方って、今川家の女性ですよね?
確か、築山殿の親戚だったはず。

22 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 14:03:55
>>21
鵜殿氏の出。元々徳川氏と鵜殿氏の関係は良好だった。
ただし独立後徳川氏に攻撃されて戦死した鵜殿長持は善元の妹をもらって縁戚関係を
結び、今川氏よりになったが、西郡の方はこの人とは親子や兄弟ではない。
西郡の方と今川家つながりあるといえば、あるが、接点となる鵜殿長持は鵜殿氏の中では
従来の松平氏との友好を切り捨て、今川にすり寄った人物で、一族から好意的にみられていたかと
いうと疑わしい。

23 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 14:15:53
つけくわえると鵜殿長持は家康の人質時代に岡崎城に入城し、三河を支配していた。
家康が独立していく攻められた人物でもある。
西郡の方は逆に岡崎城に関口氏の娘である築山殿をさしおいて先に入場している。
独立時に今川股肱の臣である関口氏と一族の出世かしらとはいえ、義元の妹をもらって
一族衆になった長持以外の鵜殿氏は家康独立時から家康の温度差がみられる。
おそらく独立前まで今川の代官として事実上の支配者であった鵜殿氏から西郡の方が
側室として入り、築山殿はといえば家康が後に浜松を本拠とするまで、岡崎になじめなかったのは
家間の勢力争いも関係していると考えられる。

24 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 16:22:32
>>19
家康の側室になった時期が時期だけに興味があったんで主な父親候補を
ググッてみたところ、こんな感じ

・穴山氏(Wikiもこれで書いてあった)
・秋山氏
・市川氏
・武田氏(信玄も含れるけどさすがにこれは無いと思う)

と、結局武田関連の情報しか出てこなかったから、何かしら武田に
関連した人であることは間違いないんじゃね?
家康も懲りないというかやるね〜とオモタw

25 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 18:04:39
寿桂尼と信松尼と亀姫が好き

26 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 14:20:24
>>18
案外、奥さんと息子のせいにして自分は逃げたのかも

27 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:08:33
>>26
で、武田が滅んで穴山経由で事の真相がバレて本能寺の変と・・・w

28 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:54:16
上杉謙信(お虎殿)

29 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 20:03:14
茶々こと淀殿が、
秀吉の死後に妊娠していたという記録があるらしいぞ

30 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:56:11
薙刀を振り回し最後には刀を抜き討ち死に

31 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 22:03:15
応仁の乱から戦国時代までの間に大名家に生まれた息子・娘・嫁いだ女性のうち
無事生きながらえたのは20〜30%なんだってさ。
それ以外はみんな非業の死。
PHP研究所版・戦国武将伝「織田信長」より

32 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 00:01:00
大昔、楳図かずおの「影姫」(その後「鬼姫」に改題)というマンガがあって
戦国時代の女城主が主人公だったんだけど
そのストーリーの悲壮で残酷だったこと・・・!
自分にとって、戦国女性のイメージって言うとあのマンガの奈津姫が原点。

33 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:15:55
「吉乃」でググってたら、吉乃って名前に信憑性はなくて、「類」っていうのが本当らしいって書いてあるブログを見つけました。
これは本当なんでしょうか?
そこのブログには、小牧御殿に御台として入った逸話そのものが怪しいとまで書いてありました。
濃姫が御台で、吉乃は御台扱いされてないとも。
でも、ドラマなど見てても、小説とか読んでも、吉乃が実質正室ってなってますよね?

34 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:02:30
>>33
まだそんなの信じてるのかよw

35 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 17:31:39
>>33
吉乃が御台扱いになったと書かれているのは武功内のみのことで
一次史料にはそんな記録は一言も書かれていない。
それにドラマや小説=史実ではない。
仮に吉乃を正室としていたなら、御台の養子にしていた信忠が
その後も嫡男となっていたことに矛盾が生じる。
信忠を養子から実子に戻したという記録があれば別だけどね。

36 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 17:54:06
>34 35
吉乃が正室になったと思っていました。
わざわざ御台の為の御殿を吉乃の為に用意しているし、御台になったと考えるのが当たり前だと。
信忠が御台(濃姫?)の養子になっていた事も初めて知りました。
実質正室の子供だから嫡男だとばかり思っていました。
でも、信忠は濃姫が嫁いでくる前に身ごもっていたんですよね?
やっぱり、濃姫よりも吉乃の方が愛されていたんじゃないでしょうか?
濃姫は子供もいませんから。
武功夜話では吉乃の事を御台だと書いてあるそうですが、それが間違いだという根拠はないと思います。

37 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 17:56:30
聞く気がないならはじめから訊くな

38 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:15:01
>36
信忠は弘治3年(1557年)に生まれたから、濃姫が嫁いできた時に身ごもっていたとしてもそれは信忠ではない。
濃姫は天文18年(1549年)2月に嫁いでいる。
おそらく、濃姫より自分たちの吉乃の方が先だったんだと言いたい為だけに作られた話だ。

39 :38:2006/06/03(土) 19:18:57
書き忘れたが、今のところ信長に天文18年頃に生まれた子供は発見されていない。
一番早いとされている子供で天文23年に生まれた信正だ。
仮に、濃姫が正式に披露された弘治元年の事を指していたとしても、信忠ではない。

40 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:31:58
吉乃マンセーの武功夜話でさえ、吉乃が病気になったことも知らないほど
信長とは疎遠になってたように書かれてるんじゃなかったっけ。

41 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:14:53
書かれてる。
いくら吉乃マンセーでも誤摩化せなかったか?

33がググったらしいブログを見つけたが、小牧城が出来た時期と、五徳の生まれた時期との比較から
御台御殿のエピソードそのものに疑問を持っているという様な内容だったな。
病気になってる理由が五徳出産の為になってるから、小牧城完成の時期と比べても
吉乃の没年から考えても、何年も病気を知らなかったという事が変だとさ。

42 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:17:38
>>36
道三が死んだとて斎藤家の姫をさしおいて商家の娘を
御台にするほど信長もバカではあるまい。
そんなことをしたら美濃攻略の大義名分でもあった道三遺言状は
ただの紙切れなってしまうだろ。

それに織田家臣団内での生駒家の立場をみると熱愛の末に
御台にした女性を出した家というならそこそこ上でもいいんだが
実際はそうではないし、最終的には信雄と共に伊勢に行かされて
信長からは遠ざかっている。どう考えても、とても御台を出した家に
対する処遇とは思えないね。

43 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:28:53
嫡男信忠の側近は美濃衆だしね

44 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:56:25
斎藤家の姫をさしおくってか、信正の件や信雄VS信孝の話を見ても生駒の力って大きい気がす

45 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:13:21
信雄vs信孝ってどっちが次男かって奴か?
あれ、実際は信孝の侍女が言いに行ったのが遅かったからっていうのが事実らしいけどね

46 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:27:28
徳姫を妊娠させた頃までは、信長は生駒の財力が必要だった
尾張統一したらどうでもよくなった
これがFAじゃね?

47 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:58:54
>>44
信正は生駒に遠慮してというより信長の子かどうかが怪しいから
外されていたというのが有力らしい。

子どもへの待遇でいうなら俺はむしろ不明のままだが勝長の生母の方が
信長に熱愛されていたような感じがする。
姫スレでも書かれているけど彼への厚遇ぶりは少し異常さがあると思うよ。
どんなに武田へ人質に取られていたとは言ってもね。

48 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:21:19
>47
悲劇の姫スレか。
確かに厚遇だな。
その割に誰に繋がるのかも分かっていないというのは不思議だ。
姫スレで言ってた人がいたけど、本当に濃姫の子供だとしたら、不思議ではないけどな。
あの御台出産の記事はどれくらい信憑性があるんだろうなぁ。
上洛戦の時の記事らしいし、そんなのに御台を同行させるだろうか?

49 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:14:04
>48
やっとできた念願のお濃との子だ。
家臣の反対を押し切って今で言う立会い出産を信長が熱望したんだろ。
俺が取り上げてへその緒を切ってやるんだーと。
もしくは、蝮の血も引いているから蝮の子は母親の腹を破って生まれてくると
いう俗説が本当かどうかをその目で確かめてみたかったとかな。

50 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:42:30
というかマジレスね。
濃姫に何かしらの理由があって、一説に斎藤道三とも懇意だったらしい
当時の名医曲直瀬道三の元で産ませよう思って上洛ついでに置いていく
予定だったのが、濃姫が思いもかけずに産気づいてしまったとかは?
お産の歴史って新書によると、曲直瀬道三は妊娠・出産の分野の研究も
していて、それに関する書物を残しているみたい。
今もそうだけど、名医と呼ばれる医師にかかりたいと思うものだし
この時代のお産は死と背中合わせだったともいわれているから
なかなかできなかった末の妊娠でこの時代では比較的高齢な初産なら
特にそう願うものじゃないかなって。

51 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:11:46
>>49
なるほど。それで実際立ち会って壮絶な修羅場を体験した
トラウマからその後しばらく子作りができなかったとW

52 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:17:08
>>3
こんなスレ出来てたのを知らなかったんで亀なレスだけど。

「月を吐く」の説・・・ではないぞ。あれは小説なのだから、
創作文芸である「月を吐く」内での創作設定だという方が当たってるかと。

築山殿を主役にするうえでの作者独自の着眼と新機軸で設定したもの。
他人と同じような人間関係の設定ばかりで話を展開してたら
小説家としての腕の見せ所が無いからな。

53 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:37:46
>50
なるほどねぇ。
曲直瀬道三か。

自分的には、出産の時の火事らしい記述とか見ても、濃姫出産をよく思わない勢力がいて
それで手元近くに置いておきたかったとか考えてたよ。
意外と、出来た子供をそれまでに何度か失ってるとか、流れるよう一服盛られたとか前例があるかもと……。

54 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:27:02
濃姫が出産したとか、その時火事だったとか、それどこの小説?w
小説=史実 ではありませんよ?

55 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:41:43
>>53
案外、重臣追放にはそのことも関係していたりして?
ご坊が武田に行く羽目になった岩村城降伏の件に深く関与していた
織田掃部もその前年になぜか急に粛清されたしな。
この頃の信雄はまだあんな状態だから、勝長が武田に行くことがなければ
信玄でいう信繁みたいな存在になっていたかもしれない。
実際、織田に戻ってきてからは信忠とかなりうまくやっていたようだしね。

56 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:48:21
>55
そりゃ、松姫とも顔見知りだっただろう勝長だからね。
信忠にしてみれば松姫に繋がる人間だし、かわいがっただろうさ。
と、松姫厨みたいなことを言ってみる。

信忠は濃姫の養子で、生まれて間もなく濃姫に引き取られたんじゃないかと言う説もある。
生駒氏が生んだ事を、信雄は知られていたが信忠は知られてない様な記述のある文献もあるしな。
勝長が濃姫の子供なら岩村城へ養子にやられるまでは近くで暮らしていただろうし、
信雄よりも意外と「弟」として実感があったかもしれんな。

>54
小説じゃなく、最近研究が進んでる文献な。
姫スレ見たら、文献名も分かる。

57 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:10:26
確かに信長の中で跡目に関しての不安はあったかもしれないと思う。
この頃の織田家は嫡男はいてもそれを支えるべき一門がまだいないも
同然な状態だし、信雄や信孝はいてもこの二人は仲があまり良くないから
一歩間違えば新たな火種になってしまうもんな。
信長の失策の一つは子作り計画だな。

58 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:58:44
>>52
於大犯人説は、昔からあるみたいだよ。
ただ、再婚して新たな家庭をもってるし、そこまで執着するかな?

59 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:13:46
>>57まぁでも信長の子供たちは、他家に比べておとなしい方かもよ? 娘たちもわりと安全な所に嫁がせてるし

60 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:59:18
>57
信雄は実兄の信忠ともあまり仲が良くなかった。
父親の信長も、武将としての能力は諦めてたようだ。

どこかに書いてあったけど、
信長>林、平手>武家気質
信忠>斎藤、美濃衆>武家気質
信雄>生駒>商人気質
信孝>丹羽、津田>武家気質

信雄だけ商人気質で一族の中じゃ気が合わなかったと言われてるってさ。

61 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:07:12
>>60
なるほどね。言い得て妙といったところか。

62 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:41:43
>>56
文献?


63 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:01:22
生駒氏が生きてたらどうなったんだろう。
信雄と一緒に北畠行き?

