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−藤原氏族総合スレその1−

1 :藤原:2006/02/17(金) 22:16:10
歴史上に登場する藤原氏、及びその祖先。
歴史に登場しない藤原氏一族。

日本を陰で操るこの一族についておまえ等語りやがれ。

2 :五郎左禪閤近衛雁麻羅殿下:2006/02/17(金) 22:21:31
まずは麻羅じゃな
誰か麻羅の院号と法名を考えよ

3 :藤原:2006/02/17(金) 22:25:16
藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ外戚として力を振るった・・・・
では、藤原氏ってどこの誰と結婚したの?

4 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:28:15
>2
浣腸院肛門入道と名乗られてはいかがか。

5 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:58:41
藤原は藤原同士で結婚してた


6 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:59:48
最初の頃は秦氏と通婚してたんだっけな?

7 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/17(金) 23:11:12
道長室は源氏、実資室は女王。行成も妻は忘れましたが、母は源氏でしょう。
平氏ほか、非藤原氏との通婚もずいぶんある。

8 :藤原:2006/02/17(金) 23:15:15
女王って誰?

源氏、平氏に比べて藤原氏の人気がないのはやはり陰で暗躍してる感じ
が嫌なのかね・・・

9 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:15:25
藤原氏には天皇の血は流れてないってこと?

天皇には藤原の血が流れてるけど

10 :藤原:2006/02/17(金) 23:17:43
藤原氏にも天皇の血は流れてるでしょ。
母が源氏なんだから・・・・

11 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/17(金) 23:18:16
>女王
婉子女王です。『小右記』に追善を中心にいくつか記事が見えていますね。

12 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:20:46
>>10
源氏なんて当時は「皇族」扱いじゃねーだろ
穢れた武士じゃねーか


13 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:23:59
(・O・)(・@・)(><)(mm)(・_・)

14 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:24:43
>>12
源氏の祖先は天皇=遡れば源氏の血は天皇の血=源氏を母に持つ藤原氏も天皇の血が流れる

チミは馬○か?

15 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/17(金) 23:33:24
>穢れた武士じゃねーか
「当時」がいつかよく分かりませんが。
源氏とか平氏とか言っても、○○源氏・平氏で異なれば、何系かで道は異なっ
ており、堂上で成功した家もあります。寧ろそちらが目立つ。
有名どころでは、道元の父はどうなります。後深草院二条も近い係累でしたが。
平氏で言えば、清盛の妻時子は、同じ桓武平氏でも堂上で成功した高棟流。
これは藤原氏も同じ。秀郷や利仁の子孫は武士化している。
源氏という時点で「皇族」でないのは当たり前ですが。「当時」に限らない。

16 :12:2006/02/18(土) 00:17:30
>>14
馬鹿はお前だ
俺の言葉のニュアンスが分からないの?
もしかし池沼か?それとも釣り?
わざわざカッコ付けてまで「武士は皇族扱いじゃない」っつってんのによw
「源氏は天皇の血が流れてる」なんてマジレスしてやがんのw
日本語すら理解できないのか?w

>>15のヤツはちゃんと理解してるな
まともな反応が返ってきてる


17 :14:2006/02/18(土) 00:51:28
あーなるほど。

藤原氏・・・当時の天皇家と婚姻関係=天皇家に藤原氏の血
天皇の血・・・一応源氏と結婚しているが当時の天皇の血は入っていない

って意味か。
理解した。すまぬ。

18 :12:2006/02/18(土) 01:01:47
>>17
そうそう!
で、どうなの?

19 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:07:56


天皇の娘に自分の遺伝子注入したのって源氏でも居なかったような。
平氏は成功したが。

20 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:30:11
明正天皇が徳川家康の曾孫だよ

21 :12:2006/02/18(土) 01:38:54
そうじゃなくてさ
藤原氏にその時代時代の天皇の血が流れたことはあるのかって
天皇の娘に精子ぶち込もうが構わんがさ

22 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:50:29
皇族を妻にした藤原氏の人間ならたくさんいるよ。
良房、基経、時平、忠平、師輔、兼通、兼家、道長、頼通、教通・・・
鎌倉・室町にはいないけど、江戸時代にも何人かいるな

23 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:51:53
現職の天皇の娘を嫁に取ったとか?


24 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:52:35
そうそう、それと現在の近衛家の当主は三笠宮の娘婿だよ

25 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 02:14:35
たとえば藤原良房の妻は嵯峨天皇の娘の源潔姫だね。
探せばもっといると思うよ。

26 :藤原:2006/02/18(土) 09:00:13
天皇家と自分の娘が婚姻関係・・・・
天皇の娘と自分が婚姻関係・・・・・

天皇家と藤原家って思いっきり親戚なんじゃ・・・

日本第一位の苗字 佐藤(佐衛門ノ丈の藤原氏)伊藤(伊豆の藤原氏)
加藤(加賀の藤原氏)

日本第五位くらいの苗字 渡邊(嵯峨天皇の子孫) 
日本第8位くらいの苗字 佐々木(宇多源氏)
日本第20位くらいの苗字 金子(桓武平氏)
清和源氏の子孫である多くの苗字 武田、轡田、長瀬、宇野、大森・・・

この国って天皇家の子孫と藤原家の子孫で大半を占めているのでは・・・



27 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:16:56
てゆうか近世初期に、第107代・後陽成天皇の皇子が、五摂家の近衛家や
一條家に養子に入っている。彼らは第108代・後水尾天皇とは兄弟の関係。

28 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:30:01
南家、式家、京家、大中臣はこのスレでいいですか?

29 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:42:33
平安時代以降、宮廷では藤原氏が最高位の貴族(公家)。公家の最高位の
家格である摂家は、全て藤原氏によって占められている。

源氏にも、村上源氏の久我家などのように、堂上つまり公家(貴族)として
存続した家もあるが、最大勢力の藤原氏には及ばず、家格も、摂家に次ぐ
清華が上限だった。宇多源氏の一部や村上源氏の一部のように、貴族として
続いた源氏は、いずれも藤原氏の主流と濃密な血縁関係を結んでいる。
朝廷の支配者は藤原氏だったので、そうしないと源氏も生残れなかった。

30 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 11:14:34
豊臣家が公家として存続したらおもしろかつたのに

摂関家だけでなく、たすうの受領層を排出したのも藤原氏

31 :藤原:2006/02/18(土) 18:23:09
源氏がよく兄弟同士で殺し合いしてるっていいかたされるけど
藤原氏も兄弟同士、親戚同士、親子で権力争いしてるよね。

32 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:37:55
>>27
鷹司も天皇家から養子を迎えてますなあ。


33 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:43:18
華族でも、最も多いのは藤原氏でわ?
公家の大半が藤原氏だし、地方の武家でも藤原氏の末裔を自称する者は
多いから。

34 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:19:28
日本のかつての上流階級・支配階級にはほぼ例外なく入り込んで
いた藤原氏の血。田舎武家の間でだけ威光があったにすぎない
清和源氏などとは格が違う。源頼朝につながる清和源氏の主流も、
藤原摂関家に走狗として使われる家来に過ぎなかった。その頼朝
の生母は藤原南家流の熱田大宮司の娘。白拍子が産んだ義経とは立場
が最初から違う。

足利将軍家は正室を、藤原氏の公家・日野家からたびたび
迎え入れている。のちの徳川将軍家や諸侯の間でも、藤原氏を中心
とする公家から正室を迎えるのを一種のステイタスとしていた。
上流社会に関する限り、藤原氏は日本史の主役と言ってよい。

35 :藤原:2006/02/18(土) 22:29:06
しかしあくまで主役は天皇であり皇室。その子孫が清和源氏
藤原氏はあくまでNo2
貴族であり、限りなく上流階級だがNo1にはなれない。
そこが藤原氏のジレンマだと思う。
まるで学問一筋に生きて東大教授→東大学長→文化人
となるも、決して満足感を得られずに死んでいくような・・・
その点天皇の子孫達はお気楽なもんだよな〜。

36 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/18(土) 22:39:30
>地方の武家で藤原氏を自称
利仁流、秀郷流が有名ですが、菊池氏は隆家の後裔を称していた筈。
前者は将門や百足退治の記憶が無く、せいぜい「芋粥」の人なのが悲しい。

37 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:41:45
>>34
だよな
日本史の教科書といい、歴史の本といい
なんですぐ武士や幕府の視点で歴史を展開してんだろうなって思うよ


38 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:51:43
あくまで形式上ではあるが、天皇が頂点というのは分かる。
だが、源氏である時点ですでに臣下の諸源氏は、もはやたいして
尊重されてないよ。特に朝廷ではそう。藤原氏と源氏では源氏が格下。
源氏である限り絶対に摂政・関白にはなれない。
まあ、堂上として続いた源氏と藤原氏との血縁関係は濃密すぎて、
生物学的には殆んど同族なんだが。

39 :藤原:2006/02/18(土) 23:07:35
生物学的にっていうなら、ますます哺乳類ヒト科として考えた場合
天皇家のミトコンドリア(DNAって表現した方がいいのかw)はN01を取った。
源氏といえども、かつては天下を取った事のあるDNAだ。
しかし、藤原氏は一族としてはN限りなくo1に近いが、DNA的にいって一度も
No1にはなっていない事になる。
これは生物学的に言ったらちょっと寂しい。
あの坂本竜馬は高知の郷土士の息子だ。田舎の一介の貧乏侍だった竜馬が日本を
動かすような大人物に大出世したように見える。
しかし、家系図を遡ると清和源氏系の明智光秀の子孫であるのだ。
織田信長を裏切って例え3日間で秀吉に滅ぼされようと3日間だけでも
天下の覇者になった。一度は天下を取った男の子孫と考えれば田舎者が天下国家を
案じて、日本の将来を担う人物に成長した事はDNA的に言ったらもっともな話である。
竜馬が藤原氏の一族だったらこんな大物にならずに、上手く世渡りするだけの
要領のいい男になったように思う。

40 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 23:47:32
寂しいと言えば、平安初期まではいろいろ居た、古代以来の名族が、
藤原氏の1人勝ちによって没落・消滅していったのも寂しい。
大伴氏、石上(物部)氏、石川(蘇我)氏、紀氏、小野氏、
在原氏、良峰氏・・・どれも公卿(高級貴族)を輩出していたのに、
藤原氏によって朝廷から締め出されてしまった。

ちなみに、蘇我氏は石川氏、さらに後には宗岡氏と称し、
朝廷の地下官人として続いているね。もっとも系譜には怪しい点も
あるが。

41 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:00:25
源氏の将軍だって身分的には天皇より下じゃん。
徳川将軍もそう。つねに天皇が頂点。形式上は。
徳川将軍家は摂関家よりは下の清華の家格だったという。
清華の家格の公家とは、藤原氏の三條、西園寺、徳大寺などや
村上源氏の久我など。

42 :藤原氏:2006/02/19(日) 00:13:19
家格の話じゃない。
藤原氏はいくら頑張ってもNo1の子孫でもなければ、今後No1にはなれない。
No2を頂点として定められたヒトって意味。

いくら馬鹿にされても、身分が低くても、事実としてNo1を極めた日本人のボスの
子であるのが源氏であり、平氏。
No1の子孫ではない悲哀が、No2の座を極めて栄華を極めた藤原氏系には漂ってる。
なにか寂しい哀愁のようなものを藤原氏からは感じるのだ。
例えば秋元康がどんなに成功してお金持ちになっても、どこか寂しそうにみえるのと同様。
(ちなみに秋元って苗字は藤原氏北家流)

43 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:31:07
違う、皇別氏族でない藤原氏が栄華を極めたことこそが重要
天児屋根命が祖神ということは、天皇家にのちに服属すると別の国家の王だったのだから

44 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:45:34
いや、だから藤原氏には天皇の血も入りまくってるって。
源頼朝よりも、同時代の関白・藤原基通のほうが天皇の血が濃い。
天皇がNo1というのなら、藤原氏の主流もそのNo1の子孫という
ことになるよ。

45 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:53:47
ほんと藤原家があくまでもNO2に拘った理由ってなんなんだろうね・・
不思議でしょうがない
色んな歴史家が色んな意見述べてるけどどれも釈然としないよ
大義名分がなかったみたいなこと言われてるけどさ
どうなの?

