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<才女?>・・北条政子・・<悪女?>

1 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 10:16:59
日本史上三代悪女の一人とされる北条政子(あとの二人は
日野富子・春日局 もちろん私観だが・・・)は夫や子供を
手に掛けるような残忍な女か、それとも中世の扉を開いた
革新者か? 是非語ってみよう。

ところで岩下版政子と財前版政子はどちらが実際の政子に
近いのか?
財前版政子はあのまま行けば間違いなく頼家・実朝も殺し
そうだが。


2 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 10:39:02
岩下志麻版がいいね。

3 :日本@名無史たん:2006/04/24(月) 10:44:27
 少なくとも、新しい体制と”家”を守り、磐石のものとしたという意味では
政子は日野富子とは正反対の存在といえる。

 又、その為なら身内(夫や子供)にさえ厳しい態度で望み、死の処断さえ
下す果断さを発揮したという意味では春日局を凌ぐといえよう。

 その一方で政治的なものとはかかわらない限りは敵方の人間に対しても慈悲深い
ところを見せており、その意味でも他の二人とは隔絶している。

 そこから考えて北条政子は悪女などという小物ぶった表現で表すべきではなく、
”大悪人”と表現すべき存在である。
 戦国時代の英雄達がそうであったように・・・。


4 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:09:37
>>3 「政治的なものとはかかわらない限りは敵方の人間に対しても
慈悲深いところを見せており・・」

でも財前版は静に対しても厳しかったし、残忍だし、なんだか嫉妬
深かったね。

5 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 15:52:41
>>3
”大悪人”と表現すべき存在である。
イメージがさらに悪くなったような…

6 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 18:10:30
つーか鎌倉北条氏そのものが大悪党だしw 
天皇を島流しにするわ、即位に口出しするわでw


7 :日本@名無史さん :2006/04/24(月) 22:05:02
政治家として優れていた女性だとは思うが、こういう女性と交際したくない。

8 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:31:34
北条氏はブサイクよ、今も昔も。

9 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 23:47:20
日本史上
北条政子以上の政治家は存在せず
後は普通とクズのみ

10 :北条政子:2006/04/25(火) 02:58:56
             ヘ   >>7
            _(  (;;;;)д`)_ 
             ヘ   >>8
            _(  (;;;;)д`)_ 


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  /   r''" ./ // !iヽ`、 、ヽ、
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   |   /三---二\_>Lヽ
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  / ,ノ      `-.,\ `ヽ.、`,ヽ


11 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:08:54
この時代とはいえ、自分の腹を痛めた子供を殺してまで、
一族の繁栄に賭ける情熱は恐ろしい。裏を返せば、子育てはヘタだった。

12 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:21:59
北条家の繁栄?

北条家の繁栄は、旦那の源家の繁栄より優先させたってこと?

ところで、源頼朝と北条政子ってどっちが格上なの?

13 :12:2006/04/25(火) 16:23:32
書き方悪かった。

つまり、天下を取った頼朝が凄いのか、それとも天下を取りつつ北条家
に乗っ取られた頼朝が馬鹿なのか、旦那に大仕事させといて自分が乗っ取って
北条家の支配に持っていく政子が賢いのか?

14 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:38:14
てか、三代悪女って北条政子、日野富子、あとは淀君かと思ってた。
春日局って、影響力が江戸城内部ってイメージだから
北条政子や日野富子に比べるとスケールが違うように思える。

15 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:58:16
>>12
頼朝は、朝廷に不満を持つ武士たちの単なる神輿にしかすぎなかった。
頼朝もその空気は察知していたらしく、実際、重要な政治決定は、
有力御家人との合議の上で決めていた。


16 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:09:33
>>14
淀殿は悪女と言うよりは勘違い女、情勢判断もまともに出来ていない。
この場合の悪女は、目的のためなら謀を張り巡らせたりする感じじゃないか。

春日局は自身(と自分の権力基盤になる家光)の為ならどんなことでもしそう。

17 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:02:19
>>15
合議制になったのは頼朝の息子の頼家から
北条義時・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時

18 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:11:55
源氏と北条なら源のが格上。藤原も平も格上。北条は単なるファミリーネームよ。

19 :12:2006/04/25(火) 18:19:30
つまり結果論として見た場合。


天下まで取ったのに、自分の家の繁栄につなげることの出来なかった源頼朝=馬鹿
旦那に天下取りの大事業を成し遂げさせて、結局自分たちが乗っ取った北条家が賢いのか

20 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:35:01
そう賢いの。

21 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:39:01
北条政子の政治力なんて未知数でしょ。
吾妻鏡とかいろいろ読んでも、北条政子本人が政治的な意思を持って動いている
場面なんて、承久の乱のときの例の一件以外ではほとんど確認できない気がするのだが。

22 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:03:11
頼朝が死ぬまでの北条ってのは頼朝の舅
っていうのが強みとはいえ、一豪族にすぎない
上、頼朝が権力を握っていた。頼朝の倅
がもう少ししっかりした奴なら、北条の出る幕
はなかったかもしれんな。

23 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:33:40
政子は所詮ヒステリック女でしかない。
賢かったのは、知略によって北条の独裁体制を築いた弟の義時だと思う。

24 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:36:31
吾妻鏡の誇張もあるだろうが、政治的判断力のすごさという点では
日本史上でも指折りの政治家だろうな。この人を超える人物が
他にあまり思いつかん。
ただ我が子を好んで殺したわけではないし、北条家のためというよりは
鎌倉幕府のために動いたのだと思いたい。
我が子かわいさのために権力を振るった淀殿や日野富子と比べ、
決して私情に流されない理想の政治家ではないかと。

25 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:40:13
吾妻鏡に北条政子の政治力を思わせる記述はほとんどありません。
普通の武家の奥方以上の活動をしていたことを証明する史料は何もない。

26 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:33:41
そう何もないの。

27 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 04:31:18
そもそも何をもって悪と認識するかで、彼女および、北条一門の評価は変わる
と思います。天子を島流しにしたから悪だという単純な考えは、違うと思う。
現代においては、違法行為イコール悪という常識が成り立つが、源平合戦の
この時代、平家に生まれたら平家のため、源氏に生まれたら源氏の繁栄のため
全力で生きて死んでいく、そういう時代であったわけで、源頼朝も源平合戦に
負けていれば安徳帝に弓引いた極悪人になったわけです。天子も、単なる人間
だし、運よく現代まで生き延びたにすぎず、歴史の歯車が、ひとつ違えば、極
悪人として、次の王朝に処刑されていてもおかしくない。北条一門に生まれた
北条政子は、彼女なりに北条一門のため、がんばったと思う。歴史上、はじめ
て、天皇家を担がない勢力が天皇家を倒した北条一門の実力は評価に値すると
思う。



28 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 08:41:12
ただの性格ブス

29 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:52:12
>>15
頼朝生存時は、ほぼ頼朝の独裁状態だったはず。事実、逆らった(または統制しにくい)
連中は容赦なく排除している(義経や上総広常、安田義定など)。
むしろ北条が頼朝にぶら下がっている状態だった。頼朝の倅がもう少し有能なら、
案外北条の出る幕はなかったのでは?

30 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:53:14
>>1 どちらが実際の政子に近いのか?

実物がどんな人だったかはわからないので、岩下志麻と財前直美の
どちらかと言われると難しい。
しかし、財前が演じる時代劇での役って、ツンデレ系の性悪女ばかりで
どれも同じに見えるんだよな。安部貞任の妻とか大友宗麟の妻とか。
あの政子がすごくムカついたから、途中から「義経」は見なくなった。
今度時代劇に出るとすれば、間違いなく淀殿の役だろう。



31 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:04:12
>>29
頼朝の子が鎌倉を支配するメリット・・・創始者一族の七光り
北条一族が鎌倉を支配するメリット・・・平氏一門及び諸大名が恩恵を得る


したがって北条氏一派の方が影響力大きい。
逆に、徳川は一族以外の大名を徹底的に遠ざけて、力を減衰させた事に成功の鍵がある。
北条家が頼朝一族を排除したのは、全く関係の無い氏族が頼朝に取って代わった場合の
悪評に比べて、北条は妻としての立場からある意味で頼朝一族の「仮面」を被って
内側からジワジワと侵食していき、気が付いたら北条家や平氏、他の御家人に都合の良い
形に移行していった・・・


32 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:53:56
>>30 そんなこといったら岩下志麻も役柄がどれもかわらんだろ。
正宗の母親役にせよ、極妻にせよ。

33 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:00:36
まず北条政子が幕府の評定に同席することはあり得ない。

34 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 08:52:11
>>30
普段の現代劇じゃあわりかし色々な役やってんだけどね。
それでも気の強い系が多いけど。
時代劇だとそういう役しか回ってこない=他にそういう役回りの人がいない、
ってことなんだろうな・・・。たまにはおっとりした役とか
回してやれよ、とは思った。去年の北条政子も思いっきり悪役設定だった
が、もうちょっといい人設定だったら別の女優になってたと思う。
スレ違いスマソ

35 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:05:17
自分は小説を読むのも大河ドラマも好きだけどさ、
でも、そこで見られる人物像は作家や脚本家のイメージや
物語の構想上の性格付けなんだよね。

>1のもってきたテーマはしょせん創作上の好みの問題じゃないの。

小説で例えるけど、もし杉本苑子が北条政子を主軸に書くとしたら
永井路子の描いた性格設定を踏襲することは無いよね?
そんなもんだよ。


36 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 16:15:56
岩下志麻の政子は主役だけあって品と風格があって良かった。

財前直美の政子は頼朝を善人扱いする為に物語のダークサイドを
一遍に受け持っており、相当品の無い嫌な女だった。

37 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 16:24:28
>>36
草燃えるの政子は(中盤までは)頼朝とイチャついてばかりいる印象があるな。

確かに財前の政子はヒドい扱いだな。しかも今流行りのツンデレと
来ているからたちが悪い

38 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 16:31:34
北条政子て自分の子供が死んでいって幕府に将軍不在はまずいからと
宮将軍の後見人になったくらいだろ
実家北条家を特別盛り立てたわけでもない


39 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:52:36
義経やのりよりを殺したことが、大きかったな。二人が生きてたら、北条は天下をとれなかったかと。
 おそらくこの二人を殺したのは、北条の陰謀だろう。

40 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:27:17
志麻、ハァハァ・・・・・・・・

41 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 23:36:00
>>39
そりゃ去年の大河じゃん。
いつも陰謀はりめぐらしてるイメージもたれてるけど
頼朝存命中の北条ってそんなに野心もってたんかな、と思うんだが。

42 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:03:00
 もってたんだろ。でなきゃ、実朝を殺したりしてるのは、なぜに?忠臣ならんなことはしないでしょうな・・

43 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 00:52:14
北条に野心があったかどうかなんてことよりも、少なくともこの段階においては鎌倉御家人の総意で北条義時が彼らの盟主になっていることのほうが重要。
後鳥羽院が義時追討の院宣を出したとき、鎌倉御家人のなかに義時を捕まえて朝廷に引き渡そうなどという動きは全くなかったし。

44 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 03:15:27
    l'´ ̄`l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`l 政子をついに征服!
    |   | u               |
    |   |  ::_:::`ヽ  '' 二::'''      |  ああ〜
     |  :J |  ´てテ,l ⌒'l´tテ-)     |
...   |   |   ー‐'/  ヽ‐ニ ''      |
.    |   |       (  _ ,ゝ        |
.     |   |    、          J   |
..   |   |    ;' ``,, ´ ヽ         |
    |  \      -,,三-‐-  __    ト、
   ミ    \  ,.ミ'´ ̄ ̄``    `ヽ、| |
((  ミ   ミ  \'         、    ヽ|          力
   ミ、  ミ    \           i.     ゙、           勹
   |   ミ、 ,'                l
    L.___|_ l                l {    -─- 、
      |    l    -、         ヽ   ,. '´       ヽ
     |     !       ヽ           ヽ ,.'        ,、  ヽ
    ./´ ̄`V      ,ヽ、          ,' ,'  ; ,.  ,: , ハ :, , i
    / 、  |      /  、`ー     ノ! ; : ; /_'/./_/  Li_l  !
   ./   i   |       /   ヽ   ヽ 〃 /  | ;:「 ____...    リjリ
   !.     !     /     ヽ   {{ / (`|§§__..   ` ̄lノ i 
   `ー‐ゝ、 '    /      ヽ___,.-‐'"⌒゙| § °,,,  ,  ̄/,: ハ
       `ー--‐'     ,. -‐'"´     リi从_   、 '''ノ_:_ノ ヽ
   力          /"ー─------<二/  ´ヽ、-<r"/,ー、 丿
     勹      { 〈                )、 Y  `ゝ(_/_/./'
             } `ー----------─一--‐'´


45 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 09:03:41
しかし義時は何故執権として絶大な権力を得る事ができたんだ?
和田義盛も義時に刃向かったけど三浦が義時についた為に滅ぼ
されたし。そんなにカリスマ性があったんだろうか?
その割には姉政子の影に隠れて目立たないが・・・・?

46 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 09:08:31
>>45 政子は承久の乱前の大演説が後世に知られており、それ
が歴史上の偉大な人物というイメージを定着させている。
義時にはそれが無い。いわば、アピール力の違いでしょ。

47 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 09:13:35
同じ事は西郷隆盛・大久保利通にも言える。
大久保は明治から現在までの近代国家における最高の政治家といえる
が、どうしても西郷の影にかすむ。
西郷の存在感そのものが大きなアピールとなるので、盟主大久保は
実績よりも評価が低くなるんだよね。

48 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 09:14:13
まあその演説も義時が影で操ってたんじゃないかって話だけどね。
政子の頼朝未亡人としての立場をつかって、北条の勢力をうまく
のばしたんじゃないかな。それを狙ってやったのか、幕府のためを
考えてやった結果としてそうなったのかは分からないけど。


49 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 11:14:09
でも義時って正子と二代目執権に幽閉されたんでは?

50 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 11:27:38
義時が二代目ですがそれが何か?
時政の間違いでそ。
時政と後妻の牧の方が娘婿を将軍にしようとした事件のことか?
いわゆる牧の方事件な。
それとも二代将軍頼家のこと?
いずれにせよ政子が好き好んでやったわけじゃなかろう。



51 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:57:07
政子の悪行の数々(真偽が定かでないものも含む)

1、頼朝の愛人宅を破壊or放火
2、頼朝暗殺説あり
3、孫・一幡を、比企氏もろ共殺害
4、長男頼家を殺害を指示
5、父時政を幽閉
6、次男実朝・孫公暁の殺害を指示

尚、昨年の大河では、頼朝・義経兄弟の確執をあおり、鎌倉で
仲良く生活していた義経と静の仲を引き裂き、静が生んだ義経の子の
殺害を指示している。

これが全部本当なら、西大后以上の悪女だな。

52 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 16:20:43
1は許してやれよ。悪行というよりもただ嫉妬深いだけだろ。
 それよりも頼朝の家人のはずの牧宗親が頼朝ではなく政子の命令を聞いて
 愛人(をかくまった伏見の)家を破却した事は大きいと思うけれど。
2は初めて聞いた(政子が暗殺の命令をだしたということを)
6は三浦陰謀説も出てる
5これは仕方がないだろ。あのまま牧の方の思う通りにしていたら鎌倉は割れるよ。

53 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:12:30
悪業とされる行為も、北條家、曳いては武家社会全体の為にと考えて為されたなら弁護出来るのでは?

54 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:52:29
1の打ちこわしはちゃんと吾妻鏡に書いてあるけど
放火はないよ。誰が言い出したんだw
2は江戸時代の痴話ネタでしょ。
それに政子って静の舞に感動してその後子どもを助けようとしたのが本当だったし。
政子を捏造して悪く描いた結果、去年の大河は視聴率がアフォみたいに下がった。
視聴率が下がったと言うことは面白くないってことの証明だし、
「源平時代ってつまらねーなー」と一般人には少なかれ思われてるだろうし、
われわれ源平マニアは大・迷・惑!!どうしてくれようN〇K〜〜!!
この時代のドラマは貴重なんだぞーーーーー!!!

つかいまどき息子暗殺に政子の名前を出してくる学者っているの!?


55 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:19:35
>>46
むしろ承久のときの演説以外で政子が主体的に政治を動かしたことってないよね。

56 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:31:03
>>55
うむ。同感。所詮はみんな妄想。
みんな去年の低視聴率大河なんて忘れようぜ!

57 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:10:25
だいたい政子は義経とはほとんど関わりがないはずなんだけどな。
頼朝と義経の仲を裂いたとは到底考えられない。
政治的な関わりも実際は大した事ないし。

去年の設定は、いくらなんでも酷すぎる設定だと思う。
頼朝をできるだけ善玉にする為とはいえ、あまりにも
悪く書き過ぎだ。
まあ、あの財前のキツーいキャラクターには当てはまったかもしれんが。

58 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:21:25
>>1 日野富子も悪女とよく言われるけど、男尊女卑傾向の強い時代に
事実をあまりに悪く捻じ曲げられた感じはあるな。
税をむさぼったと言われるが、これはバカ亭主の浪費による幕府の赤字の
補填の為だし、彼女自身は私利私欲の為に浪費することはなかった。
また、我が子可愛さに応仁の乱を引き起こしたというのも、安易な
約束を弟としてしまった糞バカ亭主のせい。
むしろ応仁の乱を終わらせることに最も懸命だった人物といえる。
結局悪いのはバカバカ義政であって富子じゃないんだよね。

59 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:29:58
春日局の悪行の数々(真偽が定かでないものも含む)

1、自分の乳をあたえた竹千代(家光)可愛さに、家康に取り入って
  利発で聡明な国千代に家督が行かないように仕向けた。
2、忠長(国千代)を幽閉、切腹に追い込んだ
3、家光時代の数々の大名改易の黒幕となった。
4、島原の乱で蜂起したキリシタン農民の大量虐殺を指示した。
5、大奥を設置し、幕府財政窮乏のきっかけを作った。


60 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:36:34
>>57
月刊少年マガジンで連載されてる某判官漫画では頼朝も善玉路線だが政子もいい人に描かれてるな。
これから先の展開をぜひとも見守っていこうと思うんだが・・・
最新巻がどこも売り切れでよめないYO!