64 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:04:42
>>56

あんたって、あちこちで珍説披露してる人?
某スレの120・161とか。
(http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145427487/l50)
何か似てるよ。

65 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:05:59
>63
どうだろうな?
武功は吉乃が信長の最愛の人っぽく書いてあるけど、
実際のところはどうか不明だし。
武功でさえ、小牧に移るまでの数年間疎遠だった事を認めてる様なもんだしなぁ。
信忠が濃姫の養子で、斉藤家、美濃衆に囲まれているのは間違いないし、
どっちにしても吉乃はおしとねすべりの時期だし、信雄と一緒に行ったかもなぁ

66 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:49:15
おしとねすべり自体は江戸時代に始まった慣習らしいけど

67 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:06:49
名前自体は江戸時代からだが、それ以前からそういう風習はあったと聞いたが?
特に、生殖能力のなくなった側室などの場合、夜の営みはなくなるらしいが。
吉乃は信長よりも6歳年上なので、これに当てはまるのではないか?
正室だったら、その辺どうなのかは知らん。

68 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:26:51
容貌や体力の衰え、他に若い寵姫が現れて・・・とか、
様々な個人の理由とともにほどほどの年齢で
閨から身をひくことはあったかと思うけど、
戦国期は江戸時代より営み期間は長かったような気がする。

お産は女の運試しであるし、医療技術の不備もあるから
若い健康体の女性が求められてはいただろうけど。

69 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:33:51
>>56
姫スレって生きてる?
なんて言う文献なんだろ・・・

70 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:38:49
つ「近江國輿地志」

71 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 08:41:34
>>67
平安貴族も「床去り」っていう風習があったらしいけど。
でも、江戸時代以前は基本的にケースバイケースなのでは?


72 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:50:11
床去り、おしとねすべりなどは、この際関係ない気がするが。
信雄が北畠に行く時と言うと、吉乃が生きてたら42だろ?
普通について行くんじゃないか?

むしろ、自分的には近江國輿地志とかに御台出産って記述があって、
その御台が濃姫と考えられてるのが謎。
その記事って、永禄11年くらいの記事らしいが、永禄12年の壷事件を考えると
御台は濃姫ってことになるんだろうか?
記述を直接読んでないから分からないが、姫スレの過去レスだとそういうことなんだろ?

結婚して20年近くたって、子供もいなかったのに、夫婦関係があった事の方が謎だ。
それこそ床去りするんじゃないのか?

73 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:44:38
濃姫以外に「御台」に該当しそうな人物がいないからね。

74 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:09:25
近江國輿地志以外に出産の記録はないんでそ? それが変。秘密にしたかったら侍女だけがいるどこかの屋敷で産めばいいし、知られてもいいなら他に記録があるしょ〜


75 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:17:15
そもそも信長が女を愛したり子供をかわいがったりするということ自体
想像がつかん。

76 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:18:26
近江國輿地志の出産の記事は、上洛戦の最中らしいから、他の文献に残っていないのは
そう不思議ではないな。
それよりも、上洛戦なら永禄11年九月だよな?
永禄12年二月に信長と御台が京見物したという事が
書かれているのは言継卿記だったか?
上洛後そのまま京にとどまった濃姫が、出産後の体力が回復して一緒に京見物とか?
繋がらなくはないと言えばない。

77 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 19:46:53
>>74
信成が注目され始めた頃にテレビでやっていた信成特集の中で
信長の子ども達のことも少し取り上げていたけど、その中で
織田家では信長以前から奥関係を含め女に関しての記録は
あまり残さない慣わしがあったため、ほとんど記録が残ってなく
よくわかっていないことが多いと解説していたよ。

78 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:04:03
永禄12年2月なら言継卿記じゃなく、例の御台の寝室の近くに誰も来させるなってヤツじゃね?
赤ん坊がいたから人を近づけたくなかったってか?

79 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:05:57
まー信長の下の方の息子は、生年不明だらけだけどねー。それにしてもって気が…。勝長の息子の母は誰? 誰が育てたんだろな?

80 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:17:09
「近江國輿地志」で検索して覗いたブログに、最近「近江國輿地志」で検索して来てる人が複数いる
どこで話題になってるんだろうと書いてあってワロタ
ここ見た人が検索してるに違いない。

81 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:31:09
>>79
勝良生母については池田関係者(恒興娘?)説がある。
ただ、前田家に士官しているから利家周辺の誰かかもしれない。
あと、武田家関係者(信繁・信豊・信カド(字がでなかった)
・勝頼どれかの娘?)と人質時代に結婚していたという話も
あるらしくて実際はよくわかっていない。

それから、勝良とは別に富山にある寺(名前失念)の初代住職も
勝長の息子と伝わっている。
あと鳥取にも末裔を称する人がいるらしい。

82 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 20:45:12
>80
そこ、俺も33読んだあとググって読んできたとこだ。
結構面白かった。
実は影響されたのは内緒だワラ

83 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:51:45
実際、どの程度まで検証されている文献なのだろうか。
成立時期や記述背景、誰の手によるものなのか。

84 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:22:13
近江國輿地志って100巻もあるのかよ

85 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:30:30
近江國輿地志も気になるが成菩提院史もどんな風に書いてるか気になるな

86 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 01:19:35
築山殿か淀とせっくるしたいなぁ。
空閨を持て余した女とのせっくるは楽しいだろうなぁ。

87 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 01:40:35
>>81
多分こんな感じかと

鳥取の津田⇒池田の娘
寺の開祖⇒武田の娘(若狭武田ルートらしい?)
勝良⇒確か柴田だか佐々つながりで前田へだったと
思うから柴田か佐々の関係者

それにしてもはっきりいって目立たない勝長の末裔を
称する家が勝良以外にもあるのが不思議だ・・・。

88 :87:2006/06/06(火) 01:44:14
ごめん補足。
若狭ルートというのは武田討伐時に甲斐を抜け出して
若狭武田を頼ったという意味。

89 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 02:30:29
その若狭武田の話が真実なら、丹羽が余計なことさえしなければ
勝長について今より何かわかってたかもしれないよな。
そうすれば甲斐武田の滅亡経緯やのしかしたらお濃のことももっと
わかっていたかもしれないし。
信澄もドサクサに紛れて殺しているから明智や信行関係もある意味
サッパリだし、全くもって丹羽のアホンダラ

90 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 07:02:31
>>87勝長って死んだ時16、7歳? んな、あちこちに子供をつくった伝説があるとわ…

は、ともかく
名前に勝の字を使ってるくらいだし、甲斐での勝長の待遇は良かったんだろうな。
勝頼の息子と「今度、会う時は敵」とか言って別れた、みたいな逸話でもありゃ面白いのにな〜


91 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 07:48:28
伝説は伝説。 昔から消息がよくわからない名家の子孫を語って出自を偽るなんて
ケースは珍しくない。
平家の落人伝説も大半僭称だろうし

92 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:16:38
>>91
全部、伝説だと切り捨てちゃったら、つまらないじゃないか。

93 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 11:19:42
市町村やすんでいる人々の自尊心につきあう必要はおれたちにはないわけで。

94 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:02:45
だが、中には本当があるかもしれない。
最初から伝説と切って捨てて、調査もしなければ分からない事も多い。

95 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:05:17
じゃあ調査の結果本当でないと分かったら
つまらないとか言わずに切って捨ててくれるんだね

96 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:31:19
そりゃあたりまえだろ?
きちんとした調査で関係ないと分かったら切って捨てるのは歴史やってる人間には当たり前だ。
まぁ、それこそ市町村は知らんけどな。
いまだに武功を真実として堂々とサイトに乗せてる市町村もあるくらいだしな。

97 :96:2006/06/06(火) 12:34:04
補足だけど、関係性がないとはっきり分からない限りは、歴史を調べる人間には更なる資料を求めたり
推論をするのも当たり前の事だから、その辺はき違えないようにな。

98 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 13:25:02
史料も何も亡い状態で電波まき散らす方が問題。
確定した史実だけで語ってくれよ。

99 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 14:02:21
地方の資料だから、伝承にすぎないから・・・と
ばっさり切捨てるのは確かに良くない。
でも、そう言ってカッコいいのは学者や研究者。
生活や学校の名前がかかってるからね。

2ちゃんネラごときが言うときは、自分の妄想を批判された時、なので×。

誰がいつ頃書いたのか不確実、その人物の実在が立証されてもいない・・でも
検証もされていない文献を持ち出して持論を吐ける、楽しい自由な2ちゃん!


100 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 14:04:42
文献持ち出してくれるのはまだましで
「否定する文献がないんだから」とか
「小説に書いてある」とか

101 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 14:26:29
「その時にその人物が○○にいなかったという、という証拠はあるのか」
・・・・って言い出す奴、必ずいるよね。



102 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:02:42
いる証明や、しそんである証明はいるとする人々が因果関係を証明する義務があるが、
その逆は別段証明する必要はない罠。
いわゆるアリバイなど、刑事事件でもないのになんで俺らがそんな事を検証せにゃ名蘭の香って話だよね。
そこに「いた」と証明すべきなのは持論を主張している人々責務であって非存在を証明する必要など
ないのに。

103 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:08:06
司法の話とはちょっと違うから一緒くたにすんのやめれ
司法では「疑わしきは罰せず」の原則があるけど
史学にはそれにあたる原則はない

104 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:38:21
戦国女性はエロいイメージがある

105 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:56:58
京極家の女性たちが好き。
京極家の男はヘタレなイメージがあるけどマリア、竜子、初、古奈と女は強いイメージ。
特に竜子と古奈は徳川時代でも淀、秀頼親子を供養したところがいい。


106 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:30:57
京極家も悪くないが池田家の女性も波乱万丈だし強くていいぞ
特に養徳院は孫にあてた遺言書の中で息子や信長だけでなく
信長の父ちゃんまで供養するように頼んでいるのが何とも言えん。
かつて織田家に世話になった家の人間でここまでしたのって
彼女ぐらいだ。

107 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:49:43
>>105
京極"古奈"って、ぐぐった限りではそのものズバリの内容のHPは1件しかヒットしないのだが・・・
ホントに「古奈」って名前だったの?

108 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 02:15:42
>>106
そういう女性だから秀吉や家康にも大事にされたのだろうな。
幼い信長も彼女のビーチクは噛み切らずに素直に吸い付いたと
いう逸話もあるし、さぞや魅力的なオッパイ持ちだったに違いない。

109 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 03:16:35
昔は乳母って筆卸しをすることもあったそうだな。
むろ主君が乳母を味見する事もあったろう。
つまり信長親子は養徳院の昔の男な訳だ。

110 :遠江守家中:2006/06/07(水) 06:08:03
>>105
淀と秀頼の供養だけど本人の意思もあっただろうけど、
秀忠の嫁の関係者(従兄弟だったり姉だったり)だったから出来たこと。
一般大名なら徳川関係者が怖くて出来なかったと思う。
というか、はやいうちに末期養子禁止で取り潰しだったと思う。
なんやかんやで石高減らしながら養子でつげたのもその縁だと思う。

111 :日本史@名無史さん:2006/06/07(水) 22:03:34
>>109
そう言えば、信長は息子信忠の乳母に手を出して
娘を産ませていたよな。

112 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 02:55:04
信秀信長と2代に渡って、我が子の乳母に手をつける。
乳母といっても織田家に仕える奥向きの女に違いないわけだしな。
当主の手がついても不思議はない。
それでまた子でもできれば、
「乳母の実家」との主従関係の結びつきがさらに強固になるわけだ。

113 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 15:18:31
信長の側室は身近な女性ばかりだね

114 :頼朝、信長、秀吉:2006/06/08(木) 20:44:14
頼朝にしろ、信長、秀吉にしろ彼ら男供が、歴史上の英雄になり得た裏には、
内助の功というか外助の功を成した妻の存在に注目すべきなのである。
つまり、これまでの頭を切り替えねばならぬ。というのは、「その妻が子を産まず、
従って出産育児に煩されることなく、専心、夫と共同一致で励んだからこそ、
英雄として彼ら夫婦は天下を平定できたのだ」という常識のワクの中で理解すべきでなかろうか。


115 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 21:11:33
>>114
政子は頼朝の子を

四人

も産んでますがなにか・・・??しかもだらだら14年間ぐらい。
それに頼朝在命中に政子が政治をやったという資料はまったく在りません。


116 :子供は一人も産んでいない :2006/06/08(木) 21:15:02
政子は”吾妻鏡”によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、
リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の腹を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるなどありえない。
実際は子供は一人も産んでいない。


117 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:20:44
井上力さんの中の人がこのスレに降臨した模様

118 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:32:52
>114
濃姫は信忠を養子にして育ててるじゃん。
勝長生母説も姫スレ見てたらあるみたいだし。
でも、生んだか生まないかなんて関係ないんじゃない?
その時代は乳母制度は確立してるんだから、育てていても煩わしい雑用は乳母でしょ?