46 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:54:25
つうか源氏の将軍はたったの三代で潰れ、あとは摂家将軍に
なってるよな。
清和源氏の主流はこれで断絶。いまいち冴えないな清和源氏。

47 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:01:55
>>44
男系男子に限った話。
Y染色体はあくまで藤原氏祖(中臣鎌足)のものでしょ。
天皇家も、源氏も清和源氏にしろY染色体に注目すれば
同一の天皇に遡るよ。

48 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:05:41
生物学的には同族と化したとは言え、藤原が
皇位を簒奪しなかったのは事実。足利義満はそれを狙ったようだが。
徳川も身分は臣下であり続けた。そのほうが責任を負わず自由に
動けるからだろうか。

49 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:09:58
>>48
おい!
何度いったらわかるんだ。藤原氏の男子の染色体XYのうちYは中臣鎌足と同じ
Y染色体、Xが天皇家のもの。
一方、天皇家、源氏、平氏の男子のXY染色体のうちYは天武天皇、神武天皇と同じY
染色体。
この違いは大きすぎるぞ。女系はXXで、どのX染色体かわからないから
天皇家の女子XXと、藤原氏の女子XXが生物学的に同化っていうのは可能性あるが
男系男子に限ったら全く違う。XYのうちYが違ったらもう50%は別人ってことだ。

50 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 02:54:42
Y染色体だけで1000年以上前のことを解明できるというのは
眉唾のトンデモ科学だと思う。そんな論文Nature誌に載ったことあるか?
ミトコンドリアで分析するっていう手法はあるが。

51 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:07:09
>>50 禿同。
国際的に権威ある科学誌に掲載された論文でさえ捏造論文が
紛れ込む。ましてや単なる国内の一著作で披露されてるだけの説
なんて電波と同じ。文系人間は単純だな。

52 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:17:01
>>49
50代から別れたのも(桓武平氏)、62代から別れたのも(村上源氏)
初代から別れたのも(多氏)、男系子孫という点では差はないわけだね。
だったら初代以前に別れたものも当然同じYを持ってるわけだ。
神武のおじいさんとか、ひいおじいさんとか、10代前の先祖とか、20代前の
先祖とか。要するにみんな同じYを持っているわけだ。
何十(百?)代も遡って最初の人間(アダム?)にたどり着くと。つまり
人類みんなアダムと同じYを持っているわけ?

53 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 07:08:51
>44,>48五摂家のうち2つは皇族が嗣いでますが何か。
その片方も、細川元首相(源氏)の弟が相続です。他人に説教する前に自分が勉強汁

54 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:58:23
つまり江戸期〜近現代の藤原氏の嫡流は、天皇家の男系子孫でもある
わけだよね。別に藤原氏にとっては大した意味は持たないだろうけど。
既に貴族としては頂点なんだから。

55 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:03:51
>>50
何を言ってるんだ。Y染色体だけで1000年前の事がわかるんじゃない。
ある染色体XYを持つ山田君と、椎名君

X染色体を見る限り、同じ場合もあるがY染色体は「完全に」異なるってこと。
親戚、血縁者、同じ祖先じゃない限りね。


56 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 09:04:18
今谷明説の義満簒奪は眉唾。
藤原氏の場合、天照大神の子孫ではなく、あくまでも天児屋根命の子孫とい
う事で権威があった訳で、補佐役でしかありませんでしたからね。
二神約諾説などは、その最たるもので。
それに、摂関政治全盛期でも、最終的には天皇の決裁が必要でしたから。
天皇に代って政治の全権を掌握出来ていた訳ではない。

皇位簒奪が無かった理由というのは、やはり天照大神(大日如来)の国土に
君臨するにあたって、それに代る神話を用意出来なかった事でしょう。
『日本書紀』以下の神話やそれを補完した仏教的世界観によって構成された
中世神話は、天皇家の国土支配を是として展開している。
中世人が目に見えない「冥」の世界からの視線を感じていた以上、それに代
る世界観が無い事には、目に見える世界の掌握もならなかった。
(近代人には、「仏神に認められる正当性の必要性」は分かり難いか)
キリスト教が多数派となっていれば、また違ったかもしれませんが。

57 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:18:47
>>55
それが科学的に正しいというソースを出してくれ
その手法で1000年前まで検証可能なのか?つまり、
1000年、2000年前でも男系祖先が同じならY染色体
が一致するのか?そんな論文あるのか?

58 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:33:50
一致はしないが、確実に中臣鎌足の子孫である藤原氏と
天武天皇の子孫の天皇家、及び源氏はY染色体が違うって事は確かだろ。

つーか、同じだったらキモイだろ?
父XY−母XX→男なら父からYを貰い母からXを貰いXY  
      女なら父からXを貰い母からXを貰いXX
このパターンは何千、何万回繰り返そうが変わらない。

いきなり関係ない「藤原氏」っていう家系に「ぴょこん」って感じで
隣の天皇家の遺伝の系図からY染色体が飛び移ってたらキモイだろ??
あくまで天皇家の祖先を頂点とする系図の中の男系にしかY染色体は遺伝しない。
   

59 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:34:22
うろ覚えだが、すでに平安時代に、皇族でありながら、藤原氏のほうが
有利という事で藤原氏のどれかの家系の猶子になって家を継いだ人とか
いたような気がする。
あと、これは噂のレベルだが、大正帝の隠し子が堂上の山本家(藤原氏・
閑院流。子爵)の当主になったなんて話もあるね。

60 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:34:50
>>53
近衛信尋と一条昭良は後陽成天皇の子、鷹司輔平は直仁親王の子。
皇族から当主を迎えたことがあるのは五摂家のうち3つだ。
どう数えたらこれが2つになるんだ?
他人に説教する前に(ry

61 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:41:16
>>58
お前の能書きはいいからソースきぼん
どうせお前が発表した説でもない訳だしなw

62 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:45:48

http://www.rocus.co.jp/dnatesting/ychromosomal/haplotype.htm

Y染色体ハプロタイプは、その家系の系譜で共通の男性(父系)
系統の鑑定のために利用されます。例えば、ある男性のグループ
には厳密な家系ライン(全員が”徳川”などの同じ姓を持つ)があって、
共通の祖先を持つと考えられるなら、
個々個人のY染色体を調べる事は、彼らの憶測を指示し、主張する
材料としてかなり有効です。
同じ父系の出身者(鈴木性すべての男性)全員からY染色体マーカー
を見ることによって、我々は、彼らが全員、(関係があると思われる
2名の人物同士の関係で、少ない数ながら
10世代から20世代未満の世代間に発生する突然変異率を計算し、
考慮を行いながら)同じY染色体マーカーを共有しているかを評価できます。
以下に注意してください。この検査は、ある人物にとっては答えたくない
質問かもしれませんが、
その家系で父系であるかないかを区別する事にも使用できます。
そして、Y染色体氏名研究をするとき、警告が鳴らされます。




63 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:47:39
Y染色体が男系男子ってここは生物学の知識あるヤシは皆無か?


64 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:47:47
>59
大正帝は4人もの男子をなした近世以降稀に見る偉大な名君だが、
当時の宮中関係者は「これ以上皇子が増えたら皇室財政を圧迫して困る!」
と側室を認めなかったという話はあるな。
これは現在の皇室後継者不足の遠因のひとつになっている。

65 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:10:34
>>59 本来源氏の家系なのに、朝廷で最大勢力の藤原氏の一員
になっておくほうが有利と考えて本姓を藤原氏に変更してる例がある。
例えば、朝廷の地下官人の堀川家は『地下家伝』によると村上源氏
の源師房(具平親王の長男)の末裔というが、途中で藤原朝臣に改姓
している。
源師房は、道長の娘を正室にしたうえ、頼道の猶子にまで
なっていて、「堂上の村上源氏は御堂の末葉」と言われるぐらい
なので、子孫が藤原朝臣に改姓しても不自然ではないんだが。

66 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:17:31
>>63
俺もそんなのトンデモ学説だとおもう

67 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:25:18
 奈良時代の757年に石津王(系譜不明、かなり傍系?)は藤原氏を賜姓され、藤原仲
麻呂の養子になったとのこと。
 藤原仲麻呂の与党として、764年に処刑された仲真人石供と同一人物かとの指摘もある。
 まあ皇位に関係ない傍系なら藤原氏の中心人物の養子の方が良いかも。

 その少し後に長屋王の子で藤原不比等の外孫山背王は、橘奈良麻呂の乱の密告の恩典と
して藤原朝臣を賜姓された。
 二世王より藤原朝臣の方が実質的には上だったらしい。

68 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:27:58
>>67訂正、山背王は二世王じゃなくて三世王でした。

69 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:34:47
廟堂第一位は藤原摂関家

具平親王流村上源氏は廟堂第二位。
藤原氏に押されつつも村上源氏はなかなか奮闘してる。
そういや久我美子は村上源氏の末裔だね。摂関家から養子が入ってる
から藤原氏の末裔でもあるけど。

70 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:02:06
三世王あたりだと頗る待遇悪いね。
公卿に列するなんて希で、運が良ければ受領になってる程度。
桓武平氏でも三世王あたりで無位無官の人っていたよね。
三十六歌仙のひとり源重之(清和帝の曾孫)も従五位下が極位で、
官も受領に留まっているし。
はっきり言って傍流の皇族の末裔って早期の段階からパッとしないん
だよね。皇胤というだけで凄い!と思ってるのは地方豪族や庶民だけ。

71 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 11:22:32
具平親王が寵愛されたという雑仕女大顔の描かれた牛車が現存していれば・・・惜しい。
享徳元年(1452)の土御門有通卒去の前後に失われたらしい。
しかし、妻倫子が宇多源氏、明子女王が醍醐源氏であったのに、道長は具平
親王を贔屓していた様で。「後中書王」の才気故でしょうか。

72 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:25:54
傍流がパッとしなくなるのは皇族だけでなく多くの氏族でも同じこと。
藤原氏の傍流が一家興して公卿に列するケースは他氏族に比べれば圧倒的に多いけど
それでも嫡流から3世代くらい離れれば受領になれれば幸運、ていうのは普通。

73 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:28:51
どっちにしろ君達は1億2000万人に埋もれている庶民からみたら
源氏も藤原氏も雲の上の存在だって事を忘れずに。

一体何を持って「源氏なんて受領どまりだから大した事無い」なんて大口叩けるのか?
君達はせいぜい6000万番目の庶民だよ。

74 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:36:21
道長の時代の右大臣・藤原実資の『小右記』などでも、
中央における源氏・平氏らの地位の低さが分かる。
鬼女退治の伝説で有名な余五将軍こと、鎮守府将軍・平維茂のこと
を、この右大臣は「山猿」のような奴と言って差別発言してる。
平維茂は公卿ではないので低く見るのは当然ともいえるが、
藤原氏の主流筋の身分意識がよく表れていると思う。

他国でもそうだが、貴族内部でも身分差別がある。伯爵家出身の
トルストイも帝都ペテルブルクでは、皇族や名門貴族との差別を
肌で感じ、トラウマになってたらしい。

75 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:45:13
>>73
いや、俺の祖先には正二位・大納言まで昇進した人物は
けっこういるよ。家格は羽林に過ぎないけどね。

76 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:53:45
>>71 その牛車は南北朝の頃までは残ってたという話だね。

77 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:18:52
おまえら、清和源氏は摂関家の家人だったこと知っているのか?

78 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:31:48
清和源氏ってその主流からして摂関家の番犬
尻尾フリフリが伝統の家系。
それが名門とはなw
田舎者の発想だな

79 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:44:19
北家の権力確立のとどめは安和の変での源満仲の活躍だし

80 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:07:00
>>74
>この右大臣は「山猿」のような奴と言って差別発言してる。
すみませんが、何年何月何日条になりますでしょうか。

>>76
その様で。

81 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:25:24
>>80
申し訳ない。孫引きなのでその点は定かではないです。
あと、明子女王って臣籍降下してたのでしょうか?