>>58
たしかに日野富子は政子の数千倍ぐらいかわいそうだな。
政子は教科書的見せ場があるし、淀殿はしょっちゅうドラマで登場して
好きだという人は多いけど、富子はどちらもないせいか、小説や漫画でも悪く書かれる事が多いな。
良く書かれてるのって行ったら永井路子の小説「銀の館」ぐらいしか・・・
河村恵利の漫画でも政子や淀殿は良く書かれているのに富子は魔性の女路線でショックだった。



61 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:19:33
なんか悪女と呼ばれた人物を論評するスレになってるな。
ま、おもしろいからいいや。
でも去年の大河の政子は許せん!財前さん好きだったのに。。。

62 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:00:01
財前をキャスティングした時点で終わってる。
もっと悪女にふさわしいのがいただろに。

63 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 08:48:50
>>58
大方納得はするが
>男尊女卑傾向の強い時代
ここだけは全然違うと言っておこう
男尊女卑の傾向が強くなったのは寧ろ明治以降

64 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:28:32
>>58 義政だけが諸悪の根源というのもおかしい。
義政はもともと政治に意欲があったが、当時から守護大名や側近が
大きな権力をもっており、全く何もできなかったためにヤケッパチに
なってしまったのが実際の話。義政自身は、東山山荘や銀閣のような
飾り気の無い建築物に見られるように非常に繊細な性格の持ち主であり、
上記の建築も戦の無い平和な環境を夢見て作ったものだった。
応仁の乱を起こしたのは義政でも富子でもない。室町幕府の脆弱な体制と
地方勢力の成長が生み出したものであり、いつどんなきっかけで起こっても
おかしくなかったのである。


65 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 00:29:21
>>64
室町幕府は脆弱ではない。
将軍にその気があれば徹底した独裁政治を行うことも可能な体制。

66 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 00:32:48
>>65 室町幕府の独裁政治は、義政の父・義教の代に挫折している。
(嘉吉の乱)

67 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 04:20:38
   \            /
    \ 尼将軍政子様万歳!/
     \        /
       ____{O}>、________
      | ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄| ̄|            ≡=-
      |_||          ||_|_|._____    __   ≡=-
     .|| ̄ ̄ ̄ ̄.|| ̄ ̄ ̄ ̄┌|!| ||XX||| ̄|| |llllllllllllll ≡=-
     [|| ,,,,,,,,,,  .||       [:] | ||XX||| ̄|| |llllllllllllll
      || [|,,▲,,|,]. ||         |:| ||XX||| ̄|| |llllllllllllll    ≡=-
      ||(´∀` ) ||\      |:| ||XX||| ̄|| |llllllllllllll      ≡=-
      ||,r'⌒ヽ⊂ ||  \     |:| ||XX||| ̄|| |llllllllllllll    ≡=-
      |二二:二二二二:二二コ.|:| ||XX||| ̄||  ̄ ̄ ̄  ≡=-
      .|     [ ▲ ]      .|:| ||XX||| ̄||        ≡=-
     .├――――――――‐......|:| ||XX||| ̄||       ≡=-
     [|口口  ┌―┐   口口[] ||XX||| ̄||    ≡=-
      |二口二└―┘二二口.二.  ||XX||| ̄||     ≡=-
       ̄ ̄ゝ_ゝノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ゝ_ゝノ ̄ ̄ ̄  ≡=-

68 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 11:06:20
>>63
政子の時代と富子の時代を比べると・・・てことなんジャマイカ?

たまにこの二人の政治力を直接比べる人がいるけど危険だよな。
時代がちがいすぎる。


69 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 15:03:45
>>66
義政のやり方だって完全に独裁ですよ。
というより室町将軍は最後の義昭まで基本的に独裁政治しかできない。

>>68
>政子の時代と富子の時代を比べると・・・てことなんジャマイカ?
比べるとどういう結論が出るの?


70 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:20:09
>>69
明治以降ほどではないにしろ、政子の時代より富子の時代のほうが男尊女卑の傾向はあったんじゃないだろうかという意味。
冨子って当時の日記や物語には悪く書かれる一方だから。政子はそうでもないし。吾妻鏡はマンセーしすぎかもしれないけど。

71 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:51:50
>>69 義政に独裁権力があれば、細川や山名をぶつからせることは
無かったでしょ。

72 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:04:18
義政・富子については、新スレを立てましたので、そこで語りましょう。

(バカ将軍?)足利義政・日野富子(銭ゲバ女?)

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1146747639/


73 :形式的民主国家:2006/05/04(木) 22:07:59

米軍が日本に駐留することはアメリカ自身の極東防衛の前線基地を確保出来ることで
米国にとって相当な利益があるにも拘わらず、在日米軍の再編成費用3兆円を日本からせびり取る積りらしい。
本来なら、基地使用料を米国が払っていてもおかしくない。
それでもそう言うことをしようとするのは、民主主義が未発達で未定着な
国を米国が負担までして守りたくないからだ。
本当は軽蔑しているからだ。

下っだらない天皇なんか信奉しているからそう言うことになるのだ。
世界中のどの国だって日本を本気で尊敬してる国なんてありャしない。
民主主義の発達を阻害している天皇制は日本の国益を著しく損ねている。
こう言うところで本音が見え隠れする訳だね。


74 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:29:22
女優さんに北条政子か日野富子、どっちやりたいって聞いたら
多分政子のほうが多いだろうな。若い頃の恋愛とか、義高や
静をかばう話とか、政治に関わる前は、亀の襲撃事件を除いては、
いい人のイメージが強い。

75 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:43:17
>>74
亀の話だけで浮気は出来ないと思われ・・・・・



76 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:58:44
>>75
ワロス 亀の前ね。
でも亀は名前なんじゃないのか?
ちなみに頼朝死後はかわいそうなイメージしかないな・・・
泣き演技と強い演技が両方出きる女優に演じてもらいたい。

77 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:04:49
>>71
義政は独裁的な権力を持ち得る立場にあったが、あの時期の義政は強権を
発動してまでそれを行使しようという気がなかったというのが真相でしょう。

少なくとも嘉吉の乱を境に将軍の守護大名に対する統制力がなくなったなんて
いう説は、何十年前の議論だって感じだぞ。

78 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:02:17
細川勝元の息子の政元あたりになると、将軍は傀儡化してくるけど、
義政は勝元や宗全の傀儡ということはない。

79 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:07:14
 まぁ春日局は、悪女?ってなるんだが・・

 家光の弟の忠長が死んだのって春日のせいか? 忠長ってマザコン系だろ・・秀頼や信行や伊達小次郎のようなパターンでありがちでしょう


80 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:11:21
>政子の時代より富子の時代のほうが男尊女卑の傾向はあったんじゃないだろうかという意味。
有り得ねぇな


81 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:28:14
>>80
なんで?そうでしょ

82 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:30:09
>>78
>細川勝元の息子の政元あたりになると、将軍は傀儡化してくるけど、

明応の政変以降の将軍が傀儡だったというのも過去の議論に成りつつある。
最近では義晴や義輝の時期でも将軍は傀儡ではないとする研究者が多い。
末期の室町将軍が有力な大名の傀儡的な存在だったのなら、義輝が殺害された
理由や義昭が追放された理由は説明がつかないしね。

83 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:31:05
>>81
理由を述べてください。

84 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:54:39
>>83
鎌倉前期においては、例えば後家が家政について亡夫の跡を継いでいた。
後期頃になると所領の細分化の問題もあって嫡子が継ぐことが通念となるんじゃん?
(↑これは言いすぎかな)
だから、室町ではそういう認識が確立していないとおかしいと思うんだけど。
室町については正直あまり知識が無いから>>80の意見ききたいな。

85 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:37:31
ここで昔は男尊女卑の傾向が有るとか言ってるヤツは
バカフェミやサヨの妄言を間に受けてるのか?
ちょっとグぐりゃそんな訳ないくらい直ぐじゃん

86 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:54:32
「政子」と書いて「まんこ」と読みます

87 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 04:45:20
>>86政子様がお怒りのようです

         , -‐'"´ ̄ ̄ ̄ ``ヽ        人 从
       /爪  ヽ `ヽ、`ヽ、   \      )   (
      / / !lヽヽ  \  \ \  }     ) 許 (
.      / l l l ヽ ヽ、_弐_ --ヽ _ヽノノ!    ) さ (
     /! ll__l ヽ-‐' ;;ー--、``  l/rヌ、ノ|   ) / (
     !l/friー     ////   >'〉} ノ!  ) ん (
        l// 、 _   ▲  ,Lノノ |  ) !! ( 
           ',  ヽ'´ヽ    / | 「||l!,| つ (⌒ 
          ヽ、  ー'    / .| | | |!|    |
        |  |i`ー-ャァ' ´ _」、lLl l!|  | |
       | | | ll __ノ /==三三ヽL||i ||
      | | | |/ }ム/==ニ三-ァ-─‐ヽ ||
       |  | | 」ll /O/ ニ, -'´ /    , -'´!||
       | |i´{、/ //   /  , -'´   |  

88 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:33:59
>>84
たぶんキミは鎌倉期についてもあまり知識がないと思うよ。

89 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 18:14:08
>>88
それならそれで構わないんだよ、別に。
勉強するまでのことだから。
だから意見が聞きたいんだけど。
指摘してもらえないとどう悪いのかわかんないじゃん。

90 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 20:20:44
>>89
そうだね。自分で勉強したほうのがいいね。
ただ小説とか作家が書いたものを読んでも、それは勉強とはいわないからね。
ちゃんとその時代が専門の研究者が書いた概説書とかを読みなよ。
あ、でもあまり古いものはダメだよ。現在の研究動向との乖離が激しいから。

91 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:34:06
いまどき北条単独が実朝殺したっていう人いるんだな。。。


92 :馬から落して即死として始末:2006/05/08(月) 20:46:32
北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を
下手人と[して]殺して、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分。


93 :源氏家臣団の皆殺しを企てた:2006/05/08(月) 20:54:20
北条氏が、頼朝の死後、
「頼家」「実朝」といった血脈を殺してしまい、
「左大臣九条道家」の子の三寅丸(頼経)二歳を、政子の養子に迎え、形だけの征夷
大将軍となし、やがてそれも有名無実化していって、北条氏独裁制を確立する途上で、
邪魔者は消せとばかり、「梶原源太景時の一族」「比企能員一族」「畠山重忠一族」
「和田義盛一族」「三浦義村一族」と源氏家臣団の皆殺しを企てた


94 :口許尋常の女:2006/05/08(月) 20:59:09
「北条政子というのは、やや褐色の皮膚をして、口許尋常の女」
 つまり当時としては、美人という事になるのである。
(江戸時代になっても、関東では「口許尋常」というのが美人の標準だったから、反
っ歯が割りと多かったらしい)
 それゆえ頼朝もすっかり参ってしまったろうが、各地から集ってきた出っ歯の関東
武士も、この政子をしみじみ垣間見てからが、
「ええ女ごじゃのう」と、ぼおっとしてしまい、さて、それからというものは、(花
は霧島、煙草は国分)などというオハラ節はまだなかったが、彼女の名に敬語のオの
字をつけて、。
「女ごは、オ政子」といいふらすようになったらしい。
 というのは、今では「マサコ」とよませるが、彼女がいた屋敷は、
「マンドコロ」と呼んでいたし、後の秀吉も、その母を「大政所」妻ねねを「北の政
所」といっていた。といってマンを致す所の意味ではなく、人間を意味するマンが、
マライ語では、施政官をさしていたから政務の意味だったろう。


95 :平政子:2006/05/08(月) 21:03:13
政子が死ぬ時に、「平政子」を名のっている点からして、北
条氏は平家なりという系図を、その立場とご都合主義で信じている者もいるようだが、
常識的に考えて、
(平家の一族が頼朝に加担し、とうとう平家を没落させてしまう‥‥)
 といった事が有り得るだろうか。また、いくらかでも平家の血筋を引くものなら、
その地位を利用して親しかった平家の一門を匿っておき、源氏全滅後にそれを表面に
出してもよいと思うが、てんでその形跡すらない。だから北条一族は、反源氏であっ
た事は確かだが、
「平氏の末裔」というのは単に名目上の恰好をつけたにすぎなかろう。


96 :今となってはそこまでは判らない:2006/05/08(月) 21:03:57
政子の場合は、泥臭い源氏よりも海外ムードの平氏の方に憧れていたから、
自分でペンネームのように気儘につけたものか、それとも北条一族が、
「打倒源氏」の正当性をPRするため、こじつけに政子の死後、そうした命名の仕方
をしたのか、今となってはそこまでは判らない。


97 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:26:47
>95はぁ?
…伊勢平氏が、(北條家を含めた)桓武平氏全体の頭領・惣領ではない。そもそも関東武士の権益を保証してくれないからこそ、平氏武士団はみな頼朝に味方したわけで…

貴族化した源家(義家以来の御恩がある)を倒して、貴族化した平家(それ故に自分達で滅ぼした)を復興なんて、絶対有り得ねぇ。
仮に政子がそんな事言ったら、関東武士団を全部敵に回すだろ。

98 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:32:29
インターネットで得た知識なんて所詮は通説と乖離してるもんなんだよ・・・
まあガンガレ!

99 :鎌倉をオール平氏一色にし:2006/05/08(月) 21:34:32
頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛
清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、
京へ大進攻をさせた。
「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、
大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰
時が代って出陣した。


100 :古代史の最後を飾る彼女の画像:2006/05/08(月) 21:37:23
美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪を
おろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他
は、男も女も、坊主や尼の官忍の得度は受けられなかった。平氏の政子が尼になろう
としても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、く
るくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、
剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼にな
るわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、
それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。


101 :北条開祖の政子さま:2006/05/08(月) 21:39:44
北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせ
たことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、
すべての証拠の書類は燃やすべし。


102 :子供は一人も産んでいない:2006/05/08(月) 21:44:23
政子は”吾妻鏡”によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、
リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の腹を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるなどありえない。
実際は子供は一人も産んでいない。

103 :エリートの女性は:2006/05/08(月) 21:46:36
エリートの女性は、妊娠出産という一年の大半をつぶす仕事は、ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い者に腹替わりをさせ、
自分は妻、当時は女夫(めおと)の女(め)として夫の手助けをする仕事に専心していたのである。


104 :ダブルキャストはしていなかった:2006/05/08(月) 21:48:30
男性以上に仕事の出来る女性と、唯それしか能のない女生とに昔は二分されていた。

そこで「女」(め)として、諸事を支配する主婦(もとめ)と、産女(うみめ)と呼ぶ(お腹様、側室ともいう)のに分かれ、分業しあって共存共栄をはかっていたのである。
だから昔は、今日の女性のように、一人で妻と母の二役というダブルキャストはしていなかった。

105 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:59:11
このスレもうあかんわ・・・

106 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:19:39
GW終わったのにね・・・

107 :政略結婚:2006/05/09(火) 19:33:30
学校の歴史では、源頼朝が文治革命を起こしたことになってますけれども、
これはあくまでも北条政子のロボットです。要するに、戦争をする時には、馬をもつ
蘇民系の源氏が有利で便利だからと利用するため政略結婚を北条政子がやったのです。


108 :古い平氏:2006/05/09(火) 19:35:04
平定すると無用になった源頼朝が馬から落ちて頭を打って即死ということになってま
す。北条政子に言わせると、梶原源太が殺したんだということにして、まず反北条平
氏派の旗頭ですから梶原一族を皮切りに下手人として殺し、次々と源氏系を、和田と
か三浦とか順々に滅ぼしてしまって、ゲットーへ収容。つまり平氏は北条の名でまた
天下をとったのに源氏は使い棄てゆえ「いつかは復仇せん」と初春狂言にと「誉曾蛾
仇討」を各地で彼らは上演。北条政子は古い平氏。


109 :特殊部落:2006/05/09(火) 19:36:18
なにしろ伊豆の伊東と今はいいま
すが、昔の古いものをあそこの現地で調べますと、伊はエビスの夷です。豆は津です。
伊東は夷頭です。夷津の夷頭で特殊部落です。


110 :源氏をみんなブッ殺し:2006/05/09(火) 19:37:54
北条時代というのは北条政子の系統だが、源氏をみんなブッ殺したり、ゲッ
トーへ入れてのけて、北条氏だけの天下をたてた反藤原勢力です。つまり、南北の六
波羅探題というのは、これは御所のお目付で監視所。御所が謀反を企てぬ為の見張り
です。あの頃は、これは学校の歴史にも出てるけれども、恐れ多くも尊い方を隠岐島
や土佐や佐渡へ全部配流にし、本当の世直しをしてるんです。


111 :元寇:2006/05/09(火) 19:38:46
北条時宗の時に元寇があった。なぜに執拗に元寇なるものが、あんなに
まで何度も日本へ攻めてきたのかと考えてみるべきです。‥‥元寇が結局は正式に攻
めてきたのは二回でしたが、向こうで準備はしても此方へ来なかったのを入れると計
四回もあるわけです。


112 :失地回復:2006/05/09(火) 20:20:55
なぜそんなにまでしつこく日本に元寇などというのがきたのかといえば、要
するに北条氏が源氏を全部滅ぼしたりゲットーに入れてるので、元本国にしてみれば、
同じ民族ですから、これをもう一回、本当の源氏の世の中にしたいため、起死回生と
いうか、失地回復のために、損得ぬきで攻めてきた戦争じゃないでしょうか。


113 :日本書紀の第五次改訂版:2006/05/09(火) 20:22:44
北条時宗がそれまで北条政子の時から約八十年ぐらいたちますけれど、清盛から
のあらゆる歴史書と、それから鎌倉の問注文書をはじめ、日本書紀の第五次改訂版ま
での歴史書をここでもう一回一綴も残さず集め焼いているんです。


114 :足利時代:2006/05/09(火) 20:41:00
次は、足利時代になりますが、例の足利氏というのは中国に対して「臣源
道義」などと自著し臣従してますから、学校歴史では文字通り源氏だと思って、教室
での歴史は教えています。だがあれは源氏ではありません。祖先の足利持氏は源氏と
いうよりも明白に平家民族なんです。


115 :臣源道義:2006/05/09(火) 20:41:43
源という字を付けないと、また元寇
みたいに失地回復に攻めてこられては困るから、外交的駆け引きとしたのです。だか
ら国内向きには、全然、源の何などとは足利氏は使ってないです。ただ対中国に対し
てだけ、臣源道義などと言ってたわけです。


116 :江戸期では:2006/05/10(水) 19:39:48
「元寇」という十三世紀の出来事を、なぜ元軍十万が何度も懲りずに日本へ攻めこん
できたか?その理由が納得できず、
(源義経の亡霊が、仇討ちに殴りこみをかけてきたもの‥‥)
 といった受け取り方を一般はしていたものらしい。それゆえ黄表紙本では、
「あらゆる恨みや憎しみは、みな食物と女のことが、その原因である」
 といういい伝えにのっとって、さも女のことで妄執を残し、その未練から押し寄せ
てきたようになっている。しかし今日の史家は、頼朝の妻政子が北条氏なので、そこ
に重点をおき、
「源氏と北条氏とを一つ」にみているようだが、江戸期では、まさかそうした誤りは
作者もしていなかったという、これは裏書きでもあるらしいといえる。
 つまり元が攻めこんだ頃の日本は、源氏を滅ぼして取って代わった北条政権の時代
なので、フビライ汗は同族のその仇討ちに乗りこんできたのだと、考えられていたよ
うである。


117 :伊豆伊東:2006/05/10(水) 19:44:46
北条氏の根拠地の鎌倉は、新田義貞によって滅ぼされ、殆んど史料がそのとき戦火
に焼かれてしまって、残されていないから、断定を下すのは難しいが、
「信州諏訪神社文書」に「伊豆伊藤(東)から廻されてきた別所者が、神領について
滞在し指図をしていった」旨の記載の個所がある。源頼朝在世中の古文書である。
 となると、現在は温泉郷の伊豆伊東というのは、十二世紀末までは、原住民捕虜収
容地であったことになっている。
 そうなれば、その伊東の長吏役をしていた北条時政が、
「よろしゅうござる、家の子郎党共をもってお味方しましょう」
 と頼朝に肩入れして、ところの目付、つまり監視所の代官を討ち、石橋山で平家追
討旗上げをさせたのも、原住民と源氏との相互扶助的役割からみて納得できる。


118 :源氏家臣団:2006/05/10(水) 19:45:56
しか
し北条氏が、頼朝の死後、
「頼家」「実朝」といった血脈を殺してしまい、
「左大臣九条道家」の子の三寅丸(頼経)二歳を、政子の養子に迎え、形だけの征夷
大将軍となし、やがてそれも有名無実化していって、北条氏独裁制を確立する途上で、
邪魔者は消せとばかり、「梶原源太景時の一族」「比企能員一族」「畠山重忠一族」
「和田義盛一族」「三浦義村一族」と源氏家臣団の皆殺しを企てたのは、「出自」と
いう当時の出身部族が、もし源氏と、伊豆伊藤別所の北条と同じ種類のものなら、こ
れは可笑しなことになる。


119 :けいずや:2006/05/10(水) 19:47:04
だから後世の系図屋は、なんとかしてそれに辻つまを合わせようと、
「平貞盛----維時(これとき)----直方----維将(これまさ)」というのを作り、す
こしは良心が咎めるのか、「維将これまさに北条の祖なり」と、でっちあげて居る。
 系図屋というのは、注文されれば何処からでも、もっともらしい名前をもってきて、
なんとか先祖にすえてしまい、それで依頼主の歓心をかう系図を作成していたリライ
ト業だったので、現代でも、注文通りの品物を巧く盗みだしてきて、それを捌く商売
人を、漢字では臓物商、故物買いとかくが、発音では『けいずや』と、まだいってい
るほどのものである。


120 :富士王朝の残党:2006/05/10(水) 21:53:27
富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。
漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積
み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬ
といわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。


121 :使い棄て:2006/05/10(水) 21:55:35
平政子は
生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀を
もとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。しかし北条時宗の時に、
(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北
条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主
だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土
を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じ
て、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)
と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。


122 :掠奪暴行の限りをつくし:2006/05/10(水) 21:57:22
文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正
月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんで
も今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもっ
て、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」
みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、
「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参し
た島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国
使のすることではない。挑戦でしかありえない。


123 :損害は高麗や新羅の捕虜兵だけ:2006/05/10(水) 21:58:43
やがて五年後の文永十一年十月、壱
岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆
は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦した
が、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。
時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で
並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。
 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗
や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。


124 :日本書紀:2006/05/10(水) 22:00:32
政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、
これは反藤思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、北条時宗の時
に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読
まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、惜しくも
北条時宗に燃されてしまっている。
 つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次
々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、滅ぼしたのを蘇られてき
たのが日本書紀。


125 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:10:54
えっと、ここはどこのチラシの裏?