119 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:53:59
>>116
てか政子って大姫は乳母も付けれずに自らが授乳して育てたらしい。
で、大姫が生まれた頃は大変な情勢だったから乳母もつけてあげれずに
可哀相なことをした云々と自らが言っていたと何かの記録にも残っている
らしいから、子供を産んでいないというのは極論だと思われ。

120 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 01:30:30
今さらだが>>90
上杉や北條がらみの逸話ならある。

・対北條戦で活躍した勝長の話を聞いたバ景勝が勝頼に
「あの子をオレに頂戴」とねだったら勝頼に「大事な秘蔵っ子だからヤダ」と断られた。

・同じく対北條戦での勝長の戦いぶりをみた北條方武将が
「さすが信長の息子」と敵ながらあっぱれと褒めた。

121 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 01:48:26
信長の息子を従えて戦に行く勝頼のアホさに涙

122 :腹は借りもの:2006/06/09(金) 05:59:44
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、
「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少なからず、よって、
腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」と出ている。

123 :腹は借りもの:2006/06/09(金) 06:01:39
頼朝の妻であれ、信長や秀吉の妻も、
うっかり妊娠して臨月となり産業の大役で命を失っては大変とそれを避けていたから、
後年石女(うまずめ)扱いをされたのだろうと想像される。
勿論奇蝶のように、生駒の後家に下請け生産させた子を、
産褥の床から直ぐとりあげてしまい、これを「乳人」と呼ばれた乳出し専門の女に養育させ
て、我が子としてしまい、自分は妻の座を守って女房業に専念していればよかった


124 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 08:39:08
曲直瀬道三は信長、秀吉時代の人だから、そういう考え方があったのかも知れない。
実際にそうしているのを目の当たりにした事もあるのかも知れない。
だが、濃姫はともかく、ねねは元から身分家柄高き女性ではなかった訳だからな。
結婚した時代の秀吉にとってみれば、格上の家の出だったらしいが、
腹は借り物っていう程の格式はない。
あと、もし近江國輿地志に出てくる御台出産が、濃姫の事だったとしたら
それが後の勝長かどうかっていうのは全く別にして、子供生んでる事になる。
なかなか子供が出来なくて、結婚後19年間頑張って子作りしてたと考える方が妥当じゃね?

それに、頼朝の時代ってどうだろう?
それこそ、我が娘を天皇に嫁がせて生まれた孫を次の天皇に……なんて平清盛の時代と
そう変わらない時代だから、直系の子供が生まれる事に意味があったんじゃないのか?
ま、政子は子供を産んでいる訳だが……。

125 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 09:22:01
御台出産か…。祝言をあげた正式な側室が御台って呼ばれる事はないの?

126 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 10:45:12
>>125

生駒夫人(吉乃)が「正室に準ずる扱い」されていたようだが。

・濃姫の父(斉藤道山)が亡くなってからの濃姫の消息が不明である
 (結婚生活続行・離婚・別居・死亡 いずれの説もある)
・濃姫が消息不明になる時期と、生駒夫人が清洲城に入る時期がほぼ同じ
・小牧山城にて信長と生駒夫人に対し、家臣一同の拝謁の儀があった
 (側室がこのような場に出ることは普通有り得ない)

その後の文献での「正室(御台)」が
「濃姫」を指すのか、「生駒夫人」を指すのかは意見が分かれている。


127 :126:2006/06/09(金) 11:47:34
>>125
スミマセン、濃姫の父は斉藤「道三」でした。

128 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 11:56:27
斉藤道三は息子に謀反された後
半島に渡って力道山になったのでした

129 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 13:02:39
>・濃姫が消息不明になる時期と、生駒夫人が清洲城に入る時期がほぼ同じ
>・小牧山城にて信長と生駒夫人に対し、家臣一同の拝謁の儀があった
この二つの出来事が出てくる史料は『武功夜話』だけじゃないよね?


130 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 13:03:51
濃姫は吉乃が死んだあとにも文献に出てくるからあり得ない。
言継卿記にどう読んでも道三の娘である信長本妻が出てくるからな。
それは永禄12年で、吉乃の死後3年だ。

また、吉乃が正室に準ずる扱いになっているのは武功夜話だけであって
それ以外の文献では「室(側室)」扱い。
上で話題に上ってたブログを見るまで、自分も気がついてなかったけど、
吉乃が小牧に入る逸話そのものに疑惑ありだな、年代的に。
その小牧に入る逸話も武功のみの記述だから、武功お得意のでっち上げかもな。

御台になったとか、正室に準ずる扱いになったなら、喪主は奇妙丸(信忠)でもいい筈だが
結局は茶筅丸(信雄)が喪主で葬儀を行ってる。
奇妙丸は御台の養子であった記述があるし、吉乃が生母である事は披露されても
吉乃の子供という扱いが家中になかったという事も考えられる。

まず、近江國輿地志の記事が永禄11年で、吉乃の死後の記事だから吉乃ではあり得ないという事もあるな。

131 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 13:11:19
>>126,129
吉乃が清洲城に入る記事は武功夜話にもどこにもない。
武功夜話拾遺に、

小牧御殿へ御移りになり御側室に成られ増る、この吉野女三子の母久庵殿の事なり。
先に清須に御移りは申四月日、小牧新御殿小牧殿の事。

という記事がある。
これを訳すと、

小牧御殿に入って側室になった。この吉乃は三人の子供の母である久庵殿の事。
先に清洲に入ったのは、小牧新御殿の主である小牧殿の事。

という事になり、小牧城の前に住んでいた清洲城に吉乃は入れられず、
清洲から移城した小牧に作られた小牧新御殿の主である小牧殿は
清洲に信長が住んでた時に入城したという記事になる。
おそらく、これを>>126は勘違いしたのではないか?

132 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 13:17:14
>>125-126
正室に準ずる扱いの割には墓も菩提寺も質素だね。
後に嫡男になる子供まで産んでいるのにね。
家臣一同拝謁があったにしては生駒家って信長の家臣団の中で
決して権力があった感じではないし、あったなら周りの家臣も
それなりに扱うだろうけどそんな節は全く無くて
信長も近くにおいていたのは尾張衆除けば主に美濃関係者。
その筆頭に夕庵や猪子、そして光秀がいる。

133 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 14:47:06
>>131
吉乃は小牧御殿に引き取られたから側室になったって事?
それまでは側室じゃなかったの?

134 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 15:04:54
室をもらって妾からランクアップしたって意味じゃないの

135 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 17:12:15
正式な側室になったって事だと思う。
それまでは非公式な側室。

136 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 17:47:16
ただの妾から正式に認められた側室になったってことか

137 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 18:00:10
んじゃ記録の便宜上、〇〇室ってなってる人の中にも、非公式な妾も混じってるのかな?

138 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 18:09:21
あまりに身分が低いと側室にはなれないよね。
それなりの身分の誰かの養女になるという手はあるけど。

139 :政略結婚:2006/06/09(金) 19:48:07
学校の歴史では、源頼朝が文治革命を起こしたことになってますけれども、
これはあくまでも北条政子のロボットです。要するに、戦争をする時には、馬をもつ
蘇民系の源氏が有利で便利だからと利用するため政略結婚を北条政子がやったのです。

140 :源氏は使い棄て:2006/06/09(金) 19:51:21
平定すると無用になった源頼朝が馬から落ちて頭を打って即死ということになってま
す。北条政子に言わせると、梶原源太が殺したんだということにして、まず反北条平
氏派の旗頭ですから梶原一族を皮切りに下手人として殺し、次々と源氏系を、和田と
か三浦とか順々に滅ぼしてしまって、ゲットーへ収容。つまり平氏は北条の名でまた
天下をとったのに源氏は使い棄てゆえ「いつかは復仇せん」と初春狂言にと「誉曾蛾
仇討」を各地で彼らは上演。

141 :源氏をみんなブッ殺し:2006/06/09(金) 19:52:41
北条時代というのは北条政子の系統だが、源氏をみんなブッ殺したり、ゲッ
トーへ入れてのけて、北条氏だけの天下をたてた反藤原勢力です。つまり、南北の六
波羅探題というのは、これは御所のお目付で監視所。御所が謀反を企てぬ為の見張り
です。あの頃は、これは学校の歴史にも出てるけれども、恐れ多くも尊い方を隠岐島
や土佐や佐渡へ全部配流にし、本当の世直しをしてるんです。


142 :頼朝の血脈を殺す:2006/06/09(金) 20:00:56
北条氏が、頼朝の死後、
「頼家」「実朝」といった血脈を殺してしまい、
「左大臣九条道家」の子の三寅丸(頼経)二歳を、政子の養子に迎え、形だけの征夷
大将軍となし、やがてそれも有名無実化していって、北条氏独裁制を確立する途上で、
邪魔者は消せとばかり、「梶原源太景時の一族」「比企能員一族」「畠山重忠一族」
「和田義盛一族」「三浦義村一族」と源氏家臣団の皆殺しを企てたのは、「出自」と
いう当時の出身部族が、もし源氏と、伊豆伊藤別所の北条と同じ種類のものなら、こ
れは可笑しなことになる。


143 :将軍家斉の姫:2006/06/09(金) 20:26:59
幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、
それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、
誰も一人の御子をもたれてない


144 :将軍家斉の姫:2006/06/09(金) 20:29:25
将軍家の姫君を貰った大名はどうかといえば、十一代家斉のごときは子女五十四人ともいわれ、
その姫を賜った大名は多い。
が、うっかり将軍様の姫を妊もらせ、お産をさせて、もし産褥熱でも出されたら、
抗生物質の無かった頃ゆえ「お産は女の大役、不幸にも御逝去」では、恐れ多くて将軍家に申訳がたたない。


145 :京より正室:2006/06/09(金) 20:32:14
幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、
それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、
誰も一人の御子をもたれてない


146 :家裁へ離婚の申請の手続き:2006/06/09(金) 20:39:41
奇蝶二十一歳の時二十二歳の信長は、生駒蔵人の後家娘に、長子奇妙丸(信忠)を先ず産ませている。
この時点は桶狭間合戦のまだ六年前で、勢力弱小の信長は奇蝶の実家の斉藤道三に武力財力の援助を受けていた時代でである。
だから現在ならば彼女は<夫の不貞>を実家に泣きつき、家裁へ離婚の申請の手続きをするケースといえる。
だが奇蝶はケロリとして、長子を直ぐに引取っている。信長は次に五徳姫と茶筅丸を産ませ、
その次は伊勢神戸城の後家の神戸御前に後の三七こと信孝を産ませたり次々と合計十一男八女をもうけている。
もとより奇蝶が嫉妬したしも伝わっていない。何故かというと、その方が彼女には都合が良かったからである。

147 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 20:42:26
産褥なんて考えてたら、女なんてやってられないって 笑

148 :子持ちの後家にばかり手を出して:2006/06/09(金) 20:43:05
「子持ちの後家にばかり手を出して、それに子供を産ませた家康は女癖が悪かった」と説く歴史学者も居るが、家康にしろ信長にしろ彼らは”受胎させ出産”が目的なのである。
だからそこをわきまえた夫人達は、同姓の侍女や腰元の中から「過去に実績を持つ有識体験保証付き」である経験産婦を選んで、その目的を代行させたのだ。

149 :産むのは命がけ:2006/06/09(金) 20:45:19
ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、女にとっては子供を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。
それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。これも武士の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。
お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、それゆえ出産は女体にとって危険極まる難事業ゆえ、死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ「女人忠義」とも云うが、
文字通り下請けの産業(うみわざ)なのである。


150 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 21:22:40
>146
信忠が生まれたのは、信長24、濃姫23の時だが。

151 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:04:16
電波に反論するのもばかばかしいが


>145
家宣正室 近衛熙子 豊姫 男子
家治正室 閑院宮倫子女王 千代姫 万寿姫
家慶正室 有栖川宮喬子女王 竹千代 儔姫 女子
を産んでいるし、御三家 御三卿 有力大名に嫁いだ摂家宮家の姫だって子供を産んでいるのは大勢いる。

良く調べもせずに荒らすのはやめろ



152 :生母・御台所:2006/06/09(金) 22:57:18
初代家康 生母…水野氏於大(伝通院)  御台所…今川氏瀬名姫(西光院)、豊臣氏旭姫(南明院)
2代秀忠 生母…西郷氏於愛(龍泉院)   御台所…浅井氏於江与(崇源院)
3代家光 生母…浅井氏於江与(崇源院)  御台所…鷹司孝子(本理院)
4代家綱 生母…青木氏於楽(宝樹院)   御台所…伏見宮浅宮顕子(高厳院)
5代綱吉 生母…本庄氏於玉(桂昌院)   御台所…鷹司信子(浄光院)
6代家宣 生母…伏見氏於保良(長昌院)  御台所…近衛煕子(天英院)
7代家継 生母…勝田氏於喜世(月光院)  御台所…霊元天皇皇女八十宮吉子(浄淋院)
8代吉宗 生母…巨勢氏於由利(浄圓院)  御台所…伏見宮真宮理子(寛徳院)
9代家重 生母…大久保氏於須磨(深徳院) 御台所…伏見宮比宮増子(証明院)
10代家治 生母…梅渓氏於幸(至心院)  御台所…閑院宮五十宮倫子(心観院)
11代家斉 生母…岩本氏於富(慈徳院)  御台所…近衛寔子(広大院)
12代家慶 生母…押田氏於楽(香琳院)  御台所…有栖川宮楽宮喬子(浄観院)
13代家定 生母…跡部氏於美津(本寿院) 御台所…鷹司任子(天親院)、一条秀子(澄心院)、近衛篤子(天  
14代家茂 生母…松平氏於美佐(実成院) 御台所…仁孝天皇皇女和宮親子(静寛院)
15代慶喜 生母…有栖川宮登美宮吉子(貞芳院) 御台所…一条美賀子(貞粛院)