82 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:31:44
>81
『小右記』の索引を見ましたが、出ていないのですよ。>維茂云々
>明子
父で後中書王こと具平親王と文才を比較された中書王こと兼明親王は臣籍に
降下しておいででしたからね。
余談ながら、二人とも慶滋保胤とは懇意にしていました。三大文人と言える。

83 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:32:04
81です。道長との婚姻時にという意味です。

84 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:46:05
>83
ずいぶん前に降下されていた筈ですが。

85 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:48:25
>>82
いや〜私も全文読んだわけじゃないので分かんないんですよね。
全文読まれましたか?『中右記』だと時代が合わないし、
この時期だと『小右記』以外で一般に膾炙してる日記っていうと
あまり無いですよね。どうなんでしょうね?時間があるときに調べて
みます。

あと、醍醐帝の皇子のひとり兼明親王は親王世代で臣籍降下して
ましたっけ?源高明ら4人は確かに親王世代で降下してるんですが。
記憶違いならスマソ

86 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:03:23
 藤原氏、鎌足を第一世代として第二世代は実質不比等のみ(兄は若年で出家の上早死)、
第3世代の四兄弟は、正一位相当の鎌足の孫として正六位上または正六位下でスタート、
全員が従三位以上かつ参議以上、内一人は正一位左大臣、とこの世代では落ちこぼれなし。
 第4世代は20人以上となったが、京家と、早死したらしい者以外はほとんどが従三位
以上となっている。
 贈正一位不比等の孫として正六位下か従六位上あたりでスタートしているので、早死しなければすぐに従五位下に到達し、まだあまりライバルがいないからだろう。
 南家は4人とも従三位以上、一人を除いて参議以上。内一人は正一位大師(=太政大臣)、
もう一人は従一位右大臣。
 北家7人は、早死したらしい長男鳥養を除き全員が従三位以上で、かつ参議以上、内二
人は左大臣(一人は正一位)、一人は大納言(これが摂関家の先祖八束→真楯)。
 式家は、9人中4人が従三位以上で、かつ参議以上。内一人は左大臣、一人は内大臣。
 残る5人については、長男広嗣は従五位下で謀反、残り四人は早死したらしい。二人は
名前すらよくわからない。
 京家は人数すらはっきりとはわからない、一人だけが従三位で参議。
 他に幼い内に死んだりして名前の残っていない第4世代がいるかも知れないけど、別に
研究者じゃないのでそこまでは考慮しない。

87 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:03:57
そういや応和元年(961)、清和源氏の源満仲の屋敷に押し入った
盗賊の1人で、矢に当たってタイーホされちゃった人が
式明親王の子どもの親繁王。つまり醍醐帝の孫。
何やってんだか。近い皇胤でも困窮する程に、藤原氏が権力と富を
独占してたんだろうね。

88 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:05:29
 第5世代になると、百人前後はいるわけで、謀反人の南家仲麻呂の子孫はこの世代で脱
落(三人は参議になったが謀反関係で非業の死)とか、そろそろ格差が激しくなってくる。
 南家・北家はこの世代までは、祖父の贈正一位が効いてるので、父の地位に関わらずス
タートはさほど差がない。しかし、庇護者がいないと後の出世には響くわけで、結果には相当差がついてくるのは当然。
 さて第5世代では、真楯の三男内麻呂は右大臣だが政府首班、とはいえまださほど目立
つ存在ではない。
 第6世代が冬嗣で内麻呂の次男、さらにその子良房、孫基経(良房の兄中納言長良の子
で良房の養子)と続くうちに最高の家格として確立したようだ。
 基経と同じ第8世代で冬嗣の孫高藤は、基経が中納言になった年頃でようやく従五位下、
このままだと四位どまりだったろうが、天皇の外祖父となるという好運に恵まれ、正三位
内大臣、しかも贈太政大臣。
 冬嗣の孫でさえこれだから傍系は苦しい。まあ純友だって冬嗣の子孫だけど。
 定家だって道長の子孫だしね。

89 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 14:14:28
>>85
『小右記』もやたら長いので、興味のある所ぐらいしか憶えていない
のですが。『左経記』か『権記』か。道長の方では無い筈。
維衡かと思ってざっと見てみたのですが、見当たりませんでした。
藤原スレですので、この二人についてはこの位にしておきますが、し
かし行動が目立ちますね。

>後段
そういわれると、私も確認してみようという気になります。では。

90 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:22:15
俺は清和源氏の子孫だ。
大和源氏始祖の源頼親の叔父は藤原道隆

つまりは清和源氏も立派な藤原氏の流れを汲む
もっと勉強しようね。


91 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:35:49
 京家は第5世代に非参議従三位が一人、第6世代に正三位大納言が一人、公卿はここで
打ち止めらしい。
 南家は確か鎌倉初期くらい続き、式家は南北朝時代くらいまでは公卿がいたはず。

92 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:36:07
>>90
最初の嵯峨源氏からして藤原氏の血は入ってるでしょ。
嵯峨帝の生母は藤原乙牟漏(式家)だから。

93 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:37:46
 ところで、源氏と平家はなんで真人じゃなくて朝臣なんですか?

94 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:46:04
>>93
真人を賜姓された家系ってどうも冴えないのが多くて、
むしろ朝臣の藤原とかのほうが強大だったので、平安初期あるいは
その少し前から、皇別系もたいてい朝臣になってるね。
つまり、当初とは違い、朝臣>真人という状況になったみたい。

95 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:58:26
 橘は宿禰→朝臣、これは母親の姓を継いだためだけど。
 傍系王族より宿禰の方がましなのか。
 ついでに官務家はなぜか朝臣→宿禰、変わり者?

96 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:34:20
小槻氏ってもともとかなりマイナーだよね。
壬生家と大宮家が嫡流を争ったのは比較的有名だけど、
それ以外にどんな家があったのか俺は知らない。
地方豪族が家系詐称するにも、さすがに小槻氏ってあまり聞かない。
だが王朝マニアなら好奇心を刺激されるだろうな。

97 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:53:03
 ところで山背王改め藤原弟貞の子孫ってどうなったのかな?
 弟貞の地位従三位参議から言って、子供の世代までは五位程度にはなれそうなんだけど。
 五位以上なら一応正史に叙位記事くらいは載るはず。
 平安時代初期くらいの系譜不明の藤原朝臣の中に子孫がいるかも。

 源平藤橘とあと菅原ともう一つどこだかくらいは主典にしないという習慣があったそうだ。
 すると没落するときかえってきついよね。

98 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:33:18
今の世の中に沢山いる藤原姓の方々は子孫なのか?

99 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:35:14
>>98
無関係です

100 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 20:44:55
今のは藤原の様な姓ではなく、一条や近衛といった名字ですからね。
今は藤原姓や源姓は名乗れないわ、仮名・実名の区別はつけられないわ、
何よりほとんどの人間が混同しているわ、日本史上から見れば異例な時
代と言っていいかもしれません。

101 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:57:25
九条ではなく近衛が嫡流とされるのはなぜですか?


102 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:01:16
九条は痔なんですよ

103 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:01:55
マチガタ

三男の家系だからですよ

104 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:01:07
佐藤、伊藤、加藤 さんは藤原氏の子孫ですか?

105 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:38:38
>>104
苗字の由来は藤原氏なんですが、殆どが明治の造作苗字や真似。
佐藤氏=佐渡守藤原氏
伊藤氏=伊勢藤原氏
近藤氏=近江藤原氏
↑こんな由来で藤原氏の末裔が名乗ったのが始まり。
しかし、大多数の方は明治に、たまたま仮に佐藤氏の領民だったからあやかったり、適当につけたのが大多数。

106 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:31:35
>>104
なんで藤原氏が藤原と名乗らずに近衛とか違う苗字を名乗るのか?
本来、今で言う姓=苗字ではない。藤原は姓であり近衛なんかは苗字=家名になります。
そして当時は藤原、橘、源、平と四姓がありました。
しかし、一族が沢山いて皆藤原では分かりずらい、召使いも藤原を名乗る時代だった。
そこで、増えすぎた一族を見分ける為に家名=近衛なんかを名乗った罠。
それが時代とともに家名=姓ととらえられて現代にいたる。
しかし、明治以前のエロい人は普段は家名を名乗りますが、正式には姓を名乗っていました。
近衛さんも藤原朝臣〇〇とかを正式には名乗り、徳川将軍さんなんかは源氏の長者〇〇と姓を名乗るのが正式です。
だから家名=住んでいる場所か役職なんがが多いですね、庶民的には屋号みたいなもんだ罠。


つーか適当すぎ?

107 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 04:11:46
江戸初期中期の近衛家と天皇家ってすごい事になってるね

108 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 04:55:16
>>58
だからね、鎌足と天智(でも誰でもいいけど、とにかく皇族)、何十代あるいは
何百代か(何千代か‥‥)さかのぼれば、共通の祖先に行き着くわけでしょ。
だったら同じYを持ってるのかい? てことをききたいわけ。清和から別れようが
桓武から別れようが、神武から別れようが、神武のおじいちゃんから別れようが
神武の10代前から別れようが、100代前から別れようが、みんな同じYを持ってる
のかい? てことをきいてるの。だったら現日本人のかなりの部分はみんな
同じY持つことになっちゃうよ。

109 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:12:33
>>108
種の始まりが一人のY染色体ならね。

110 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:49:07
ある男系類人猿と共通祖先なので同じY染色体持ってまつ

111 :日本@名無史さん:2006/02/21(火) 02:04:47
何百年か前のアフリカの一女性にたどり着くんだよね。
てことは、そいつとまぐわったのが我々の男系祖先だね。一人か複数か知らんけど。

112 :日本@名無史さん:2006/02/21(火) 14:18:58
いや、その女性の子供が別の種類の猿とまぐわってしまうこともあるだろう。
せっかく人間になれたのになりそこないの猿にヤラレテできた子供の子孫は猿顔。

113 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 09:41:26
つーか、アフリカの一人の女に行き着く説は正しいのか?
一人の女が生涯を通して何人産める?その内成人まで生きられる確立は?
俺は常識的には複数居たと推測しますがね。

114 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 19:40:37
自分もたった一人ってのは前からどうも納得できなかった。
関係の本とかドキュメンタリーとか見てもなぜ一人になるのかはスルー。
そうなるって言う証明は出切る(と思っているけど)なぜなったのかの説明は出来ない?
その辺をわかりやすく解説している人っているの?

115 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:02:11
まあ、あれだ、歴史のなぜ?を説明するのは簡単じゃないってことだな
しかし、それが偶然だとしても、偶然は必然の産物なので説明できない偶然はありえない
仮説も立たない話はやはり怪しい?

116 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 15:47:43
藤原氏の男系の嫡流はどこの家?
五摂家筆頭の近衛家は既に男系断絶してるけど。

117 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:09:20
>>116
暇なんだろ。
>>1から読め

118 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:44:31
本来は豊成の子孫でしょうね。今どこでどうしていらっしゃるのか知りませんが。
その質問をしたあなたが藤原氏嫡流だったりして。確率は酷く低いですが。

119 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 09:10:10
豊成って誰だ?

120 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:50:42
古代日本の御三家は
天皇家、中臣家、忌部家であったが、
中臣から藤原氏がでて繁栄したが、
忌部氏は全く衰えてしまったな。

なんだか神秘的な一族だな

121 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:09:49
>>120
忌部家は織田信長の祖先

122 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:43:36
五摂家の中でまだ藤原氏の血筋を維持している家はまだ存在しますか?
近衛は江戸時代に脱落しましたが。

123 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:27:32
>>122
九条、二条、一条。
一条は一度皇統になったが、のちに花山院家忠系の男系になっている。

124 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:11:47
そういやなんで近衛家は細川から養子とったんだろ。
九条あたりからとればよかったのに。

125 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:28:40
女系でつながっているから
そんなこともしらんのか

126 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:31:00
近衛は親子相続が続いてて他家とのかかわりが少ないからね。
九条じゃかなり遠い縁戚になる。
遠い男系より近い女系を選んだってことでしょ。

127 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:53:35
>>119豊成は、藤原南家の祖・武智麻呂の長子。
武智麻呂は不比等の長子だから、近世的な見方をすると、南家が
藤原氏の嫡流ってことになるのか。

平安時代、醍醐帝の延長八年(930)に起きた清涼殿落雷事故で死亡
した大納言・藤原清貫はこの豊成の子孫。この家系は以降あまり栄えて
ないね。

128 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 09:18:29
>>118
>>127のとおり豊成は南家武智麻呂の長男で最終的に従一位右大臣。
四兄弟死後は弟仲麻呂の台頭まで藤原氏の総帥だった。
右大臣となり、橘諸兄(正一位左大臣)引退後は政権トップ。
しかし実権は弟仲麻呂に握られていた。
橘奈良麻呂事件で三男が奈良麻呂と親しかったため連座して大宰帥に左遷。
仲麻呂の失脚敗死後右大臣に復帰し従一位にもなったが、
道鏡全盛時代であり実権はなくまもなく死亡。
なお豊成の長男は早死したらしく、次男右大臣継縄が嫡子か?
その曾孫に参議保則がいて、摂政基経とほぼ同時代人。
保則が嫡曾孫かどうかはしらないが、
次男(房前)の三男(真楯)の三男(内麻呂)の、
そのまた孫の基経よりは、よほど嫡流に近い。

129 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:06:59
そのあと、というか現在では豊成の家系はどうなっているのでしょうね。
南家でも巨勢麻呂の系統なら長く続いている系図があるけど。

130 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:10:22
 鎌足ー不比等ー武智麻呂ー豊成が嫡流であったことは間違いないが、
 以後しばらく嫡流といえる家は消滅したというのが正解でしょう。
 内麻呂は右大臣で政府首班だったが、その子の真夏・冬嗣兄弟が跡を継げると決まったのでもなかった。
 結果的には次男冬嗣、その子良房(確か三男)、養子基経(兄長良の三男)と続いてし
まったので、ここが嫡流となった。
 その後嫡流内部で概ね弟の系統が勝利をおさめつづけ道長にいたる。
 まあ大概は兄系が自滅(時平系・道隆系等)するんですが。

 ちなみに内麻呂の父真楯(元は八束)もかなり面白い。
 時の権力者仲麻呂と仲が悪かったように「続日本紀」に書かれている割に、仲麻呂政権
下でちゃっかり中納言。それでいて仲麻呂妥当の際にはさりげなく参加して大納言。
 もっともその後まもなく死亡しますが。
 これ本当に仲麻呂と仲が悪かったんだろうか?内麻呂あたりが父は逆心仲麻呂と仲が悪
かったんですと言いたかっただけでは?

