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徳川綱吉って実際はどういう人物?

1 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:31:33
犬将軍

2 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:34:42
谷原章介

3 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:35:31
津川雅彦

4 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:35:55
2げt

5 :日本@名無史さん :2006/05/13(土) 12:42:57
名君という話もある。
1.生類憐れみの令 → 未だに人を殺せば褒められる戦国時代の価値観、気風を
                人を殺せば処罰されるという価値観に変えた。
2.側用人       → 何でも合議した決定していた老中に対し「NOと言える」将軍になれた。
                将軍の意向を反映した斬新な改革が出来る体制になったらしい。

6 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 13:16:41
>>1 糞スレ乱立させんなハゲ

徳川光圀って実際はどういう人物?
1 :日本@名無史さん :2006/05/13(土) 11:14:26
予について語るがよい。


7 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:53:51
森村誠一が、生類憐れみの令を「世紀の悪法」と位置づけた小説書いてたな

昔に比べて、見直されてる将軍だとは思う

8 :1:2006/05/13(土) 20:17:47
>>6
じゃあたとえばどんなスレが良スレなの?

9 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:21:59
つーか
日本史上でもトップクラスの評価を受けている吉宗が
こいつを賞賛しているという事実があるだけで只者じゃないと思うんだが

10 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:26:06
鎌倉時代から江戸初期まで武士の嗜みとして犬追物が盛んだった
犬追物とは柵の中に犬を閉じ込めて弓で射殺し、食うというもの
これを野蛮として生類憐れみの令で禁止したのが綱吉

綱吉がいなければ犬追物は現代まで存続していて犬食が日本料理の一つとして残っていたかもね


11 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:26:52
>>5
日本語めちゃくちゃだけど、外国の方?

12 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 06:17:59
滅茶苦茶な日本語には見えないがどこが変かね

13 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 11:41:33
むちゃくちゃだな

14 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:54:07
いぬ

15 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:47:33
キチガイだったんだよ

16 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:05:37
>日本史上でもトップクラスの評価を受けている吉宗が
>こいつを賞賛しているという事実があるだけで只者じゃないと思うんだが
吉宗さんは綱吉さんがいなかったら多分将軍になれてないから
その辺は差っぴいて考えないとにんともかんとも

17 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:15:02
>>9
綱吉が紀伊上屋敷に来た時、本来なら将軍に会える身分ではない
部屋住みだった吉宗に、綱吉が会ってくれて形だけかもしれないが
部屋住みで終わるのは哀れだと領地をくれた恩があっただけだろ?


18 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 08:50:25
綱吉のせいで、無実の人間が何人死んだ事やら

19 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 09:35:50
まず山室恭子「黄門さまと犬公方」を読んでからカキコしようね、リアル厨房の諸君。

20 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 09:37:48
リアルキチガイだよ、爺さん諸君。

21 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 11:21:31
徳川綱吉って、家光の息子だよ。

糞スレ乱立させんなハゲ

22 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:26:00
>>21
誰だって誰かの子供だよ!

23 :日本@名無史さん:2006/07/13(木) 19:06:54
大樹寺の位牌から測定した、推定身長130cm強の「低身長症」という説はどうなんだろう?
事実とすれば、治世になんらかの影響があったのかな

24 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:56:41
綱吉は、華やかなりし元禄バブル時代の象徴的な暴君。
めちゃくちゃだけど、カリスマ性はある。
その分、反権力の対象になりやすい。
だって、お犬様騒動もそうだけど、大名家の取り潰しとか、
めちゃくちゃなやりかたで、恨んでた人多いよね。
そういう人々の胸をスカッとさせたのが、四十七士たち。
綱吉というめちゃくちゃで強大な権力に対して、命がけで
一矢報いてやったわけ。
「仮名手本忠臣蔵」っていうでしょ。
あの歌舞伎自体、反権力というか風刺だよね。反幕府なわけ。
「仮名手本」っていうのは、「いろはにほへとちりぬるを・・・」
を7文字ごとに区切って書いて、一番下のの文字を拾っていくと
「とかなくてしす」となる。つまり、「咎なくて死す」だよ。
罪もなく死んでいったという意味。
綱吉に切腹を命じられた四十七士のことだね。




25 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 16:20:33
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み

26 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 17:39:50
>>24
素朴な疑問ですが、
仮名手本忠臣蔵が世に出た時期と、
討ち入りがあった時では、
時代背景が随分と違うと思うんですが?
そのあたりの整合性は如何に?

27 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 20:59:41
24は26の質問に早く答えろよ!


28 :忠臣蔵物:2006/08/11(金) 21:30:48
事件の翌元禄16年(1703年)には事件を曾我兄弟の仇討ちに設定した
『曙曽我夜討』が上演されたが、三日目に上演禁止とされている。
事件の4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった
近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座にて上演され、
以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、数作品が作られた。
その集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された竹田出雲・三好
松洛・並木千柳の合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。
同じ年に歌舞伎の演目として取り入れられ大当たりした。
歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」
と呼ばれるジャンルを形成する。

29 :仮名手本忠臣蔵:2006/08/11(金) 21:32:04
江戸時代は江戸幕府から同時代の武家社会の事件を上演すること
は禁じられていたために、「忠臣蔵物」は近松以来、幕府を憚って、
舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託したもの
が多い。近松作品では太平記の時代を舞台とし、登場人物の名として、
浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、
高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、
『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件がわかる
ように塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の
「高」は吉良上野介の役職「高家」と掛けられている。
太平記に登場しない人物の名も変えられ(大石内蔵助→大星由良
之助など)、「仮名手本」はかな47文字すなわち四十七士、
「忠臣蔵」は、蔵一杯の忠臣という意味である。



30 :徳川綱吉の弱点:2006/08/12(土) 20:25:03
徳川綱吉といえば、徳川幕府五代将軍。それよりもまず、あの史上名高い悪法
「生類憐れみの令」をたてた将軍としてあまりにも有名です。この悪法の主な
対象は犬でしたが、犬に限らず、蚊を手でたたいて殺したために死罪になった
人も出るなど、この悪法のために事は笑って済まされず、のちの将軍吉宗にも
悪法と言われるほどでした。