126 :襖の下張り:2006/05/12(金) 19:33:56
日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で
消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷
きにしたものである。


127 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:51:23
結局は、源氏系の足利に滅ぼされたのがいい、一応源氏だから、仇はとったわけだ

128 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:56:43


心狸ガクは女性専用車両みたいなものです。マトモな♂は専攻しません。
大学院はオバサンがいっぱい入ってくる女風呂なんです。






オバサンのオケケが浮いています。
オマケに生ぬるいんですが、それでも入りたいですか?

http://academy4.2ch.net/psycho/








129 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:46:15
>>52

>>51は「修○の刻」真に受けたんじゃないの
NHKの連中もおそらく同様かと思われ

130 :夷津[伊豆]の夷頭[伊東]で漁業:2006/05/14(日) 16:08:51
第四次日本書紀は壇の浦合戦で、恐れ多くも安徳帝の御座船にあったのを、梶
原源太が入手して、北条政子に奉ったのを平家一門でも新平家でなく、紀元前から漂
着の古平氏で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]で漁業をしていた政子が、改めて、古平家
日本書紀を大江広元に書かせたが、北条時宗の時の元寇に際し用心して、門注所や記
録所文書と共に焚書された


131 :北条政子が京へ進攻:2006/05/14(日) 16:11:14
今の銀閣寺みたいに応仁の乱で銀壁が焼けると復旧できぬ侭のごとく銀や鉄資源
 は、まったく鉱産されぬ日本列島の古代史は、ヤマトタケルが竹内宿弥に殺され
 騎馬王朝が滅びた蘇民発生の時。壬申の乱で三韓統合が終わり郭将軍の藤原王朝
 確立の時。それを赤の北条政子が京へ進攻し体制変更の時と三分される。後の南
 北朝の戦いも中国勢力と三韓勢力との代理戦争とみれば、よく納得していただけ
 る。


132 :源氏とはいったい全体、何であったのか:2006/05/14(日) 16:14:13
源氏とはいったい全体、何であったのか‥‥、彼らが自称していたらしい、
「みなもとの何某」という表現の仕方は、ミナモトの民、つまり原住民を意味するも
のとみるしかないから、彼らがそうであるなら絶対に天孫系の皇統であり得る筈では
ないのであるともみられる。


133 :公卿の主だった者は斬首:2006/05/14(日) 19:07:57
貞応二年二月というのは北条平政子の命令で、御所を占領後鳥羽上皇を隠岐の土牢、順徳上皇を佐渡岩牢。土御門上皇を土佐の石牢に幽閉。
 公卿の主だった者は斬首され、御所の南北から六波羅探題がおかれ見張られた翌年のこと。


134 :六波羅探題:2006/05/14(日) 19:12:36
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。それぞれ、六波羅探題北方・六波羅探題南方と呼ぶ。



135 :六波羅探題:2006/05/14(日) 19:13:49
幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴むために白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にした。

そのため、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたった。


136 :六波羅探題:2006/05/14(日) 19:15:45
探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。またその下には評定衆などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。


137 :文治革命:2006/05/15(月) 20:59:20
文治革命(西南系海人族の伊豆の北条氏と新羅、高句麗系騎馬民族で
  頼朝に代表される源氏の同盟によって、律令体制に挑戦して、鎌倉に
  幕府を立てる。しかし、北条政子は夫である頼朝を殺し、その子たちも 
  殺し、頼朝の血脈を断つ。ついで源氏の主立った者たち、三浦、梶原など
  も殺す。その為、生き残った源氏の残党は各地に分散し、隠れ住む。
  結局、源氏は政子に利用され、使い捨てにされた)


138 :肝心な鎌倉が手薄に:2006/05/15(月) 21:01:59
北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。
だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。

139 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 10:40:58
お前、ここは初めてか?
しかし、阿呆な文章だなあ

140 :口許尋常の女:2006/05/16(火) 20:48:40
>>94
北条政子が、反源氏反ツングースとなると、これは出っ歯型ではない。現代
日本人の「全側面角」は、平均85.1度だそうだが、政子もそれ位で口許の整った
顔ををしていた事になる。
 俗に関東女は肌が浅黒いといわれるが、十二世紀から十三世紀頃のものと推定され
る人骨で、この角度に近いのは、ギリシャ人の進攻によって混血をよぎ[余儀?]な
くされたインドや、マレー人のものだけだからして、
「北条政子というのは、やや褐色の皮膚をして、口許尋常の女」


141 :人類学上では解明できる:2006/05/16(火) 20:51:09
南方系の平氏をツングース型北方人種の源氏が追っ払い、それ
を別所に分散されていた中の古代マレー系の北条氏が滅ぼしたのだから、北条時宗の
時代になって、
「おのれッ」と北方系の元が攻めてきたことも、ややこしいが人類学上では解明でき
るのである。


142 :紺掻きの紺五郎:2006/05/16(火) 21:19:59
「源平盛衰記」には紺掻きの紺五郎が、尾張で殺された面識のある源の義朝の首が獄
門台にさらされたのをみて、秘かに奪って、それを人知れず埋葬したゆえ、義朝の子
の頼朝の代になると、北条政子に鎌倉へ召されて平家の武者に取り立てられた話もで
ている。


143 :富士王朝:2006/05/16(火) 21:52:04
>>120
弥生時代とされる迄の日本列島は、裏日本には出雲王朝、い
まの新潟には白山王朝。表日本の太平洋沿岸には富士王朝、琵琶湖畔弁天涯には天の
王朝と多かった。
 その他にも、出雲王朝や白山王朝と同じ騎馬の「四つ」系の蘇我王朝が勢力を一番
もっていた。


144 :承久の乱:2006/05/16(火) 22:12:43
>>99
北条政子が御家人に対して演説を行い、義時を中心に御家人を結集させる。北条義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京都への積極的な出撃を主張。
政子の裁断で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には北条泰時と北条時房の軍勢を東海道(大将軍泰時、時房ら)、東山道(大将軍武田信光ら)、北陸道(大将軍北条朝時ら)の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、
東海道軍は当初18騎で鎌倉を出たが、徐々に兵力を増し、『愚管抄』によれば最終的には19万騎に膨れ上がったとされる。


145 :承久の乱:2006/05/16(火) 22:13:55
7月には首謀者である後鳥羽は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐へそれぞれ配流。後鳥羽皇子の六条宮、冷泉宮はそれぞれ但馬、備前へ配流された。
仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子後堀河天皇が擁立され、後鳥羽の朝廷方の所領約3000箇所が没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。
倒幕計画に参加した上皇方の公卿や後藤基清、佐々木経高、三浦胤義、河野通信、大江親広ら御家人を含む武士が粛清された。



146 :北条政子の演説:2006/05/16(火) 22:16:52
「みなさん,心を一つにして聞いてください.
これは私の最後の言葉です.頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)をほろぼし関東に武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えましたね.
平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていってたあなたたちでしたが,京都へ行って無理に働かされることもなく,幸福な生活をおくれるようになりましたね.
それもこれもすべては頼朝様のお陰です.そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.しかし,今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし,私達を滅ぼそうとしている者があらわれました.
名を惜しむ者は藤原秀康(ふじわらひでやす)・三浦胤義(みうらたねよし)(二人とも朝廷側についた有力武士)らを討ち取り,三代将軍の恩に報(むく)いてほしい.もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,
まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」



147 :北条政子の演説:2006/05/16(火) 22:29:02
次の文中の(  )内に適する語句を記入し、下記の設問に答えよ。

 鎌倉幕府初期の政治は、将軍源頼朝の独裁的傾向が強かったが、源頼朝の死後、将軍職を継いだ( 1 )のもとでは、御家人側の発言権が増大し、幕府政治の主導権をめぐる争いが相次いだ。
その中から台頭してきたのが北条氏であり、1203年、源頼朝の妻北条政子の父( 2 )は将軍( 1 )を幽閉して、新たに源実朝を将軍に立て、
自ら政所の長官となり幕府の実権を握った。この地位は執権と呼ばれ、それを引き継いだ北条義時は御家人の中で声望のあった( 3 )を倒して、侍所の長官を兼ねた。ついで1219年、
三代将軍源実朝が( 1 )の子公暁に暗殺される事件が起こると、北条義時は皇族から将軍を迎えようとしたが果たせず、結局摂関家出身の幼児( 4 )を将軍として迎えた。
 このような情勢の中で、a京都では( 5 )を置いて院の軍事力の増強をはかるなど、幕府に対抗する準備が進められていた。朝幕間の不穏な空気は皇族将軍の要請拒否などで一層増幅され、
ついに北条義時追討の院宣が発せられた。ここにb戦端が開かれ、幕府軍は圧倒的な軍勢をもって京都に進撃し、約1ヶ月の後勝利を収めた。
京都側の完敗はその後の公武両政権にきわめて大きな影響を与えることとなった。幕府は乱後3上皇を配流にし、c新たに後堀河天皇を立て皇位の継承に介入したほか、
d京都側についた者の所領を没収しそこに多数の地頭を任命した。また京都には( 6 )を設置して朝廷の監視を厳重にするとともに西国御家人の統轄にあたらせ、政治的支配力の拡大と徹底をはかった。
その後、北条政権は北条義時の子( 7 )のもとで着実に発展し、幕府は有力な御家人など11人を評定衆に任命し、合議制に基づく政治を行ったほか、1232年には( 8 )を制定して武家社会の慣習・道徳を初めて成文化した。
ついで( 9 )は、特に裁判制度の確立に努め、引付衆を任命して迅速で公正な裁判の確立につとめた。また有力御家人e三浦氏を滅ぼした後にはf皇族将軍を迎え、北条氏の地位を不動のものとした。



148 :承久の乱 :2006/05/16(火) 22:30:20
問1.下線部aの京都政権の中心人物は誰か。
問2.下線部bのこの事件は西暦何年の出来事か。
問3.下線部cについて、この時廃位となった天皇は誰か。
問4.下線部dについて、この新たに設置された地頭を何というか。
問5.下線部eについて、この事件名を記しなさい。
問6.下線部fについて、この時に鎌倉に迎えられた皇族将軍は誰か。


149 :承久の乱:2006/05/16(火) 22:30:54
〔解答〕
 1.源頼家 2.北条時政 3.和田義盛 4.九条(藤原)頼経 5.西面の武士
 6.六波羅探題 7.北条泰時 8.貞永式目or御成敗式目 9.北条時頼
 問1.後鳥羽上皇 問2.1221年 問3.仲恭天皇 問4.新補地頭 問5.宝治合戦
 問6.宗尊親王


150 :日本史上最大の女性政治家:2006/05/16(火) 23:01:05
日本史上最大の女性政治家と言えば、北条政子だろう。自分の子を天皇にしようとして大津皇子を暗殺した持統天皇もすごいし、
室町幕府八代将軍義政の妻として、また次期将軍義尚の母として権勢を振るった日野富子も見落とせない。徳川三代将軍家光の乳母として家康と連携した春日局もなかなかの人物だったが、政子のアクの強さには及ばない。

151 :春日局:2006/05/16(火) 23:21:36
俗説の春日局は、おまんの方の取持ち役位だが、史実では、老中筆頭の土井利勝や大老の酒井忠勝を呼びつけ、政務一切を支配し、現今の首相よりはるかに実力者であった。このため、東西から女の天下が数十年続き、
「女にあらざれば、人間にあらず」といった具合だったらしい。


152 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:29:51
ただいま大絶賛オナニー展開中


なんというか、見るのも不快
勝手にオナってくれ ノシ

153 :『春日局』とは職名:2006/05/17(水) 20:31:37
『春日局』というのは個人名ではなく、これは『征夷大将軍の側室にて、
小御所へ伺候し得る者の官名をこれを、春日局と呼ぶ』
と、『足利年代礼記』にもあり、足利将軍には代々の春日局が十五人もいて、最後の
十五代将軍足利義昭の春日局のごときは、『土井兼覚日記』の天正十二年二月十四日
の条にも、
『昨年来、義昭将軍は、その春日局をもって上洛させ』
とか、『毛利家史料』のうちの『吉川家文書』にも、
『(足利義昭)将軍、その春日局をもって出洛させ、毛利家の待遇良からざるを云い
ふらし迷惑至極』
といった個所がある。

154 :英雄として彼ら夫婦:2006/05/17(水) 21:54:34
>>102
頼朝にしろ、信長、秀吉にしろ彼ら男供が、歴史上の英雄になり得た裏には、内助の功というか外助の功を成した妻の存在に注目すべきなのである。
つまり、これまでの頭を切り替えねばならぬ。というのは、「その妻が子を産まず、従って出産育児に煩されることなく、専心、夫と共同一致で励んだからこそ、
英雄として彼ら夫婦は天下を平定できたのだ」という常識のワクの中で理解すべきでなかろうか。


155 :代々の将軍家:2006/05/17(水) 21:57:10
幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、
誰も一人の御子をもたれてない

156 :家斉の姫:2006/05/17(水) 21:58:33
五十八人の子女を作った将軍家斉の姫は各地の大名へ嫁入りしているが、やはり一人も子供は産んでいない。これはもし死なれたら大変と床の間の飾り物にされていたからである。

157 :講談的発想:2006/05/17(水) 22:02:28
講談的発想では、美女に目をつけて殿が手をつけられて、御愛妾ということになっているが、実際は違う。有り得ることではない。
「・・・これこれのお方さま」と正室が決まり、側室も自分で勝手に選ぶ様なことは許されず「これがお世継ぎを産む係の女ごゆえ、きばってお励みなされませ」
とリモコンされていたのであって、美貌で側室になり子を産んで「愛妾何々の方」となって、悪家老と組んで御家乗っ取りといったことは、実際に有り得ない事である。
つまり子産み係も乳人係も御用が済み次第お払い箱が定法だったからである。

158 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 05:43:56
この電波いつまでつづくの?

159 :高柳金芳:2006/05/18(木) 18:29:53
突っ込みどころ満載なんだが、いちいち指摘するほど暇が無いからな

160 :腹は借りもの:2006/05/18(木) 20:46:43
>>155
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少な

からず、よって、腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」と出ている。


161 :腹は借りもの:2006/05/18(木) 20:48:44
これを見ると、頼朝の妻であれ、信長や秀吉の妻も、うっかり妊娠して臨月となり産業の大役で命を失っては大変とそれを避けていたから、後年石女(うまずめ)扱いをされた

のだろうと想像される。勿論奇蝶のように、生駒の後家に下請け生産させた子を、産褥の床から直ぐとりあげてしまい、これを「乳人」と呼ばれた乳出し専門の女に養育させ

て、我が子としてしまい、自分は妻の座を守って女房業に専念していればよかった

162 :平の政子:2006/05/18(木) 20:49:56
頼朝の妻であった政子が、頼家、実朝と殺させて実家の北条氏に政権を執らせ己は死に際しては敢然と源姓を拒み「平の政子」として死んだ

163 :この謎は何だったのだろう:2006/05/18(木) 20:51:33
「子はカスガイ」といった諺もあるが、彼女らに子が無かったせいか、皆、夫の死後や死ぬ時には、それぞれが裏切ったような恰好をとっている。だから(子を生まなかったの

は、名目だけの夫婦で交渉は何もなかったのではないか)と、勘ぐられもする。しかし奇蝶にしろねねにしろ、生涯禁欲していた女性にしては、生々しすぎる感がしないでもな

い。さて、この謎は何だったのだろう?