 大体この系統は南家や式家、同じ北家でも永手系や魚名系とちがって派手に動かないけ
どなんとなく知らない間に出世している感じだ。
 目立つことによる消耗を避けているというか。

131 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:13:14
九条は養子など全く貰わずに現在まで続いてきたのかな?

132 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:12:46
鎌足は中臣氏の嫡男だったのかな?
だとしたら、藤原氏の嫡男が中臣氏の嫡男と言う事になるのかな。
それとも、鎌足が藤原の姓を貰ったときに、中臣氏の当主の座はどこかに移ったのだろうか?

133 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:16:14
古代日本御三家
天皇家、中臣家、忌部氏
忌部氏は何処にありや

134 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:35:08
>>131は上の10レスすら遡れないアホ


135 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:35:31
>>134は日本語もろくに読めない馬鹿

分家や藤原氏の別の家から養子をもらうことがあるだろ

136 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:50:57
塚、養子ももらわず完全に親子相続だけで現代まできた家なんかねーだろ

137 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:37:09
いやあるだろ
特にお前ん家みたいな所は養子を貰ってまで残す必要ないからな。
もっと頭使えよ

138 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:46:23
藤原氏の名字と天皇の名前(?)
に共通するものが多いのは何故?
冷泉とか○条とか。

139 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:02:36
京都の地名や邸宅名だから。

140 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:04:34
>>137
煽る前に具体例を挙げてみれ

141 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:13:49
>>140
おまえ無謀だな…

142 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:47:47
どーせ>>134>>136>>140だろ
馬鹿丸出しのレスだし

143 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:01:59
で鎌足は中臣氏の嫡男・当主だったかという質問に誰か答えてくださいよ。

144 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:04:49
ここ軽く荒れてるみたいですけど、よろしくお願いします

145 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:16:25
>>140
具体例も何も薄汚いお前がそうだろwww

146 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:57:18
ワロスwwwwww

147 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:34:15
現在の五摂家の当主のお名前は?

148 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:43:25
>>134はおれで、それ以来初レスなんだけど、なんか必死なのが一匹
いますね。>>140に回答できない恥晒し。

149 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:56:56
鎌足の時代に嫡男・当主なんてないよ。
だいたい中臣氏は卜占で大王家に仕えた職能集団で、系譜関係すら定かでない。
鎌足が摂津三島の出身か常陸鹿島かさえわからない

150 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 07:38:49
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾

『嫌韓流2』発売中

駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう

151 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 10:13:38
>>140>>148が必死過ぎな件
同じ奴だってばればれじゃん

152 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 11:03:05
>>148

>>145

153 :○○#:2006/02/27(月) 11:20:00
>>148は上の10レスすら遡れないアホ

154 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:05:27
>>145の日本語は意味が通じないんだが、誰か翻訳してくれ。
養子をもらってまで存続させる必要が無い家があることはわかる。
それと藤原氏となんの関係があるんだ?



155 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:26:18
>>116
藤原氏の男系の嫡流はどこの家?
五摂家筆頭の近衛家は既に男系断絶してるけど。

正確に言うと、近衛公爵家(嫡流)は細川家から養子が入り
男系は途絶えました。しかし分家の近衛子爵家は男系が続いて
います。(作曲家・指揮者の近衛秀麿はこの子爵家出身)


156 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:34:24
>>155
>>27


157 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:14:05
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成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
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ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○

158 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:19:13
>>154
お前必死な奴だな
粘着は自分の低脳スレ見直してこい

159 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:26:47
って事は作曲家だした近衛子爵家も藤原氏の男系の血筋じゃないって事?

160 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:37:54
道長まではほとんど長男の血統が嫡流になっていない。
頼通以降は素直に長男が嫡系を継いだが、そうした途端に振るわなくなった。
要するに兄弟間の抗争で氏族全体としての活力を得てきたということなのだろうか。

161 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:58:14
>>159
そうだってば

162 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 20:42:33
>>158
お前の気に入らないレスが全て同一人物によるものだと思うなよ。
低脳スレってどこで見直せるんだ? 

163 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 01:12:05
>>133
織田信長は忌部家

164 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 09:14:38
>>119
奈良時代きっての緊縛マニア
息子の名前が継縄・乙縄・縄麻呂、このこだわり
まあ縄にはただすの意味もあるけどね。

165 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 10:46:10
>緊縛マニア
珈琲を吹いたじゃないか
謝罪と賠(ry

166 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:08:53
自分の娘が自分の孫に嫁ぐんだから、現代人には理解不能

167 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:38:58
藤原豊成(武智麿の長男、704〜765)、極位従一位右大臣
藤原継縄(豊成の次男?、長男早逝で嫡子?、〜796)、極位正二位右大臣
藤原仲麻呂(武智麿の次男、706〜764)、極位正一位大師
藤原乙麻呂(南家、武智麿の四男、?〜760)
藤原黒麻呂→是公(南家、乙麻呂の長男、〜789、63歳) 極位正二位右大臣
藤原永手(北家、房前次男、長兄鳥養早逝で北家嫡子?、714〜771、58歳)、極位正一位左大臣
藤原家依(北家、永手の子、743〜785)、極位従三位参議、
藤原八束→真楯(北家、房前三男、715〜766)、極位正三位大納言
藤原内麻呂(真楯の三男、冬嗣の父、〜812、57歳)、極位従二位右大臣
藤原冬嗣(内麻呂の次男、775〜826)、極官左大臣
藤原魚名(北家、房前五男、721〜783)、極位正二位左大臣
藤原楓麿(北家、房前七男、?〜776)、極位従三位参議、
藤原園人(楓麿の子、〜818、63歳、良二千石をうたわれた)、極位従二位右大臣
藤原宿奈麻呂→良嗣(式家宇合の次男、716〜777)、極位従二位内大臣
藤原田麻呂(式家宇合の子、722〜783)、極位従二位左大臣
藤原百川(式家宇合の八男、732〜779)、極位正三位参議
藤原緒嗣(百川の長子、774〜843、70歳)、極官左大臣

 第4世代で大臣になったのは南家の豊成・仲麻呂、北家の永手・魚名、式家の良嗣・田麻呂の6人。
 ところがそのうち子供(第5世代)が大臣になったのは、豊成の子継縄だけ。
 逆に第4世代が参議にすらなれなかった(従三位にはなったが)らしい南家乙麻呂の子是公が大臣。
 北家では、真楯(大納言)の子内麻呂、楓麻呂(参議)の子園人が大臣。
 式家も参議どまりの百川(もっとも後10年も生きていれば大臣か?)の子緒嗣が大臣。
 第5世代までは嫡流が存在しない?
緒嗣は第6世代の冬嗣と同世代だったりする。

168 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:03:45
北家で最終的に嫡流になった真楯流、真楯は牟漏女王(五世王)の子。
南家で比較的長持ちした是公流、是公の妻が山背女王(四世王)。
式家で最後まで頑張った蔵下麻呂流、蔵下麻呂の妻が乙訓女王。
皇統主流とは関係ないけど初期に皇室と縁組をした稀な例がなぜか長持ちしている。
真楯の同母兄弟の永手・御楯の子孫は振るわないから偶然だろうけど。
三世王と結婚した南家(恵美家)の久須麻呂なんかあの体たらくだしね。

169 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:33:55
中臣氏だって堂上家だしてるんだな

170 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:40:31
近衛前久は現職の関白でありながら在京せずに諸国に漫遊してますが、
朝廷を仕切ったのは誰ですか? そのひとの官職はなんですか?


171 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:53:30
>>169
堂上の藤波家(家格は半家。明治に子爵)は、大中臣氏だよ。
古くは中臣氏だけど。

172 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:57:37
藤原氏の末裔・・地名と苗字







http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/geo/1107317869/

173 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 03:04:14
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html

174 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:23:43
>>160
鎌足(字が仲郎、次男か)→不比等(次男)→房前(次男)→真楯(三男)
→内麻呂(三男)→冬嗣(次男もしくは三男)→良房(次男)
→基経(養子、冬嗣長男長良の三男)→忠平(四男)→師輔(次男)
→兼家(三男)→道長(四男)

鎌足から道長までは長男がひとりも間を繋いでいないんだよね。
偶然かもしれないけど、前から不思議に思ってた。

175 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:59:23
>>174
この時代、嫡男が長男というのが逆に少なかったのでは?
でもたしかに一人もいないのは偶然にしては不思議だ

176 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 16:57:06
母親の身分が低いと家督を継げなかったり、病気で早死にとかも多かったからじゃないか

177 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 19:46:21
後ろ盾の力関係とか

178 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 23:08:23
当時は財産は基本的に女系継承だから、母親が誰かは大きいと
思う。母親に財力ある方が当然力もあることになるからね。

もちろん>>176の言うように病気は大きな要素だよね。

179 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 23:41:51
定恵、武智麻呂、鳥養、真永、真夏、長良、国経、時平、実頼、伊尹、道隆

こうやって並べてみると何となく「いい人」キャラが多いような。

180 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:51:25
>>174
ちょっと待て
>不比等→房前→眞楯
この辺の流れは結果から見たらそういう風に見えるだけで
不比等の跡は武智麻呂が継いだと考えられるし(房前が武智麻呂の官位を越したことはついに無し)
房前の後継者は永手と考えられる(途中で眞楯は永手に官位を抜かされ、その後死ぬまで抜き返すこと無し)

摂関家は頼通以降、長男が継ぐことが確定してから、政治力をどんどん失っていくのであった
皮肉にも。



181 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 09:27:54
>>180
160にレスした形だから誤解されやすかったな、スマソ。
174の連中が常に嫡流だったかとか在世時主力だったかとかを言いたいんじゃなくて、
単純に鎌足から道長までの繋がりに長男がゼロってことを言いたかった。
母の身分や母方の財力・病気による夭折等もちろんあるけど
12代もいたら2〜3人くらいは長男が混じっていてもいいのになあ、と。
ただそんだけw

永手はまあ興味深い人物ではある。

182 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:55:23
一条教房は土佐に下ったのに、どうして一条家は摂家として存続できた
のですか?

183 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:15:46
>>166 亀レスだが、皇室・藤原氏にはそんなの多いね。
個人的に理解不能というか意味不明なのが、摂関期の一条帝をとりまく
血縁関係。一条帝の女御の一人に藤原尊子という女性がいる。
彼女の父は道兼(道隆の弟、道長の兄)、生母は師輔の娘・繁子、
とある本には書いてある。が、これホントなのかな?
もしホントなら、道兼は自分の祖父が儲けた子、つまり叔母に子を産ませた
ことになるが。しかも関係者全員に師輔の血が入っており、尋常ではない。
  師輔ー兼家ー詮子ー一条帝
  師輔ー繁子
  師輔ー兼家ー道兼ー尊子

単なる近親相姦という次元じゃなくて、何故そこまでしなきゃならんのか
意味不明。こういう面だけ見ると藤原氏って凄く淫蕩というか退廃的という
か。外国でこんな例あるかな?

184 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:50:15
>>182
弟冬良が摂関家の後を継いだので。

ちなみに冬良の後は教房の孫が継いで、その後
一時後陽成天皇の系統が一条を継ぎますな。

しかし、さらにその後鷹司から養子を迎えた
ので、幕末の五摂家のうち藤原の男系は一条家
だけだったりしますw

185 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:56:20
>>184
ごめんなさい。

幕末の九条と二条も藤原男系でしたw

186 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:09:03
>>183
それだけ自分に近い者と結婚させなければ
身内、兄弟にでも権力が奪われかねなかったんだから仕方ない。

と割り切れない?