この悪法の理由は綱吉の干支が犬だったこと、というのが有名ですが、そもそ
もの理由は当時の江戸城にタヌキやキツネが出没し、女中たちが気味悪がって
いたので、それらの退治のために城内に犬を飼うというものでした。

さて、その綱吉にも大嫌いな動物というのがいました。「カラス」です。綱吉
が外出したときに、カラスが頭に糞をかけたからですが、それ以来カラスを目
の仇にし、捕まえて島流しにしたほどです。これが、もし犬におしっこをかけ
られたら、と考えると何とも複雑です。


31 :「生類憐みの令」は法令の総称:2006/08/12(土) 20:30:03
「生類憐みの令」は、1つの法令ではなく、1687年から1709年の22年間にわたって出された法
令の総称です。極端な「動物愛護令」と言われていますが、捨て子の禁止や牢獄の改善など
人間に関することもあります。
 さて、この法令を出したのは、5代将軍の徳川綱吉です。歴代将軍の中でも学問好きで知ら
れ、学問の奨励や福祉政策を行って名君と言われました。しかし、長男を亡くした後、後継ぎ
にめぐまれなかった彼は、僧侶の隆光(りゅうこう)の進言で「生類憐みの令」を出します。この
法令の内容は、金魚や犬の戸籍を作らせたり、鳥を撃った役人は切腹、蚊をたたきころした小
姓がクビになるなど極端なものが数多く見られ、庶民は22年間も苦しめられるのでした。


32 :生類憐れみの令は複数のお触れ:2006/08/13(日) 17:26:13
貞享4年2月27日:魚鳥類食料禁止(鶏と亀と貝類も含む)
貞享4年4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
貞享4年4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
貞享4年6月26日:旗本の秋田采女季品(中奥小姓秋田淡路守季久の嫡男)が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪。
元禄元年2月1日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される。
元禄元年5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
元禄元年10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
元禄2年2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
元禄2年10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門。
元禄4年10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
元禄8年5月23日:大久保・四谷に犬小屋がつくられる。住民は強制的に立ち退かされた。
元禄8年10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪。
元禄8年10月29日:中野の犬小屋が完成。16万坪。犬の食費は年間9万8千両。当然住民は強制的に立ち退き。
元禄9年8月6日:犬殺しを密告したものに賞金30両のお触れ
元禄13年7月24日:活魚の売買禁止。


33 :類似する文化:2006/08/13(日) 17:31:08
歴史的に類似する文化がある

5世紀頃の中国の大乗仏教の偽経 『梵綱経』の第3に食肉戒があり、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。 

また、殺傷を禁ずる法令も仏教の影響から7世紀後半以降見られる。

日本書紀(675年, 691年)
続日本紀(732年から794年の計11回)
日本だけでなく、同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、同様の法令が発布されている

新羅: 動物殺傷禁止令(529年、711年)
百済: 殺傷禁止令(狩猟や鷹の飼育も禁止、漁民には、魚網を焼き捨てさせている)(599年)
高麗: 屠殺禁止令(968年、998年)


34 :貨幣改鋳:2006/08/13(日) 17:39:02
新井白石が著書に中で、荻原重秀をボロクソに書いているから、
重秀の印象は概して良くない。このあたりは「文章に書いて残した者勝ち」
のような観さえある。
 貨幣改鋳にあたり、重秀はこう言っている。

 「金の量が問題なのではない。幕府に信用さえあれば、瓦だって貨幣と
して通用する。」

これは決して誤った認識ではない。日本の一万円札なんか、だだの紙切
れに過ぎない。
しかし、重秀の誤算が一点あった。

「幕府に信用がなかった」ことである。




35 :綱吉の浪費:2006/08/13(日) 17:41:06
綱吉の浪費は、例えば綱吉晩年では幕府収入80万両に対し
支出は140万両という恐ろしい数字が残っています。

36 :元禄改鋳:2006/08/13(日) 17:45:53
従来金8割銀2割だったものを金6割にして、従来の2両分を
3両としたのです。
つまり、1.5倍幕府の収入を増やしたというわけです

37 :元禄バブル:2006/08/13(日) 17:46:59
元禄改鋳はある程度成功しました。
これは幕府権力などだけではなく、実際貨幣ニーズがあったために、
元禄改鋳の当初はスムーズに市場に受け入れられたというわけです。
一方で出目収入などにより幕府財政の破綻も防ぐことができました。

 また、副産物として経済成長が(一時期)うまくいったために
「元禄バブル」とも言うべき華やかな元禄文化が花開いたわけです。


38 :過度のインフレ:2006/08/13(日) 17:54:22
しかし、天災や綱吉の浪費を原因とする収入減のため、
その後度重なる貨幣改鋳をせざるを得なくなりました。
そのため結果として貨幣流通量が必要以上に増加したた
め貨幣価値が下がり、過度のインフレとなり、物価が高騰し、
庶民の生活を苦しめます。


39 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 17:43:13
犬公方という渾名は生類哀れみの令を出したからでなく
ミゼット体格の綱吉を幕閣が影で犬呼ばわりしてた。

って井沢元彦が言ってたけど信用していいの?

40 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:17:30
>>39
そういうことを幕閣のメンバーが言っていた、という客観的な証拠や有力な傍証があれば別だけど、
無い以上、井沢の推測ってことでいいんじゃねえの?

ただ、wiki にも書いてあったし、>>23 にも書いてあるけど、
低身長が事実だとすれば、綱吉の治世を見つめ直すもう一つの視点ということになるわな。


41 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:37:03
歴代将軍で本当に頭良いやつなんていないんじゃね?

42 :徳川将軍家十五代のカルテ:2006/08/15(火) 21:30:58
家康  159cm、
三代家光 157cm 
五代綱吉 124cm(!)
七代家継 135cm 
八代吉宗 155cm
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410610119X/249-3432551-2439527?v=glance&n=465392

43 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:41:51
>>41
家康は頭が良い将軍ではないか
というかバカでは戦に勝って幕府を開くこと自体が不可能だし

44 :生母が朝鮮系:2006/08/21(月) 20:23:33
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい


45 :日本@名無史さん:2006/08/26(土) 04:02:11
この人の干支って何かわかる?