164 :この謎は何だったのだろう:2006/05/20(土) 19:21:08
>>156
将軍家の姫君を貰った大名はどうかといえば、十一代家斉のごときは子女五十四人ともいわれ、その姫を賜った大名は多い。

が、うっかり将軍様の姫を妊もらせ、お産をさせて、もし産褥熱でも出されたら、抗生物質の無かった頃ゆえ「お産は女の大役、不幸にも御逝去」では、恐れ多くて将軍家に申

訳がたたない。

165 :この謎は何だったのだろう:2006/05/20(土) 19:23:45
信州松代藩の真田幸貫は松平定信の息子で養子に入って後、やはり将軍家の姫の御降嫁を恭のうした一人だが、この人の日記の「松影抄」に「昔は稚児小姓というは衆道

の為にありしと聞くが、当節は奥向きに召し使われるが多し」の一節が有る。これを推理すると、まだ受胎させる能力のない十二、三歳の少年が選ばれて、女装させられてそ

の用、つまり御降嫁の姫様の相手をしていたものかとなる。


166 :養生訓読解令集:2006/05/20(土) 19:25:18
貝原益軒の門人樫原重軒の「養生訓読解令集」によれば、「子を産まぬ為に梅干しの種をつけし水にて洗うを良しとするも、もし経血滞りたる後にしあれば、ほおずき、いたどりの根を.......」といったバスコン法までが書かれている。

167 :山科言経日記:2006/05/20(土) 19:26:46
「山科言経日記」にも面白い記載がある。


「月さらえ薬、遡月丸」といったような妊娠中絶薬を家伝薬として商っていた旨の記載があるし、滝沢馬琴の「椿説弓張月」にも、「子おろし一服丸。経通散」の広告が、その裏

表紙には堂々と出ている。明治軍部が人的資源確保こそ、富国強兵策であると堕胎を厳重に取締まりそうした薬を一斉に摘発してしまったから、今では伝承されていなが、

かっての日本にもピルにも優る避妊薬や中条流の如き簡便な堕胎術が昔から在ったのではあるまいか。



168 :政子、ねね、奇蝶:2006/05/20(土) 19:28:48
政子、ねね、奇蝶といった婦人たちも、接して洩らさずではなく、接しても産まず、そうした産業はそれに適した女にやらせ、後は引き取って乳人をつけ、自分は

一個の人間として「脱・女」の立場から、おおいに働いて夫に天下取りするような大仕事をさせ、やがてそれがエスカレートしてその成果を自分でひっくり返してしまうようにもな

ったのだろう。


169 :中絶薬:2006/05/20(土) 20:17:15
というのは、子を産まなかったとはいえ、彼女らの勇ましさは張形をこそこそ使用して遣瀬なさを紛らわせていたような陰鬱さはない。

極めて闊達である。だからすることは十分にしても唯産まなかっただけだと想う。つまり「女はそれを我慢できない」と云われる程だから、化学薬品ではない安全確実な避妊薬

や中絶薬が昔は昔なりに在ったのであろうと推理するのである。


170 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:18:21
まだやってんのか。
そろそろ普通のスレにもどそうぜ。

171 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:34:22
政子が才女?悪女ていうのなら
後世の評価を気にする才女なんだろうな。

172 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:17:57
政子悪女とかいってるの戦前教育くらいじゃないの?
日野富子はどうだかしらんが、かなり好意的な評価だったんじゃ
なかったっけ。

173 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:12:59
政子の評価

吾妻鏡 ・・絶賛 死亡記事で呂后や神功皇后にたとえられる
       (鎌倉の神様か?)
愚管抄 ・・揶揄だが肯定的評価(女人入眼の・・・)
室町時代・・おおむね肯定的
江戸時代・・知略は誉めるもやや悪女に描く
明治〜永井路子以前・・悪女、子殺し、皇国史観による否定
永井路子以後・・・気が強いが愛情深い御台所
江戸時代にゆがめらる前は鎌倉の母として肯定的評価だな。
江戸でも機略女流の能く及ぶところあらずだからまず才女という
評価だな。

174 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:14:13
薬子もなかなかの悪女だべさ

175 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:25:30
政子は悪女というよりくそまじめな女て感じはするがね。
北条から見て政子の功績は頼朝の浮気を封じて庶子を1名
のみに抑え(しかも即出家させ)北条の外戚としての地位
を安泰にさせた事ですな。


ただ、頼家を甘やかすなと啖呵を切って以来やや政治的
な感じになったね。

176 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:33:50
政子を呂后に例えるのはなかなかうまい比ゆだな。
頼朝が劉邦て事だろう。
ただし政子は、源氏を乗っ取ってしまったが。

177 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 05:04:18
吾妻鏡の作者の思わぬ本音だよな・・呂后は。

実朝暗殺は永井氏は三浦の陰謀にしているが、
狭い鎌倉で、政子や義時に隠しきれるものではないだろう。
(三浦が企めば)現に伊賀氏の乱や時政の陰謀を事前に
つぶした政子様がそんな抜けた人には見えないね。


178 :中国の三大悪女:2006/06/08(木) 21:37:27
呂雉(りょ・ち、ピンイン:Lǚ zhì ?〜紀元前180年)は漢の高祖劉邦の正妻(皇后)。恵帝(劉盈)の生母。字は娥く(女偏+句)。
謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后とも呼ばれる。
中国の三大悪女と言った時に唐代の則天武后、清代の西太后と供に名前が挙げられる。



179 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 23:49:14
呂皇后は、子殺し、劉一族皆殺し寸前まで
やったんだよな。

政子も源氏皆殺しでは似たようなもんだ。
政子も日本の3大悪女だよな・・・

180 :武則天が子供をも容赦なく殺した:2006/06/09(金) 20:17:33
女性で権力を握った事で武則天は呂后や西太后と良く比べられる。しかし呂后は権力のためには積極的に動いたが、政治においては特に行った事があるわけではない。
司馬遷は呂后の事を高く評価したが、あくまで呂后が宮中でじっとしていた事が時代にあっていたというに過ぎない。
ましてや単なる権力欲だけで清を滅亡に導いた西太后などとは比べるべくもないだろう。
また古代の日本の女帝も往々にして、近い時代の偉大な女性権力者としての武則天を意識していたともいわれる。
武則天が行った政治は創業期を過ぎた唐の政治的な矛盾点を改め、人材を登用し、黄金期を導いたと言う事で司馬光などの歴史家達も非常に高く評価している。
武則天が子供をも容赦なく殺した残酷さを非難する歴史家は多いが、しかし一方で必ず武則天の政治的手腕に言及されている。


181 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:43:06
北条一族て最初は長寿なのになんで後半は
短命なんだろうね。
時政78歳なんてすごすぎる。
政子もあれだけ晩年心労が積もらなければ80歳まで生きたかもね。

なにせみんなしんじまったからねw

182 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 08:42:29
政子も没年齢は69か70才だっけ?
当時としては長生きしたほうだよな。


183 :日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:43:55
政子は69歳だったな。確か命日は7月11日だった。
子供の数が4人と少なめだったのも幸いしたかな。

そういえば義時も62歳まで生きたな。
しかも毒殺らしいから、何もなければ70歳くらいまでは生きたろうな。

当時としては長生きな姉弟だ。

184 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 21:09:24
義時てある時期までは森蘭丸みたいなかんじだったんだろうか?

185 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:15:59
政子のエピソードに
3度目の上洛のさいに実朝の後釜探しを
した話があるけど、永井先生は意図的に無視しているのは
なぜ?

186 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 21:44:15
永井先生は静やしずの話を曲解しているな・・
実朝と政子の相当激しい軋轢(国司任命の件など)
も無視している。政子の悪の面を無視?

187 :喧嘩両成敗:2006/06/21(水) 21:50:27
室町時代の大名にとって、政治的な失脚は、その政治力や発言力を失うだけでなく、生命・財産・すべてを奪われかねない深刻な重大事だった。そして、京都に住む一般の都市民衆は、
度重なる政争のなかで、ただ逃げ惑っていたり、傍観していたわけではなく、ここを稼ぎ場と、たくましく生き抜いていた。
 流罪途中に、流人が殺害されることは多く、当時の人々は流罪は死刑と同じように考えていた。なぜか・・・。
 流人を途中で殺害する行為は、落武者狩りや没落大名の屋形からの財産掠奪と同様、ほとんど慣行として社会に許容されていた。つまり、
法の保護を失った人間に対して、殺害、刃傷、恥辱、横難そのほか、いかなる危害を加えようと、何ら問題にならなかった。
 流罪というのは、室町殿にとって堂々と処刑するのははばかられるときの刑。建前上は死刑でないとしつつ、実質的に死刑とする方策として流罪とされたのではないか・・・。
 中世に取得時効が認められていた。それは20年だった。鎌倉幕府の御成敗式目第8条に、知行(ちぎょう)年紀法という有名な条文がある。
そこでは、たとえ不法な占拠であっても、その土地での20年以上にわたる当知行(とうちぎょう)つまり用益事実が認められると、
その者を正式な土地の支配者として認めることが規定されていた。


188 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:27:54
>>181
3代執権泰時の次の代から急速に寿命が短くなるな
何しろ泰時の子の時氏がたった26だか27(数えで28)で死んでるんだよな
しかも泰時より先に死んでるし
生きていれば確実に4代目執権だったはずなんだが
多分この時氏の頃から逆に短命化が始まったんだと思う

189 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:47:00
北条一族が後半短命化しなければ
あれほど執権がお飾りになることもなかったろうな。
時頼とか時宗とか有能だが短命すぎる。
鎌倉幕府短命の理由は案外そんなとこが原因かも

政子や時政が晩年あれだけ権勢を誇ったのも当時は
長生きそのものが果報だったからだろう。

190 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 01:05:41
>>188-189
毒殺された執権が多かったんじゃないか。
時氏、時頼、時宗、貞時。
どれも自分の母親より早く死んだんじゃないか。
どう、考えても異常。

191 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 03:03:24
>>190
その面子だと執権っつうか得宗だな
時氏は執権にはなって無いし
もっとももう少し長生き せめて泰時が死ぬまで生きていれば
確実に執権にはなっていただろうけどな
やはり時氏以降の得宗の急速な短命化は
何かおかしいって言うか裏が有るものなのかな?
得宗以外の北条分家が必ずしも短命でも無いのを考えると
実際に得宗と分家はそれほど仲が良い訳でもなかったのか?

それにしても思ったんだが時氏の曾孫が貞時なんだが
貞時が生まれた時もし時氏が生きていたら数えで70
今の年齢だと68か69って事になる
今の時代男で70なんて長生きにもならない年齢なんだよな
もっとも当時は今よりも寿命が短い事を考慮しても
20代〜30代でころころ死ぬのはやっぱり早すぎるしおかしい

192 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 06:32:49
政子って妹が11人もいるのか。

193 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 19:37:26
萩尾望都

194 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:29:02
時政は娘をかたぱしから
名門に嫁がせたからな。
足利とか平賀が有名だな。

195 :日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:54:25
政子が悪女かといわれれば大悪女だろうな。
情け深い、情の厚い大悪女だな。


196 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 13:25:22
女性でいつかまた大河ドラマの主役になりそうな人物第一候補。

197 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:04:47
なんだこのスレ、まだ稼動してたん・・・
つかいまどき悪女とかいってる人ってあんまりいないよな。
それでコケたんだよ去年の大河。
中の人を源平物視聴率トップ大河の主役なんかと比べるのはちょっとかわいそうだ。

大河主役時予想配役・・・天海祐希、篠原涼子、米倉涼子、このあたりかな〜。
直見姐さん再登板でもいいけど、ちょっと艶やかさがないんだよな。
政子って日本史上の女性の中ではかなりエロキャラ。
北条時宗のときの浅野温子とか結構イメージだった。
んでも去年のコケの反動でいい人に描かれ過ぎて、
周辺が悪く描かれすぎるのもイヤだなあ。

>>193
ついでな話だが萩尾望都、頼朝の話を読み切りで書いてて、
政子がどこまでもついていきます的なかんじでちょっとだけ出てきた。
タイトル失念。単行本で読んだ。


198 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:41:59
>>197
政子ってエロキャラ?どこが?

199 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:52:37
>>192
家来より多かったりして

200 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:54:04
かけおちしたからか、
夫婦喧嘩といいつつ以外に頼朝と仲がいいからか?


201 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:41:48
>>200
なんだかんだいっても仲はよかったんだろうな。
実朝の誕生がそれを証明しているv

202 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:08:29
あれだけ嫉妬深い妻を離縁しなかったのは
腐れ縁?
それとも本当に愛していた。
政子は、周囲の人間に対して情け深いよく気がつく
女だったらしい。
実は千代タイプの賢妻だったかもしれないな。

203 : 南宋亡命を企て:2006/06/30(金) 22:50:06
頼朝の死後、源実朝は北条政子ら一族の圧迫に堪えかねて、1217
年(建保五年)に南宋亡命を企てねばならなかった事実もある


204 : 文治革命:2006/06/30(金) 22:51:48
文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐
し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおく


205 : 公卿の主だった者は斬首:2006/06/30(金) 22:55:25
貞応二年二月というのは北条平政子の
命令で、御所を占領後鳥羽上皇を隠岐の土牢、順徳上皇を佐渡岩牢。土御門上皇を土
佐の石牢に幽閉。
 公卿の主だった者は斬首され


206 : 本当は「まさ子」ではない:2006/06/30(金) 23:00:35
北方系だった日本原住民系が女天下だったのは、「えびす」が何を意味するのかで
も明白であるが、大正時代には「エビスビール」というのがあり近くリバイバルされ
るそうだが、それが満州樺太へ出荷されたところ、どうした訳が一本も売れなかった
という話がある。
 なぜかというと、えびすという言葉は今でも向こうの人たちが、女性自身をさす用
語だからである。
 現在、関東方面で、それに当る言葉の語源は、「あま将軍」の名をほしいままにし
た北条政子の権勢をおそれかしこみ、その名に、おの敬語をつけそれ自身をよんだも
のである。
 いうまでもないが彼女が政務をとっていた所は、「政所」と書くが、これは「まさ
どころ」とはいわない。つまり名前も本当は「まさ子」ではない。
 また関東以西などで、女性自身をよぶ言葉も、原住民が昔いれられていた「別所」
の発音から訛った「おべっちょ」とか祖宗を意味する「おそそ」といったものが多い
のもこのわけである。


207 : 不敬罪:2006/06/30(金) 23:05:08
古平氏の夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条一族。
 大進駐して天皇から上皇まで隠岐や佐渡へ配流し土牢へ生涯入れ、藤原の公家は斬
首したから、北条政子ことサンカ人の女上位での女神だったらしいが、今では不敬罪
ゆえ決してサンカ人は、この話は絶対に秘密にして話などせぬ。


208 : 流罪:2006/06/30(金) 23:11:09
流罪途中に、流人が殺害されることは多く、当時の人々は流罪は死刑と同じように考えていた。なぜか・・・。
 流人を途中で殺害する行為は、落武者狩りや没落大名の屋形からの財産掠奪と同様、ほとんど慣行として社会に許容されていた。つまり、法の保護を失った人間に対して、殺害、刃傷、恥辱、横難そのほか、いかなる危害を加えようと、何ら問題にならなかった。
 流罪というのは、室町殿にとって堂々と処刑するのははばかられるときの刑。建前上は死刑でないとしつつ、実質的に死刑とする方策として流罪とされたのではないか・・・。


209 : 承久記:2006/06/30(金) 23:29:29
「板東方(ばんどうがた=東国=鎌倉方のこと)の兵ども,深草・伏見
・岡屋・久我・醍醐(だいご)・日野・吉田・東山・北山・東寺・四塚
に馳(は)せ散り馳せ散り,あるいは1,2万騎,あるいは4,5千騎,
旗の足をひるがえして乱入す.大臣,北の政所(きたのまんどころ=摂
政の妻),女房,局(つぼね),若い女房,遊女にいたるまで,声をたて,
をめき叫び,立ちまよう.天地開びゃくより王城洛中のかかる事いかで
有らじ.かの保元のむかし,また平家の都を落ちしも,是ほどにはなか
りけり.名をも惜しみ,家を思う重代の者共は,ここかしこの大将にさ
しつかわされて,あるいは討たれ,あるいはからめとらる.(中略)戦
したるすべも知らぬ者どもが,あるいは勅命(ちょくめい=天皇の命令)
にかりだされ,あるいは見物のためにい出くる輩(やから)ども,
板東の兵に追い詰められたる有り様は,ただ鷹の前の小鳥のごとし.
射殺し,切り殺し,首をとること若干なり.板東の兵,首一つづつとら
ぬものこそなかりけれ」と書いています.

210 : 乱後の処置:2006/06/30(金) 23:30:44
後鳥羽上皇−隠岐の島に配流/上皇の持っていた荘園はすべて没収

順徳上皇−佐渡が島に配流

土御門上皇−土佐に配流

貴族で上皇方についた6人−実朝の妻の兄「坊門忠信」一人が流罪となり,他は処刑(死刑)

上皇方についた武士−ほとんどが処刑(死刑).領地はすべて没収



211 : 「乱」か「変」か:2006/06/30(金) 23:48:01
昔は「承久の変」と言ったが今は「承久の乱」という。
これは南北朝時代の「建武の中興」を今は「建武の新政」というのと
同じことだ。つまり皇国史観(天皇絶対史観)では、
「天皇家がこの国を直接統治するのが正しい姿だ」ということになる
から、建武年間(1334〜1336)に行なわれた後醍醐天皇の
親政(直接統治)を、「正しい政治の一時的復活」と捉える。
だからこそ「中興」という表現になる。

 同じように、「天皇家絶対」なら後鳥羽上皇が幕府側に仕掛けた
戦争は「乱」ではないことになる。乱は単なる「動乱」という意味
もあるが「反乱」と解するのが普通だからだ。つまり、下級者の上
級者に対する反抗である。これでは天皇家(後鳥羽上皇)が幕府よ
り下位ということになってしまうので、昔は「乱」と言わずに「変」
と言ったのだ。「変」だと「変事」ないしは「災難」の意味になる。


212 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:43:46
このスレって意味あんの?

213 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 11:03:42
最初のころはまだなんとか良かったが、コピペ厨がわき始めてから
意味がなくなった。

214 :関東の国母:2006/07/01(土) 17:17:17
明治の天皇制国家の洗脳教育で、関東人はすっかり郷土に誇りを持てない自虐的な
人間に成り果ててしまったようだ。
俺の祖母は平気で北条政子の悪口を言っていたが、今から考えてみれば祖母は
天皇制による関東人敵視の洗脳教育を受けていたのだろう。
しかし、北条政子は「関東の国母」とでもいうべき人物なのである。
承久の乱の際の政子の演説が、多くの鎌倉武士の魂を奮い立たせ、関東側に大勝利を
もたらす原動力になったのだ。
そしてその結果、鎌倉幕府(関東国家)はその基盤を固めたのではなかったのか。
そんな北条政子のことを真の関東人ならば絶対に悪く言うべきではない。
今こそ我々関東人はアズマ思想を興隆し、郷土の誇りを取り戻さねばならないのだ。



215 :東国人:2006/07/01(土) 17:21:00
日本の歴史は、東国文化こそが真に優越した文化であることを証明している。
平安以降、堕落した西国人は、堕落した政治体制しか作りえず、
東国人こそが、堕落した西国文化を打倒して、美しき歴史作り出してきたのである。

承久の乱しかり、建武の新政しかり、室町幕府の堕落しかり、織豊政権の堕落しかりである。
東国人は、これら堕落した下等な西国人による腐敗した文化を打倒し、
健全な政権を東国に作り出してきたのであり、
西国は東国に支配されることによってのみ、まともな文化発達が遂げられたのである。
明治以降の歴史は、西国人による日本総堕落化の自虐的歴史であり、
我ら独立自営の東国人によって、打倒されねばばらない!!!


216 :高師直:2006/07/01(土) 17:23:31
我らアズマにとって、室町初期こそは理想の時代であろう。天皇を追放見殺しにし、
護良親王を筆頭に天皇の皇子を斬殺・毒殺などでジャカジャカ虐殺し、アズマの理想
を実現していった。なんと痛快な時代ではないか!
 これって、今の時代でいえば、アキヒトを廃位したり、ヒロノミヤやアキシノを斬殺
するようなもんだろ。テンコロどもサイゴク人の洗脳で牙を抜かれた我らアズマは、
このような室町初期の自由闊達なアズマ武者に学ぶべきではないのかね?
 ここに「太平記」より抜粋の足利高氏の執事「高師直」の名演説を上げておく。
我らアズマは、高師直の精神を見習うべきであろう!