187 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 08:44:58
 近親婚は藤原氏に限ったことじゃないわけで。当時の生活では異母兄弟は別々に育つの
で、兄弟という感覚はないらしい。なお父母とも同じでも別々に育つと、近親相姦への心
理的ブレーキが弱くなるらしい。

 桓武の妃の一人酒人内親王は桓武の異母妹で、二人の間の娘朝原内親王は、異母兄平城
天皇と結婚。二人の間に子はできなかったが、皇子誕生の場合即位の可能性もあった。
 ちなみに酒人内親王の母は井上内親王(聖武天皇皇女)で、母子三代内親王というのは珍
しいのでは?エジプト同様に妃が王権の血統的正当性を保証している感がある。

 天武天皇は持統天皇のはじめとする姪(天智の娘)多数と婚姻。天武と持統の長子が草壁
皇子、その妃が持統の異母妹、つまり文武天皇は相当な近親婚の産物。
 なお草壁の異母兄高市親王の妻も持統の異母妹で、その間の長子が長屋王、長屋王の正
妻吉備内親王は文武の同母姉妹なので、この間に生まれた膳夫王も相当な近親婚の産物。

 万葉集で有名な大伴坂上郎女(大伴家持の叔母)は異母兄宿奈麻呂と結婚。娘達は従兄弟
に当たる家持や駿河麻呂と婚姻。この辺は財産保全の為?

188 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 10:00:48
 道長に至る先祖達は房前以後全員が大将経験者。
 内麻呂以後は当然な気もするが、短期間とは言え真楯も大将。
 房前、中衛大将   真楯、授刀大将    内麻呂、近衛大将→左大将(左近衛大将)
 冬嗣、左大将   良房、右大将→左大将   基経、左大将   
 忠平、右大将→左大将   師輔、右大将   兼家、右大将   道長、左大将

189 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 14:23:17
今夜のオカズは藤原紀香
http://i2ch.net/z/---/ME/Bzhfx/i#b

190 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 11:43:55
熱田神宮の宮司、千秋家が
尾張国造から藤原南家に変わった経緯知ってる人います?

191 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:43:20
>>190
尾張氏最後の宮司が夢のお告げに従って外孫の藤原季範に後を譲った。

192 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:50:05
公家の由来


http://wolfpac.press.ne.jp/daimyo06.html

193 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:36:26
>>174
知っているとは思うのだが、知らない読者もいると思うので。

確かに『一苦しき二』と言われたが、言葉通り、一の上は実頼で氏長者。
後に師輔の子息達が権勢を奮うに及び、自ら『楊名の関白』と自嘲した。
実頼没後は師輔の長男伊尹が氏長者。

194 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 02:25:15
ちょっと質問なんですが
五摂家の中でも上下関係とかあるんですか?
なんかイメージ的に近衛家がエラそうなんですが

195 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:25:14
藤原隆家という人物がでてくる歴史小説ありませんでしょうか
検索してみたんですが、見つからなかったもんで


196 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 08:08:23
道長の甥の隆家(伊周の弟)のことですよね。
主役でなくてもよければ、
永井路子著「この世をば 上下」新潮文庫にでています。
主役はあくまで道長ですが、割と重要な脇役としてちょこちょこ出てきます。


197 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 08:31:09
>>194
 少なくとも幕末時期の公家社会では近衛嫡流・九条は庶流とはっきり意識されたいたよ
うだ。ただ家格の上下というほどのものではないようだ。
 逆に清家や大臣家といった家格の内部には、はっきりと家格の差(例:閑院流が上位と
か)があったらしい。
 新年の天皇へのご機嫌伺いの時に近衛家の当主と嫡子が特別扱いされたのは事実。
 ただいつ頃からの慣習なのか不明で、せいぜい享保(吉宗時代)のころからかも?


198 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:17:35
 鎌足は兄弟順はともかく嫡男ではあったようだ。多少疑念はあるが。
 不比等は次男だが、長男は出家しており嫡男と考えて問題ないだろう。
 房前は明らかに嫡男ではなく、嫡男は同母兄武智麻呂で問題ないだろう。もっとも実権
がどちらにあったかはやや微妙だが。

 房前の嫡男が長男鳥養か、真楯の同母兄永手かは微妙だが、真楯が嫡男でないのは当然。そして早死にしたらしい鳥養の死後は永手が惣領で問題ないだろう。
 ただ、永手にはついては従五位下での長期間滞留が気になり、もしかしてかなり長期間
病気だったのではないだろうか?(それも回復の見込みが薄いと思われるような)
 その間真楯が事実上の惣領扱いを受けていた可能性はあると思う。そして永手は回復後
に一挙に従四位下に昇進したのでは?
 この時期での兄弟の正規議政官同時在任は珍しい(藤原氏の場合兄弟で参議は既に常識)
のに、永手が中納言であるときに真楯が中納言になれたのはそう言う経緯もあるのかもし
れない?無論豊成、仲麻呂と大納言以上を占めている南家とのバランスもあるだろうが。
 また永手は官位昇進が特異、長期滞留の後、特別昇進と言うのが2回もある。

 なお、永手の子孫は早死にしたり事件に巻き込まれたりしてさっぱり振るわない。曾孫
あたりは五位止まりとかの情け無い有様。(この時期そんな藤原氏は多いけど)
 なぜか鳥養の子孫の方が出世している。難しい時期を若年で切り抜けたせいかも?

199 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:18:42
 内麻呂は三男でもあり真楯の嫡子ではないだろう。どのみち出仕の時点では父は故人で
あり、蔭位の恩恵(それも贈正一位の祖父の蔭の方が正三位の父の蔭より有効)以外は自力
で昇進したようだ。式家や南家と異なり天皇との外戚関係もなく、唯一有利なのは妻の一
人が桓武天皇の愛人の一人だったことくらいか?正確には嵯峨の後宮に娘緒夏(日本史上
最後の夫人)が入っているが出世してからだし、むしろ冬嗣にとっては多少有利か?
 多分官僚として有能だったのだろう。まあ有力他家が自滅(政争・早死等)したせいもあ
るのだろうが。
 
 冬嗣は次男であり、同母兄真夏が内麻呂の嫡男だったのは間違いない。真夏がついた平
城天皇が自滅しなければ、冬嗣は一生真夏の後塵を拝した可能性もある。
 ちなみに真夏の子孫が日野流諸家。
 
 良房も大して出世しないうちに冬嗣が死んでおり自力で昇進した模様。嫡男はやはり兄
長良だったのだろう。どうも才能に大差があったようだが。
 長良は同母弟良房にあっさり逆転され、更にあれだけ大差を付けられたということはよ
ほど無能だったのか?良房の突然のスピード出世は異常だが。

 基経は長良の三男だが、男子のない叔父良房の養子で有り、間違いなく嫡子。基経は最
初からエリートコース。
 忠平は同母兄、時平・仲平が居たわけで当然嫡子ではないが、長兄時平やその子達の早
死で権力者になれただけ。ただなぜか仲平よりは出世が早い。どういう訳か次男と三男の
逆転はよくあるようだ。
 師輔の場合、嫡男はあくまで兄実頼だが、時代の天皇の外祖父になれたことで実力は兄
を上回った感がある。ただし外孫の即位前に死亡、兄が長命だったこともあり、結局最後
までトップにはなれなかった。
 兼家の場合も、嫡男はあくまで長兄伊尹。長兄の早死後に次兄兼通に逆転を許したが、
これまた将来の天皇の外祖父になり、兄より長生きしたことでトップに。まあ自分の外孫
を皇位に付けるために時の天皇を騙すという荒技を使っているが。
 道長は同母兄弟の中でも三番目で当然嫡子ではない、兄の早死と甥の自滅で権力者に。
同時期にライバルになりそうな人は全滅状態、その意味では希代の幸運児。

200 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:45:54
 真楯は経歴的にかなり興味深い人物である。
 橘奈良麻呂の変(757年)以前では、藤原氏で唯一五衛府の督(741年右衛士督就任、左衛
士督とも)となっており、また同様の時期に藤原氏で唯一弁官経験者(左少弁に就任、時期
は743年か?。752年右大弁就任)でもある。
 更に八世紀の参議到達年齢が最年少(748年就任らしく、そうだとすれば34歳で従兄弟
の南家嫡男豊成と並び最年少タイ記録、もしかすると仲麻呂(豊成の同母弟)の子達の方が
早いかもしれないが年齢不詳)の部類でもある。30歳での四位到達というのも、皇族を除
けば八世紀前半としては記録的スピード出世のはず。
 豊成の参議就任は疫病で父や叔父(つまり藤原氏の参議以上全員)が短期間に全滅してし
まい、藤原氏を代表する形での特別昇進であり、通常の昇進とは言い難い。
 それを考えると真楯の昇進は考えられないほど早いことになる。まあ真楯の場合も北家
代表としての意味もあったかもしれない。かなり年長だったらしい長兄鳥養は早死にした
ようだし、同母で一つ上の永手はこの時期は従五位下で長期停滞中(病気?)で、実質的に
真楯が北家の総帥だったのだろう。
 つまり政治家としては能力は不明ながら、どうやら官僚としては同時期の藤原氏の中で
傑出して有能な人物だったことは疑いないようだ。

201 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:59:35
>>199
良房は夫人が嵯峨天皇の娘だわね
臣籍降下して皇女じゃないという形を取ってはいるけれど

202 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 21:36:20
 8世紀前半生まれの藤原氏(第4世代全員と第5世代の一部、第6世代のごく一部も
か?)は、ほぼ全員が三位以上の祖父を持っており、必然的に正七位上以上(最高で正六
位上)の蔭位を与えられる権利を持っている。
 基本的に五位到達までは勤務評定どおりに機械的に昇進できたようで、またこの時期の
藤原氏等上級貴族はほぼ例外なく勤務評定は良好とされ、3階昇進が標準だった。
 つまり悪くとも2度勤務評定を受ければ従五位下(正七位上より5階上)に到達するこ
とになる。
 従ってほぼ確実に30台で従五位下までは到達可能(特に事情があるものを除く)で、
年齢がわかる場合の実例もほとんどそうなっている。
 
一番出世の遅いであろうケース。
 21歳で内舎人となり、25歳で蔭位正七位上(三位の庶孫)を叙位、2度の勤務評定
後(8年後)に従五位下(33歳)、病気や喪中で2、3年遅れても30台の内には従五
位下到達。

逆に早いであろうケース(特綬を除く)
 21歳で蔭位正六位上(一位の嫡孫又は庶子)を叙位、最初の勤務評定(4年後)で従
五位下(25歳)到達。

 しかしこれ以後の昇進は時の権力者との関係次第であり、突然急速に昇進したり、長期
停滞したりとモデルケースが難しい。

 式家五男の田麻呂は40歳で従五位下だが、兄広嗣の謀反連座で流罪、さらに許された
後に自ら隠遁と言うブランクがあるからだろう。
 北家四男とされる清河(遣唐使)は公卿補任の享年から逆算すると40代前半での従五
位下到達ということになるが、これでは次男永手や三男真楯よりはるかに年長に成ってし
まい、実際は20歳くらい若かった可能性がある。
 京家2代目(第4世代)の浜成の場合、義兄豊成(姉の夫で従兄弟=南家当主=藤原氏
嫡流)が要職にあるうちは順調に昇進。豊成左遷後は停滞、豊成復帰で一挙に昇進、豊成
死後はまた停滞、弘仁即位でまた昇進、桓武即位で左遷。と非常にわかりやすい官僚生活
を送っている。

203 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 19:59:29
藤原氏のマイナー人物について検討してみよう(その1)=藤原朝臣鳥養
 房前長子であるらしい。若年で死亡したらしい。
 729年、正六位上から従五位下に昇進。
 父房前は681年生まれ。
 房前15歳の時の子とすると695年生まれとなり、34歳で従五位下ということになる。
  (従兄弟や兄弟に比べて昇進が遅すぎるようだし、あり得ないとまでは言わないが父が若すぎるだろう)
 房前20歳の時の子とすると700年生まれとなり、29歳で従五位下ということになる。
 房前25歳の時の子とすると705年生まれとなり、24歳で従五位下ということになる。
 房前30歳の時の子とすると710年生まれとなり、19歳で従五位下ということになる。
  (不比等の嫡孫豊成に比べても昇進が異常に早すぎてちょっとあり得ない)
 
 ちなみに、従兄弟豊成(武智麻呂嫡子で不比等の嫡孫)は704年生まれで、724年(21歳で)従五位下。
 従兄弟仲麻呂(武智麻呂次男)は、706年生まれで734年(29歳)で従五位下。
 弟永手(房前次男)は、714年生まれで、737年(24歳)で従五位下。
 弟真楯(房前三男)は、715年生まれで、740年(26歳で)で従五位下。
 やはり729年で従五位下の鳥養の生年は、700〜705頃が妥当と思われる。

 没年は次男とされる小黒麻呂が733年生まれなので、少なくとも732年までは生きていたことになる。
 また737年まで生存していた場合、同年の藤原四子死亡後に北家の最年長者として昇進するのが自然だろうが、ま
ったく姿を見せない(続日本紀に昇進の記事等は見えない)のは不審であり、それ以前に死亡の可能性が高い。
 また従五位下昇進後の動向が不明であり、元々病気がちだったのかもしれない。
 従五位上以上に昇進した形跡が見えないの次の勤務評定より前(733年以前)に死亡の可能性もある。

 結論:鳥養は北家初代房前の長男として700〜705年頃に生まれ、729年に20代半ばから30前くらいの年齢で従
五位下に昇進、その後の動向は不明だがおそらく五位のまま730年代中頃(732?〜737?の間くらいか?)に死亡、
遺児として小黒麻呂が残されたと言ったあたりではないだろうか?