46 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 09:01:34


47 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:04:22
綱吉は、愛犬家だった。

48 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:09:34
おいどこまで嘘を垂れ流すんだ・・・>名前欄がタイトルのお前

49 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 14:30:49
綱吉は学歴が高くて、自分以外はみんなバカと思ってて、
自分に意義を唱える奴はとことんまでねじ伏せないと気が済まないような粘着質で、
社会性がなくて、ちょうど2チャンネラーのような性格だったと思う。

50 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:28:35
生母が朝鮮系ってあるけど生母って京都の八百屋の娘じゃなかったっけ?
若い頃に人相見が顔を覗き込んで「この女は天下を盗る」と言ったとか。
で晴れて息子が五代将軍になったら学のない土民の本性曝け出して
隆光みたいな胡散臭い妖僧に垂らし込まれたんだよね。

51 :生母が済州島の出身:2006/10/03(火) 18:57:42
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。



52 :桂昌院・綱吉=朝鮮説:2006/10/05(木) 23:30:31
桂昌院・綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片付けられない、傍証がある。


53 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 15:19:30
大散財で幕府を傾けた。
傍系なんだからおとなしくしてろって。

54 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 19:45:02
学問好きで、日本最高学府(東大の前身)を創った。

55 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 12:33:45
動物愛護がそのまま人命尊重に繋がる事にこの当時既に気付いていた時代の先覚者。
付いて行けずにアンチ化してレッテル貼りして誹謗中傷並べ立てる輩がわんさか出て来たのも先覚的だったのかもw

56 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:28:24
かもね

57 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:30:22
徳川綱吉は火病体質だった?

難波の儒学者で医者の黒川道祐の随筆『遠碧軒記』に徳川綱吉の母、桂昌院は京の酒屋の主人と使用人の高麗人(朝鮮人)との間の娘だとある。
幕府の公式記録の『徳川実記』では京の八百屋の娘で母も日本人ということになっているが・・・
もし『遠碧軒記』の記述が事実だとすると徳川5代将軍、綱吉は朝鮮系クォーターということになる。

58 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:51:22
前世で犬を食べたため子宝に恵まれなかった

59 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:35:18
「上様が子宝に恵まれないのは前世で動物を虐待したんでその報い、特に犬。」
という隆光の進言には綱吉が朝鮮人の血を引いてる事への偏見があったんだろうか?

60 :音羽の護国寺を建立:2006/11/12(日) 21:31:01
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいだが、邪魔者がいなくなる
と将軍はまず音羽の護国寺を建立している。

私は”天朝教”

 さて酒井一家の[ような]原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代
用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰
えなかった。そこで、
(皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、
「生類憐れみの令」というのを発布した。
 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。
 それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他は
ない。
 このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人い侮られるような極貧階級に転落した。


61 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:34:01
コヤツの金遣いが荒かったので幕府が傾いた。

62 :済州島からよんだ伯父隆光:2006/11/14(火) 21:18:01
綱吉の生母は済州島からよんだ伯父隆光に大きな寺を持たせた。
そして仏経をもって国教を統一するため、邪魔になる神信心や拝
火宗の祇信心の者らを転向させようとした。


63 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:50:12
朝鮮人て江戸時代の頃から嫌われてたの?

64 :日本@名無しさん:2006/11/17(金) 14:03:40
>>63
外交舞台では阿呆だったが…

65 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:12:03
日本は戦後まで犬食ってた… となりのアホを犬で批判するとろくなことにならん。
綱吉…あたまわりぃ

66 :江戸城を朝廷と呼ばせ :2006/11/19(日) 21:33:30
元禄時代の徳川綱吉将軍の生母は、朝鮮国済州島出身の「於玉」である。
昔から日本では、大陸系出身者は昔から貴種とされていたから、
「於玉の方の子であるゆえ、よって、わしは貴の生まれである」と言い出した。
そして江戸城を朝廷と呼ばせ、己は新皇と号していた。
(これは赤穂義人纂書に書かれている)このため東下りの公卿は遠慮して、
京を出る前にひとまず「前中納言」とか
「前侍従」となって、江戸の伝奏屋敷に入ったものである。
そして使いを終えて京へ戻ると、すぐさま又前の官位に復位している。


67 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 23:31:34
>>62
鎖国してた時期にどうやって?

68 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 02:00:23
徳川綱吉って実際はどういう人物?


CG

69 :誤解を招く:2006/12/02(土) 18:17:23
子供の頃江戸時代を鎖国時代と習ったが、あれは額面でどうも誤解を招く。
限定的ではあるが西洋・中国に対しては出島を通して、そして朝鮮につ
いては対馬を通して国を開いてた。朝鮮は日本より鎖国状態で、それが
近代化に遅れた理由と言う。朝鮮は事大で中国とは宗主国としての交流
はあったが、確かに出島はなかったようだ。しかし日本、徳川幕府とは
釜山を窓口としたしっかりし た交流があった。釜山には日本の領事館
と言うか韓国の迎賓館と言うか、「倭館」 が置かれていた。


70 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:26:59





          はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、寝るよ。








71 :比較的良好な関係:2006/12/02(土) 18:42:28
李氏朝鮮にとって徳川家は憎き秀吉を打倒した政権であり、
秀吉の朝鮮出兵にも家康は兵を送らなかった事もあり、
比較的良好な関係でした。

72 :朝鮮通信使:2006/12/02(土) 21:37:54
徳川幕府は、鎖国令をしき外国文化に接する機会が乏しい状況であり、
わが国の人々は、「朝鮮通信使」の往来を通じて、海外の文化に接する
ことができました。朝鮮通信使の来訪は、まさに「文明の使者」と呼ぶ
にふさわしいもの<画像>でありました。当時の資料によりますと、
赤間関に着いた一行は、赤間神宮の前面の海岸から上陸し、 阿弥陀寺
と引接寺の両使館に別れ滞在、使節団は、往復とも赤間関に立ち寄り、
使館に入館し、長州藩の藩士・藩民から歓待を受けたとあります。
通信使の中には、優れた学者や詩人・画家などの文化人が数多くいた
ため防長の諸文士が押し寄せ、回を重ねるごとに誠真の交わりが深ま
ったと記されています。