217 :美濃国守護土岐頼遠:2006/07/01(土) 17:24:59
高師直は口だけだが、光厳上皇の行列に行き会った美濃国守護土岐頼遠は、
「院の御幸にてあるぞ」という院の随臣の言葉を聞いて、「なに、院と言ったのか、
犬と言ったのか、犬であれば矢を射てやろう」と言って、犬追物の射的よろしく
上皇を射的の的にして射掛けて遊んだんだよな。オチャメな土岐頼遠のお遊びの中、
「コワヒー」「タスケテー」と泣き叫びながら、生きた心地なく必死に逃げ惑う
光厳上皇の姿を思い浮かべると笑いがこみ上げてくるよ。
 しかも光厳上皇自体が、偽の儀式でアズマに擁立された傀儡半帝の偽天皇ときた
もんだ。ほんとに室町初期は皇国史観に毒されない良い時代だ。作る会などが足利高氏
や室町政権を敵視するわけがわかるよ。ウヨクソどもは、反天皇と言うとすぐブサヨク
呼ばわりするが、テンコロを徹底的に小馬鹿にし、酒の肴で射的の的にまでした高師直
や土岐頼遠も彼らの価値観から言うとブサヨクなんだろうか

218 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:01:00
私は関西人だが政子を尊敬している。
というのは、もし承久の乱で後鳥羽側が勝利していたら、
侍たちの悲願だった土地所有権の獲得はなく、
逆に公地公民制や律令制が強化されただろう。
すなわち政子側の勝利は、土地国有制を主張する勢力に対する
土地私有制(封建制)を主張する勢力の勝利なのだ。
なぜこれが偉大か。
それは、所有権概念確立のない王朝貴族社会から資本主義への移行は
有り得ないからだ。
資本主義はあくまで、原始土地私有制たる封建制(レーン制)からのみ
派出するのである。
要するに、後鳥羽上皇に対する北条氏の勝利は、
その後の日本の歴史の扉をひらくすばらしい出来事なのだ。

219 :スターリン並みの粛正:2006/07/04(火) 20:21:24
鎌倉北条氏。文治革命を推進し、幕府成立後はスターリン並みの粛正で権力
を掴む。が、それでも武家全体の支持を失わなかったのは基本的に革命を裏
切らなかったから。また天皇と真正面から戦い(後にくりかえされた玉=大義
名分を立てることなしに)、堂々と打ち破った史上唯一の例といえます。


220 :日本@名無史さん:2006/07/05(水) 19:20:34
頼朝が娘の許婚殺したせいで娘が鬱になった時は大層怒り狂って
くぁwせdrftgyふじこlp;@!!!!!111!!
と大層お怒りだったそうな。

221 :日本@名無史さん:2006/07/05(水) 19:21:37
↑すまん。「大層怒り狂って」が二回も入ってしつこくなった…orz

222 :土岐頼遠 六条河原で斬殺:2006/07/06(木) 21:00:26
父頼貞は足利尊氏に従って軍功が多く、美濃守護に任ぜられた。

 頼遠も剛毅な性格で菊池武敏や新田義貞と戦って何度も破っている。1338年、西上した北畠顕家を美濃国青野原で撃退し、北畠軍と新田軍の合流を阻止した。

 佐々木道誉、高師直と並び称されるばさら大名で軍功に驕り、1342年年光厳上皇の牛車に対して弓を引き、六条河原で斬殺された。


223 :高師直:2006/07/06(木) 21:03:22
太平記などによって『悪逆非道』の烙印を押されている高兄弟であるが、
両名とも智略に優れ、その功績も一廉のものであった。両者が理由もなく
他人を殺害するなど悪逆非道の限りを尽くしたのであれば、
名将・北畠顕家を討ち取ることなどできようはずもない。
師直の心の広さを伝える良い逸話がある。四条畷の戦いにおいて、楠木正行
の軍による攻撃が始まった際、上山高元という武士が師直の陣中に訪ねてい
た。上山は鎧も持たずに師直の陣を訪れていたため、この危機を乗り切るべ
く、師直の鎧を一領拝借しようとした。それを見咎めた師直の配下との争い
の最中に、鎧の持ち主である当の師直が通りかかった。師直は「今、師直に
かわって働いてくれようとする者に、なにを鎧一領ごときを惜しもうぞ」と
言い、上山にその鎧を与えたのである。この四条畷の戦いでは楠木正行率い
る南朝の猛攻撃に遭い、師直は窮地に立たされた。しかしそこへ上山が突如
現れ、師直の身代わりとなり討死したのである。


224 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 22:58:28
実朝って嫁さんと子供いたのか?

225 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 21:10:43
嫁は公家で
子供はいないことになっているが。

226 :源 実朝 子は残さず:2006/07/11(火) 22:56:47
鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると
十二歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に
執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として
初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に
襲われ落命した。子は残さず源氏の将軍は実朝で絶えた。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選
ばれている。家集として金槐和歌集がある。



227 :弱冠27歳で殺されました:2006/07/11(火) 23:03:49
操り人形を進んで演じ続けた実朝が、和田合戦以後変化します。
北条義時に反抗し始めるのです。
大船を建造して宋に渡航しようします。(失敗に終わりました。)
また、武家社会で認められないことの反動からか、官位昇進を望む
ようになります。和田一党の慰霊や実朝の変化は、自分の将来の
不安の反映です。そして、不安は的中し、虎の尾を踏んだ実朝は、
兄,頼家同様暗殺されます。自分が望んだ官位昇進に成功し、
弱冠27歳で右大臣になりました。その鶴岡八幡宮での就任式が
無事終わり、ほっとした退出際、殺されました。

228 :『金槐和歌集』全七百首:2006/07/11(火) 23:08:07
[あれは何という名の鳥であったか、母鳥が敵から雛鳥を護るために自ら傷ついた振りをして敵をおびきよせることもあるそうな]
 悲しいかな実朝の母政子はこうした母性は片鱗すら持たぬばかりか、逆に己の権勢欲と嫉妬心から母を信じて慕っていた兄を惨殺して顧みなかった。

 慈悲の心を

 ものいはぬ四方(よも)の獣すらだにも
   あはれなるかなや親の子を思ふ

 [物も言えぬ獣達でさえも、親が無私の愛情を子供の上に注ぐものであることに、私は感動せずにはいられない。
およそ生きとし生けるものにおけるまことの慈悲の心とは、このような母性の愛情にこそあるものだろう]

 彼の歌はいつしか自分でも気付かぬうちに、これまで誰も詠うことのなかった透明な悲しみの極点にまで到達していたと言えよう。
 ちなみに実朝が「母」を正面から詠った歌は『金槐和歌集』全七百首中では右の二首のほかには存在しない。
 実朝ほどの穏やかで誠実な心の持ち主が、詩歌の永遠の故郷とも言うべき「母」の題材を扱って、幼子と獣にしか託せなかった。
そのこと自体、彼の心に母政子の無慈悲さに対する深い絶望が宿っていた証なのである。

229 :実朝暗殺 〜 源氏嫡流の断絶:2006/07/11(火) 23:11:31
1219年1月28日、実朝の右大臣拝賀儀式が行われた。
この日の鎌倉は雪の積もる静かな日で、夜は闇に閉ざされていた。
源氏の氏神・鶴岡八幡宮に参拝した実朝は、守役の仲章と2人で
参道の階段を降りる途中、木陰に隠れていた何者かに闇討ちされた。
突然の出来事に反撃も為らぬまま実朝は絶命、仲章も共に殺害されてしまった。
犯人は頼家の遺児・公暁(くぎょう)である。
公暁は実朝が父である頼家を陥れて将軍職を奪った上、
修善寺に幽閉・暗殺したものと逆恨みしていたのだった。
ところが事件の直後、公暁も何者かに殺される。
全ては源氏の血脈を断ち幕府政治を簒奪しようとする
一部御家人らの謀事だったのだ。こうして源氏は滅亡、
幕府は御家人らの合議によってのみ運営されるようになってしまった。


230 :実朝暗殺の謎 本当に公卿だったのか?:2006/07/11(火) 23:14:31
時は1219年の1月27日夜。

右大臣就任を、氏神である八幡大菩薩に報告した、その帰りに鶴岡八幡宮で実朝は暗殺されました。なぜ謎が発生するかというと、この時居合わせたのが公家であり、公暁の顔はしらなかったからです。ただ本人が、自分は公暁だといっただけでした。

また、このとき公暁が「親の敵はこのようにして討つのだ」などといったことから、「頼家を殺したのは実朝だ」と吹き込まれていたと推測できます。

ともあれ、実朝は殺され、公暁も追っ手の武士らに殺されてしまいました。こうして真相は分からなくなってしまったのです。



231 :二男二女:2006/07/11(火) 23:17:59
父親・頼朝(1147−1199.1.13   )

母親・政子(1157−1225 幼名 不明)

長女・大姫(1178−1197 幼名 不明)

長男・頼家(1182−1204 幼名 万寿)

次女・乙姫(1186−1199 幼名 三幡)

次男・実朝(1192−1219 幼名 千幡)



232 :文人将軍実朝:2006/07/11(火) 23:26:42
実朝は言わば「ダメ将軍」ではありました。
将軍・政治家としての実績はほとんどありません。
しかし、この時代の文化に対しては確固たる足跡を残しています。
「古今和歌集」「新古今和歌集」や、奈良時代の「万葉集」を愛読し、
当時最高の歌人であった藤原定家とも交流がありました。
自らの歌集「金槐和歌集」も完成させています。
短い生涯であったがゆえ、歌人として未完成ではありましたが、
それだけに個性的で、歌の随所に光るものをのぞかせていました。
後世の歌人や評論家も実朝を高く評価しています。将軍ではなく、
歌人として生涯を送ったならば、大歌人として歴史に名を残して
いたかも知れません。そういう意味でも、実朝は「悲劇の将軍」
であったのです。

233 :箱根路をわれこえくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ:2006/07/11(火) 23:31:58
高名な歌で、十国峠に歌碑が建っているほどだが、単に風景を詠んだ
ものではない。生涯にたびたび行なった二所詣(もう)で〔箱根権現と
伊豆権現〕のさいに詠じられたものだが、そもそも彼がこのように信
仰にうちこんだ動機が、先に述べたような事情から発しているとすれ
ば、神詣での途上で接した風景は、一つの心象風景でなければなるま
い。小林秀雄氏は、そのエッセイ「実朝」(一九四三)のなかで、この
歌を「大変悲しい歌」であるといい、さらに、「大きく開けた伊豆の
海があり、そのなかに遙(はる)かに小さな島が見え、またそのなかに
更に小さく白い波が寄せ、またその先きに自分の心の形が見えてくる
といふ風に歌は動いてゐる。かういふ心に一物も貯へぬ秀抜な叙景が、
自ら示す物の見え方といふものは、この作者の資質の内省と分析との
動かし難い傾向を暗示してゐる様に思はれてならぬ」と鑑賞している。

234 :日本@名無史さん:2006/07/12(水) 08:35:20
週刊日本の100人に登場まだあ?

235 :源頼家:2006/07/12(水) 10:45:10
北条氏からの刺客により修禅寺門前の
虎溪橋際にある箱湯で暗殺される
このとき頼家は23歳という若さであった。


236 :青年指導者:2006/07/12(水) 10:48:38
正治元(1199)年、源頼朝は急逝し、十八歳の嫡男頼家が遺跡を継承した。武勇の誉れすでに
高い彼は、父の残してくれた幕府吏僚を率い、新たな武家の棟梁として振る舞うはずであった。とこ
ろが僅か三カ月後、頼家は訴訟の裁決権を奪われ、幕府宿老十三人が代わりにこれを行うことになっ
た。十三人の合議制と呼ばれる措置である。

 十八歳という年齢は、現代の私たちには若すぎるように見える。けれども名執権といわれた北条時
頼の執権就任が二十歳、蒙古襲来の激動に対処した時宗は頼家と同じく十八歳、得宗専制を現出した
貞時は十四歳。当時としては青年指導者は奇異な存在ではなかったし、頼家も十分な判断力を備えた
成人として認知されていた。だから十三人の合議制は、表面的な理由付けはどうあれ、頼家が若年で
あるが故に導入された制度ではなかった。



237 :頼家の暗殺:2006/07/12(水) 10:51:35
『吾妻鏡』は死因について一言も語らない。『愚管抄』は入浴中に刺客に襲われ、激しく抵抗
した後に刺殺されたと記すが、おそらくそれが真実に近いのであろう。


238 :源範頼も自害:2006/07/12(水) 10:57:03
頼家の叔父である源範頼も、兄・頼朝に疑われ、
日枝神社(修禅寺のそばに現存)の下にあった信功院に幽閉され、
自害を遂げている。

239 :政子の指示:2006/07/12(水) 11:17:45
政子が、頼家、実朝と殺させて実家の北条氏に政権を執らせる

240 :使い棄て:2006/07/12(水) 11:30:21
政子が打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、
使い棄てみたいに主だった者をぶっ殺して天下を北条氏のものとした。

241 :政子の偉業の数々:2006/07/12(水) 11:35:10
政子の偉業の数々(真偽が定かでないものも含む)

1、頼朝の愛人宅を破壊or放火
2、頼朝暗殺説あり
3、孫・一幡を、比企氏もろ共殺害
4、長男頼家を殺害を指示
5、父時政を幽閉
6、次男実朝・孫公暁の殺害を指示
7、後鳥羽上皇−隠岐の島に配流/上皇の持っていた荘園はすべて没収
  順徳上皇−佐渡が島に配流
  土御門上皇−土佐に配流
  貴族で上皇方についた6人−実朝の妻の兄「坊門忠信」一人が流罪となり,他は処刑(死刑)
  上皇方についた武士−ほとんどが処刑(死刑).領地はすべて没収

242 :政子の偉業の数々:2006/07/12(水) 11:42:33
自分は天寿を全うする

243 :日本@名無史さん:2006/07/13(木) 05:20:04
2と6以外は事実だから。
日本史上では相当な人物でしょう。
承久の乱は中世最大の内乱で鎌倉幕府・武家政治の
出発点ですからその時の実際の鎌倉殿政子はもっと
評価されてもいいと思いますね。
2は偶然の事故では?
6は三浦説もありますが。いかがでしょう。

244 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:03:22
頼朝亡き後の鎌倉幕府の特徴を簡単に言えば、政子など伊豆韮山の北条一族によ
る専横の歴史ということになるだろうが、どうも、そういった単純な側面だけではなさそう
である。
 鎌倉幕府の父が頼朝であれば、政子は鎌倉幕府の母として、胎児の段階から育てて
きた。そして、ひとたび鎌倉幕府が生まれ落ちてからは、鎌倉幕府あるいは武家政権
そのものを守るためであれば、政子は私情を捨て、あらゆる犠牲を払ったのではな
いかと思えるのである。
 政子は、そのためであれば、鬼神のごとく振る舞い、手段を問わなかった。実家の伊
豆・北条の父(時政)を利用し、また、最後は、その父を追放して、弟(義時)と組む。ある
いは、自分の子供である頼家、実朝、さらには自分の孫(頼家の子供)まで、次々と不審
な死を遂げる。比企氏、和田氏などだけではなく、身内も含め、鎌倉幕府を守るために
は、あらゆる手段で反対勢力を根こそぎ排除していったのだ。
 当時、鎌倉幕府は、何しろ初めての武家政権であり、政権の内外にわたり、制度的に
も、権力的にも、政治的にも、あらゆる面で想像以上に安定していなかったのではな
いかと想像できる。すなわち、鎌倉幕府は、初代創業者社長・頼朝の圧倒的に偉大
な個人的な人望や実力のみに依存して維持・運営されていたのであり、まだ、政府と
しての体制的な安定感には欠けていたのではないかと思えるのである。
 

245 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:03:53
だから、1199. 1.13に頼朝が死亡した後で不安定になることは必然だった。そのよう
な中で、17才の頼家(1182〜1204)が跡を継ぐということでは、父・頼朝の穴を埋め
られるはずもない。それを誰よりも痛感した政子は、やむなく、出家した後も乗り出し
て守らねばならぬほど不安定な幕府であったと筆者は推定するのである。そこで、親
父の代からのオジサンたち宿老十三人の合議制が始まったのだが、「比企の乱 (1203.9.
2) 」により頼家の頼る比企氏は全滅させられ、北条氏の支配が確定的になる。
 こうした中で頼家は除かれ、1203.9.7、今度は頼家の弟・千幡が、後鳥羽院から「実朝」
の名を賜り、同時に従五位下征夷大将軍に任じられる。3代将軍に実朝が就任するのだ
が、今度は公然と初代鎌倉幕府執権に北条時政が就任する(1203)。源氏3代を通じ
た北条との紛争の中で、2代目の頼家は反撃を試みたものの既に形骸化に向かう過渡
期にあり、3代目の実朝の時点では完全に「象徴としての将軍」となってしまう。
 以上のとおり、草創期の鎌倉幕府は、中小企業の初代創業者(頼朝)、二代目(頼
家)、三代目(実朝)を見るようであり、さしずめ、北条氏は筆頭の番頭だろうか。鎌倉幕
府は、同族企業としては、3代で終わってしまった。

246 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:04:50
1199年、やり手の創業者(頼朝)が落馬して52才で死に、17才の長男が二代目の若社
長(頼家1182〜1204)として後を継いだはずなのに、出家したはずの自分の母親(政子)
と、その祖父が努める番頭(北条時宗)の圧力が強く、船出して非常な苦労をしたのでは
ないかと想像する。
 当時、頼家は若いというよりも子供である。高校3年生程度の年齢の頼家にとって、将
軍としての自分の権限を抑えようとする母親・政子と北条氏、自分の側に立ち支援する
頼家の妻(比企能員の娘・若狭局)とその実家との深刻な確執は耐え難いものであった
に違いない。
 そうした中で、1199.4には親父の代からの番頭連中十三人の合議制により重要事項が
決められることになってしまう。すかさず、頼家は自身の信用する家臣に「鎌倉中勝手自
由」を与えるなど、対抗するのだが、将軍としての実権をめぐる争いは底深く流れている。
やがて、1203年8月、なぜか頼家は危篤になる。

247 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:05:52
回復後、頼家は、「時政追討」を比企能員に命じるが、その情報は政子を通じて時政に
漏らされてしまう。その家督を巡って起きた「比企の乱 (1203.9.2) 」を経て、妻の実家の
比企氏は全滅、自分も修禅寺に幽閉 (9.29) される。しかも、翌年1204 . 7 .18 には北条
時政に修禅寺で殺されてしまう。
  この時政は、政子の父であり頼家の祖父である。次の世代を築くべき孫が祖父に殺さ
れるというのはどうなのだろう。古今東西を問わず、あまりないのではないかと思う。何
か、よほど「やむをない事情」が起きたものと思うが、愚管抄に言う「世の中心ちの病」と
いうのは何だろうか。

[愚管抄]   1203年9月10日

 頼家入道をば、伊豆の修善寺と云う山中なる堂へをしこめてけり。頼家は世の中心ち
の病にて、八月晦日にかうにて出家して、廣元がもとにすえらる程に、出家の後は一万
御前の世に成ぬとて、皆中よくて、かくしなさるべしとも思はで有けるに、やがて出家のす
なはちより病はよろしく成りたりける。九月二日かく一万御前をうつと聞て、こはいかにと
云て、かたはらなる太刀をとりて、ふと立ければ、病のなごり誠にはかなはぬに、母の尼
もとりつきなどして、やがて守りて修善寺にをしこめてけり。

[愚管抄]   1204年7月18日

  修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒
をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなり
けり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻にして、一万御
前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。

248 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:08:16
以上を整理をすれば、政子に関して興味深いのは、北条の執権政治が確立するまで
の間、@周囲の者、特に、北条家以外の有力者が不自然かつ連続して死亡してい
ること
A父・時政や弟・義時など、北条側との濃密な連携関係が常に維持されていること

の2点である。
 実朝といえども、当時は現職の3代将軍。直接に手を下せば逆賊、謀反者。配下や地
方豪族の信頼も失う。そこで、まだ未熟で思慮の浅い公暁(20)に殺させておいて、直後
に、そそのかした当人である三浦義村が、その逆賊を誅殺した正義の味方になる。こうし
た台本を事前に書いておいて、義時自身は当日は欠席する。家で高見の見物をしている
だけで、北条政子と義時は全くリスクを負わず、謀反者にもならず、後鳥羽院の影響
を排除して引き続き執権政治を確立できたのである。