204 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 20:00:34
ついでに北家七兄弟の兄弟順及び生年
 鳥養(おそらく長男)、700〜705年頃か?。従五位下(729、25〜30歳?)
 永手(次男とされる)、714年。従五位下(737、24歳)
 八束→真楯(三男とされる)、715年。従五位下(740、26歳)
 清河(四男とされる)、日本紀略では698年、尊卑分脈707年。715〜720年頃か?。従五位下(740、21〜26歳?)
  清河の母は房前の異母妹とされており、すると永手・真楯の母とそう劣るものでもなく、従五位下到達年齢が真
  楯よりひどく遅れることは考えがたい。また母の年齢から考えても698年生まれと言うのは信じがたい。
 魚名(五男とされる)、721年。従五位下(748、28歳)
 千尋→御楯(六男とされる)、公卿補任によると715年。722年頃か?。従五位下(749、28歳?)
  同母兄とされる永手と一年違いで、しかもやはり同母兄の真楯と同年生まれと言うのはちょっと不自然。
 楓麻呂(七男とされる)、723年(724年説有り)。従五位下(758年、35か36歳)
  兄弟・従兄弟に比べ五位昇進が遅いのは母の身分のせいか?

205 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 20:01:36
藤原氏のマイナー人物について検討してみよう(その2)=藤原朝臣清成
 宇合の子(三男または四男?)で、種継(737生まれ)の父。
 無位のまま終わっており、かなり若年(20歳程度)で死亡した模様。
 おそらく720年頃に生まれ740年頃までに死亡。737年の疫病で死亡か?

ついでに式家の兄弟順及び生年
 広嗣(長男)、同母弟良継の年齢から714年頃か?。従五位下(737、24歳?)
 宿奈麻呂→良継(次男)、716年。従五位下(746、33歳)。兄の謀叛に連座で五位昇進が遅れたようだ。
 清成(三男または四男)、720年前後?。無位
 田麻呂(五男)、722年。従五位下(761、40歳)。兄の謀叛に連座の上自主的に隠遁した為、五位昇進がとくに遅い。
 綱手(六男または七男。六男か?)。無位のまま740年処刑、当時18歳程度か?すると生年は723前後?
 雄田麻呂→百川(八男)、732年。従五位下(759。28歳)
 蔵下麻呂(九男)、734年(763。30歳)
 残り二名は不明、若年で死亡した模様。

おまけ南家四兄弟の兄弟順及び生年
 豊成(長男)、704年(724年、21歳)
 仲麻呂(次男)、706年。従五位下(734、29歳)
 巨勢麻呂(三男?)。乙麻呂の兄らしいが生母の身分に大差があった為か、従五位下は740年と遅い。
  707か708年頃の生まれか?すると従五位下は33歳か34歳。
 乙麻呂(四男?)。長男是公が727年生まれであることを考えると、710年以前の生まれか?
  従五位下(737年、28〜30歳程度?)

206 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 21:51:22
鎌足には不比等と定恵しか男子はいなかったのか?
すべての藤原氏は不比等の子孫で桶?

207 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 22:49:15
>>206
『日本書紀』『続日本紀』に出てくる定恵、不比等に関する記述
『尊卑分脈』などの系図

を正しいとすれば
鎌足の息子はこの2名のみ。
定恵は僧侶となり妻帯しなかったので
藤原氏のすべての先祖は不比等に集約される。

208 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:01:30
鎌足の子とされるのは不比等と定恵だけで間違いないが、
不比等の子孫以外の藤原氏も、少なくとも一時的には存在する。
まず鎌足の従兄弟くらいまでは藤原姓を名乗ったことがある。後に中臣に戻ったが。
また藤原仲麻呂(不比等)の孫の養子になって藤原朝臣を賜姓された、石津王なる人物がいる。
また、橘奈良麻呂の謀反を密告した山背王(長屋王の子)は、恩典として藤原朝臣を賜姓された。
ただしこの人物は不比等の外孫ですが。
その後子孫(孫くらい?)は、平安時代初期に藤原から別姓に改姓している。
ただし全ての子孫が改姓したのか不明?藤原氏のままだった子孫もいるかも?

209 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:25:51
五摂家分裂の経緯について書かれた本などご存知でしたら教えてください。
鎌倉幕府の工作だとは聞いたことがありますが、よく知らないもので。

210 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 19:52:45
九条家の親子喧嘩がきっかけでしょう。
で九条流が三つに分かれちゃったから、対抗上近衛も二家に分かれた。

211 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 20:01:37
 南家最後の大臣は三守、式家最後の大臣は緒嗣ってことでいいのですか?

212 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:52:24
>>210
権力分散のために幕府が割ったんだよ。


213 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:38:06
摂政・関白という位は、親が摂政・関白に就いたことがないと、候補になれない。
(一代抜けると先祖が有資格者でもだめ。
 だから一旦親がコケると子孫に大迷惑が掛かる。豊臣秀吉は例外中の例外。)

最初 近衛だけが摂関家だった。そして平清盛と近かった。
それを嫌った源頼朝が近衛の弟の九条を摂政・関白につけた。
こうして摂関家が2つになった。

214 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:45:09
>>213
そのへんを描いた小説とかあったら面白そうだけど知らない?

215 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:54:09
>親が摂政・関白に就いたことがないと、候補になれない。

それっていつごろの話ですか。
少なくとも伊尹・兼通・兼家兄弟には当てはまりませんよね。

216 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 04:23:32
摂関が世襲のものとされたのは、鳥羽の摂政に忠実と公実が候補となった際、
白河院が忠実に裁定したとき。これ以降、外戚関係の有無や政治状況によらず
彼の子孫が摂関を継承していくことになった。これにより摂関家という家格が
確立したが、摂関の地位は治天の把握するところとなり、摂関家の勢力が衰える
一因となった。次代には氏長者まで宣旨で補任されることとなり、摂関家の凋落は
決定的となる。

217 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 22:01:28
閑院流なんか摂関家より勢いがよかったのに、
摂関にはなれなかったのね。

218 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:19:34
道長が関白になったならないで友達と喧嘩してしまったんですけど実際には関白にはなってないですよね。因みに大学受験生ですが。

219 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 08:47:23
>>218
ええ関白にはなってませんよ、摂政にはなってますが
御堂関白ってのは俗称ですね

220 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 09:22:32
内覧という地位はガッコでは習わないからな

221 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:07:09
質問(・∀・)ノ藤原内麻呂の父親と種継の父親って誰でつか??

222 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:48:50
内麻呂のパパは藤原眞楯(八束)
種継のパパは藤原清成

藤原清成なる人物は無位無冠(『尊卑分脈』)で『続日本紀』には全く出てこない謎の人物。

223 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 08:23:03
>>221
>>198-205

224 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:33:55
藤原朝臣魚名(生没年721〜783年。北家房前五男)
 748年従五位下(28歳)→761年従四位下(41歳)→766年従三位(46歳)→768年参議(48歳)→770年正三位(50歳)
 771年大納言(51歳、中納言を経ず)→777年従二位(57歳)→778年内臣(58歳)→同年忠臣→779年内大臣(59歳)
 →781年正二位(61歳)→同年左大臣(右大臣を経ず)→782年左大臣解任。783年64歳で死亡。
 ライバルとなるべき兄や年長の従兄弟が次々と消えていったため、結果的に出世した感が強い。
 棚ぼたの幸運は長続きしないのか理由不明のまま解任される。
 仲麻呂政権末期の時点では、藤原氏内序列九位くらいか。当時の権力者仲麻呂とその弟巨勢麻呂(二人とも従兄弟
でかなり年長)や異母兄三人(五歳以上年長らしい)が上にいるのはともかく、異母弟御楯に超えられたのは不愉快だ
っただろう。おそらくは10年程度は年少だったであろう仲麻呂の息子三人に越されたのはもっと不快かも。

長兄鳥養(北家房前長男。700〜705頃の生まれ?で、かなり年長だったことは間違いない)
 729年に従五位下になった後の動向が不明で、730年代半ばから後半に死亡したようだ。
従兄弟広嗣(式家宇合長男。714年頃の生まれで7歳程度年長か?)
 737年従五位下となるも、740年謀叛を起し敗死。
従兄弟綱手(式家宇合三男または四男。723年頃の生まれでやや年少か?)
 兄広嗣の謀叛に従ったらしく、無位のまま740年処刑。
従兄弟清成(式家宇合六男または七男。720年頃の生まれで同年かやや年長)
 740年以前に死亡しているようだ。なお他の二人の兄弟も時期不明ながら早死にしているようだ。
このあたりまでは魚名が官人として活動を始める以前かせいぜいその直後に死亡しておりライバルとは言い難い。

225 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:36:36
直ぐ上の兄清河(北家房前四男。715かその1、2年後の生まれか?)
 740年従五位下→746年従四位下→749年参議と順調に昇進したものの、752年遣唐使となり以後帰国できず。
 ちなみに正三位は764年(正四位下から特進)で、770年に死亡したらしい。
従兄弟乙麻呂(南家武智麻呂四男。710年か1、2年前の生まれで、10歳以上年長らしい)
 737年従五位下→750年正五位上から一挙に従三位。おそらく参議にならないまま760年死亡。
直ぐ下の弟御楯(元千尋。北家房前六男。722±1年程度の生まれで1歳くらい年少か?)
 749年従五位下→758年従四位下→759年参議→761年従三位。仲麻呂の婿になったせいか兄魚名を超えて昇進。
 764年仲麻呂失脚の直前に死亡。
従兄弟仲麻呂=藤原恵美朝臣押勝(南家武智麻呂次男。706年生まれで15歳年長)
 734年従五位下(29歳)→741年従四位下(36歳)→743年参議(38歳)→746年従三位(41歳)→748年正三位(43歳)
 →749年大納言(44歳、中納言を経ず)→同年紫微令→750年従二位(45歳)→757年紫微内相(大臣同格、52歳)→
 758年太保(右大臣、53歳)→760年従一位太師(太政大臣、55歳太傅=左大臣を経ず)→762年正一位(57歳)と、
 順調に昇進し位人臣を極める。しかし764年謀叛を起し敗死、59歳。
従兄弟巨勢麻呂(南家武智麻呂三男。707または708年頃生まれで、十数歳年長)
 740年従五位下→754年従四位下→760年従三位→参議(761年以前)と、同時期に藤原一族としてはやや出世が遅
 いが、特に不遇と言うほどでもない。764年兄仲麻呂の謀叛に連座し処刑。

226 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:39:09
従兄弟豊成(南家武智麻呂長男。704年生まれで17歳年長)
 724年従五位下(21歳)→737年従四位下(34歳)→同年参議→743年従三位中納言(40歳)→748年従二位大納言
 (45歳)→749年右大臣(46歳)→757年正二位(54歳)と順調に昇進するものの、弟仲麻呂との確執に破れ757年太
 宰員外帥に左遷。その後764年の仲麻呂の失脚後に右大臣復帰、同年従一位となるも、翌765年62歳で死亡。
三兄真楯(元八束。北家房前三男。715年生まれで6歳年長)
 740年従五位下(26歳)→744年従四位下(30歳)→748年?参議(34歳)→760年従三位(46歳)→762年中納言
 (48歳)→764年正三位(50歳)→766年大納言(52歳)と比較的順調に昇進するも766年52歳で死亡。
魚名がまださほど目立たない中堅官人のころに死亡。ある意味この人達が消えてくれたことが出世の要因。