73 :絶対的平和主義者:2006/12/19(火) 22:22:12
徳川綱吉は、いわば絶対的平和主義者であった。彼は儒学に傾倒し、
理想的な君主の道とは何かということを追究し続けた男である。
言うまでもなく、儒学においては天下に真の泰平をもたらした君主こ
そ偉大であるとし、こういう君主は「封禅」という儀式を執り行うこ
とができることになっている。綱吉は、天下に真の泰平をもたらしたかった。
 それで、その頃横行していた「傾奇者」なる無頼の輩を厳しく取り締まったが、
あまり効果がない。
 ──まず、世の中から殺伐の気風をなくすことだ。それでこそ千年の泰
平が得られる。
 綱吉はそう考え、殺傷事件については刑をきわめて厳しくすると共に、
人間相手だけではなく、鳥獣に対する殺傷も禁じようとした。
これも儒学では、偉大な君主の恩徳は鳥獣にも及ぶということになっていて、
それを文字通り実践しようとしたらしい。こうして生まれたのがあの
「生類憐れみの令」である。これは天下の悪法として名高いが、
綱吉に悪意があったわけではない。ただ、殺伐の気風をなくすためであれば、
それに伴う庶民の多少の痛みは致し方ないとは思っていただろう。

74 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:41:55
そうかぁ。徳川綱吉は韓国と日本の混血だったんだねぇ。
この国の歴史は朝鮮半島を抜きには考えられないんだね。

75 :日本史君:2006/12/21(木) 18:05:28
>>42
wikiには吉宗180a位あってごつかったって書いてた気が…

76 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 18:17:54
>>66達に聞きたいが、徳川研究家たちは、桂昌院が韓国はガチで確定なのかな?

ドラマの大奥は相当改悪してると聞いたけど、お玉とお万の方に繋がりはなかったんかな?ドラマだとお万にくっついて来たみたくなってたが…

77 :日本史君:2006/12/21(木) 18:25:28
史実が知りたい。    草薙のではいい人みたく描かれて、谷原はカミナリ怖い、桂昌院絶対−女&舞好きとなってるけど、共通してるのは将軍になるのが嫌だった又は消極的だったとなってるけではたして…

78 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:19:08
お玉が大奥で冷遇されたのは 八百屋の娘で身分が低いからだろ(そのくせに上様の寵愛をうけて)
源氏物語の桐壺と同じ

79 :母は朝鮮の人:2006/12/24(日) 20:15:20
お玉の方は、もともと京都の八百屋にうまれ、その母は朝鮮の人という説がある。
 のちに母が公家につかえる本庄家の後妻となり、六条家の姫(お万の方)
が家光の側室になるのに付いて江戸城に入ったという。


80 :桂昌院:2006/12/24(日) 20:24:55
桂昌院というのは明が滅んで日本に流れてきた亡命中国人の子供
(ハーフだったかも)です。明が滅んだときに日本に逃げてきた人
たちは読書人階級が主。ですから、生活に困って八百屋の養女に
出されたかもしれないけれど、桂昌院というのは親から中国の教
養を授けられた才女だったのではないかと思うのです。正式には
母親が中国人で、八百屋さんの嫁に入って桂昌院を産んで、
その八百屋と親交のあった公家と母親が再婚して、その公家の家
から将軍家へ輿入れしたということになっていますが、これは桂
昌院が中国人ですぐに大奥へいれるにははばかりがあるから作ら
れた話だと思います。桂昌院はたぶん美人で頭もよかったのでし
ょう。それと中国への憧れもあって、家光も所望したのでしょう。

81 :綱吉はクォーター:2006/12/24(日) 20:47:57
井沢元彦氏「逆説の日本史」によると、第五代将軍綱吉が、
いわゆる竹島=鬱陵島を朝鮮領と認めたことは事実です。
しかし、この場合、現在の「竹島」まで含んでいるのかどう
かが問題です。
綱吉将軍は決して暗愚ではなかったと。「生類あわれみの令」
など誤解されているということです。しかし、竹島=鬱陵島を
長く日本が単独で管理していたにもかかわらず、竹島一件で
なぜ朝鮮に譲歩したかというと、綱吉公の母・桂昌院は「日朝」
のハーフでした。綱吉はクォーターということになりますが、
朝鮮に大変親近感をもっていたことが原因ではないかと。
綱吉が儒教の信奉者であったことも相まって、朝鮮を「先進国」
と評価していたと思います。6代将軍家宣に仕え「正徳の治」
を進めたのは新井白石ですが、徳川幕府は儒学者を重用しました。



82 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 20:48:01
昭和33年の遺骨調査ではどうだったの?

83 :目を奪われる程の美人 桂昌院:2006/12/24(日) 21:33:39
京都の[紫野・大徳寺]付近で産まれる。若い頃は町人たち誰もが、
目を奪われる程の美人だったらしい。後に母が関白二条光平の家司
である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。
1639年(寛永16)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、
その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。
1646年(正保3)に綱吉を産み、1651年(慶安4)に家光が死ぬと落飾して
大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍徳川家綱の死後、
1680年(延宝8)に綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り、権勢を振るう。
男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、
生類憐みの令発令に関わったとされる。ちなみに綱吉の正室の鷹司信子
とは仲が悪かったらしい。 応仁の乱で一部が消失した京都の善峯寺の
再興に尽力している。

1702年には女性最高位の従一位の官位を賜り、藤原宗子という名前も賜った。
1705年に79歳で没する。


84 :日本史君:2006/12/26(火) 13:49:52
>>79>>80>>83成る程。
詳しいしわかりやすい解説だ。

85 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:35:15
綱吉好き

86 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 20:30:05
水戸老公が犬の皮を献上

87 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:49:00
桂昌院や綱吉が朝鮮の血統?・・・八切止夫の俗説。
いろんなスレに貼り付けているようだが、いい加減飽きた。