153 :歴代大奥実力者:2006/06/09(金) 23:02:53
春日局(お福。三代家光乳母)
 ↓
お万の方(三代家光側室)
 ↓
矢島局(四代家綱乳母)
飛鳥井(四代家綱御台所・顕子の侍女)
 ↓
桂昌院(三代家光側室・五代綱吉生母)
お伝の方(五代綱吉側室)
右衛門佐(五代綱吉時代の大奥総取締)
 ↓
近衛煕子(天英院。六代家宣御台所)
お喜世の方(月光院。六代家宣側室・七代家継生母)
 ↓
お久免の方(八代吉宗側室)
 ↓
お幸の方(九代家重側室・十代家治生母)
お逸の方(九代家重側室)
 ↓
お知保の方(十代家治側室・世子家基生母)
松島(家治時代の大奥総取締)
 ↓
お楽の方(十一代家斉側室・十二代家慶生母)
お美代の方(十一代家斉側室)
 ↓
お美津の方(本寿院。十二代家慶側室・十三代家定生母)
姉小路(家慶時代の大奥総取締)
 ↓
瀧山(家定時代の大奥総取締)
実成院(紀州斉順側室・十四代家茂生母)
天璋院(篤姫。十三代家定御台所)


154 :腹は借りもの:2006/06/09(金) 23:33:38
よく女の人が難産で、子供を助けるか母体を助けるかという場合、日本以外の国では、又女性には出産する機会はいくらでもあるからと、
母体を必ず尊重するのに日本では如何にも母性愛の美談のごとく、
「この身はどうなっても構いませぬゆえ・・・子供の方を助けて下さい」等とさも尤もらしい扱いをするが、
当の母体が死んでしまっては母性愛も何もない。
しかし、「腹は借りもの」との建前からすれば、正室の方では産ませてしまえば不要の女であるし、
妬情もあるから、そこは、処分するなら早くと使い捨て精神で子供だけ取り出した後は見殺しにしたかも知れない。


155 :跡目相続を無事にすること:2006/06/09(金) 23:35:29
何しろ武家社会にあっては、上は殿様から下は足軽まで、跡目相続を無事にすることが世襲扶持という永代給付権利確保に大切な事だった故、
何としても男児をもうけねばと焦って「大の虫を助けるには、小の虫は犠牲になるもやむをえん」とした考えなのであったろう。
処が、これまでの日本史では、女人の性を考察するのに此処まで思考が及ばず、女体を無理矢理犯されたとか、
佳い女だから捕らえて側室にされたと、好色的にするが、大女だからとか、出産経験者で頑丈な腰回りゆえ「子供産ませ用」にされたというのは、書かれていない。
そうした行為の結果が妊娠、そして出産といったコース的な考え方しか史家もしないせいだろう。


156 :その時の代用侍女:2006/06/09(金) 23:38:36
子を産ませようとの目的で、手を付けられた女の歴史は極めて多い。これは江戸期に入っても大名で将軍家の息女を貰ったものが、
もし身重にさせて出産の際に死なせでもしたら、御家の一大事というので、接しても洩らさす゛、放出用の女人を直ぐ近くに、
股間を開けて寝かせておいたり、京の関白や摂家がその姫を嫁に出す際、「もしお産でもして子を産む時に死にでもしたら、
折角縁組みしても何にもならぬ」というので、その時の代用侍女を何人も伴わせて東下りしてきている。


157 :講談的発想:2006/06/09(金) 23:42:03
講談的発想では、美女に目をつけて殿が手をつけられて、御愛妾ということになっているが、実際は違う。有り得ることではない。
「・・・これこれのお方さま」と正室が決まり、側室も自分で勝手に選ぶ様なことは許されず「これがお世継ぎを産む係の女ごゆえ、きばってお励みなされませ」
とリモコンされていたのであって、美貌で側室になり子を産んで「愛妾何々の方」となって、悪家老と組んで御家乗っ取りといったことは、実際に有り得ない事である。
つまり子産み係も乳人係も御用が済み次第お払い箱が定法だったからである。


158 :日本@名無史さん:2006/06/09(金) 23:57:10
>>154-157

ぜんぶデタラメ。妄誕。よくもここまでww。ごくろうさん

159 :妄誕:2006/06/10(土) 00:09:51
もうたん まう― 0 【妄誕】


〔「妄」「誕」ともにいつわりの意〕でたらめ。ぼうたん。
「―の説」「其の言の―なるを知得するの幸福を得たりき/緑簑談(南翠)」



160 :十三代将軍家定の正室澄心院:2006/06/10(土) 00:26:15
「徳川十五代記」の記載を先に引用すれば、「十三代将軍家定の正室澄心院は、一条左大臣忠香の猶子明姫(はるひめ)となっている

が、畏き辺りの御落胤といわれている。姫は身長一メートル十センチにみたぬ短身で、唐紙の把手まで頭が届かぬ幼女のごとき有様にて足袋は七文。

こびと姫と申上げた」とある。

161 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:47:43
おあむ物語。
関ヶ原の合戦の際、大垣城に入った家臣の妻や娘は薄暗い城内で敵将の首の死に化粧をしていたそうです。

162 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:50:48
>>161
まともな書き込みに言うのも申し訳ないけど、
おあむこと山田去歴の娘の昔語り話なら、他のスレでもさんざん概出。

163 :済州島の出身:2006/06/10(土) 09:30:10
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。


164 :生母が朝鮮系:2006/06/10(土) 09:30:42
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい


165 :済州島出身者:2006/06/10(土) 09:31:36
白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな


166 :元の占領下 済州島:2006/06/10(土) 09:42:29
南北に長い朝鮮半島は、南と北、北はさらに山脈でへだてられて東の
日本海側と、西の黄海側とに分けることができるが、この地理的区分
にしたがって、住民の形質にも若干の差異が見られる。大ざっぱに
いって、朝鮮人の身長は北部で高く南部で低い。頭形は南北両端で
著しい短頭を示し、中部から北西黄海沿岸にかけては、比較的に中頭
のほうに近づいている。中国人とは関係が密ではないが、朝鮮地方型の
中では平安南道、黄海南・北道の頭形が最も華北型に近い。済州島は
最南にありながら、北方の咸鏡北道、咸鏡南道とともに満州人に近い。
同島が長期間、元の占領下にあった歴史的事実を考えれば興味が深い。
以上で明らかなように、朝鮮人は日本人、満州人の両方に最も関係が
密であって、両民族をつなぐ橋の役目をしている。しかし朝鮮人は
漢民族の華北型とは案外に密接せず、後者とは、日本人のほうが
むしろ縁が深い。


167 :在日に同島出身者が多い:2006/06/10(土) 09:43:25
古くは耽羅、半島より倭人に似た習俗(女性の潜水漁など)、中央支配が遅かった事などなど。
在日に同島出身者が多いのは単に九州に近いだけの理由ではなかったんですね・・・


168 :「三韓」とは別系統:2006/06/10(土) 09:48:47
済州島は「州胡」という民族で「三韓」とは別系統の民族。
もともと「耽羅國」という国を建てて日本に朝貢していた。
伊勢神宮に奉献するアワビも耽羅國のものを奉献するのが古代のしきたり。


169 :売国奴綱吉:2006/06/10(土) 09:50:30
現在係争中の竹島というのは、明治以前は「竹島」という名前ではなく、
「松島」と呼ばれていた。明治以前の竹島とは、いわゆる鬱陵島のこと。
この鬱陵島に関しては、五代将軍・綱吉の時代に、朝鮮領だと認めたという経緯がある。
鬱陵島が朝鮮領になってしまったことに対して不満を持つ日本人もいたが、
さまざまな資料から見て、その南にある松島は明らかに日本領で、
これについてはまったく問題ないところだった。
ところが明治以後、近代国家として領土を確定する際に、
日本は「松島」を日本領として正式に認定したのだが、
そのときあろうことか「松島」に「竹島」という名前をつけてしまった。
要するに、本来自分の領土であると思っていたかつての日本名竹島(鬱陵島)が
朝鮮領になってしまった悔しさを紛らわすために、
「松島」に「竹島」と名付けてしまった。
そこからすべての問題が生じてくるわけだ。


170 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 12:32:14
ここまでの妄想ネタ振りは、竹島問題正当化の為かよ。
ご苦労な事だな

171 :日本史@名無史さん:2006/06/10(土) 13:54:27
ついでに江戸時代の話はスレ違い。
ここは戦国時代のスレだ。

172 :侍女をもって鉄砲隊を編成:2006/06/10(土) 17:36:49
鉄砲が日本に輸入されると「これはよい、これならば女ごの身に誂えむきじゃ」と、それに着目したのが、九州筑前立花城主戸次鑑連(べっきあきつら・入道後は立花道雪)の一人娘げんであった。

女城主として年下の婿を迎え立花宗茂と名のらせたが、げんは九州が輸入火薬の入手が容易だったから、侍女をもって鉄砲隊を編成した。
しかし一発ずつ装薬を作っていてはまだるっこしいと、高良山合戦から、細竹の寸を詰めて輪切りにし、藤蔓で繋いで襷とした。
現在の雷管と弾頭のようなものを竹に前もって作っておき、ガンベルトを肩に掛けさせたのである。


173 :立花早撃ち女ご:2006/06/10(土) 17:37:24
清正でさえ怖れをなしたのは「緒戦(はな)は立花早撃ち女ご」と当時、この女武者の早撃ち隊は九州で有名だったからである。
これから女の勢揃いを「花はたちばな」と呼び、今は茶摘み唄に転化されている。ポルトガル語で硝煙のことはチャーと言うから♪♪♪「花はたちばな〜茶の香り」の歌は「緒戦は、げん女の銃撃で戦場は硝煙が立ちこめ手を焼いた」との意味にもとれる。
が、このため弓矢に比べ鉄砲はどうしても次第に軽んじられた傾きがないでもない。


174 :侍女二百の女軍:2006/06/10(土) 17:38:04
女鉄砲隊をもって九州を席巻し「旧柳川藩志」にも「関ヶ原役にて西軍破れ立花宗茂は柳川の正北方一里半の鉢院に鍋島勢を防ぐも敗退す。
この時立花げん女、紫おどしの鎧をつけ、侍女二百の女軍をもつて宗茂を庇う。
為に鍋島勢進めず。援軍として加藤清正きたる。清正もげん女の軍勢に辟易し瀬高よりは別路をとって白鳥へゆく」と出ている。


175 :紫おどしの鎧:2006/06/10(土) 17:41:03
むらさきかわおどしよろい
紫韋威鎧 1領

http://www2.coresite.ne.jp/hofubunkazai/shousai.asp?id=056

176 :ちゃっきりぶし:2006/06/10(土) 17:45:05
ちゃっきりぶし
作詞:北原白秋 作曲:町田嘉章
静岡県の代表的民謡「ちゃっきりぶし」は、昭和2年、静岡電気鉄道(現静岡鉄道)が新設した狐ケ崎遊園地の開園にあわせ、遊園地のPRと共に静岡の観光と物産、静岡茶の振興のためにつくられたものです。      

うたはちゃっきりぶし 男は次郎長       
花はたちばな 夏はたちばな 茶の香り     
チャッキリ チャッキリ チャッキリヨ     
キャアルが鳴くんで 雨ずらよ       


177 :立花鉄砲隊のガンベルト:2006/06/10(土) 17:47:44
火縄銃は前装式です。発射するには一発ごとの手作りの装填ですから手間がかかります。手順として

(1)銃を掃除棒で掃除する。
(2)火縄をつける。
(3)胴乱から火薬筒を出して適量の火薬を銃に入れる。
(4)弾丸を「込め矢」で銃身内に押し込む。
(5)少量の火薬を火蓋を開けて火皿に注ぎ、火蓋を閉じる。
(6)発射する。

火薬は黒色火薬だから一発撃つと膨大な煙と煤を出すので射撃後は速やかに銃身を清掃し、上記の動作を再現しなければなりません。

初期の小火器にフリントロック(火打ち石式点火装置、1620〜1630年)では、紙制の実包に一回の発射に必要な火薬と弾丸が入っていました。

従って立花ゲン女は竹の筒に、弾丸、火薬、の順に入れて竹の銃口に当てる部分に中身がこぼれないように紙か布を張って、ガンベルト様にして、肩掛けしていた。

これだと上記の(3)(4)が省略出来るので相当早く次弾発射が出来たと想像されます


178 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 17:48:28
誰だよ、某ブログに突撃したの。

179 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 17:48:47
>>173-174
織田家臣の池田隊にも女鉄砲隊がいたらしいぞ?
隊長の名前は知らんが恒興の娘で森武蔵の嫁だった人

180 :長篠合戦屏風:2006/06/10(土) 17:58:07
「長篠合戦屏風」の鉄砲隊の中には髪をまるめて女兵と判るのが、
射撃手として加わっている絵姿がある


181 :朝鮮征伐:2006/06/10(土) 17:59:14
朝鮮征伐の時にも鉄砲女軍が出征した


182 :肘鉄砲:2006/06/10(土) 18:00:43
人口が僅かな昔は女性も戦にでたが、槍や刀の接近戦には向かぬし、弓をひくには
ボインが邪魔なので日本女性は舶来した鉄砲を用い、為に男は鉄砲を無視したり嫌っ
たものであるらしい。
 女が男をふるのを「肘鉄砲」というのもこのため


183 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 18:01:06
秀吉の小田原攻めで唯一、石田光成や大谷・真田の知将・勇将さえ落とせ
なかった武州忍城の甲斐姫は、美丈夫で自ら騎馬突撃を行っている。
さすがの秀吉も、後に側室にとりたてたほど。

戦国末期でも女の地位は、比較的高かったのでは?