249 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:24:09
公暁だけでなく、三浦義村も非常にお人好しのお馬鹿な役回りだ。しかし、当時、和田
合戦以降、三浦一族の裏切り者として、「友をくらふ也」とさげすまれていた義村として
は、北条と手を組み続ける以外に生きる道はなかったはず。そこを北条につけ込まれ
ていた三浦義村は、常に北条の台本を断れないところに追い込まれており、北条の走狗
となるしかなかったのではないかと思う。だから、この後、たとえば「承久の乱(1221)」に
際して、北条氏を憚って上皇方に味方した弟・胤義の幼い遺児たちを田越川で処刑した
りということをしている。いったん脅迫に応じると、後は歯止めがきかないのだ。和田合戦
で義盛を裏切った代償は三浦義村自身に最も大きく降りかかっていたはずである。
 そして、やるせないのは、三浦一族全体として、これほどの代償を払っても、やがて、時
頼の代になって、三浦氏の大多数は北条に討伐され、三浦泰村、光村ともに敗れて自害
することになることだ(宝治合戦1247)。三浦義村が和田義盛を裏切った和田合戦
(1213)から、承久の変(1221)と宝治合戦(1247)までの35年弱の短期間のうちに、
三浦一族全体としては櫛の歯が抜けるように北条に勢力を削がれていったのだ。
繰り返すが、公暁だけでなく、三浦義村は非常にお馬鹿な役回りだ。

250 :政子は鎌倉幕府の母:2006/07/13(木) 21:36:07
>>243

2 北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、
梶原源太を下手人と[して]殺す

6 実朝の暗殺は、やはり真の黒幕として北条の陰が見え隠
れする組織犯罪だったのではなかろうか

251 :頼朝の死:2006/07/13(木) 21:45:40
北條九代記という文書の中に、頼朝の不可解な死に対する記述がある。
それは短いが実に奇怪な話だ。建久九年(1198)十二月二十七日、
頼朝は、相模川にて、行われる橋供養に出かけのであった。この橋は、
稲毛三郎というものが、建久六年七月に亡くなった妻の冥福を祈って造
ったものとされる。亡くなった妻は、実は頼朝の妻政子の妹というから、
頼朝にとっては、義理の妹にあたる。式はやがて滞りなく終了し、
散会となる。
八的原(やまとはら)という差し掛かった所で、馬が俄に興奮しだし、
ただならぬ気配が生じて、頼朝の頭上に義経主従と伯父源行家の亡霊が
現れたのである。その亡霊たちは、ただじっと頼朝の顔を見据えていた
ということだ。頼朝は、その亡霊たちの姿を絶えがたい恐怖を感じ、
汗を掻き身を縮めた。何とか持ちこたえて、先を急ぐと今度は稲村ヶ崎
の辺りで、波間に十歳ばかりの童が現れて、じっと頼朝を見ている。
幼くして壇ノ浦の藻くずと消えた安徳天皇の亡霊っだった。
流石の頼朝も、心の平穏を保つことが叶わず、ついに気を失い、
馬から落ちて倒れてしまった。

それからは、様々な加持祈祷が試みられた。
しかし頼朝の容態は一向に良くならない。やがてこれまでと思った周囲は、
年も明けた正治元年(1199)正月十一日に頼朝を出家させ、
十三日に時の最高権力者は呆気なく身罷ったのであった。
この時頼朝五十三歳、背筋が凍るような、しかも首を傾げたくなる怪しげ
な死である。。

252 :落馬事故:2006/07/14(金) 19:32:49
頼朝の死因として最も一般的なのが、落馬事故説である。
素人が頼朝の死について調べようとすると、百科事典や教科書その他で、
死因を落馬事故とする記述を目にすることになる。
前述の相模川の橋の落成式の帰途、頼朝が乗馬していた馬が暴れ、
落馬した折に頭部を強打したことが原因で死亡したというのが、
一般的な認識のようだ。武家の棟梁である頼朝が落馬したというのは、
少々考え難いが、落馬したということ自体は、事実のようだ。

落馬の原因については、頼朝の死因と直結するため、諸説あるようだが、
その中でも脳溢血を起こして落馬したのではないかという説が、最も有力
であろうと考えられている。また俗説の中でも良く知られているのが、
安徳天皇亡霊出現説である。落成式からの帰途、安徳天皇や平家一門の
亡霊が出現、これに驚いた頼朝が腰を抜かして落馬したというものだ。
この他にも、義経亡霊出現説などがあり、また吃驚して落馬したのが
原因ではなく、それら亡霊の祟りによって死亡したのではないかという
説もある。

落馬事故説は以上のようなものだが、真山青果がパクったと思われるのが、
頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとして、警備の安達盛長に誤って斬
られたという説である。頼朝女装誤殺説は、作者真山青果の独創ではない
というわけだ。安達盛長がどういう人物だったのか不明だが、『傀儡船く
ぐつぶね』というタイトルで初演された1919(大正8)年の段階で、何故名前
を畠山六郎重保と変える必要があったのかについては、疑問が残る。
いずれにしても、このようなありそうもない仮説が後世に伝わるほど、
頼朝の女癖が悪かったということだろう。

253 :怪しすぎるぞ 北条家:2006/07/14(金) 19:36:41
部門の棟梁が落馬・・・?んな馬鹿な。はっきり言って恥ずかしい。
頼朝には頼家と実朝という子があったが
その後のイザコザで頼朝の子孫は絶える。
ここで、妻である北条政子が実権を握り、
たんなる御家人でしかなかった北条一門による
執権政治が始まるんだけど・・・。
やはりタイミング良すぎる頼朝の死。怪しい。
怪しすぎるぞ 北条家・・・


254 :日本@名無史さん:2006/07/14(金) 19:39:01
>>253
北条氏は将軍の外戚であり単なる御家人ではない。

255 :頼朝が北条政子の旦那:2006/07/14(金) 19:41:03
学者に「北条政子は頼朝の妻なのではなく、
頼朝が北条政子の旦那なんだ」まで言われる、
そんなカンジの頼朝さんです。
でも東国勢力の旗頭としてはなくてはならない存在、
には違いあるまい。血統を重んじる時代だから。
 そんな彼の死因は、謎とされています。
死ぬまでの10年間と死んでから少しの間、
幕府の歴史書である『吾妻鏡』がすっぽり抜
け落ちているからです。で、死んでから13年も経ってから、
「頼朝は相模川の橋供養に列席し、その帰途落馬して、
それが元となって死んだ」と書かれただけ。
脳か心臓の病で落馬し、死んだものと考えられています。
 これだけの有名人の死因が明らかにされないのだから、
まあ憶測はイロイロ飛んでいて面白いわけですが。
しかし武士の子の死因が落馬はないだろう〜(汗)。
…違った頼朝は貴族だっけ(こらこら)。
まぁ少なくとも、武家の棟梁たる人の直接の死因が
本当に落馬だとしたら(病気の発作で落馬したのだとしても)、
事実は隠さざるを得ないでしょうね。


256 :殺られる前に殺れ:2006/07/14(金) 21:02:29
「殺られる前に殺れ」理論。足利義教を暗殺した赤松満佑はその典型だし、明智光秀の信長への謀反も同じ要素を持つといっても過言ではあるまい。
 身内も忠臣も信じず、父の仇である長田忠致の降伏を「平家打倒に協力するなら恨みを忘れる。」と言って利用するだけ利用して、平家滅亡−用が済むと「恩賞を与える。」と言って呼び出して父の墓の前で嬲り殺しにする、
といった処分をする頼朝を見れば、どんなに手絡を立て、どんなに忠節を尽くしても「用済み。」や「謀反の気配有り」と見られたときのことを考えれば安心して奉公できる方がどうかしている。
 殊に北条氏ほどに頼朝不遇の時代より合力してきた一族にしてみれば、利用するだけ利用して、最後には警戒して滅ぼされるとなると、「その前に殺ってしまえ。」と考えても何の不思議もない。


257 :死因については:2006/07/14(金) 21:12:43
1.当時の53歳は現在の70歳ぐらいにあたり、力の弱くなった頼朝は、馬から落ちて当たり所が悪くて死んでしまった。

2.寒い季節で身体の冷えた頼朝は脳内出血をおこして落馬し、そのまま意識不明のまま死んでしまった。

3.北条氏が頼家を将軍にして、実権(じっけん)をにぎるために頼朝を暗殺した。

大きく分けて、この3つが代表的なものです。このなかでもっとも説得力があるのは2番ですが、医学の発達していなかった時代に、意識不明の人が1ヶ月も生きたのは不自然という人もいます。しかし政子は看病の時に頼朝に口移しで水を飲ませていたとありますので、
水分の補給さえしていれば1ヶ月くらいはもつのでは、とも思います。

暗殺説も、その後、頼家を殺害し、実朝の暗殺を黙認(もくにん=知っていて知らない顔をして許すこと)し、三浦氏をはじめ多くの有力御家人を滅ぼした北条氏ならやりそうな気もしますが、頼朝を殺していいことなど一つもありません。
なぜなら頼朝がいたから北条氏も力をつけられたのですから、頼朝の死は北条氏にとっても痛手のはずなのです・・・

もっとも、北条時政ならやりかねないところもあります・・時政は政子の父親ですが、頼朝よりも孫の頼家を将軍にしたかった人ですから・・・・いずれにしても親子や兄弟で殺し合う時代というのは私たち現代人にはちょっと理解できないところがありますね・・・



258 :死因 :2006/07/14(金) 21:43:29
源義家 孤独死
源義親 斬首
源為義 斬首
源義朝 暗殺
源義賢 戦死
源為朝 大往生
源行家 斬首
源義平 斬首
源朝長 傷死
源頼朝 暗殺
源義仲 戦死
源範頼 暗殺
源義経 戦死
源頼家 暗殺
源実朝 暗殺

源氏で大往生できたのは、為朝だけか・・・。

259 :暗殺:2006/07/14(金) 21:45:19
源義朝
源頼朝
源頼家
源実朝

代々暗殺される家風
頼家の息子(千幡?)も実朝暗殺後
還俗して将軍にしてもらおうと鎌倉に向かったら北条氏に暗殺されたらしい 

260 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 21:23:55
政子ぐらい、記録が詳細に残っている女性は
江戸以前ではほとんどいないだろうな。

261 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:08:41
>>260
でも頼朝と結婚する前ってじつははっきりわかってないんだよね。
本名も。

262 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:17:52
政子は貴族じゃないから本名が残っていないのは当然。
大姫と呼ばれていたのじゃないかな。多分
結婚後はすぐに奥方とか御台様だろうし。

263 :日本@名無史さん:2006/07/21(金) 04:58:13
平政子、源頼朝室、平時政遠州守女
ただし、これって1218年以降の言い方なんだよな。

264 :二品禅  尼:2006/07/23(日) 10:31:06
源政子の署名は目にしたことがありません。
 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には
 「平政子」もありますが、より多いのは「二品禅  尼」という敬称で記載され
 ています。
 「源頼朝卿妻」などでなく「平政子」という記載は 女性としてはたいへん珍し
 く、政子の特別な地位 が考慮されているものと思 われます。
 また『吾妻鏡』の時代になると政子は婚家(源氏) から実家(北条=平氏)
 への帰属を強めたのではないでしょうか。


265 :姓と苗字:2006/07/23(日) 10:39:48
姓と苗字は違います。姓は天皇家によって与えられたものですので
基本的に変わりません(勝手に変えられない)。
なので北条政子は皆さんの仰る平政子(たいらのまさこ)のままです。

ただし。苗字は変わることもあるし、また未亡人として家を受け継ぐ
場合は変わります。これは「家」を継いだからです。

また俗称、通称というものもあります。例えば日野富子。
この人は姓は藤原で、ふじわらのとみこ。その旦那は足利義政ですが。
このひとは姓は源。みなもとのよしまさ。
なのですが、通常足利、日野と呼び習わされているわけです。
ガラシャ夫人の場合もそういうものでしょうし、そもそもこれは細川氏
の夫人である、ということで、他の意味はないのです。
なぜなら細川氏も少なくとも自称は清和源氏なので、姓は細川ではなく源です。


266 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 21:05:24
北条政子は武家政治成立の大立役者だと思う。
有力御家人の権力を抑えて,幕府と得宗家を磐石にできたのも政子の存在が大きい。
マキャベリズムの申し子のような存在だ。

頼朝は朝廷よりになったから御家人総意で暗殺
実朝暗殺も理由は頼朝と似ていて,
義時が黒幕で,公暁と三浦氏ははめられたのではなかったかな?

267 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 08:23:58
山内の千代さんよりは大河向けの人物だということは分かった。

268 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 22:18:34
脚色なしに大河ドラマの主役にできる
数少ない女性だな。

269 :以前は何という名であったかは不明:2006/07/25(火) 21:30:15
北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日
(1225年8月16日))は、平安時代後期に平家を打倒して鎌倉幕府を開い
た源頼朝の正室である。正式には「平政子」。北条時政の娘。源頼家、
源実朝、大姫、乙姫(三幡)の母。夫の死後は出家し、
"尼御台"(あまみだい)と称された。また、子の頼家・実朝の死後は、
幼い将軍藤原頼経の後見となって幕政に関与し、俗に""尼将軍"と称された。
なお、「政子」の名は1218年(建保6年)、朝廷から従三位に叙された際に、
父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という
名であったかは不明。



270 :30歳と20歳:2006/07/25(火) 21:32:19
源頼朝と政子が結婚したとき、それぞれ30歳と20歳であったから、
当時としてはどちらも晩婚である。頼朝はのちに将軍にまでなったと
してもまだその頃は一介の流人であるし、一方の政子も北条時政とい
うたかが伊豆の小豪族のちょっとばかり気の強い娘だったにすぎない。

271 :存在意義:2006/07/25(火) 21:41:19
北条時政は別に政
  治的に重んじられていたわけじゃない。血縁を考えても、頼朝の弟の阿野全成なんかはとり
  こんでいるけど、比企氏という強力なライバルがいる。そうなるとさ、頼朝が将軍になって
  からの北条氏って、実は頼朝の正妻が政子であるってことにしか、存在意義を認められない
  んじゃないかな。だからこそ、政子は、また北条時政は、頼朝が他の女性に関心を示すのに
  細心の注意を払わざるをえなかった。

272 :尊卑分脈:2006/07/25(火) 21:43:02
頼朝の子は、みんな政子の産ん
  だ子だ、ってことになってるからなあ。ただ、『尊卑分脈』が頼朝の子として、貞暁・能寛
  という人を記しているのは注意すべきかもしれないなあ。島津忠久や大友能直と並んで載っ
  ているから、どうせガセネタだろうって、今まで言及されてこなかったけれど、この人、
  『仁和寺諸院家記』にちゃんと記載がある。それによると初め能寛、のち貞暁と名を改めた
  僧侶で、仁和寺勝宝院の院主だ。彼が頼朝の子であることを否定する材料は無いなあ。


273 :史上最大の猛女:2006/07/25(火) 21:44:52
我欲に逸る坂東武者の魂をつかんだ北条政子の秘密。
承久の変、死線の決断、激女・権女・鬼母・悲女・慈女…。
さまざまの顔を持ち、神功皇后に並ぶ史上最大の猛女

274 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 21:01:00
そりゃ
政子のたとえは神功皇后の再来とか呂后だもんな。
それと女房の目出度き例ともいわれるし。

頼朝と政子の関係てかなりラブラブだったと思うけどね。
普段の政子てやさしい女だったと思うよ。
でも怒ると怖かったんだろうな。

275 :御台所の権限:2006/07/26(水) 21:48:36
御台所の権限――政子が想定する御台所像は、棟梁が全権を握り、
無力な御台所がそのかたわらに寄り添う、というものではなかった。
頼朝に知らせるべきことは、御台所にも知る権利がある、
というものであった。御家人に対し住屋破却命令が出せるという検断権
の掌握とならんで、内々の指示を与える権限をも、政子は主張したのである。
文治元年以後、政子は頼朝とともに、正月には栗浜明神に参詣、
2月には源頼朝が父義朝の冥福を祈って創建した南御堂の事始に渡御(出席)、
10月、御堂供養導師本覚院公顕が鎌倉に下向したのに対面している。
このように公的行事、特に神社や寺院への参詣は、頼朝と御台所の2人が出か
け、ついでに主だった御家人の家に立ち寄るなどして、主従関係の絆をより
強めておくことが、以後、2人の手でなされているのに注目しておこう。

276 :美女たちの日本史 :2006/07/26(水) 21:50:49
悲劇の中で毅然と生きた元正天皇―『美貌の女帝』より
才女繚乱、紫式部と清少納言―『この世をば』より
道長をめぐる女たち―『この世をば』『望みしは何ぞ』より
清盛の妻時子の『平家物語』―『波のかたみ』より
東国の僻地から歴史の中へ、北条政子―『炎環』『北条政子』より
応仁の乱のヒロイン、日野富子―『銀の館』より
戦国の二人三脚、毛利元就の妻―『山霧』『元就、そして女たち』より
今川家を支えた寿桂尼―『姫の戦国』より
戦国一の美女、お市の方―『流星』より
庶民代表、北政所ねね―『王者の妻』より
信と不信の世界を生きた細川ガラシア―『朱なる十字架』より
乱世に波紋を描いたおごう―『乱紋』より
江戸の清少納言、只野真葛―『葛の葉抄 あや子、江戸を生きる』より

277 :まともなのは北条さん:2006/07/26(水) 21:53:01
日野富子・北条政子・淀殿ならどれ?