88 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 16:36:37
>>44
酒井忠清が宮将軍擁立を考えたのは、当時家綱の子を側妾おまるが身ごもっていたため。
忠清が大老を罷免されたのは、綱吉継統の延宝8年8月ではなく、10月におまるが流産し、
11月に綱吉の嫡男徳松が西の丸入りした後の12月のこと。
史実に従って論評しようね。

>>57
『遠碧軒記』の中で黒川道祐は、
桂昌院の母が朝鮮人だと断定していないでしょう。

89 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 16:54:09
新井白石って偽善者?
あんまり「折りたく柴の記」をそのまま信じない方がいいよ。

90 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:03:01
15年ぐらい前に「江戸城大乱」って、五代将軍の座をめぐる暗闘を描いた映画があったけど、
圧巻は、酒井忠清が綱吉を葬ろうとした理由は、綱吉が忠清自身と桂昌院の間の不倫の子で、
徳川の血統が絶えるから将軍にはさせられぬ・・・ってもの。
荒唐無稽だけど、綱重の八王子宿での怪死、家綱の遺児の流産、尾張光貞と酒井忠清の関係、
忠清と堀田正俊の板ばさみになる稲葉正則等々・・・結構下地になる考証はしっかりされていて
見ごたえあったな。

91 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 13:07:13
>>90
光貞は紀州だろ吉宗の親父だし
尾張藩主は光友じゃ

92 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:16:09
綱吉といえば、なんたって柳沢吉保。
ネコかタチかは知らないけど寵童上がりといわれるこの人、主君が一番困ったお世継ぎ問題で
どういう態度を取ったんだろう?あんまりはっきりしないような?

93 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:50:16
身長124センチ
マザコン
けど生類憐れみの令で当時頻繁だった
生き物を殺す事、が激減したのは事実
ただのうつけか天才か、どっちだろう

94 :間部越前守詮房:2007/01/03(水) 15:58:58
ではご説明しよう。吉保は綱吉が自身の子をあきらめた頃から、紀州中納言綱教と鶴姫に子が産まれることを第一に考え、紀州から六代を迎えようとしたが、綱教、鶴姫が相次いで死去すると、
甲府宰相綱豊を六代にし、元々不仲だった綱吉と甲府宰相綱豊の周旋に尽力し、やがて綱豊西城入を果たす。
吉保としては綱豊擁立の功績をもって、新政権でも何らかの形で閣内に留まろうとしたわけだが……
すでに家宣と名を改め、大納言になっていた綱豊から
「現職の側用人、老中格が、髷を絶ったためしはない。先代様御葬儀が済み次第、隠居を願い出、剃髪するがよかろう」
といわれ、吉保の目論見は完全に封殺されることになった

95 :柳沢吉保:2007/01/03(水) 16:11:18
ではご説明しよう
綱吉ってハッキリ言って頭がイタイんだよね
よく俺が切れ者っていうけどただの凡庸なんだよんね
ハイハイ言ってただけで幕末まで大和郡山十五万石なんだよね
笑っちゃうね 君もそこにいるべきだった

96 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 20:14:54
綱吉が子供並のチビだったっていうのは嘘くさい。
大樹寺の歴代将軍の等身大の位牌が根拠っていうけど、実際に他の将軍の位牌と
増上寺の墓地から出土した将軍たちの遺体を比較しても、そんなに一致してない。
大方、綱吉を貶めるための俗説だと思う。

それより徳川宗家に伝わる歴代の肖像画に綱吉だけないのが不思議だ。
なぜか宗家になくて、尾張の徳川美術館にあるってのも不思議。

97 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 20:38:21
吉保は川越7万石から甲斐・駿河23万石、のち駿河の所領を返上して甲府33万石を領したが、吉宗時代になって郡山に左遷

98 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 21:22:26
あのムラッ気のある綱吉に、その死まで仕えきっただけでもスゴイ。
綱吉に登用された側用人は何人もいるけど、長年勤め上げたのは、
吉保とその娘婿の松平輝貞のみ。


99 :犬料理:2007/01/03(水) 22:08:42
悪名高い生類憐れみの令は、今日もなお、我々の生活をはっきりと
拘束しているのです。それが一番よく判るのが犬料理です。

ご存じの方も多いと思いますが、お隣の韓国では犬料理を珍重します。
実は、我が国でも江戸初期までは犬料理はごく普通のものでした。

日本人が犬を食べなくなるのは、生類憐れみの令によって新たに生ま
れた習慣なのです。江戸時代も、少し後になると、食い物がなければ
犬を食え、と言われたと怒って、農民が一揆を起こしたりします。

今日でも、日本人で、犬を食べたいと思う人はまずいないでしょうし、
韓国に行って犬を食べろと言われれば、かなりの度胸を必要とすること
と思います。

100 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:20:57
南部直政、喜多見重政、山内豊明…綱吉に放逐された側衆は少なくない

101 :綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:23:02
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名は、実に46家で、関ヶ原の合戦の後の大量処分を別格とすれば、一代での処分件数としては、家康や秀忠を抜いて、歴代第1位の記録です。

当時の大名家は全部で二百数十家ですから、5〜6家に1家の割で、綱吉に処分された計算です。

 ちなみに、吉宗は、かなり強力な将軍であった、と一般に思われています。

しかし、その吉宗でさえも、綱吉とほぼ同じ将軍在位期間中における処分件数は、わずか12家に過ぎません。



102 :綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:25:11
しかも、綱吉による処分の内訳を見ますと、秀忠や家光の時代で改易理由のエースだった後継者の不存在は、わずか5件に過ぎません。

その外に、当主が刃傷事件を起こしたための改易が赤穂藩主浅野長矩など3家あります。

おそらくこの8家は、外の時代でも改易等の処分は免れないでしょう。

 しかし、残り38家は、将軍が綱吉でなかったら、まず処罰されるには至らなかったような、軽微な理由から処分されているのです。

 代表的なものをあげると、お家騒動が起きたりしたために、藩政不良といわれて処分されたり、その宗家に連座して処分されたのが、徳川一門の越後松平家を筆頭に13家もあって、一番多い処罰理由です。