184 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 18:02:24
>>178
どうやら姫スレに書かれていた吉乃好きの痛い人らしい。

関係ないけどそのブログよりはるか前に某濃姫サイトでは
既に小牧の矛盾点を指摘していたんだよね実はw
こっちのBBSには変なのが来ていないからとりあえず安心。

185 :立花 ァ千代の勇姿:2006/06/10(土) 18:11:18
立花 ァ千代の勇姿
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060123/muso01.htm


186 :甲斐姫:2006/06/10(土) 18:13:11
1573年〜没年不明

関東一の美女と言われていました

忍城の城主・成田氏長の長女として生まれた

武芸にも優れており、知勇兼備の姫として有名に

家臣たちは「甲斐姫様が男であったなら、成田の名前を天下に響かせることができたのに・・・」といつも言っていました

そんな戦国時代のお姫様・甲斐姫はどのように生きたのでしょうか!?

187 :「長刀」の名人:2006/06/10(土) 18:15:49
戦国時代、関東の諸大名は北条家の威勢の前に臣従状態にありました。
忍城(埼玉県)城主の成田氏長も、そんな大名家のひとりだったのですが、
彼は男子の後継者に恵まれなかったので、
長女の「甲斐姫」を子供の頃から嫡男のように鍛えて育てました。
甲斐姫はスパルタ教育で武道と学問に励んだので、非常に頭が良く、
また男子でも歯が立たないほどの「長刀」の名人となりました。
でいて、優しくて関東一の美人。成田家の家臣たちは、
「なんの間違いで姫さまに生まれてしまったのか?
男子に生まれておれば、必ずや一代の栄華を極められたものを・・・」
と嘆きます。うーん。イメージ的には 『ナウシカ』 ですか?


188 :武州忍城:2006/06/10(土) 18:29:48
所在地   : 埼玉県行田市本丸

天正18年(1590年)、豊臣秀吉 は関東攻めにおいて 小田原城 を攻囲しますが、この時、豊臣方の武将 石田三成 は
 別働隊として関東の北条方の城の攻略を命ぜられ、総勢 2万を超える大軍を率いて、上州 館林城 を開城させ、意気
 揚揚と武州 忍城 に向かいます。
 忍城 から南東の方角に位置する 丸墓山 に布陣した 三成 は、周囲 7里(約30km)にも及ぶ長大な堤を築き、忍城 を
 水攻めにしますが落城せず、北条氏の本拠地 小田原城 が開城した後に、小田原で 秀吉 に帰順した忍城主 氏長 の
 勧告により、忍城 はようやく開城しました。


189 :森武蔵守長可:2006/06/10(土) 18:46:07
森武蔵守長可、弱冠27歳にて小牧長久手城で討ち死に
金山城主森武蔵守長可は、信長の死を川中島海津城で知る。
急きょ金山城に戻り東美濃制圧のため、大森城主奥村又八郎を攻め落とし、
続いて上恵土長谷川五郎衛門兄弟の館を攻めて自害させた。
さらに米田城の肥田玄蕃・加治田城の斉藤新五を攻めて落城させた。
翌年、久々利城主土岐三河守頼興を金山城に招き、初代金山城主斉藤正義のあだ討ちとして長可に謀殺され滅ぶ。
まさに鬼武蔵長可は東美濃全域の制圧に成功するが。天正12(1584)年3月、小牧長久手戦が起きる。
秀吉の命で池田輝政(妻の父)と力を合わせ、尾張羽黒、八幡林で徳川家康軍と戦うが、
野呂助左衛門親子の討ち死にで敗退する。再び家康の本拠三河をつこうとするが、長久手口において討ち死に。
森武蔵守長可はこの時27歳。

190 :池田恒興の娘を妻に:2006/06/10(土) 18:51:32
森長可は、有名なあの森蘭丸の兄で、信長の長男 信忠に属し、これまでは主に武田氏と戦ってきた。
“鬼武蔵”という異名が示す通りの猛将で、伊勢長島で行った初陣からいきなり27の首級を挙げ、信長を感嘆させたという。
「この槍の前には人間の骨さえも無きに等しい」ということから“人間無骨”
と名づけられた和泉守兼定の十文字槍を携えて戦場を疾駆したというこの男は、個人の戦闘力においても統率力においても小部隊戦闘における戦術能力においても、
織田家で屈指の実力を持っていたらしい。
 性格は粗暴にして不羈。一面においては戦国の快男子と言えぬこともないのだが、人を人とも思わぬ傲慢さがある上、
異常なほどに功名心と嫉妬心が強く、手に負えぬほどに扱いづらい人物であった。同僚諸将と喧嘩沙汰を起こすことも多く、
周囲からは決して好かれていないのだが、生前の信長は不思議なほどにこの奇矯な男を愛していたらしく、長可が何をやらかしても、
「“鬼”のやることよ、まぁ、許してやってくれ」
 と苦笑し、いつもこれを庇ってやっていたという。
 池田恒興の娘を妻にしており、父親を早くに亡くしたこともあってか、これだけ傲岸不遜な男であるにも関わらず義父になった恒興にだけは奇妙になついていた。


191 :「池田 恒興」 の娘 「せん」:2006/06/10(土) 18:55:16
「当代記」に「池田 恒興」 の娘 「せん」 が、女鉄砲隊を率いていたと言う記録がある。


192 :三春御前:2006/06/10(土) 18:57:39
「伊達文書」には、三春御前率いる女鉄砲隊が、政宗の父輝宗
を誘拐した二本松義継の一行を一斉射撃で皆殺しにした
と言う記述が残っている。


193 :難波戦記:2006/06/10(土) 19:02:32
大阪の陣を書いた「難波戦記」にも、鉄砲は女の武器だと言う観念が巷に
あったことを示す一節がある。
「鉄砲隊を命じられた某氏は、何でこんな情けない
 役を命じられなければならないのか泣いて悔しがった」


194 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 19:17:58
何?この荒らし

195 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 19:41:51
荒らしイクナイ(・Α・)!!
荒らしはカエレ(・∀・)!

196 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 19:45:39
>>184
某濃姫サイトって、濃姫メインのサイトは一つしか知らないがそこかな?
某ブログみたいな、五徳姫出産の年代と小牧城完成の年代とに関連づけての矛盾点は
検証されてなかったと思うが?
某濃姫サイトで書かれてたのは、濃姫輿入れの年代の矛盾点の方だったように思ったが?

197 :日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:12:19
>>187
光成勢は合戦下手だったのか?
小田原は堅城で有名ですがね。敵対して開城幸福した場合は、大抵城
主一族は処刑か切腹なのに、大変な待遇のよさですね。
参陣が遅れただけで殺されかけた伊達政宗と対照的です。

関東一の美女は眉唾ですか?

198 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 03:06:27
甲斐姫ヲタはそう思ってるんだから、自由に妄想させとけば。

それに、みんな自分の好きな姫は絶世の美女なんだろうからさ。

199 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:18:52
戦国期の美女の条件は何でせう? 髪つややかでシャープ顔?

200 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 15:17:28
お市の方が絶世の美女と言われてたんだから、お市の方の肖像画を見ればその当時の美女がわかるんじゃね?
今見てもきれいな女性だと思わせる肖像画だけどな。

201 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:19:48
肖像画っても、ほとんどの女性が目が細く吊り気味、顎は二重気味。あの絵じゃ分かんね

202 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 17:00:28
甲斐一の美女と称された油川夫人を母に持ち、その血を引き継いでか
本人も相当の美人だったらしく、彼女のためなら弓を捨ててもいいとまで
甲斐武士に言わせたとも言われる武田松姫の木像。

ttp://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/006.pdf
http://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/006.pdf

203 :細川ガラシャ:2006/06/11(日) 17:50:17
忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと西軍は、彼
女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわき
まえていたお玉は、
「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。
それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」
 と留守居家老小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。


204 :ブスだった:2006/06/11(日) 17:53:32
お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。

205 :ブスだった:2006/06/11(日) 17:59:14
>>203
いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ
連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
 それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。
いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそ
んな心配があろうか。


206 :口許尋常の女:2006/06/11(日) 18:03:58
「北条政子というのは、やや褐色の皮膚をして、口許尋常の女」
 つまり当時としては、美人という事になるのである。
(江戸時代になっても、関東では「口許尋常」というのが美人の標準だったから、反
っ歯が割りと多かったらしい)
 それゆえ頼朝もすっかり参ってしまったろうが、各地から集ってきた出っ歯の関東
武士も、この政子をしみじみ垣間見てからが、
「ええ女ごじゃのう」と、ぼおっとしてしまい、さて、それからというものは、(花
は霧島、煙草は国分)などというオハラ節はまだなかったが、彼女の名に敬語のオの
字をつけて、。
「女ごは、オ政子」といいふらすようになったらしい。
 というのは、今では「マサコ」とよませるが、彼女がいた屋敷は、
「マンドコロ」と呼んでいたし、後の秀吉も、その母を「大政所」妻ねねを「北の政
所」といっていた。といってマンを致す所の意味ではなく、人間を意味するマンが、
マライ語では、施政官をさしていたから政務の意味だったろう。


207 :於市:2006/06/11(日) 18:14:18
信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、
やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろう

208 :淀君:2006/06/11(日) 18:17:03
於市に三人の娘が生まれた。
長女は「やや」と呼ばれた茶々で後の淀君である。
この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、
秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になってからの話しゆえ、
それまでは放って置かれたという事実は、淀君が美女でなく、
あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。


209 :淀君:2006/06/11(日) 18:19:57
『当代記』や『大阪御陣記』によれば、「騎馬女中三十人ばかりいつも引き連れ、
緋威しの大鎧をつけ七寸(ななき)の馬にめされ」と出ているのを見ると、
母親似ではなく、父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと推理される。

210 :常高院:2006/06/11(日) 18:23:24
次女の京極高次夫人になった常高院は
「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並だったろう。

211 :三女 抜群の美人:2006/06/11(日) 18:28:40
三女の「ごう」と呼ばれたのは、これは母於市をさえしのぐ抜群の美人だったらしい。


212 :三女 抜群の美人:2006/06/11(日) 18:31:03
「栴檀は双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、
翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ、
十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して己の甥の秀次の弟小吉に同名を継がせたが、
帝位を狙った秀吉の道具として彼女は左大臣九条道房の許へやられ、
やがて取り戻され、「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と徳川秀忠の許へ又嫁入りさせられる。
まあ、余程の美女でなくては、こうたらい廻しさせられるものではない。
あまり知られていないが美しかったらしく、この為春日局から苛められるようになる。


213 :華奢な美女:2006/06/11(日) 18:34:55
戦後、鈴木尚が中心となって行われた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、
その遺骨も調査された。それによると、生前の崇源院はかなり小柄で華奢な美女であったようである。



214 :浅井夫人お市像:2006/06/11(日) 18:40:43
http://www.biwa.ne.jp/~kohoku-s/chiiki/kank_odani05.htm