次兄永手(北家房前次男。714年生まれで7歳年長)
 737年従五位下(24歳)→749年従四位下(36歳、従五位下からの一挙昇進)→754年従三位(41歳)→758年中納言
 (45歳、参議を経ず)→764年正三位(51歳)→764年?大納言→765年従二位(52歳)→766年右大臣(53歳)→同年
 正二位→同年左大臣→769年従一位(56歳)→770年正一位(57歳、生前正一位の最後の例)。771年58歳で死亡。
 出だしは順調だったが病気でもしたのか12年間の停滞有り、その後の昇進は順調で位人臣を極める。
従兄弟蔵下麻呂(式家宇合九男。734年生まれで13歳年少)
 763年従五位下(30歳)→764年従三位(従五位下から特進、31歳)→774年参議(41歳)
 兄広嗣の謀叛の影響もあり昇進は遅かったが、仲麻呂の乱の活躍で特進。若すぎるためかその後はあまり昇進しな
 かったが、10年後に参議。しかし翌775年42歳の若さで死亡。
末弟楓麻呂(北家房前七男。723か724年生まれで2,3歳年少)
 758年従五位下→764年従四位下(従五位下から一挙昇進)→772年参議→774年従三位。776年死亡。
 母の身分も低く末子のためか出世はあまり早くない、仲麻呂の乱の後、兄達の死亡もあってようやく日が当たるよ
 うになったようだが、常に魚名の後塵を拝しており、もとより兄魚名のライバルではなかったようだ。

227 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:40:46
従兄弟良継(元宿奈麻呂。式家宇合次男。716年生まれで5歳年長)
 746年従五位下(31歳)→764年従四位下(従五位上から一挙昇進)→同年中に正四位上に特進→766年従三位(51歳)
 →770年正三位(55歳)→同年参議→771年?中納言(56歳)→771年内臣→774年従二位(59歳)→777年内大臣
 (62歳)。777年62歳で死亡。
 兄広嗣の謀叛で流罪のため同年輩の永手・真楯・清河兄弟より出世は相当に遅い。更に仲麻呂政権下ではまったく
 うだつが上がらなかった。仲麻呂打倒後は官位こそ上がっ たものの参議にさへ任用されず、どうも称徳天皇や道
 鏡とは良くなかったようだ。光仁天皇擁立の功臣として光仁朝では実権を握るもののトップにはなれなかった。
従兄弟百川(元雄田麻呂。732年生まれで11歳年少)
 759年従五位下(28歳)→768年従四位下(37歳)→771年参議(40歳)→774年従三位(43歳)→779年正三位(48歳)
 権力者が誰であれ上手く立ち回り、まずまず順調に昇進するも、779年48歳の若さで死亡。
従兄弟浜成(元浜足。京家麻呂の子。724年生まれで3歳年少)
 751年従五位下(28歳)→764年従四位下(41歳)→772年参議(49歳)→776年従三位(53歳)→782年参議解任
 (59歳)。790年67歳で死亡。
 四家中京家は最初から勢力が弱かったようで、出世は思うに任せなかったようだ。
 義兄(姉の夫)豊成が高位にあるときときは昇進失脚すると停滞、光仁天皇にはまあまあ重用されたが、桓武天皇に
 は不要だと思われたようで失脚。以後京家はまったくパッとしない。子供に非参議1名・孫に大納言1名のみ。
 なお他に系図上では兄弟二人が居たようことになっているが、他の資料で確認できず、実際に居たとしても若年で
 死亡したのだろう。
こういう感じでライバル達は消えていき、後は式家の田麻呂だけ。

228 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 10:42:35
従兄弟田麻呂(式家宇合五男。722年生まれなので1歳年少)
 従五位下(40歳)→従四位下→766年参議(45歳)→771年従三位(50歳)→780年中納言(59歳)→同年正三位→
 781年大納言(60歳)→782年右大臣(61歳)→783年?従二位(62歳)。783年63歳で死亡。
 兄広嗣の謀叛に連座して流罪になった上に、許された後も自主的に隠遁していたため五位到達が同世代の藤原氏の
 中で飛び抜けて遅い。しかしその後仲麻呂政権下でも兄良継とは異なりそれなりには昇進していた。
 その為か仲麻呂打倒後の位階昇進は兄弟で一番遅いが、なぜか兄弟中最初に参議に登用された。
 桓武天皇即位の直前当たりから急速に昇進している。桓武の信任が厚かったのか、あるいは単に藤原旧世代の生き
 残りとして厚く遇されたのか?
 ともかく田麻呂の死で藤原第四世代は全て政界から消え、完全に第五世代の時代となった。

第五世代、つまり魚名の甥や従兄弟の子の内の年長者(730年代までの生まれと思われる人物)。
武良自(系図で豊成長男とされる良因らしい。同母弟が727年生まれなので、725年頃の生まれで4歳程度年少か?)
 754年従五位下、その後いくつかの官に就き、759年に丹後守になっているのでその頃までは生きていたようだ。
 764年の仲麻呂打倒後当時まで生きていれば位階昇進が有ると思われるので、760年代始めに従五位下のまま死亡
 したのだろう。おそらく第五世代最年長グループの一人。
継縄(豊成次男。727年生まれで6歳年少)
 763年従五位下(37歳)→765年従四位下(39歳)→766年参議(40歳)→771年従三位(45歳)→780年中納言(54歳)
 →782年正三位(56歳)→783年大納言(57歳)→786年従二位(60歳)→790年右大臣(64歳)→794年正二位
 (68歳)、796年70歳で死亡。
 最初はパッとしなかったが、仲麻呂失脚後は順調に昇進。ただ桓武天皇にはあまり信任されなかったようで、それ
 まで先行していた同年の従兄弟是公に逆転された。是公死後ようやく大臣。
乙縄(豊成三男、728年(または729年)生まれか?、7、8歳年少)
 764年従五位下→769年従四位下→779年参議、781年没
 橘奈良麻呂の乱に連座して左遷されたため、仲麻呂政権中はまったく不遇で五位昇進も遅れた。
 その後の昇進も、不遇とは言わないが今一パッとしない感がある。

229 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:10:27
縄麻呂(豊成四男。729年生まれで8歳年少)
 749年従五位下(21歳)→764年従四位下(36歳)→同年参議→768年従三位(40歳)→771年中納言(43歳)
 四男ではあるが母親の身分が高く嫡子だったようだ。その為スタートは最高に恵まれており、その後もまずまず順
 調に昇進したが、晩年は昇進が止まり、779年51歳で死亡。
真従(仲麻呂の子、長男か?720年代後半の生まれだろう、数歳の年少)
 749年従五位下だがこれ以後見えず、その後まもなく死亡したようだ。武良自と同年代の第五世代最年長者組か?
真先(仲麻呂の子、次男か?730年代前半の生まれか?)
 757年従五位下→759年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
久須麻呂(仲麻呂の子、三男か?730年代前半の生まれか?)
 758年従五位下→759年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
朝狩(仲麻呂の子、四男か?730年代前半の生まれか?)
 757年従五位下→760年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
小湯麻呂(仲麻呂の子、五男か?730年代半ばの生れか?)
 759年従五位下→764年従五位上
刷雄(仲麻呂の子、六男か?730年代半ばの生れか?)
 752年従五位下(直叙)→764年流罪→772年復従五位下〜以後791年まで諸官を歴任。
薩雄(仲麻呂の子、七男か?730年代後半の生れか?)
 759年従五位下

230 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:11:18
是公(元黒麻呂。乙麻呂の子。長男か?、727年生まれで6歳年少)
 761年従五位下(35歳)→766年従四位下(40歳)→774年参議(48歳)→779年従三位(53歳)→781年正三位(55歳)
 →同年中納言→782年大納言(56歳)→783年右大臣(57歳)→784年従二位(58歳)、789年63歳で死亡。
 最初はパッとしなかったが、仲麻呂失脚後は順調に昇進。五位昇進は同年の従兄弟継縄に先行したが、四位昇進の
 時点でで逆転された。しかし桓武天皇に親任されたようで再逆転を果している。
小黒麻呂(鳥養の子で次男か?。733年生まれらしく12歳年少か?)
 764年従五位下(32歳)→773年従四位下(41歳)→779年参議(47歳)→781年正三位
 (49歳、征討の功による正四位下からの特進)→784年中納言(52歳)→790年大納言(58歳)、794年62歳で死亡。
 父鳥養を早くなくしたためか五位昇進は早くもなく遅くもなくと言った感じだが、以後は順調に昇進。 
種継(清成の子。737年生まれで16歳年少) 
 766年従五位下(30歳)→781年従四位下(45歳)→782年参議(46歳)→783年従三位(47歳)→784年中納言(48歳)
 →785年正三位(49歳)
 叔父達の死で式家総帥となりその前後からの昇進は目覚ましいが、785年49歳で暗殺された。
仲麻呂の子の内三人(真先・久須麻呂・朝狩、10歳程度は年少だろう)には明らかに先行されていたし、数年年少の
縄麻呂、是公、継縄あたりにはかなり追い上げられていた感がある。

 こうしてみると、魚名の前半生のライバルはやや年少らしい異母弟御楯、後半生では従兄弟良継と田麻呂か?

231 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:12:57
仲麻呂政権末期(764年初頭)における藤原氏官人(五位以上)の序列(推定)
 一位、仲麻呂(正一位大師)
 二位、永手(従三位中納言:仲麻呂との続柄=従兄弟)&三位、真楯(従三位中納言:従兄弟)
  この二人は仲麻呂にとって煙たい存在では有っただろうが、排除の口実もなく妻の兄弟でもあるので少なくとも
  表面上は提携していたのだろう。娘婿御楯の同母兄でもあるし。また一応兄であり先任である永手が上位だろう。
 四・五位、巨勢麻呂(従三位参議:弟)&御楯(従三位参議:従兄弟で娘婿)
  この二人は完全な仲麻呂党だろう。どちらが上位かは微妙だが、一応は年長である巨勢麻呂か?
 六位、真先(正四位上参議:息子、次男か?、長男は早逝したらしい)
  後継者候補ナンバーワンと推定される。
 七・八位、朝狩(従四位下参議:息子、四男か?)&久須麻呂(従四位下参議:息子、三男か?)
  公卿補任では久須麻呂の方が年長とされているようだが、なぜか概ね朝狩の方が出世が先行している。ただし参
  議就任は同時なので、この時点ではほぼ同格か?
 参議以上は以上八名(南家は仲麻呂親子の四名を中心に五名・北家は在唐中清河を除き三名)。

 魚名(従四位下(761年):従兄弟)
  一応位階的にはそう不遇ではないが、既に北家には清河を含めて参議が四名居るため割を食っているらしい。
 縄麻呂(正五位下(この年正月昇進):甥)、豊成家の当主としての昇進か?
 田麻呂(正五位下(この年正月昇進):従兄弟)、式家の総帥としての昇進か?
 小湯麻呂(従五位上(この年正月昇進):息子、五男か?)
 浜成(従五位上(この年正月か?):従兄弟)、京家の代表であろう。と言っても事実上浜成だけだが。

232 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:13:59
 刷雄(従五位下(752年):息子、六男か?)、唐留学のため若年で五位に成ったためか以後一切昇進せず。
 楓麻呂(従五位下(758年):従兄弟)、北家末子で母の身分が低かったこともあり昇進が遅いようだ。
 薩雄(従五位下(759年:息子、七男か?)
 雄田麻呂(従五位下(759年:従兄弟))、後百川に改名。
 辛加知(従五位下(761年):息子、八男か?)
 黒麻呂(従五位下(761年):甥)、後是公に改名、乙麻呂家の当主だろう。
 執棹(従五位下(763年):息子、九男か?)
 継縄(従五位下(763年):甥)
 蔵下麻呂(従五位下(763年):従兄弟)
 
番外(失脚中他)
 豊成(本位は正二位:兄)
 清河(正三位参議(正三位昇進はこの年正月)だが在唐中:従兄弟)
 宿奈麻呂(本位は従五位上(757年):従兄弟)後良継に改名。
 乙縄(本位は正六位上:甥)
 
 この時期、藤原氏第四世代(仲麻呂の兄弟従兄弟)の生存者と、第五世代の一部(南家のみ)が、五位以上。
 最も北家や式家の第五世代も40前くらいには五位になれるだろうと思われる。

233 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:18:36
仲麻呂の子の生年の推定 
真従(長男か?)、749年従五位下だがこれ以後見えず、その後まもなく死亡したようだ。
 従兄弟縄麻呂と同時期に五位昇進でこの時の年齢は21(縄麻呂と同年)〜25歳くらいと思われる。すると725〜729
 年の生れとなり、706年生れの仲麻呂(当時20〜24歳)の長男として自然な生年だろう。
 五位昇進が後述の真先の8年前であり、真先より5歳は年長か?すると725、726年くらいかもしれない?
真先(次男か?)、757年従五位下→759年従四位下→762年参議→同年正四位上
 五位昇進を21歳とすると参議昇進が26歳となり、先例に比べてあまりに早すぎる。五位昇進が24、25歳とする
 と、参議昇進が29、30歳となりこれでも非常に早いがまあ有り得る年齢ではないだろうか?従って734年以前の
 生れなのはほぼ間違いないだろう。730〜734年くらいの生れか?
久須麻呂(三男か?)、758年従五位下→759年従四位下→762年参議
 真先と同母とされており、昇進状況から弟思われる。真先と同様の推定より、730〜734年頃の生れか?
 すると真先が730〜732年頃、久須麻呂が732〜734年頃の生れか?
朝狩(四男か?)、757年従五位下→760年従四位下→762年参議
 真先・久須麻呂とほぼ同様の昇進をしており、やはり730〜734年頃の生れか?