特に越後松平家を改易にした越後騒動は、綱吉が、直々に裁判を行ったということで、非常に有名になったものです。



103 :綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:26:21
先に代官粛正のトップに関東郡代に対する処罰を行ったことを紹介しましたが、越後松平家に対する処罰も、大名処罰に聖域なし、という象徴として、一連の処罰の冒頭に実施されたのです。

 次に多い処罰理由が、当主が幕府の役職に就いていて、あるいは就くのを拒んで、綱吉の不興を被ったという、文字どおり綱吉の気分によって処分されたというもので、10家あります。

その中には老中板倉重種や側用人喜多見重政までが含まれています。

これも、彼の将軍集権という政治姿勢を端的に示すものでしょう。



104 :当主の発狂:2007/01/03(水) 22:27:36
驚いたことに、当主の発狂という理由が何と9家もあります。

精神医学が発達していなかった当時において、発狂というのがどのような状態を意味しているのかは判りません。

仮に当主が今日的な意味でのれっきとした精神病者であったとしても、正常な後継者がいる限り、代替わりをさせれば済むことであって、処分理由になるとは、とても思われません。

やはり単なる難癖程度のものも多かったのではないかと思われます。



105 :譜代に厳しいものになっている:2007/01/03(水) 22:28:46
秀忠、家光時代の大名処分が、外様大名を中心に行われたものであるのに対して、綱吉時代の処分は、譜代29家、外様17家となっていて、圧倒的に譜代に厳しいものになっている点にも、大きな特徴があります。

「狡兎死して走狗煮らる」ということわざがありますが、幕府も安定期を迎えたことにより、外様の危険よりも、体制内部にあって直接将軍の権威と競合する門閥勢力の方が問題となる時代となっていたのです。

そして、その問題に真っ向から取り組んだのが綱吉だったといえます。



106 :中興の祖:2007/01/03(水) 22:35:54
財政分野に関する限り、綱吉は不退転の決意で、幕府財政基盤強化のために、将軍在位期間を通じて努力したといえます。

 その結果、綱吉という人は、大名にとって、あるいは旗本・御家人にとって、さらに一般庶民にとって、疫病神以外の何者でもなかった、といえるでしょう。

しかし、徳川家にとっては、まさに中興の祖というべき存在です。

 もし、この時期に綱吉が登場して、一手に憎まれ役を引き受けてくれなかったならば、徳川家は、財政基盤を整備することもできず、人材を登用するすべも知らないままに、ずるずると衰弱していったと思われます。



107 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:41:42
あのさ、甲斐先生の随筆をコピペすんのやめてくんない?

108 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:47:12
大名の無嗣断絶が4代家綱以降減ったのは、
由比正雪の乱を教訓にして末期養子が解禁されたから。

越後騒動の処分は、酒井忠清へのあてつけっぽいし、
板倉重種は忠清の腰巾着だったから老中を罷免されただけで、別に断絶になってないし。

むしろ譜代の門閥は比較的大事にした。
老中の多くは家綱時代の老中の息子(大久保、土屋、阿部、稲葉ら)
酒井忠清の息子さえ、のちに幕閣に登用している。

あと水戸家が将軍家を継げない、というのは根拠無しの俗説です。


109 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:53:02
>>107
この人は八切止夫のコピペでも有名ですよ。

110 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:37:35
>>100
側衆と側用人とは全然違います。
あなたの挙げた人物は、すべて側用人。

111 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:31:36
綱吉 「私は本当は犬なのではないかと思うのです。」

桂昌院 「いつからそんな馬鹿なことを考えるようになったのです?」

綱吉 「子犬の頃からです。」

112 :長子相続:2007/01/16(火) 20:31:38
館林に居た綱吉は紀伊家、尾張家を差し置いて将軍家を継ぐ事が出来たのですか?
“将軍の弟”では家康公の意に反するのでは?

113 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:44:41
将軍のマタイトコよりは、はるかに血が濃いと思うが。

114 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:01:25
>“将軍の弟”では家康公の意に反するのでは?
その論でいけば次代の綱豊は”現将軍の兄の子 前将軍の弟の子”
でしかない


115 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:08:08
>>112
なし崩し?有能な人物が必要だった...

116 :大久保相模守忠増:2007/01/16(火) 22:08:15
綱吉時代は外様よりも譜代旗本に対する処罰が多かった
綱吉ははじめて傍系から将軍を継いだ人物。既成の権威に胡座をかく譜代旗本はいろいろな意味で鉄槌を加えたい存在だったろう

117 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:08:42
>>112
酒井忠清と堀田正俊に聞いてみろ

118 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 16:45:07
徳松が無事に成長したら生類憐れみの令も出なかったと思う

119 :松平紀伊守信庸:2007/01/18(木) 17:09:42
いや、どの道桂昌院に吹き込まれて犬以外の保護をやっただろうな

120 :戸田山城守忠真:2007/01/18(木) 20:49:06
生類憐みの令は廃止が妥当

121 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:07:49
>>116
幕府の権威も安定し、外様潰しが喫緊の課題でなくなったからな。
幕政に参加する機会の多い譜代の方が、政治責任を問われたり、
政争や事件に巻き込まれたりして、結果的に処分が増えただけ。

「既成の権威に胡座をかく譜代」に「鉄槌を加えたい」と綱吉が
思っていたのなら、それこそ譜代の名門や重鎮を相手にしただろう。
だが、前にも出ていたが、老中のほとんどは先代からの世襲に任せ、
アンチ柳沢といわれた井伊直該を大老にしたり、家綱後継問題の際、
綱吉を忌避した酒井忠清の息子忠挙や稲葉正則の息子正往を幕閣に登用したりして、
あきらかに譜代の門閥を重んじている。

122 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:07:46
綱吉と言うと「将軍独裁」とか言われているけど、
やはり肝心な部分は老中を中心にした集団合議体制と幕閣に名を
連ねている譜代緒家の意見を尊重していた訳ね。