215 :栴檀は双葉より芳し :2006/06/11(日) 18:57:38
栴檀は双葉より芳し
せんだんは ふたばより かんばし 

栴檀は二葉より香しとも、白壇は発芽の頃から早くも香気があるように、
大成する人物は 、幼いときから人並みはずれて優れたところがあることの
たとえ。「栴檀」は白檀の異称 。「双葉」は「二葉」とも書く。
Itearlypricksthatwillbeathorn.(茨になるのは早くから刺す)
類語として、生る木は花から違う、実の生る木は花から知れる、
蛇は寸にして人を呑む、てらつつきの子は卵から頷く、
実のない木は花から違う。蛇は寸にして人を呑む。
《対》 大器晩成。

216 :江与の子供:2006/06/11(日) 19:17:38
彼女は23歳の若さで三度目の結婚
をすることになります。相手はまだ17歳の徳川秀忠。彼女は家光・忠長兄弟と
千姫・お初・和子の三姉妹を産みます。

この千姫は後に秀吉と淀君の間の子供秀頼と結婚しますが、大阪落城の際に危
うく助け出されて、本多忠刻の妻となります。和子は後水尾天皇に嫁ぎます。


217 :千姫:2006/06/11(日) 19:22:43
2代将軍徳川秀忠の長女で正妻お江与の方(浅井長政の三女で淀殿の妹)
祖父家康の命で7歳で豊臣秀頼に嫁いだ、
元和元年(1615)大阪夏の陣で秀頼は自殺したが、
千姫は大阪城が落城前に脱出した。秀頼との間には子は無かった。
翌年本多忠政の長男忠刻(ただとき)と再婚、
化粧料10万石がつけられ姫路城に住む、忠刻との間に1男1女をもうけたが、
男子は早世し、寛永3年(1626)忠刻も死去したため、
娘勝姫(後の池田光政の正室)と江戸にもどり薙髪して仏門にはいり天樹院と称した。
享年70歳


218 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:50:06
>>108
良い物がありますよー
ttp://hirohirohime.easter.ne.jp/manga3.html
ttp://homepage3.nifty.com/hirohiro-/m1.htm

219 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:30:26
三条夫人は、もっと優しい女性だったというのが、本当らしいが
こういうイメージに創られちゃったら、もうどうしようもないのか?

220 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:39:24
>>200
お市の肖像は絵画的には様式的な描き方。

>>202
信松院の松姫像は寿像ではない。
尼僧像の典型的な顔立ちである。



221 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:43:58
>>219
別に。
創作文芸やドラマでのイメージなんてホントだとも思っていないが?




222 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:44:31
戦国時代板に姫スレが立ったみたいだけど、こっちとの住み分けはどうするのかな?

223 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:18:43
しばらく両立でいいんじゃない
戦国板自体が糞板で終わる可能性も濃い

224 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 18:59:03
>>219
本音は複雑だけどね。
でも実際の彼女もドラマで作り上げた虚構の彼女も好きだし。
結局は、楽しめればいいわけ。
ガンガン意地悪やって、女の嫉妬ぶちかまして、悲しい女の性を演じてくれる女優がいれば彼女もそれなりに浮かばれるんじゃない?
登場人物を生かすも殺すもドラマの脚本家の腕しだいだと思うけど。
お岩さんみたいに、出演者や関係者が祟られるならそれなりにお墓参りは行かなきゃ行けないけどそういうわけじゃないし。
適当でいいんだよ。
適当で。
どうせ作り物なんだから。



225 :三条の方:2006/06/12(月) 20:53:42
三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日(1570年8月29日))は、
戦国時代の女性、甲斐国の守護大名である武田信玄の正室である。父は左大臣、転法輪三条公頼で2女。
姉には細川晴元夫人、妹には本願寺顕如夫人の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院(北条氏政夫人)、信親(龍宝)、信之、見性院(穴山梅雪夫人)がいる。

本名は不明で一般には、三条の方、三条夫人などと称される。



226 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:01:58
>>208
>秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になってからの話しゆえ、
>それまでは放って置かれたという事実は、淀君が美女でなく、
>あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。

ほおっておかれたって・・・w
現代の感覚で結婚を考えちゃダメだよ。
政略結婚というのをご存知かな?
大名レベルの結婚というのは相手や婚期は主君が決めるんですよ。
豊臣(当時は羽柴家か)の養女になった三姉妹の結婚相手も結婚時期も秀吉の一存で動くんだよ?
むしろなんで先に妹2人嫁いでるのに22歳まで秀吉の手元に置かれたかのほうが気になるよ。
現代風に言う"男にほっとかれた"訳じゃなくて、権力者秀吉の予約済み、もしくは早々にお手つきだったんじゃないのかい?
いろんな所で美人ばかり漁ってた秀吉のことなので、3人の養女の中で見栄えの良いお気に入りの姫をお取り置きした、と考えたほうが妥当じゃないの?

>>210
お初は気性烈しかったのか?初めて聞いた。

227 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 22:11:13
>>219>>224
やっぱりここは三条の方を良く書いた、というか同情的な歴史小説がヒットして
大河化されるのが一番良いと思うんだが・・・
昨今の低視聴率大河じゃなあ・・・別に民放でも良いけど。
誰か頑張って書いてよw


228 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 23:15:48
>>226
これこれデムパは放置が鉄則アルヨ エサやり禁止

229 :日本@名無史さん:2006/06/12(月) 23:47:02
>>219 >>224 >>227
色んな板で暴れてた三条好きな人の再来か?

井上靖「風林火山」での三条はたいして悪女でもない。
公家出の正室として、あれくらいのことは言うだろって設定。

新田次郎「武田信玄」での三条はまあ悪く書かれてるけど、
たかが一作者の設定した作中の性格じゃん。
映像化された大河の「風林火山」では哀れな女性に描かれてたよ。
大河を見ても、その原作を読む人は少ないからね、
三条夫人は悲劇の人・・・って紺野美紗子で思ってる人もいるよ。

「おんな風林火山」だって、覚えてるのは少数で
しかも思いっきり大映路線なんで、あんなの大袈裟な描写とわかるよ。

三条夫人悪女なんて、思ってる奴はごく少ないから
もう気にせずにいたら?


230 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:22:41
>>229
訂正
>映像化された大河の「武田信玄」では

231 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:04:14
>>226
側室が忠高を身篭ったときにお初が激怒して困っているという
高次から家臣へ宛てた手紙が残っているという話は聞いたことがある。
本当に残っているなら、もっと表に出てるはずだから嘘くさいけど。
まぁ出来損ないの弟のことをお願いしたり、旦那をクリスチャンに引き入れたりと
かかあ天下だった可能性はかなり高いと思われます。

232 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 05:54:41
高次はプライドばかり高いヘタレだから、
しっかり者の妻に劣等感を感じ、格下の女に走ったのだ

233 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 16:52:54
>>229
今年やってた風林火山でも三条の方が激コワでしたから、もし違ってたらどうするんだよとか思ってしまって。
来年はどんな感じになるのかな。

234 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:54:36
大河板に逝ってくればぁ

でも、あそこでも三条○○は嫌われてるけどな。

235 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:08:57
三条○○はこれまでちょっとやりすぎたんだよ。
確かに、三条好きにしてみりゃ、そんなんじゃねぇ!!と言いたくなる気持ちは分からんでもない。
だが、やりすぎたんだ。
少しおとなしくしておくことだ。
もしくは、三条贔屓の小説でも書いてみたらどうかね?
売れればそっちの解釈で広まるんじゃないか?

236 :妻の色香に迷って武将の義に背くか:2006/06/13(火) 20:36:47
長政は親・信長派であり、信長も婿殿を可愛がっていた。
信長の朝倉攻めを前にした城内の軍議で、長政は信長につくことを主張した。
しかし時世を見誤る固陋の父・久政の一言で運命が決まった。
「妻の色香に迷って武将の義に背くか!」


237 :間に立つお初:2006/06/13(火) 20:46:50
西軍には、姉・淀殿がいて、東軍には、妹・お江与の方がいる・・・。間に立つお初・・。
常高院は姉・淀殿のいる大坂城内を訪れ、抵抗をやめるよう口説き続けるのだが・・・。


238 :233:2006/06/13(火) 20:52:04
いや、実は三条の方って良く知らないんだけどもし伝承にもないのにしょっちゅう悪く書かれるんだったらひどいなあと思って。
そういうわけでもなさそうだということはわかった。流れおかしくしてスマソ。


239 :孫は天皇、息子は天下の将軍:2006/06/13(火) 21:14:55
お江与は、三回結婚したといいます。
豊臣一族(おねの甥)と結婚しますが、夫とは死別します。
 最期に徳川家康の三男・秀忠と結婚します。
 三代将軍・家光はじめ子供には恵まれましたが、娘たちの多くは幼くして豊臣、前田家などと政略結婚させられました。
 末っ子の和子は、後水尾天皇にとつぎ、興子内親王が生まれます。
 興子内親王は、即位して明正天皇となります。奈良時代の称徳天皇以来の女帝でしたね。
 孫は天皇、息子は天下の将軍。


240 :昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮:2006/06/13(火) 21:17:23
かつて、豊臣家にとつぎ、生んだ娘が公家の九条家に嫁ぎます。
 娘の子が同じ公家の二条家に養子になります。二条家は代々徳川将軍の一字をもらう慣習になり、明治維新まで江戸・徳川家に京都・御所の情報を伝えることになります。
(家光の甥ですし、将軍家の親戚となります)
 公家の九条、二条家にはお江与の血は伝わっていると思います。
 明治になり、九条家から大正天皇の皇后・貞明皇后がでます。皇后は、昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮の母后となります。

241 :京極高次 蛍大名:2006/06/13(火) 21:22:35
京極高吉の長男。
豊臣政権下で、義理の妹(淀殿)や妻(常高院)の「尻の光」に拠って出世したと言われ、
陰で蛍大名と囁かれる。関ヶ原では西軍に付き、大津篭城戦で奮戦。
若狭小浜八万五千石へ加増。


242 :三姉妹の像:2006/06/13(火) 21:31:45
http://homepage1.nifty.com/saizou/oiti.htm

243 :京極高知:2006/06/13(火) 22:18:18
>>241
僕も出世したから、お兄ちゃんが出世したのも、
おねぇちゃんのマンコのおかげだと思うよ。

一物で出世したのは池田100万石だよ。

244 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 22:19:20
私も三条〇〇のことよくわからなかったんだ。
ヤフーとかでも暴れてたらしいこと2ちゃんで知ったというのが現実で。
しかし、信玄役が亀次郎だからなぁ、三条にしろ諏訪にしろつまんない女優が当たんないといいんだけど。



245 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 00:44:46
いや、だからさ、もうやめときなよ。
そういうの一つ一つ言ってるから煙たがられるんだと思うよ。
三条夫人の実像が、創作と違っているだろうことは、日本史板なんだからさ、大抵分かってるのよ。
つまり、三条夫人は憎くないけど、そういう事書くあんた達がいやってことだよ。

246 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 01:02:49
本能寺の変・濃姫黒幕説があるって聞いたんだけど、知ってる人いる?