 一番まともなのは北条さんでしょうか。
日野さんはやはり応仁の乱の元になってますし、

淀殿にいたっては論外ですな。


278 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 08:22:50
コピペ厨は本屋のまわしもんだな。

279 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 18:06:21
少なくとも「修羅の刻」は資料に使えませんな
スレ違いでごめん

280 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 04:35:22
千手前とか、
みやぎくとか政子は周りの女性にはやさしかったな。

281 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 05:16:36
よくいえば無能な息子を切り捨て
実家にシフトした。
悪く言えば嫁いだ家を食い殺した。
両方とも真実なんだろうな。

282 :日本@名無史さん:2006/08/02(水) 22:46:57
比企一族との関係もなかなか微妙だね。

283 :日本@名無史さん:2006/08/03(木) 09:35:31
また再来年の大河は女性主役か。
政子様をもう一度やるべきだ。

284 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:56:42
2008年大河は大奥と来たか。
菅野美穂を思い出すね。
政子様大河をやるなら菅野美穂と思ったことも
あるのだが。

285 :日本@名無史さん:2006/08/06(日) 09:21:03
政子様をやるならエロさと知的さと威厳、そして優しさと
なにやらかすか分からないキレっぷりが必要だな。

286 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 23:36:06
息子と旦那をあれだけ
こけにした御台様は後にも先にも
政子様しかいないだろうな。
自分の息子を溺愛しないのも並みの母親じゃないしな。


287 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 23:36:37
東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 

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288 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 05:05:09
頼家との関係はまるで
継母と子の関係みたいだ。

289 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 07:27:41
最新の研究とやらでどうとでも解釈は変わるさね

290 :実際は子供は一人も産んでいない。:2006/08/10(木) 12:08:07
政子は”吾妻鏡”によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、
この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、
リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の腹
を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるなどあ
りえない。
実際は子供は一人も産んでいない。


291 :実際は子供は一人も産んでいない。:2006/08/10(木) 12:09:58
エリートの女性は、妊娠出産という一年の大半をつぶす仕事は、
ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い者に腹替わりをさせ、
自分は妻、当時は女夫(めおと)の女(め)として夫の手助け
をする仕事に専心していたのである。


292 :着帯(ちゃくたい)の祝いと安産祈願:2006/08/10(木) 12:13:55
子宝に恵まれたことを神さまに感謝し、妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)
の日に着帯の祝いを行います。戌の日が選ばれるのは、犬の安産
にあやかるためといわれ、妊婦は赤ちゃんが丈夫に育つようにと、
「岩田帯」をしめます。そして、母体の安全と赤ちゃんの健康
無事を願って安産祈願をします。

293 :腹は借りもの:2006/08/10(木) 12:19:50
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに
「雖知苦斎」と題するのが残されていて、その中に、
「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなる者少なからず、
よって、腹は借りものと称して身分家柄の高き女性は己が子を産
むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代わりをさせる」と出ている。

294 :腹は借りもの:2006/08/10(木) 12:40:11
腹は借り物 母親の胎内は一時の借り物で、生まれた子の貴賤は父の素性
によるということ。

295 :腹は借りばら:2006/08/10(木) 12:42:45
『腹は借りばら』と、かつていわれた。
「三年子なきは去る/結婚して三年たっても子どもができなければ離婚」
はまだましで、「石女(うまずめ)」とくるとこれはもういけません。
石だよ、石。人間じゃないものね。うん。



296 :腹は借り物:2006/08/10(木) 12:45:06
江戸時代の武家社会では「腹は借り物」という思想が当然とされて
いた。上は将軍家から下は足軽に至るまで、お家のために世継ぎを
残すことが主人の務めとされていたからである。その点で、一夫一
婦制の美徳に甘んじている庶民にとって、妾というものは羨ましいが、
また憎らしく映ったのは無理もない。だからこそ町人の妾となると、
これはもう川柳子の絶好の標的となった。


    川だちは川でめかけはしころされ


    しころして検死をうける恥ずかしさ


「川だちは川で、山だちは山で」をもじって、アレの専門家のお妾は、
ということであろうか。


297 :大名未亡人のご乱行:2006/08/10(木) 12:51:05
江戸時代には、歴代将軍をはじめ諸大名の中には素性のよく分か
らない側室の子として生まれた者が少なくなかった。
家督を継ぐ男子をもうけるために「腹は借り物」という考えが武家
社会に定着していたためである。
 尾張徳川家第四代の藩主吉通(よしみち)もそんな一人である。
父綱誠(つなのり)が下級武士の娘であった(とされる)側女のお
福に生ませたものである。ところがこのお福たるや大変な女性で、
夫亡き後のご乱行が度を越し、危うく尾張62万石の屋台を傾け
そうになったのだからすごい。
 元禄12年(1699)綱誠が四九歳の働き盛りで亡くなった
とき、お福はまだ35歳であった。こちらはいわゆる女盛りである。
このあとお福(綱誠没後は本寿院(ほんじゅいん)といった)の関心
が一直線に男遊びに向かったことは周囲にとって大変な災難であった。

298 :大名未亡人のご乱行:2006/08/10(木) 12:53:18
元禄15年、未亡人となって3年後のかの女について朝日文左衛門の
『鸚鵡籠中記』はつぎのように書いている。「本寿院様貪淫絶倫也、
或は寺へ行きて御宿し、又は昼夜あやつり狂言にて諸町人役者等入れ
込み、其の内御気に入れば淫戯す」
 前尾張藩主の未亡人、しかも現藩主の生母が武士町人坊主、
男と見れば手当たり次第のご乱行、とあれば幕府の耳に入らないほ
うがおかしい。口さがない巷の噂に頭を痛めた老中たちは、ついに
藩の江戸家老を呼びつけて厳重注意を発するところまでいった。
しかしへっぴり腰の家老たちの諫言など屁とも思わない本寿院は、
ますますご乱行に精を出す始末である。しかもかの女だけでなく、
亡き夫の正妻の妹で今は大名の未亡人である園姫とか、大奥の高級
女中右衛門(えもんの)督(かみ)などという悪友たちとともに派手な
遊びを繰り広げたらしい。誰とも分からぬ男の種を宿してしばしば
中絶を繰り返したり、お気に入りの藩士や藩医を江戸へ呼び返そう
と国元までラブレターを送ってきたりした、と『籠中記』に見える。

299 :恐妻家 源頼朝:2006/08/10(木) 22:12:47
恐妻家 源頼朝・・・正妻の北条政子に妾の家を焼き討ちにされても
文句ひとつ言えなかった。

300 :3年連続で夫と二子を次々に失った:2006/08/13(日) 11:36:56
頼朝は53歳であっけなく死んだ。
残された43歳の政子は18歳の頼家、15歳の乙姫、8歳の実朝をか
かえる母に戻る。前年に長女の大姫は病死していた。
政子は落飾して黒い絹布をかぶった。御台所(みだいどころ)ではあったが、
政務は父の北条時政と弟の義時、大江広元、三善康信、比企能員らに任せた。
頼家は第2代の将軍を継いだ。その直後、乙姫が死んだ。
 3年連続で夫と二子を次々に失った

301 :3年連続で夫と二子を次々に失った:2006/08/13(日) 11:38:52
頼朝は53歳であっけなく死んだ。
残された43歳の政子は18歳の頼家、15歳の乙姫、8歳の実朝をか
かえる母に戻る。前年に長女の大姫は病死していた。
政子は落飾して黒い絹布をかぶった。御台所(みだいどころ)ではあったが、
政務は父の北条時政と弟の義時、大江広元、三善康信、比企能員らに任せた。
頼家は第2代の将軍を継いだ。その直後、乙姫が死んだ。
 3年連続で夫と二子を次々に失った

302 :でたらめな政子のイメージ:2006/08/13(日) 11:47:39
長らく政子は「尼将軍」とか「男勝り」という猛々しいイメージで語られ
てきた。しかし、これは江戸時代の『大日本史』が「性妬忌(とき)ニシテ」
とか「厳毅果断ニシテ丈夫ノ風アリ」と書いたところからくるもので、
同時代の描写にはそんなものはない。いや、政子の性格を描写しているも
のなど、ほとんどないのである。
 江戸時代の判官贔屓の風潮によって義経にくらべられた頼朝の人気が落ち、
それが政子を悪妻扱いにしていったにすぎず、ほぼでたらめな政子の
イメージがつくられたといっていい。

303 :永井路子の小説:2006/08/18(金) 15:13:15
永井路子の小説や歴史エッセイの大半は文春文庫で読める。
『炎環』を筆頭に鎌倉もの、中世ものが多いが、やはり女性もの
に圧倒される。
元正女帝を浮き彫りにした『美貌の女帝』、
日野富子の生涯を初めて描いた『銀の館』、
細川ガラシャ夫人を描いた『朱なる十字架』、
お市の方の『流星』、
そのお市の方の娘で淀君の妹に焦点をあてた『乱紋』などである

304 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 22:30:10
同時代の政子の評価て
吾妻鏡の神功皇后を再生せしめとか
呂后のように政治を行ったしかないような
気がするんだが。これて普通に男勝りと言う意味
だと思うんだが。無視?

305 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 22:40:01
間を取って 熟女

306 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 23:17:33
まあしかし
女帝以外に女性政治家ほとんどのいない日本で
政子がダントツの大物なのは確かだな。
吾妻鏡の記事の数といい
千代やまつなんかとは比べ物にならない。



307 :プラム自作自演中↑:2006/08/23(水) 23:54:51
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】




308 :日本@名無史さん:2006/08/25(金) 21:29:36
静を助けた政子様は
有名だけど、旦那の心境はどうだったのかな?
夫妻の芝居だったかもしれないが。

309 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 04:56:22
中世の女性は本名が残っていない事がおおいけど、
ないのか?それとも忌み名は残さないのかな?


310 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 09:50:45
「本名」というものが必要なかったからでしょう。
必要なのは調停から官位をもらった人間だけ。
中世の女性で官位をもらった人間はごく少数

311 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 04:51:03
忌み名ていうのは女性でもあったらしいが、
今じゃ謎だな政子の実名

312 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:21:40
官位て言えば政子は晩年に
官位をもらうがこれって実朝氏が自分が摂政になり
親王を養子に迎える際に母に官位がないと
まずいと思ったから?かな。


313 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 22:37:19
なぁ、時々湧く周りの空気を読まずコピペを繰り返してる
気持ちの悪いの何とかならないのか?

314 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 05:05:47
鎌倉幕府に大奥がないのは
源氏の没落と政子様のおかげだろうな。

ただ鎌倉幕府にも出仕する女性はいたようで、
大進の局とか姫の前とか頼朝と浮名を流す女性も
いないわけではない。
ただその女性の末路は哀れだ。


315 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:24:33
貧乏能無しゲボトウニョウ喜八朗
ばかげぼキモい死ね喜八郎シネ


316 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:44:22
大奥の体制が必要なかったんじゃないの?



317 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:37:01
頼朝が側室を持つ自由があったら
結構大奥的なものを作った可能性は否定できないね。
頼朝より遥かに経済基盤のない義経でさえ
結構側室がいるからね。
奥州征服後かなりの経済基盤を得た、女が
嫌いでない頼朝が妻の妨害がなければ、
相当数の側室をおいた可能性は
否定できないでしょう。

318 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 23:01:54
側室といっても、江戸時代の大奥みたいに側室になったらなにもしなくていい的ではなく
お手つきになって子供を生んでも侍女としての仕事はする天皇家の後宮みたいな形でしょう

319 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:43:06
徳川の後宮は壮大な無駄だな。
規模は中華帝国の後宮と大差ないし。
違いは宦官がいない事かな。

320 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 08:52:38
浮気したけど、最終的に追い出されてしまう側室たち。
かわいそ〜。

321 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 15:18:59
亀の前、大進、姫の前、他にもいそうだね。
追い出されて、しかもその後の生死も定かではない。
政子様怖すぎます。


322 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 19:12:32
姫の前は北条義時の後妻にならなかったっけ?

323 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 05:00:25
これぞ姉弟の連携プレーだな。
義時は姫の前に頼朝がなみなみならない
関心を示すのを見て自分の後妻にとなのりでて
もらいうけた。
が、その後幾年もたたないうちに姫の前は姿を消し
義時には新たな後妻が嫁いだ。

324 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 03:06:57
>>323
義時怖ぇぇぇぇぇ!!

325 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 05:13:40
義時には妻が少なくとも4名以上いたそうだが、最後の
伊賀氏の妻以外はすべて死別だそうだ。
なぜか男が生まれてすぐに妻は死んだそうだ。

これてなんでしょうね。
だが義時自身も最後の妻に毒殺されたといわれている。
因果はめぐる?
サスペンス劇場なみだな。

326 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:36:05
義時の妻は
泰時を生んだ阿波の局
朝時、重時を生んだ姫の前
そして影の薄い伊具氏の娘
二階堂氏の娘
そして一番義時が愛した伊賀氏の娘(政村の母)
と少なくとも5人いるが、最初の2人は幕府の女官であり
頼朝の寵愛を受けそうだったのを自分の妻にしたようにも
見える。

327 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 04:22:45
阿波の局って義時の姉ちゃんじゃないのか?

328 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 05:11:53
別人らしい。(当然だが)
泰時の母はすぐにいなくなるし
謎の人物

329 :日本@名無史さん:2006/10/05(木) 20:53:07
義時主役の大河は一度はみたいね。

ネタ切れ気味の大河だから5年後くらいにあるかもしれん。

330 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:25:09
鎌倉大河ていえば
義経
時宗
草燃え
とかなんだろうな。
たまには頼朝主演の大河もみたいような
気もする。


331 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:25:17
見てみたいね。
何か良い原作ある?
時々起こる話題だけど、
「吉川版と山岡版は中途半端だからな〜」
という意見が必ず出る。





332 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 21:57:16
吉岡版+吉岡新平家でいいのでは

タイトルは
1話から3話 少年時代 4話 池の禅尼 5話〜7話 配所 8話 伊東
9話 初めて悲劇 10話 政子 11話 政子の情熱 12話 令旨
13話 石橋山 14話 鎌倉 15話 富士川 16話 再会
17話 懐妊 18話 うわなりうち 19話 木曾 20話 都落ち
21話 朝日将軍 22話 上皇 23話 いちの谷 24話 頼朝非情
25話 東国の花嫁 26話 苦戦 27話 屋島 28話 決戦前夜
29話 壇ノ浦 30話 京都 31話 酒匂川 32話 腰越
33話 堀川 34話 院宣 35話 天下草創 36話 北条丸
37話 吉野山 38話 静の舞 39話 安宅 40話 平泉
41話 義経無残 42話 奥州討伐 43話 上洛 44話
大将軍 45話 富士の陰謀 46話 御台所 47話 東大寺
48話 大姫の死 49話 相模川
  
   

333 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 05:07:06
書いて思ったがかなり義経とダブルな。

334 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 13:10:05
義経で中途半端に頼朝や政子もメインにとりあげたからな。。。


335 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 20:53:51
義経よりいいのは壇ノ浦以降ダレナイ事だな。
義経なんか壇ノ浦から堀川まで9話も使っているからな。
頼朝だと4話ですむ。
セットも義経を転用できるし、かなり安上がりで済みそうだ。

336 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 00:12:19
>>335
年末の最後に向かって最大の山場がくるってのが一番理想な
人物じゃないか。忠臣蔵なんかそうだし、今年の山内もそうだよね。
政子だと承久の乱というイベントが最後に来るけど、
頼朝のクライマックスって将軍就任かな。
ちょっと盛り上がりにかける気がする。


337 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 04:38:16
実は49話の相模川をメインイベントにして
頼朝暗殺にするつもりだったんだが。

338 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 04:43:23
一般的には
38話〜44話をピークにするんだろうな。


339 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:55:00
素朴な疑問だけど
吾妻鏡で原作者は誰なの?
北条ゆかりのものだと思うけど。

340 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:04:44
政子なんて大河的には理想的だよな。
初期は熱愛
中期は賢妻&源平
後期は肝っ玉おかん+尼将軍+切れもの弟
だもんな。
そして承久の乱
クライマックスと言うことのない。
さっさと草もえの再放送みたいね。

341 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:52:35
>329
義時だけだとインパクトに欠けない?
泰時も一緒にセットでするならいいんじゃないか。泰時は名君の誉れ高いし、御成敗式目制定で
武家社会の土台を磐石にしたし。

342 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:44:23
やっぱり
北条3代+頼朝夫妻という
大河もありだろう。

343 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 23:33:30
時政、義時、政子、泰時と
北条一族は有能だな。つくずく
とてももと伊豆の小豪族とは思えないね。

344 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:02:32
封建制の重要性を一番認識してたのは、頼朝ではなく北条一族だろう。
頼朝は、晩年娘の入宮にこだわりすぎ、貴族社会に近づくという愚を犯した。
これは御家人達にとっては、裏切られた思いが強かったのではなかろうか。
それに対し北条氏は、天皇の挙兵にも怯むことなく立ち向かい、それに打ち勝った。
これは何が何でも御家人の土地所有を死守するという気概が北条氏にあればこそ、可能だったのだろう。
北条氏は、もっと評価されてもよいと思う。

345 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 04:43:00
伊豆の片田舎から
あれだけ権謀術数にたけた
北条一族が突然変異で発生したのは
日本史上の謎のひとつだろうな。
しかも武家政治の基盤も作ったしな。
泰時は母も不明な謎の人物だけど功績は大きい。

346 :掛布雅之:2006/11/01(水) 01:22:14
「やはり歴史の流れというものがですよ、北条家にとって
 大きくプラスに作用したんじゃないでしょうか ハイ 」 


347 :日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:17:51
北条政子て
時政・義時に自分の子や孫が
暗殺されるのをどんな気分で眺めて
いたんだろうね。結構謎だね。

それはそうと、頼朝・時政・義時の吾妻鏡での
死亡記事のそっけなさに比べて
政子・泰時への絶賛ぶりは正直面白い。

348 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:05:50
鎌倉史の中では
有名人だが、鎌倉史そのものがマイナーだな。


349 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 03:07:46
マイナーじゃないやい!

350 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:16:10
永井路子の北条政子を読んだところです。
田舎育ちで情の濃すぎる等身大の女性として描かれていて面白かった。

最後のあたり、自分が追放した息子の子供、孫の公暁に入れ込んで
実朝を殺される結果になるあたり、「だから女はダメなんだよ!」
と突っ込まずには居られない愚かしさがリアリティありまくり。

その分弟達の描写がカッコイイですな。

351 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 22:31:40
永井さんはその後の
鎌倉幕府の守護神となった
最晩年はスルーだな。
実朝後の政子は別人だ。


352 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 19:38:18
>>351
その辺はもう有名な話だから、
あえて描かなかったとかなんかの対談で言ってた。
小説の最後の実朝暗殺後の政子の様子は十分今後の活躍を
思わせる感じだったな。

353 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:06:42
日本史て本当悪女のいない歴史だよな。
本当政子さんくらいしか悪女候補いないよ。
淀も春日の局も悪女て呼ぶには?
だもんな。

政子は最後に活躍の場のある理想的な展開だな。

354 :北条政子だけは違います:2006/11/17(金) 20:20:01
日本の歴史上の女性ってのは、悪女って呼ばれるような存在か、
単なる傀儡って存在が多いです。たいがいは、自分の息子や旦那
や一族の既得権益を守る、あるいは拡大するために、悪女と呼ば
れるような無茶苦茶なことをやったり、傀儡と呼ばれるような名
目上の存在に落ち着いたりする訳です。しかし、北条政子だけは
違います。


355 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:05:44
政子て、子供がいるねねという感じ+
淀だね。ねねも淀も不完全だよな。


356 :日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:07:17
中国にはくさるほど悪女がいるけどな。


357 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 05:52:34
東鏡で、死後絶賛されているのは
政子と泰時なのが鎌倉幕府の見解なんだろうな。

358 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:37:51
明日から伊東に2泊3日の旅行です
伊東祐親の像や曽我兄弟の塔見てきます
お土産は地酒の八重姫かな

359 :練習問題:2006/12/06(水) 11:51:50
練習問題1(同志社・2000)======= 

 源頼朝の正妻であった彼女は、頼朝没後出家したが、2代将軍となった
頼家の下での比企氏の台頭を嫌い、将軍の訴訟親裁を停止して「有力な御
家人らの合議」によるものとし、頼家の専制政治化を防いだ。父と協力し
て擁立した3代将軍実朝が暗殺されると、頼朝の遠縁にあたる「京都の九
条家」から後継者を迎え、みずから後見として、実質的な政務を担当した。

問1.この文章は誰に関する説明文か。

問2.文中の「有力な御家人らの合議」について、この合議には、幕府の
 主要機関とされた侍所・公文所・問注所の別当・執事など、13人が加
 わった。次の1〜4は、いずれも合議に連なっていた人物である。これ
 らのうち、侍所の初代別当だった人物名を1つ選び、その番号を記せ。

 1.和田義盛 2.三善康信 3.梶原景時 4.大江広元

問3.文中の「九条家」は、藤原良房の摂政就任以来摂政・関白職を独占
 した家系に属していた。次の1〜4の家系のうち、この藤原房前を祖と
 する家系を1つ選び、その番号を記せ。