123 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:12:49
終生男好きだった

124 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:43:47
彼はバイだ。

125 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:10:03
>>122
綱吉の頃は朝廷の太政官にも劣らない、官僚組織ができていて
それで幕政が動いていたからな。将軍もその組織の一機関にすぎなく
なってしまったってことだろう。
宇多天皇の時の藤原基経みたいに老中たちが出仕を拒んだら、将軍
1人では何もできなくなるぐらい、組織が大きくなってしまった。

126 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:38:21
譜代の門閥を重視したといっても、
「遇して、敬わず」みたいなところはあったかもな。
将軍の諮問機関でもあった井伊、酒井、会津松平、讃岐松平など譜代重鎮の溜間詰衆や
老中・若年寄は、通常、柳沢吉保ら側用人を介してしか綱吉に献策できなかった。
それに、綱吉が信賞必罰主義だったことから、幕閣や諸侯に恐れられていたのも確か。


127 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:42:29
実際、井伊直該はお飾りの大老職に不満で、2年9ヶ月で辞任している。

128 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:44:59
「大奥」なんかでは、たいそうな女好きに描かれているが、
綱吉は長じてからも、衆道にお盛んだったようだよ。
「桐の間御殿」というお稚児さん専用の屋敷まで作って・・・って南條範夫の創作と
思っていたら、ちゃんと桐間番衆って役職まであって、実際大名旗本や公家の子弟の
カッコ可愛いのを抱え込んでいたらしい。

129 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:48:09
>>118
そして徳松は将軍になって「家武」と名乗った(これは妄想)場合
綱豊 甲府藩主のまま
   清武の子清方が若死にしてなかったら甲府徳川は5代までは
   @綱重ーA綱豊ーB綱武(家継)
   @綱重ーC清武ーD清方
  と推移してたと思う
そういえば家宣が将軍になった時点で甲府徳川は潰れたけど
清武に藩主を譲ればいいと思うのは漏れだけか

130 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:57:44
甲府は家宣と入れ替わりに柳沢吉保が入封したから、しょうがない。

それでも、他に将軍の実弟にふさわしい処遇の方法があったと思うのに、
一介の譜代大名並みの扱いで館林に入封というのは冷遇だよな。
隠し子で、いったん家臣の養子に出されたのは、会津の保科正之も同様だが、
こちらは山形→会津と大封を得ている。

名君とか君子といわれるわりに、家宣は肉親への情が薄かったのかもな。

131 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:29:37
冷遇というより当然の扱いだね。
将軍の弟づらしてシャシャリ出られたら、自分の嫡流が脅かされる。
まして自身は病弱。家継は幼少で、とても成長は見届けられないしさ。
もともと甲府時代からの因縁からすれば、仲が悪かったとしても不思議はないし。

132 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:52:04
病弱というわりには、けっこう子供作ってるけどな。
まあ、みんな夭折したけど。

133 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:53:12
>>130
家宣は家光と違い生まれながらの将軍ではないし、徳川光圀の
後押しによって将軍継嗣になれたのだから、御三家や譜代のてまえ
将軍宣下と共に肉親を優遇することは難しいだろう。
家宣がこの先5年10年と将軍でいたのなら清武を保科同様に
大封したかもしれない。
将軍在位3年間では無理だよ。
自分が死ぬと悟った時も子である鍋松より尾張を後見にしよと
したし。家宣は情より理を優先した名君だと思うよ。

134 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:55:59
綱吉のイメージといったら

「犬、ドチビ、マザコン、津川雅彦」俺はこれしかない。

135 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:02:11
>>130
むしろ家宣が将軍に就任して3年以内に譜代扱いで館林に入れたこと自体、
かなりの温情だと思うが?
家康秀忠家光の幕府創成期と違いこの時代は将軍と言えども弟を簡単に
取り立てたり、大名にしたりするのは容易ではない。
特に外からやってきた家宣は御三家や幕臣にある程度の遠慮もある
だろうし。


136 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:43:46
そういえば大名や幕臣にも反甲府派は少なくなかった

137 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 02:16:48
越智松平家は清武のあと、時期によって譜代扱いになったり親藩扱いになったり、
家格が不安定なのはどういうことなんだろう?

武元が老中になったり、武厚が寺社奉行になってるのは、譜代扱いだったからだが、
武厚が家斉の息子を養子にもらうと親藩扱いに昇格している。

138 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 02:17:52
大河ドラマの八代将軍吉宗では天英院(家宣正室)が
八代将軍の候補に清武を推していたが水戸綱條は
「論外だ!」みたいなこと言ってたな。

139 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:34:15
>>133
尾張は吉通
もし吉通が後見になってたら
8代は吉宗でも継友でもなく当然のごとくみたく吉通だろうな

140 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:00:57
つーか吉通は家宣の後を追うように死んでいるから将軍にはならない
子の五郎太も家継より先に死ぬので結局叔父の継友が尾張になり
ここで吉宗と争い敗れて尾張からは将軍出ず

141 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:08:03
継友が将軍になり
さらに反倹約の宗春(将軍になって「家友」*妄想)が9代になったら
吉宗は「家友」から冷遇されてたと思う

142 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:34:47
綱吉を「秦皇(始皇帝)・漢武(漢の武帝)のごとし」と評したのって誰だっけ?
賛否は別にして、生類憐みの令だって「社会の殺伐とした気風を変える」というビジョンに基づいてた訳だし、
小判の改鋳だって「通貨流通量を増やす」という経済政策として行ったわけでしょう?