247 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 01:11:46
どっかのサイトでそんな考察してたのを見かけた気もする。
文献などの印刷物とかで見た事はないが、小説ではあったような気がする。

248 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 01:13:07
>>246
八切の信長殺しは光秀ではないを読むがよろし

249 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 08:12:39
>>246
いわゆる「とんでも」ってやつだよ。
養華院殿要津妙玄大姉も知られてない、安土殿も知られてない時代に
光秀贔屓に書かれた苦し紛れのものさ。

250 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 14:02:34
濃姫が黒幕で信雄に安土城を包囲されて安土城とともに焼死だって奴か
墓がないのは、寺社が引き取りを拒否した為に違いないとか書いてあるヤツだよな
どっかでそれを鵜呑みにして、濃姫は御台から追われて自殺して、でも寺が引き取り拒否して
墓もないんだって書いてあるサイトみて、大笑いした覚えがあるなぁ

やっぱりここは、濃姫が安土殿で養華院で、吉乃は側室のまま死んで行ったんだぜって
小説でも誰かに書いてもらってそっちを広めるしかないな
でないと、いつまでも濃姫が御台を追われた、吉乃が御台だっていう人間が
後を絶たないな
まぁ、例の吉乃厨の子孫とかも、ヤフトピ見た限りじゃ安土殿を渋々認めたみたいだな

251 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:27:31
戦国板にも姫スレあるが…あの板は早くも糞板ケテーイか?
過疎ぶりは見ていて痛々しい(つД`)゚。

252 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:28:43
日本史板なのに電波っぽいのがいっぱいいるね。

253 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 03:52:52
織田家のことで質問なんですが織田信忠の正室って誰ですか?
一応、信玄公の松姫になってるけど三法師を生んだ母親って誰なんでしょうか?
三法師の生母が正室と同じ扱いになっているなら側室というわけじゃないとおもうのですが。
だれかエロい人教えてください。


254 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 04:18:44
三法師の母は塩川家の女だが後年に織田家が幕府に提出した家譜では
彼女は正室と同じ扱いにはなっていない。他の系図でも側室扱いが多い。
因みだけど、信長も三法師を嫡孫としたいう話も信忠が三法師を
嫡男としたという話もない。変後信忠遺児の男児は2人しかいなかったから
上の三法師が秀吉のゴリ押しもあって跡を継いだだけのことで
生母の格で決まったわけではないよ。
「説」にまでなるかはわからないが生母が松姫という話もあるらしい。
詳しくは三戦のもし信忠が生き残っていたらスレでもロムっておくれ。
ただ、松姫どうのになると荒れるから(この件が元で潰れたスレもある)
ふ〜ん程度に留めて後は個人で調べた方がいいと思う。

255 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 09:15:13
おそらく、武田滅亡後、信忠が松姫を探すように手配しているところを見ると、
正室は松姫にするつもりで、塩川家の娘は側室のままにされてたんだろうな。
実家は無いに等しいからうるさいのがいない、でも武田の家臣団とか使える武田家の
武将をまとめる求心力にはなる。
織田家にはそういう前例があるのだから、自然とそういう発想になったと思う。

256 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 09:44:37
>>254>>255
教えてくれてありがとうございます。
信忠の遺児の三法師が嫡子として扱われていたので生母が正室なら松姫ではない正室だろうと思ってました。
三戦板へよる時はROMります。
ありがとうございました。
行ってみます。


257 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 11:03:55
まさか、知ってるのに質問してるんじゃないよねw

254,255氏は冷静に判断して書いてる人だけど、
自説や検証されていない文献をもとに憶測だけで2ちゃんカキコを
する御仁も多いから、2ちゃんだけで情報収集しないようにねー

258 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 13:50:20
>>257
いちいちウザイ奴だな

259 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:18:45
跡継ぎの信忠がいい年して妻も子もいないんじゃアレだから
とりあえず塩川氏を側室にしましたって感じなんだろうな。

260 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:46:54
親父の信長も、信忠が生まれたのは数えで24だから、似たり寄ったりだが、
一応正妻はいた訳だから、側室くらいは持たせないと格好がつかんよな。

261 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 19:24:16
俺も側室ほしい

262 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:24:12
>>255
前例?

263 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:30:50
信忠が幼い頃の許婚恋しさのあまり孤閨で過ごした
・・・なんてのも不気味だもんな。

青年武将らしく人並みに女に興味を示してくれねば
かえって家中の者が心配するし。

264 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 02:06:09
信長も信忠も、意外と女性に淡白なのかな?
あの時代の武将で家長としては、側室持つ年齢も遅いし。
家長のつとめとして、子づくりはしたみたいだけど、
秀吉みたいな女漁りの逸話もきかないよな。
信長は正室に子供出来ないので、諦めて側室を作ったのかとは思うけど、
信忠は離れてたんだから松姫に遠慮してなんてことはないだろうしなぁ。
一応婚礼はして形だけは正室扱いだったんだっけ?
武田で新しい館を建てて新舘御寮人って呼ばれてたらしいけど?
もっとも、それも、武田と戦いになった時点で解消だから、遠慮する訳ないよなぁ。

265 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 02:08:24
信忠って思いこんだら一直線なタイプだから
女でもそうだったのかも知れん

266 :信長は男女を同等に扱った:2006/06/16(金) 09:12:22
今でも織田信長に非常に人気があるのは、
罰するにしても男女を同等に扱ったからである。
というと、いささか不思議に思われるかも知れないが、
通俗歴史家が、戦国時代の女はとても哀れだった、
などと書くから勘違いされるのであって、
今とは全く男女の価値観が根本的に当時は違っていたのである。
ということは、その時代の女性たるや今では想像もつかぬくらい強かったのである。
なのに信長は遠慮容赦なく女を差別せずに叩き斬ったりして処分している点が、当時も高
く買われて男供に好かれていたらしい。


267 :信長は男女を同等に扱った:2006/06/16(金) 09:16:03
竹生島へ行った時に無断で抜け出した腰元の女が連れ立って寺詣りに行ったというだけで、
六人ともぶち殺し、神徒側男性の立場を明確にしている。
つまり斬殺でなく撲殺させているぐらい露骨に示している。
勿論人的資源が大切な戦国時代のことゆえ、
やむなく前に子を産んだ女達に次々と産ませた子供が十何人いるが、
これとて彼としては、いうなれば武将としてやむなく作ったみたいなものである。


268 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:24:52
織田家の軍団長格って子供少ない
多分、子作りする間も無いほど忙しかったんじゃないかと
軍団張格の一人である信忠にも同様の事を言えるんじゃないか?
どうせヤル暇もねーから、別段いいやーみたいな

269 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:30:37
>>265
信長は子供つくりまくっていたと思うが。

270 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:47:49
>>269
作りまくってるけど、見てると意外と変な作り方してるよね。
最初正室が来てから、信忠が生まれるまでかなり間がある。
信正は、その前に生まれてるが、信長の子供かどうかはっきりしなくて庶子扱いだから
それほど濃密な関係の愛妾じゃなかったと思われる。
そう考えると、正室に子供が出来るのをまっていたが、出来なくて側室に子づくり
そのあと徳姫あたりまでは続けて子作りしているが、その後しばらく間が空くんだよな。
たまたま3人生んだ吉乃が孕みやすかったんだろうと考えると、
徳姫くらいまでは子供作りまくってるって感じではないよな。
そのあと、生まれ年がほぼ判明している子供達までは10年近く開くし、その辺で
側室に子づくりを始める年が遅いってことをいわれてるんじゃないかな?

271 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:49:47
>>267
最近じゃ、その腰元を成敗したっていうのも、実際には殺してなくて
お仕置き程度っていわれてるが?

272 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:54:37
あ、やっぱそうなんだ。
興味あるからソースきぼん。
なくても信じるけど。

273 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:58:15
>>272
ソースというかとりあえず寺の方では、殺された記録はない。
また、実際その成敗も、縛った以上の記録がない。
比叡山焼き討ちなどの残虐性から、元々成敗でぶっ殺したと推測されてただけ。
で、そういう推測を外して文献や記録を見てみたりすると、
おそらく最初に残虐性に偏った推測が一人歩きしたんだろうと言われ始めてる

274 :273:2006/06/16(金) 09:59:53
あ、書き忘れたけど、縛っただけとはいえ、当時は縄目を受けるのはかなりの罰だから

275 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 10:03:31
ありがとう。
「言われ始めてる」例もきけたら嬉しい。

276 :傾城:2006/06/16(金) 10:05:16
「傾城」という言葉があるが、
信長は伊丹の荒木村重の小姓で絶世の美少年がいたのであるが、
この美少年を一目見て取り上げてしまった為に、摂津、尼崎、
伊丹花隅の四つの城を文字通り城を傾け抵抗して村重は抵抗
して戦ったのである。



277 :森乱丸:2006/06/16(金) 10:06:06
俗に美少年と言えば森乱丸の名前が出てくるけれども、
彼の兄は鬼武蔵という異名があった程で、
そんな男の弟に絶世の美少年が生まれる筈はなく違っている。


278 :伊丹の万見仙千代:2006/06/16(金) 10:08:36
『当代記』や『信長記』といった史料に、
はっきり名前の出てくるのは伊丹の万見仙千代だけで、
日本で唯一の美少年だったが、
その時にも織田信長は京三条の河原で荒木村重の家臣
の妻女や娘達を三百五十人纏めて竹矢来の籠に入れ、
当時はガソリンの無い時代であるから、
周りに乾芝や薪を積み重ね火を付けて焼いてしまっている。
「村重が男色に走ったのは、女達にてんで可愛気がないからである」と、
尼崎の千本松でついで見つけ出した百六十八人の女達は、雪中で張り付け柱にかけて、
一人残らず刺殺している。

279 :男色のホモ型:2006/06/16(金) 10:13:20
信長は美少年万見仙千代を奪うため、
摂津の荒木村重と戦ったような男色のホモ型だが、
戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、
信雄を産ませたり、神戸の板御前と呼ぶ未亡人に信孝らを作らせているが、
極めて女嫌いで女性には酷かった。

それが於市だけは可愛がり浅井長政へ嫁入りさせる時も、
前に居た長政の女はそっくり追放させ、
先に当人をとっくり確かめてから信長は己の長の名乗りを与え縁づけている。
信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、
やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろう。


280 :父の織田信秀:2006/06/16(金) 10:17:33
父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、
普通では兵も馬も集まらぬから、「平手の庄の政秀には年頃の娘が居る.....」
と聞けばその娘に後の三郎信長を産ませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」
と耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、
一夫一婦の時代でなかったからその生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、
女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘達に産ませている。
そしてそれらの親兄弟を味方にして、
今で言えば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。
だから信長と於市は異母兄弟の間柄に当たる。

281 :273:2006/06/16(金) 10:20:39
最初に言い出したのは、桑実寺を取材した遠藤周作だったように思うが
桑実寺の件で殺されたとされる僧侶の記録があって
その没年が本能寺以降だってことが判明しているのと、殺された記録はないと寺側が言明している。
それを支持していた文書を歴史雑誌で見た覚えがあるんだが、誰が書いてたのかまでは忘れた。
あと、信長公記の中の『成敗』の使い方も、必ず殺しただけではないと言うのもあるようなことを、
そこでは書かれていた覚えが。
すまん、曖昧で。

282 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 10:22:34
ありがとう。とても嬉しい。
いかにも遠藤周作っぽい配慮でいいね。

283 :桑実寺坊主殺し:2006/06/16(金) 10:37:58
織田信長の桑実寺坊主殺し

安土城に居城を構えていた信長が、琵琶湖の竹生島へ参拝しに
出かけたある日のこと。

城の侍女らが信長の留守中に勝手に遊びに出かけてしまいました。

遊びに出かけた先が「桑実寺」。

この事実を知った信長は、「怠け者は俺にはいらん!」といわん
ばかりに、この侍女らを処刑してしまいます。

桑実寺の坊主(僧侶)も一緒に処刑されております。

この一件は、信長の狂人ぶりを伝えるのではなく、怠け者や無能な
人間は必要ないという冷徹なまでの戦国の世のリーダーシップです。

284 :『改訂信長公記』:2006/06/16(金) 10:42:58

天正九年辛巳四月十日、信長御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
長浜の羽柴筑前所まで御馬にめされ、是れより海上五里、御舟にて御社参。
海陸ともに片道十五里の所を、日の内に上下三十里の道、御帰城なさる。
希代の題目なり。併せて、御機力も余人にかはり、御達者に御座候のところ、諸人感じ奉り候なり。
遠路に候へば、今日は長浜に御逗留候はんと、何れも存知のところ、
御帰り候て御覧候へば、御女房たち、或ひは、二丸まで出でられ、或ひは、
桑実寺薬師参りもあり。御城内は、行きあたり、モダへ焦れ、仰天限りなし。
則ち、くくり縛り、桑実寺へ、女房ども出だし候へと、
御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと、
長老詫言申し上げられ候へば、其の長老をも、同事に御成敗候なり。
(桑田忠親校注・新人物往来社)

285 :『改訂信長公記』:2006/06/16(金) 10:45:32
天正十年壬午六月朔日、・・・信長、初めには、御弓を取り合ひ、
二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、
其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、
是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、
急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。



286 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 10:47:51
>>284
成敗=処刑ではないぞ。
成敗とは、罪を裁くこと。
殺したとまではどこにも書いてない。
そして、殺していなかった記録は残っている。

287 :桑実寺薬師参り:2006/06/16(金) 10:52:19
信長は小姓数人を連れて竹生島へ参詣した

往復三十里(約120q)の行程である

誰もが長浜に一泊する予定であると知っていた

しかし、信長は呆れ返る速さで安土城に戻って来た

そこで信長が目にしたものは、二の丸まで下がっている女房達であった

他の女房達は、すでに桑実寺へ薬師参りに出掛ていた

この女房達は奥御殿(天守か本丸)にて仕えていたのだろう

そして、城中は上を下への大騒ぎ

女房達は縛られ

桑実寺へも寺の外に女房達を出すよう使者を送った

桑実寺薬師参りの女房達も縛るつもりであったのだろう

桑実寺の住持は、なさけを持って助けてください、と謝罪している

すると、住持も女房達と同じように処罰された



288 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:02:15
結局、毎日来てるこの電波な人は、何がしたいんだろう?