 1.京家 2.南家 3.式家 4.北家


360 :解答:2006/12/06(水) 11:52:56
問1.北条政子
問2.〔1〕
問3.〔4〕


361 :練習問題:2006/12/06(水) 11:54:59
練習問題5(関西学院・90)=========

 鎌倉時代の武家の女性に関して述べた文のうち誤っているものを選べ。

1.鎌倉時代、武家社会の中で女性の占める地位は決して低くはなく、
  女性は財産の分割相続にあずかるのも普通であった。
2.女子が地頭に任じられる場合も珍しくはなかった。
3.鎌倉時代の武家の女性を見るとき、夫の源頼朝を助け、その死後には
  幕府の中心にあって尼将軍と呼ばれた北条政子の活躍は例外的なもの
  ではなかった。
4.藤原為家の妻の阿仏尼が実子と継子との所領争いの解決のため鎌倉か
  ら京都に赴いたことは、財産相続の問題に関し、女性の立場の強さを
  示すものであった。


362 :解答:2006/12/06(水) 11:56:07
4〕「鎌倉から京都」ではなくて、「京都から鎌倉」です。この問題は
 やや「ひっかけ」問題の部類に属しますが、他の正しい文章はよく理解
 しておいてください。(センター試験などの正誤問題でも必須事項です)


363 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 22:44:23
政子と姫の前
政子と若狭の局
政子と大進の局
みんなかおなじみなんだよな・・
しかも上司と部下
どろどろしてるな。

364 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 00:03:35
北条家には あげまん
源家には  さげまん

365 :北家:2006/12/10(日) 13:50:47
大化の改新の功労者の1人である、中臣鎌足は死ぬ間際に中大兄皇子から
「藤原」の性を賜った、藤原鎌足の誕生である。彼が、今から語る藤原氏
の始祖である。彼の息子の不比等は大宝律令の作成に関わるなど藤原氏の
政治での存在感は強くなっていった。
 
 不比等には1人の娘と4人の息子がいた。そして、4人の息子は
「式家」・「南家」・「北家」・「京家」とわかれそれぞれの勢力が
時代時代の政治の表舞台にたった。最後にして、最も大きな権威を振
るったのは「北家」である。

 「北家」は不比等の息子の一人房前(ふささき)の血筋である。
「北家」が政治の表舞台に出てきたのは、彼の子孫の「藤原冬嗣」である。
冬嗣は天皇家と強い結びつきを図り,式家の薬子(くすこ)が平城上皇
を再び皇位につかせようとした「薬子の変」を失敗に終わらせ、
嵯峨天皇からあつい信頼を得、蔵人頭までになった。そして、
皇室と婚姻関係を築いた。この関係が「北家」に政治に対して強い影響
力を持たしたのである。


366 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:03:56
自分は日本史上最悪の悪女として
美福門院得子をあげたい
正妻から鳥羽上皇の寵愛を奪い
自分の息子を天皇にするため崇徳上皇を悪く甘言したり
自分の息子が死ぬとそれを崇徳上皇の呪いといって
上皇の一族を追い落とし
保元の乱での不意打ちや上皇の反省の気持ちの経文を
信西と一緒に呪いがかけられていると言って讃岐に送り返したり
平家を重用して結局天皇家の没落の原因を作ったのも彼女

九尾の狐の化身である玉藻の前のモデルとも言われており
当時女人が墓を立てることができなかった高野山に
権力で無理やり墓をたてさせたらしいし


367 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:20:45
政所=まんどころ
だから
正しくは政子=まんこ
って読むんだよね。

368 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:21:01
鎌倉幕府を見ると
頼朝が早死にした影響が甚大だよね。

政子は後家としてなしうるほぼ最善のことを
したんだけど、結局実家と連携して息子たちを
処分せざろう得なかった限界があるね。
頼朝が家康くらい長生きしたら、乙姫は入内したろうし
頼家の権力移行も完全にできたろうね。

そう思うと頼朝独裁を嫌った御家人衆に暗殺されたのではないかな
頼朝は。妻も多少はかかわっているかもしれない。


369 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:00:15
政子を見ると井戸端会議ネットワークを
思い出す。

何人もいる妹、御所の女官
そこからせっせと御家人情報を入手していたんだろうな。


370 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:02:45
永井氏の小説では、
若狭が頼家の心を独占して政子をコバカにした
のが比企事件のきっかけと書いてあったけど
実際のところどうだろう。
若狭は正式な御台所には結局なれなかったんだよね。
頼家には辻殿がいるわけだし、政子のほうが
若狭をいじめていたのが真実じゃないのかな?

371 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 03:22:12
女性の小説家の描く政子だと
頼家殺しを後悔する描写があるのだけど、
実際どうだろうね。

372 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 08:14:49
野村育代とかが「息子や弟を殺した武将はたくさんいる。
政子が子どもを殺して何故悪い?」っていうけどさあ、父親と母親の
生理的な感覚って違うと思うんだよなあ。自分が産んだ子を二人も
見殺しにできる母親って、おれは基本的に鬼畜だと思う。
田端泰子に至っては、「わたしは政子を尊敬する」まで言ってるけど、
分析対象を尊敬してるようじゃあ、「歴史研究者としてどうだろ?」
とそもそも思うし、まあ、何考えてるんだか、分からない。
なんで女性史研究者(女性研究者じゃないよ)って、ああバカなのかね。



373 :北条政子の生涯を学ぶ:2006/12/29(金) 11:36:31
「北条政子の生き方〜政子の生涯を学び、嵐山の歴史をしのぶ」を11月5日(土)夕方から11月6日(日)にかけて開催しました。
 今回は、6日に当会館を中心会場として開催された地元の「嵐山まつり」に合わせた日程とし、遠くから参加された方々にも地元の秋祭りを楽しんでいただきました。
 第1日目は、野村育世講師による講演「北条政子の生き方」。中世、特に中世の女性史を研究している講師は、「吾妻鏡」を中心とした当時の史料から政子についての記述を詳しく紹介し、映画やテレビで表現された政子像とはひと味違った女性像を浮かび上がらせました。
家族との関わり、幕府の責任者として・・・。華やかな表面とは別に、精神的苦労の多かったその生涯は、聴く人の共感を誘ったようです。


374 :野村育世[ノムライクヨ]:2006/12/29(金) 11:39:44
野村育世[ノムライクヨ]
1960年東京都に生まれる。
1992年早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。
2003年博士(文学)。
現在、女子美術大学付属高等学校・中学校教諭


375 :実際は子供は一人も産んでいない:2006/12/29(金) 11:44:23
政子は”吾妻鏡”によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、
この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、
リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の
腹を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるな
どありえない。
実際は子供は一人も産んでいない。エリートの女性は、妊娠出産という
一年の大半をつぶす仕事は、ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い
者に腹替わりをさせ、自分は妻、当時は女夫(めおと)の女(め)とし
て夫の手助けをする仕事に専心していたのである。

376 :田端 泰子:2006/12/29(金) 11:56:45
京都橘大学学長(歴史学科 教授)
1941年神戸生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
文学博士。日本中世史、女性史専攻。
著書に『中世村落の構造と領主制』(法政大学出版局)、
『日本中世の女性』(吉川弘文館)、
『日本中世女性史論』(塙書房)、
『日本中世の社会と女性』(吉川弘文館)などがある。

377 :『乳母の力』─乳母という存在について:2006/12/29(金) 11:59:29
平安時代から戦国時代にかけて、上層階級では、公家・武家を問わず、
育ての親である「乳母」の存在が不可欠でした。
貴族層でも乳母が授乳し、養育を担当することは当然視されていま
した。このように乳母は、教育者としての重い任務を持ちながらも、
その歴史的役割が正当に評価されたことはほとんどありませんでした。
そこで、今回執筆した『乳母の力』では、ひとりひとりの乳母につ
いて研究を深め、歴史的な流れを見出しました。断片的な史料しか
残されていないので、それぞれの乳母をクローズアップしていくのは、
かなり難しかったですね。しかし、研究を深めていくにつれ、
子育ての面だけではない別の役割が見えてきて、女性が担った役割
の再発見につながったことは、大きな成果でした。
これまで乳母について一冊にまとまった本はなかったので、
女性史としても政治史としても新しい視点を織りこめたのではない
かと思っています。


378 :幕府を背負った尼御台−北条政子:2006/12/29(金) 12:01:01
『幕府を背負った尼御台−北条政子』という本を出版しました。
 かつての北条政子像は、嫉妬ぶかく肉親に対する愛情が薄い女
性というようなマイナスイメージばかりがいわれていました。
しかし、女性史研究が進んできて、政治家としてあるいは政治の
場において政子が果たした役割をきちんと検証・研究をする必要
が指摘されるようになってきます。調べていくと鎌倉幕府におけ
る政治の重要な局面、局面で尼将軍として政子の果たした役割が
鮮明になってきました。その辺りのことをまとめたのが前著
『女人政治の中世』でした。また、引き下がっていた観のあった
幕府草創期から頼朝時代においても、正室として果たした役割の
大きさが明らかになってきました。そのことを証言するのは同時
代人慈円の『愚管抄』です。慈円は優れた政治家として評価して
おり『お伽草子』の政子評など室町時代人にまで忘れられない記
憶を刻んだ政子を、前著を土台に研究の新知見を交えながら一般
向けに書き上げたのが本書です。


379 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:11:04
>>377
>>378
こんなのどこから引いてきたんだろう、ってびっくりしたら、
田端センセって、HPがあるのね。それにしてもお疲れです。

おんな、おんな、っていう女性研究者って何か胡散臭いんだよな。
別にそんなにこだわらなくていいじゃん。
ブスで結婚できなくて、男にうらみがあるのかなあ?

380 :高校生のための日本史講座 :2006/12/29(金) 18:48:56
北条政子について述べたものとして不適切なものを、1つ選びなさい。

1.父が決めた結婚相手との婚礼を拒否して自ら慕う人物のもとに駆け込
 んだり、夫の愛人の家を破却するなど、東国女性らしい逸(実)話が多
 い。
2.当時、女性が荘園領主になったり地頭に任命される例はなかったので、
 この人物が武士団を従える尼将軍として実権を握ったことは、女性史で
 も光彩を放っている。
3.同時期、朝廷の実権もある女性が握っていたため、慈円『愚管抄』に
 は、日本が「女人入眼〔にょにんにゅうげん〕の国=女性が支配する国」
 になったと記されている。
4.この人物は、夫、娘2人をあいついで亡くし、長男、次男、孫が殺害
 されたのちも幕府政治の安定につとめ、演説の4年後、68年の波乱の
 生涯を終えた。


381 :解答:2006/12/29(金) 18:50:20
〔2〕


382 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:52:44
>>380
入眼はふつう「じゅげん」ね。
その様子では朝廷の「ある女性」も誰か知らないな?


383 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 21:11:22
1も不適切ですね
山木兼隆が目代になったのは
源三位頼政が挙兵失敗後で
大姫はすでに3歳になってます


384 :入眼(じゅげん・じゅがん):2006/12/29(金) 22:41:04
女人入眼の日本国
「入眼(じゅげん・じゅがん)」とは、
眼を書き入れることで仏に魂を入れる宗教儀礼であると同時に、
「除目(じもく)」の際の人事の決定に、各人の名前を書き入れ
る行為をも意味する。
つまり、外国(具体的には中国)と違って日本では、女性が人事
権を掌握しており、それによって日本国の歴史に魂が吹き込まれ
てきたとの認識に立った表現なのである。

385 :入眼(じゅげん・じゅがん):2006/12/29(金) 22:41:52
女人入眼の日本国
「入眼(じゅげん・じゅがん)」とは、
眼を書き入れることで仏に魂を入れる宗教儀礼であると同時に、
「除目(じもく)」の際の人事の決定に、各人の名前を書き入れ
る行為をも意味する。
つまり、外国(具体的には中国)と違って日本では、女性が人事
権を掌握しており、それによって日本国の歴史に魂が吹き込まれ
てきたとの認識に立った表現なのである。

386 :藤原兼子{けんし}:2006/12/29(金) 23:05:39
藤原兼子は、後鳥羽上皇の乳母で、刑部卿藤原範兼{のりかね}の
娘で、従二位まで昇ったことから卿二位{きょうのにい}と呼ばれた。源実朝
の妻に、坊門信清{ぼうもんのぶきよ}の娘を斡旋し、実朝の後継将軍に自分
が養育した冷泉宮頼仁{れいぜいのみやよりひと}親王を推して、北条政子と
折衝するなど、幕府対策にも常に参画した。



387 :藤原兼子{けんし}:2006/12/29(金) 23:15:45
京都の姫君を妻にした実朝に跡継ぎは生まれなかった。
母の政子は熊野参詣のついでに、後鳥羽上皇の乳母で実力者の
卿二位藤原兼子に面会して、上皇の皇子を坂東に迎える内諾を
得ていたくらいであった。北条氏にしてみれば、源氏の血を引
く後継者よりも皇族将軍の方が御し易いと考えたのであろうか。
しかし多くの鎌倉御家人たちは、頼朝蜂起以来の源氏との縁に
連なることに己のアイデンティテイを有していたから、皇族将
軍よりも源氏の血を引く将軍こそ望ましかった。


388 :権門女房:2006/12/29(金) 23:26:15
「なんとかして幕府を滅ぼす方法はないものか」
 いつもそう考えていた後鳥羽上皇に、乳母の藤原兼子
(ふじわらのかねこ・けんし。卿二位)が入れ知恵した。
「実朝に女でも紹介すれば?」
 兼子は藤原定家から「権門女房」と評された、
当時最強の女権勢家であった。
「なんで敵に女なんか紹介するのか!」
 納得いかない上皇に、兼子が恐ろしいことを言った。
「将軍家の血統を絶やすためよ」

 元久元年(1204)、実朝は、源氏の名門・足利義兼
(あしかがよしかね)の娘との婚約をけって、後鳥羽上皇
側近・坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘と結婚した。

389 :権門女房:2006/12/29(金) 23:29:01
兼子は鎌倉へ下る坊門信清の娘に、次のように命じたと思われる。
「実朝が浮気しないように常に監視しているのよ。
それから、彼との間に子供が生まれたら、すぐに殺すこと。
それが嫌なら、原因になることはしないことね」

 兼子が見込んだだけあって、信清の娘は忠実だった。
 その結果、実朝と彼女の間には、何年たっても子供が生まれ
なかった。もちろん、いつも彼女が見張っているため、
実朝はほかの女のところに通うともできなかった。

 後鳥羽上皇と兼子はひそかに喜んであろう。
「まんまとうまくいった。これで実朝さえ消えてくれれば、
将軍家の血統は絶える」

390 :日本@名無史さん :2006/12/30(土) 01:34:33
頼朝暗殺説や実朝暗殺説を差し引いても、実の息子の頼家を幽閉して殺し、孫の一幡を殺し、父・北条時政を閉じ込め、異母妹の夫・平賀朝雅を殺しただけでも悪女です。

391 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 07:10:46
>>390
現代の感覚で歴史を語ってはいけません


392 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:15:33
政子と義時は、田舎の小豪族の出身のわりには
読み書きができたのはなぜなんだろうな。
これだけでも東国では有利だな。
義時て頼朝の近衆で力を付けたのも東国の武将の子息の
中で際立って有能だったかららしいし。

393 :日本@名無史さん:2007/01/11(木) 00:14:52
北条一族てこんな感じかな。

北条政子 :実質的に北条一族の主、義時を頼りにしている。
      父は信用していない。義時の知恵を使って頼朝を
      操縦した。頼朝死後は、息子から訴訟権を取り上げた。
      北条一族の危機には必ず登場する。頼朝以後は鎌倉幕府の
      カリスマ名誉会長の座にある。
      義時ともに承久の乱を乗り切り天下人になる。
      

 時政  :政子の父、牧の方とともに娘の威光をかさに来て重臣筆頭に
      のし上がる。あまりにもやりすぎて娘から鎌倉追放処分に
      なる。

 義時  ;政子の弟、北条一族の知恵袋、姉政子とともに
      鎌倉幕府のっとり計画を遂行。邪魔な頼朝、梶原、比企、
      畠山、和田、頼家、実朝を殺害した。姉政子が全般の
      信頼を寄せる。




394 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 16:39:21
オルドには呼んでやらん

395 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 17:39:09
親の反対を押し切ってまで頼朝の所に行ったエピソードはすごく萌えたな

396 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 06:04:50
いわゆる恋愛結婚でしかも
かけおちで、できちゃった婚だから
当時の武家の娘としては相当ぶっとんでいる。

397 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 06:09:39
しかも、浮気相手の家をぶっこわし
側室をいじめぬき、その息子を出家させてもいる。
嫁をいびり、その息子(自分の孫)を殺害させている。

現代の感覚でも相当ぶっとんでいる。

398 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 13:02:16
ところで、山よりも高く、海よりも深いはオリジナル?

399 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:55:52
義時と大江の作文でしょうけど、
それはたいした問題ではないで
しょう。
政子の命令が鎌倉でいかに絶対だった
というほうが重要だしょ。


400 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 22:25:54
>>395-396
駆け落ちって山木兼隆が伊豆の目代になったのは以仁王の挙兵後だよ


401 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:35:17
>>397
側室をいじめぬいたという一次史料なんてあったかね?
それにその庶子とは和解、しかも出家させたことで結果的には生き延びた。たいしたもんだ。
>>400
政子が父の反対を押し切って頼朝のところへ行った話自体はいちおう
「吾妻鏡」に載ってるよ。山木との婚約は創作だけど。

まあ今はいろいろ研究も進んで、憶測ばかりの嘘っぱち女傑イメージが一般レベルでさえ受け入れられなくなってるのも事実だね。
世間は同情的だ。こないだの大河の不人気がそれを見事に象徴した。もっと世間にこびろよwwNHKww


402 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 05:26:26
大進の局とその乳母と後見人を鎌倉から追放したのは
事実で有名な話だ。御台所のうらみがはなはなだしくとも
書いている。政子が頼朝に側室をもたせないためにどれだけ
抵抗したか。そのおかげで北条の外戚の地位が安定する
わけだが。


403 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 05:31:03
それと北条の地位は源氏本家、足利、公家、
有力豪族に嫁いだ、
時政の娘たちの連携なくして考えられない。
そういう書物にかかれない話を現代史観は無視しすぎる。


404 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 05:37:18
和解たって、鎌倉には戻りません、源とはなのりません、
だけどな。実際の鎌倉殿政子へ忠節を誓っただけの事だが。

政子は情や嫉妬で行動してはいないよ。きわめて合理的に
北条家のために行動しているよ。

405 :日本@名無史さん :2007/01/21(日) 13:26:17
>>401
2年前の大河は、政子の描き方を間違ったのが
隠れた視聴率低下の原因だと思う。
意外と政子は女性ファンが多いからああいう描き方されると
イヤなんだよな。


406 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:43:26
永井路子の『北条政子』が一番面白い?
他におすすめの小説あったら教えて。

407 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 20:21:41
平岩弓枝
の「かまくら三国志」もそれなりに面白い。

後、関氏の「北条政子」は小説ではないが、
面白い。



408 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:51:05
華の王という漫画もおすすめだね。

政子は、ちまちましたとこのない一本木な性格だったのが、
頼朝や時政のやり口を見て変貌したというのが実際の話
だとおもうけどな。

409 :武陽陰士:2007/01/24(水) 21:41:16
>>339
わからない。学問的には北条サイドで貞時高時の頃。


410 :武陽陰士:2007/01/25(木) 22:24:59
>>403
書かれててはいるが‥。現代史観というのは学者のことだよね。
それって誰の発言?

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