政治が厳しかったand極端に走った面があっても、暗君とは言えないんじゃないかな。

143 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 18:47:35
甲府綱豊が綱吉の後継者に選ばれたことに、水戸光圀は関係していない。
推した事は事実だが、すでに元禄13年に他界しているうえ、
その頃、綱豊は病気がちで、むしろ紀伊綱教の方が有力だった。

綱豊は唐突に将軍を継いだのではなく、宝永元年に綱吉の養子として西の丸に
入って以来、5年間の助走期間があり、この間に綱吉→家宣の微妙な勢力の移動もあって、
将軍就任時には、周囲に遠慮する立場にはなかった。
何より、養子と決まった当時、綱吉・吉宗のように、御三家を含め他にライバルがいなかったし、
誰かのお陰で選ばれたという状況にもなかった。

やはり外から入った綱吉が施政の冒頭、有力親藩の越後松平光長を改易処分にしたように、
やる気さえあれば、清武を厚遇するのは可能。

144 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:50:50
清武って家宣に比べて日陰の人生だよな。
側室から生まれた同母兄弟で、家臣の養子に出されたという点では同じ境遇なのに、
そのあとで明暗がクッキリ。

兄は認知されて親藩の甲府藩主→将軍の養子として西の丸入り→6代将軍
弟は家臣の子のまま、甲府藩の一家臣→寄合旗本→譜代の小藩主→将軍候補にもなれず

吉宣→清宣→清武というイミナの変遷も、その微妙な立場をよく表してるな。
甲府家の一家臣として吉宣と名乗るも、5代綱吉の即位で吉の字を遠慮して清宣と改名、
さらに兄が西の丸入りして家宣と名乗ると宣の字を遠慮して清武と改名・・・

145 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:59:30
>>143
関係あるだろ。
光圀が推さなかったらとっくの昔に綱教が養子になっていた可能性大。
光圀死後も影響があった。
それに吉宗でさえ、将軍就任時は天英院はもちろん、老中たちに気を
つかっていたのに。
家斉も最初はほとんど何もできなかった。



146 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:03:33
>>143
改易と肉親取立ては全然違うだろ?
やる気があれば厚遇できるのなら、徳川家斉は何で実父を
大御所にできなかったんだ?

147 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:06:38
御三卿の当主にすぎない人物を大御所にして西の丸に迎えるのと、
実弟をそれなりの親藩に取り立てるのは、別の次元の問題だと思うが・・・

148 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:09:55
まあ、清武に対する処遇は冷遇の嫌いはある。実質、譜代大名だもんな。
御三家なみの大封が無理でも、しかるべき親藩に養子に入れるなり、
のちの御三卿なみの官位や家格を与えるくらいのことはできたろうに。

149 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:20:21
>>148
家宣があと5年生きていたらやっていたと思うよ。
外から来た将軍がまずやるのは自分の地盤つくり。
>>147
取立てと改易を一緒にするよりはましだと思うが。

と言うか肉親を厚遇する将軍より庶民の意をくむ将軍の方が
よっぽど名君だと思うけどな。

150 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:27:02
家宣は綱吉の反面教師的なことがあるから、思いつきや好き嫌いで
人事権を行使した綱吉みたいなことをしないとでも思っていた
のでは?
それに上にあるように将軍在位が短すぎるよ。
将軍がある程度、自由にできるようになるには周りが自分が
任命した幕臣になるまで待たねばならないと思う。

151 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:48:30
人呼んで 哀れん坊将軍

152 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:04:12
幕閣、大奥、御三家、そして何より綱吉自身に対して、光圀の影響力は
ほとんどなかった。
足元の水戸藩自体が綱條以下、将軍家に露骨に反発してみせる光圀をもてあましていたし、
その後長く続く水戸藩党争の芽は、光圀時代に芽生えたといわれるぐらい。
水戸光圀在世中に将軍継嗣が決められなかったのは、甲府綱豊、紀伊綱教以外にも、
家光の娘千代姫の実子、尾張綱誠がまだ存命中だったうえ、当時五十代前半でなお房事
盛んな綱吉自身が男子の誕生を諦めていなかったから。


153 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:06:34
将軍宣下後、1年も経ずに前将軍時代の裁決を覆してまで、
親藩の大藩を取り潰すほどの権力を持っていた者が、
身内を取り立てられないはずはなかろう。両者が「全然違う」という論拠が知りたいな。
まあ、あえていえば堀田正俊の存在があろうが、綱吉、吉宗と違って、
家宣が養子と決まった宝永元年12月当時、彼以外に後継者は見当たらなかったので、
綱吉にとっての堀田正俊、吉宗にとっての天英院だか月光院
(実際、どっちが吉宗を推したのか真相は不明)や水戸綱條、門閥派の老中たちなど、
遠慮しなけりゃならない功労者はいない。
そして5年間の西の丸時代に次期将軍としての政治勢力をすでに培っていた点でも、
家宣は昨日今日将軍になった者とは前提が違う。


154 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:08:46
>>152
何を必死になっているの?

155 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:13:31
綱吉は桂昌院がいたから暗愚になったみたいなものだね。
桂昌院は綱吉が将軍になる前に死んでいたら、もっと人格が
ある人物になりえたかもしれない。
歴代将軍でマザコン度No1だな。

156 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:14:46
>>154
なにも必死になっていないよ。
長レスになると、「必死」って・・・
2ちゃんのお約束の反応。
わざわざ、ありがと。

157 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:27:13
堀田正俊暗殺事件の黒幕は牧野備後守と隆光

158 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:27:54
>>156
傍から見てもあんた、必死に見えるよ。
他の人は仮説で話しているのにあんたは自分の説以外
絶対ありえないって感じでいちいち反応しているし。

159 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:31:19
結局のところ、家宣は身内に冷たいオッサンだったてことでいいな。

160 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:18:58


161 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:35:57
>>158
仮説だとか、断言だとか、2ちゃんで何ほざいてんだ?
どのスレにも、こういうイチャモンつける奴、必ず湧いてくる。
必ず使うのが「必死」って、お決まりのセリフ。
内容について語れないなら、消えれば。


162 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:33:58
>>161
最後の「消えれば」でお前も同類だよ。
お前及び家宣について言っている連中が消えれば良いんだよ。
ここは綱吉のスレなんだから。

163 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:36:41
>>161
だから、反応するなって。
お前が反応せず消えれば良いことだから。

164 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:54:28
>>158>>161-163
糞レス

165 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:56:10
いつから家宣スレになったんだ?

166 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 14:30:52
>>129あたりから。
でも、綱吉だけを抽出して・・・って言ってもなあ。
父家光、家綱、家宣あたりまでなら、綱吉と関連づける内容だったら
許してあげたら。

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