289 :ルイス・フロイス:2006/06/16(金) 11:04:16
信長ついて宣教師であるルイス・フロイスは信長に謁見したときの印象をこう語っている。
「非常に武技を好み、粗野である。正義と慈悲を好み、
また傲慢で名誉を重んじている。決断を秘め、戦術は巧み、
ほとんど規律に服することがなく、部下の言うことに従うことはまれである」
性格については、冒頭にあるように、おねに対する心遣いを見せることもあるかと
思えば、一方信長の部屋にあった果物のかすを捨てなかったという理由で
一人の少女をたちどころに切り捨てたこともある。尾張の津島村という所で、
家臣らと一緒に踊り、一人一人に声を掛けて、汗をかいている踊り子を団扇
であおいでその上お茶の接待までして村人たちを感激させたと思えば、
安土城にいた女中が信長の留守中に勝手に城の近くの桑実寺に遊山に行った
というので、女中たちとそれをかばおうとした桑実寺の長老をともに殺すと
いったことをする。

290 :杉谷善住坊:2006/06/16(金) 11:13:00
1570年5月6日に杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようと
した事があったが、未遂に終わっている。1573年にはついに善住坊
は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、
切れ味の極度に悪い竹製のノコギリで首を引かせ、長期間激痛を
与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。また、これは自分を
狙った者に対する威嚇でもあったようである。


291 :長政の母である小野殿:2006/06/16(金) 11:14:20
かつての義弟、浅井長政を滅ぼした際に、
長政の母である小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とし、
その後、惨殺した。


292 :圧切長谷部:2006/06/16(金) 11:16:02
茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒した事があった。
茶坊主は怒りを恐れ棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を切
り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから
「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。


293 :高野聖1383人:2006/06/16(金) 11:17:02
1578年、畿内の高野聖1383人を拉致・捕縛して虐殺した。
高野聖に成りすまし密偵活動を行うものがいた事に手を焼
いた末の行動であると言われているが、無実の罪で殺害さ
れた善良な高野聖も相当数にのぼると思われる。


294 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:23:09
電波な人って刑務所行きスレのアンチの人?

295 :心頭滅却すれば火もまた涼し:2006/06/16(金) 11:25:23
1582年に武田氏が滅びた際、武田遺臣をかくまった塩山恵林寺を焼き討ち。
寺も僧達もすべて焼き尽くした。その際に恵林寺の住職快川紹喜が放った
「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉は現在にまで残っている。


296 :地獄絵図:2006/06/16(金) 11:32:37
信長に対し謀反を企てた荒木村重が結局かなわず逃亡したのち、
信長は残された荒木家の女子供500人以上を生きたまま焼き殺した。
悲鳴や号泣などが周囲にこだまし、さながら地獄絵図の様相であったと言われている。


297 :戦国時代を早く終わらせるため:2006/06/16(金) 11:34:41
信長の敵勢力に対する残虐行為の大半について当時から現代の史家に
おける評価は、当時の常識で言うと残虐とまではいかないむしろ普通
といえる事件もあり、また信長のように苛烈な行為が行わなければ、
戦国時代の争乱はまだまだ続いたという見方があり、
戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為であったという
評価もある。


298 :新井白石:2006/06/16(金) 11:38:05
江戸時代から現代まで、これら一連の宗教勢力に対する信長の残虐行為
に対する史家や学者の評価は、残虐行為は別としても、
その行為自体は評価してしかるべきもの、
あるいは新時代を築くためにはやむを得なかった行為と見る意見もある。
正徳の治で有名な学者・新井白石などは、
信長の宗教勢力に対する残虐行為に対して、
「そのことは残忍なりといえども、長く僧侶の凶悪を除けり。
これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」
と、評価しているのである。

299 :20000人の人間が死亡:2006/06/16(金) 11:40:22
1574年(天正2年)には伊勢長島一向衆を水陸から完全に包囲して
兵糧攻めに追い込む。この戦いは激戦となり織田信長も鉄砲に撃た
れ負傷するほどであったが、最後には一向衆を降伏勧告に応じさせた。
しかし信長は一揆衆に対し降伏を許した振りをして、
素直に一揆衆が投降してきた所を騙し討ちにし焼き殺し、
結果20000人の人間が死亡した。
一揆衆には交戦能力を持たない女子供や老人が多数含まれていたという。

300 :晩年:2006/06/16(金) 11:59:08
確かに、信長は、晩年を見ると、常軌を逸したような行動が多くなってますよね。
信長横死の1年前、天正9年には、自分の留守中に、近江・桑実寺に参詣した侍女たちに激怒し、侍女と僧侶を処刑。

その10日後、和泉・槇尾寺を焼き討ち。
そのまた4ヶ月後には、高野山金剛峰寺の僧兵、数百人を殺害。
もっとも、信長という人は、若いときから、癇癖が強い人でしたから、この手の話は元々、あったんでしょうが、でも、何だか、比叡山を焼き討ちした頃とは違って、何だか、手当たり次第・・・って感じもします。



301 :織田信長の宗教観:2006/06/16(金) 12:07:02
信長自身は、禅宗でありますが、確かに無神論者といわれるようなところがあります。というのは、政治権力を宗教勢力の上に置いたことです。

浄土宗、日蓮(にちれん)宗の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことは、日蓮宗の安土城下や京・堺で折伏主義を唱える法華宗が町衆社会に大きな勢力を持ち、
これらを屈服させることが、信長の都市政策を大きく推進させる契機となりました。

比叡山延暦寺や槇尾寺焼討ち、高野聖斬殺、一向一揆の徹底的弾圧など、自らの政治権力に抵抗する者には容赦しなかったわけです。

キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺の建設を認めています。
日本既存の宗教勢力への牽制政策と考える方がよいでしょう。


302 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:08:08
既に戦国女性の話題からはスレ違いになってるような……。

303 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:22:19
最近見なかったのに、また来たのか

304 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:45:49
じゃ、流れ豚切りで、話題を投下

遠山夫人(武田勝頼正室)の没年齢が最近繰り下がっているときいたのだが
永禄10年じゃなく何年くらいに亡くなったとされるようになってるんだろう?

305 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:50:15
>>304
勝頼正室って龍勝寺殿では?

306 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 16:13:33
>>304
元亀二年らしい
つttp://www.yumemaboroshi.com/goten/onna/oda/tooyamahujin.htm

>>305
龍勝寺殿以外に遠山夫人と呼ぶこともあるよ。

307 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 16:35:30
>>306
そこのサイトは武功夜話をそのまま引用したりしているサイトだから
少々どうかと思うが……。


308 :304:2006/06/16(金) 17:35:38
>>306
ありがとう。
元亀2年なのね。
でも、永禄10年から元亀2年に繰り下がったのは、甲陽軍艦からなんだろうか?
そこのサイトだと、没年の繰り下がった理由と言うか根拠が示されていないんだが、
根拠が分かるといいな。

>>305
岩村城の遠山夫人と区別つけるため一応括弧付けで書いておいたんだが、一般には
龍勝寺殿の方がよかっただろうか?

309 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:26:59
あれだな、呼称は全部書いとかないと・・・ってことかw

いちいち突っ込まれるももヤだからな。



310 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:26:53
>>303
なに?もしや有名な人なの?

311 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:35:40
政子スレに来てるのと同一人物か?おかげで廃墟w

312 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:46:19
大奥スレにも来てるおー。



313 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:12:23
茶道の歴史スレにも来てるおー。

314 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:33:00
もうデムパを相手にするのはや め な い か ?

315 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 12:12:52
いざとなったら避難すればいい
今なら、あそこがあるしな

316 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:18:59
あそこならID出るからNGワードに指定できるしな

317 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:42:13
あそこってどこですか?

318 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:57:35
姫さま総合スレ  in  戦国時代板
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150038398/

319 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 20:19:58
どうも

320 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 01:28:46
いつから過疎りだしたのか…

321 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 07:40:08
戦国時代板ができたからじゃね?

322 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 08:47:40
電波が沸いたら過疎るよ、そりゃ

323 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 14:11:57
戦国板こそ過疎板&糞スレ板じゃん

324 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:41:57
戦国板はせめてカテゴリが学問文系だったらなぁ…
糞スレがたまに立つ位ならまだしも、総崩れなんであそこじゃまともに議論出来ん。

325 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 12:48:04
>>48
超亀レスだけどいいかな?

昨日読んでた本の中に、秀吉や家康も陣中に側室を連れて行ってたり呼んだりしてた事が載ってる。
その中には妊婦の側室もいて、それが元で流産とか難産になったっていうのも載ってた。
それ以前の戦に女性が同行するなんて考えられなかったらしく、出撃の時なども女性は近寄れなかったらしい。
とすれば、割と保守的な家康にしても、神仏大好き秀吉が自ら進んで禁を破るとは思えない。
きっと、過去の慣習などにとらわれない人間で、秀吉や家康よりも上の人間が前例を作ってたからと思える。
そう考えると、信長がそれまでのタブーみたいなものを破って、連れて行ってたからかもと思えたりする。
出産前後の女性に手を触れると必ず討ち死にする富まれいわれていたらしいのに、
戦の、それも上洛戦なんかで、そういう事があって平気だったとなれば、
タブーじゃなくなっていったんじゃないかな?
でも、これは単なる想像だから、もしもっと考えられる意見とかあれば、例の電波君じゃない方
色々教えて下さい。

326 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 19:19:02
あげ

327 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 01:32:58
>>325
文書名失念だけど長篠の時に池田隊の中には女鉄砲隊もいたという記述が
あるらしいから、少なくとも織田軍内では女が戦場にいてもおかしくない
状況だったかもしれない。池田がやるぐらいだから信長はもっと早くに
やっていてもおかしくはないと思う。

328 :324:2006/06/26(月) 09:48:54
>>326
ありがとう
女性そのものがいた事は、ありっぽかった訳だね。
そういや長篠の屏風絵にも、女性みたいな人物の鉄砲隊が描かれてたね。

あと、非戦闘員の女性がいた事については、何か分かる方いたら、引き続きよろしくお願いします。

329 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 18:34:07
遊女が集団でついて行った、というのは聞いたことがある。
(軍が頼んだり、遊女側が勝手についていったり)


330 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 18:41:01
淀殿は秀吉と一緒に小田原とか九州とかの戦地に行ってたよね。

331 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:01:30
>>329 いわゆる従軍慰安婦みたいなものだね。
ラバウルやレイテにも慰安所があったそうだから。

332 :日本@名無史さん:2006/06/27(火) 04:01:23
男の集団がいるところ、遊女屋は儲かる場所にやって来る。
官の先導など無くてもだ。
江戸の町の出来始めの頃、京や奈良からたくさんの遊女屋が進出したが
利にさとい遊女屋が自分の判断で稼ぎ場所ともくろんで来たのであって、
幕府の要請で進出してきたわけでは無い。
(吉原以外での売女禁止はそれ以降のことだ)

近代の従軍慰安婦とは成り立ちが違う。

333 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 19:27:40
濃姫つながり
織田勝長総合スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151724055/

334 :日本@名無史さん:2006/07/02(日) 22:05:32
>>細川ガラシャ死後
書状を受け取り震える忠興
悲しくて震えていると思っていたら
忠興「少斎!お玉の乳見やがったなゴルア!!」

東軍残らずズッコケ
・・・なんてのが史実だったら嫌だなあ

335 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:20:59
>>334
吹いたよw

336 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 15:15:07
■荒木村重謀反の真相■
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151610161/

337 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 18:09:28
香ばしいヤシハケーンwww


7:うすびぃ :2006/07/11(火) 17:40:58 ID:whXti2KM
ノウ姫は最近の学会の研究では22歳年上だったことが
判明しているよ

338 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 18:26:00
何の学会なんだろう?

339 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 18:50:27
詳しく知りたいage

340 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 16:54:49
誰と比べて22歳年上だったんだよ?

341 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 17:17:40
奥方とかが、肩に髪を扇みたいに乗せるのって映画とかドラマだけの話?

342 ::2006/07/23(日) 18:48:37
前山清一郎の大名は誰!

343 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 21:11:09
意味わからん

344 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 17:49:45
波多親の正室ってえらいセクシー熟女だったらしいね
48歳で秀吉に体を要求されたとか

345 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 16:05:41
上杉虎さま

346 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:09:01
待て!

347 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:22:08
侍て!

348 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:04:37
http://www.google.co.jp/gwt/n?mrestrict=xhtml&site=search&q=%E8%A5%BF%E8%BB%8D&source=m&hl=ja&ei=CV8zRZqDHMbUJIDdxW4&ct=res&cd=1&rd=1&u=http%3A%2F%2Fhomepage1.nifty.com%2FSEISYO%2Fseki-ni.htm

349 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:49:59
侍て!

350 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:22:21
この板に浅井三姉妹スレってなかった?

351 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 01:15:21
ねえだろ

352 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:36:29
どっかの板にあった気はする。

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