234 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:20:30
小湯麻呂(五男か?)、759年従五位下→764年従五位上
 五位昇進を21〜25歳とすると、735〜739年の生れと言うことになるが、735年の方に近いか?
刷雄(六男か?)、752年従五位下(直叙)→764年流罪→772年復従五位下〜以後791年まで諸官を歴任。
 五位昇進は非常に早いがこれは留学生と成ったためで兄弟順とは関係ないようだ。
 この時の年齢は17〜21歳程度か?すると、732〜736年頃の生れとなる。735、736年程度か?
薩雄(七男か?)、759年従五位下
 五位昇進を21〜25歳とすると、735〜739年の生れと言うことになるが、その後の位階昇進がないことから比較
 的若年での昇進か?すると739年の方に近いか?
 仲麻呂は既に757年兄豊成を失脚させ臣下トップ、翌758年に太保(右大臣)となっており、息子達をかなり無茶な
 昇進をさせられるようになっていたと思われる。
辛加知(八男か?)、761年従五位下
 五位昇進を21〜25歳とすると、737〜741年の生れと言うことになるが、740年前後といったあたりか?
執棹(九男か?)、763年従五位下
 五位昇進を21〜25歳とすると、739〜743年の生れと言うことになるが、740年代に入ってからの生れか?

235 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:21:01
『これ以前で出世の早い例』
房前(不比等次男、681年生まれ)、705年従五位下(25歳)→715年従四位下(35歳)→717年参議(37歳)
宇合(不比等三男。694年生まれ)
 716年従五位下(23歳)→721年正四位上(28歳、正五位上から特進)→731年参議(38歳)
麻呂(不比等四男、695年生まれ)、717年従五位下(23歳)→721年従四位下(27歳)→731年参議(37歳)
豊成(南家武智麻呂長男。704年生まれ)、724年従五位下(21歳)→737年従四位下(34歳)→同年参議(34歳)
永手(北家房前次男。714年生まれ)、737年従五位下(24歳)→749年従四位下(36歳)
真楯(元八束。北家房前三男。715年生まれ)、740年従五位下(26歳)→744年従四位下(30歳)→748年?参議(34歳)
縄麻呂(豊成四男。729年生まれ)、749年従五位下(21歳)→764年従四位下(36歳)→同年参議(36歳)
橘奈良麻呂(諸兄の嫡子)、740年従五位下(20歳?、直叙)→747年従四位下(27歳?)→749年参議(29歳?)
 やや疑念のある橘奈良麻呂を除くと、従五位下の最年少は21歳、従四位下は27歳、参議は34歳。

『参考にその後の例』
家依(北家次男永手の長男?。743年生まれ)、765年従五位下(23歳)→769年従四位下(27歳)→777年参議(35歳)
園人(北家七男楓麻呂の長男?。756年生れ)
 779年従五位下(24歳、直叙)→799年?従四位下(44歳)→806年権参議(51歳)→同年参議
緒嗣(式家八男百川の嫡子、774年生まれ)、791年従五位下(18歳)→797年従四位下(24歳)→802年参議(29歳)

236 :日本@名無史さん:2006/06/01(木) 23:01:03
保守

237 :日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:11:00
安和以降に南家が天皇の外戚になるチャンスを
ものにできたのはなぜ?

238 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 09:04:21
そんなチャンスあったの?

239 :日本@名無史さん:2006/06/14(水) 20:29:44
順徳天皇の生母が藤原南家出身

240 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 19:59:30
内麻呂って子供は多いけど、兄弟とか甥とかの係累の蔭がありませんね。

241 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 21:38:36
お父さんの眞楯が余り子づくりに励んでませんからねw

内麻呂の母は阿部帯麻呂の娘なのだが
この帯麻呂っつーのは因幡国司時代に連続殺人を犯して以後消息不明という
怪しげな人物なんだよな。
その先妻と思われる佐味氏も何やってたのかよく分からない謎の一族出身である。

242 :日本@名無史さん:2006/06/19(月) 22:10:38
不比等が天智の息子って本当?

なら女系問題は余裕で解決だよね

243 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 09:53:56
閑院流を中心に
名前が交互に
公○ー実○ー公○ー実○

と繰り返す家系が多いけど、これはなぜ?
公季か誰か遺言とかあったの?

244 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 20:48:42
公季―実成―公成―実季までの四代で大勢は決しているよな。

公季が孫の公成を猫かわいがりしたのは有名。
実成が孫に実の字をつけたのはそれに対抗してのことだったのかも。

245 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:03:01
内麻呂って三男のはずだけど、兄二人はどうしたんだろう?

246 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:09:07
真楯(男子3人?)に限らず北家の第二世代7兄弟って男子少ないな。
 鳥養の子は小黒麻呂(次男?)以外は良くわからないし、
 永手の子も目立つのは二人だけ、清河は女子一人だけらしい、
 御楯は子供存在自体不明?、楓麻呂もあまり子供いなかったみたい。
 子供が多いのは魚名だけ?

247 :素人さん:2006/06/20(火) 21:36:05
唐 = 藤

248 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 00:20:09
>>246
御楯は子供がいたとしても
仲麻呂の乱で全員あぼーんだと思われ
御楯の妻は仲麻呂の娘だし

249 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 20:21:11
内麻呂の兄二人って結局どうなったの?

250 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 20:25:34
種継と百川の子って、スタートだけは優遇されていて、
大概20プラスマイナス3歳程度で五位になってるけど、
緒嗣以外は結構従五位で塩漬けってケースが多い。
緒嗣と仲成以外はよっぽど無能だったのか?
あと良嗣の男系子孫ってどうなったの?

251 :日本@名無史さん:2006/06/22(木) 01:32:01
>>249
大した出世をすることなくシェードアウト
どちらか一人は『続日本紀』に全く記載が出てこなかったと記憶
(つまり従五位下以上に任官されなかった?)

>>250
『尊卑分脈』によると良継には男子で成人に達したものはいなかった模様

252 :日本@名無史さん:2006/06/22(木) 19:45:11
真楯の子として系図に出ている真永と永継ってのが内麻呂の兄かな?
永継は「続日本紀」に出てくる長継のことだろうか?
従五位上備前守藤原託美っていうのが良継の子らしいけど、根拠はなんだろう?

253 :日本@名無史さん:2006/06/22(木) 21:29:57
お、久々にこのスレ見たら奈良時代の藤原氏についてのレスが
たくさん。マイナーどころまで。すごいな。

>>203
鳥養の母親は春日倉首老とされる。
これは701年3月に還俗させられた弁基と同一人物。
とはいえ、鳥養の昇進具合を見るとその母は老の還俗以降に
生まれた娘ではありえなく、おそらく老の養女なのであろう。
不比等の次男と結びつけたのは、老が不比等に近づこうとしたからか
不比等が老を見込んで懐に入れようとしたのか。
ともあれ、鳥養の生年をは02年〜705年頃に絞ってもいいかも。
あんまり変わらないかw

254 :253:2006/06/22(木) 22:04:25
スマソ、鳥養の母親は春日倉首老の女とされる、に訂正。
鳥養の生年も702〜705年に訂正。書き損じた。

>>204
真楯と御楯は面白いね。元の名は八束と千尋。
房前の子で改名したのはこのふたりだけ。
『公卿補任』の記載から年を逆算するとふたりは同年生まれになり、
双子説も成り立たないわけではない。ちょっと考えられないけど。
(ただ単に補任は御楯と真楯を混同していると思われる)
君が代じゃないけど、千代に八千代にって和歌がある(平安時代だが)ので
もし万が一双子なら、先に体外へ出た子(弟)を「千」尋、
次に出てきた子(兄)を「八」束と名付けたのかも…考えすぎかw
永手・八束・千尋の同母兄弟はみな手に関する名前だとも聞いたことがある。
手、束(長さの単位、親指を除いた握り拳の長さ)、尋(長さの単位、両手を広げた長さ)。

清河の生年も気になるね。母親も謎すぎる。
楓麻呂の生年723年・724年説は初耳。出典教えてほしいな。

255 :日本@名無史さん:2006/06/22(木) 22:29:21
>>248
御楯は仲麻呂の乱の直前に病死してるから、
その子は、もし仲麻呂の乱に加わってないなら
細々と生きてた可能性もなくはない。
ひょっとして乱時には成人してなかったかも。

話はちょっと変わるが、乱で斬殺された巨勢麻呂の子は
たくさん生き延びてる。
ただ、巨勢麻呂は乱の前年に没していたという説もあるのね。

256 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 09:47:54
>>250-251
良継の息子には宅美がいます
宝亀4年に右兵衛督に任ぜられ、5年に丹波守、7年に越前守を兼任してます
だがこれ以降の動向は知られてません
木本好信氏によると何らかの理由で不遇だったのでは、という事です
その後、従四位下の時に長岡宮で賊に殺害されたそうです
それで男系は断絶したのでしょう

>>252
根拠は続日本紀ではないかと
ただ、今手元にはないので確認はできませんが


257 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 10:47:45
>>254
清河に関しては鹿児島大の先生が論考を2編書かれていたかと
あと角田文衛氏も清河の母親について小論を書かれていた
今のところ「清河と魚名は同母兄弟」というのが通説かと

永手・八束・千尋は同母兄弟で、他の兄弟とは隔絶した?妙な名前なので
ネーミングは母親の牟漏女王の趣味なのかな?
「永手」「八束」「千尋」もひたすら長い物を意味する、という解釈もあるそうで
(「万葉集」の解釈で読んだような記憶)
類推するに子供の長命を願ってつけたと言うところではないでしょうか。

>>256
d楠
「宅美」なんてのがいたのか
大国越前国の国守もしていたのだから途中まではそれなりに優遇されていたとも見えるが
弟の百川の遺児・緒嗣のねこかわいがられぶりからするとえらい違いがありますね

258 :日本@名無史さん:2006/06/23(金) 20:28:08
公卿補任によると良継の男子はもう一人いたようだ。
但し日陰の子で、9世紀に入ってから能原宿禰を賜姓され、その後にようやく従七位上。

藤原氏も690〜710年代に生まれた連中はかなり昇進が早い。
ところが720年代以降になると希少価値がなくなったせいか、
中年までの出世が遅くなる傾向がある。
例外は仲麻呂の子や家依(永手嫡子、743生)と緒嗣(774年生)くらい。
この連中が嫡流を形成できれば、その子孫だけ昇進が早くなるのだろが、
実際にはみんな何らかの理由で挫折。
その後嫡流が成立すると嫡流やそれに准ずる連中だけ出世が早くなってきて、
それが周囲にも拡散しということを繰り返し、
ついには12歳の摂政という言語道断な事態に……。

259 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:05:48
>>257
うん、清河と魚名が同母兄弟ってのは異論はないよ。
ネーミングセンスも水に関するって点で共通するし。
ただ、清河の母が「異母妹」片野朝臣ってのはなんだろね。
房前の異母妹とする説もあるけど、それは何だかなあって気が。
清河享年73ってのは阿倍仲麻呂の享年と混同してるって説もあったっけ?

260 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:43:45
角田文衛氏は
「葛野女王」
の間違いじゃないか、って言う説ですね
これが正解とは言えないですがw
「藤原清河の母」という小論が「角田文衛著作集」の3巻あたりにはいってたと思うので
興味があれば読んでみて下さい

清河の没年に関しては阿倍仲麻呂のそれと混同しているという話で正解
鹿児島大教授の増村宏氏の論文で詳述されていたかと(これは記憶が曖昧)

261 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 01:22:48
>>260
おお、thx。著作集の3巻ね。機会を見つけて読んでみるよ。
なるほど、『続日本紀』723年正月の項に名前があるある葛野女王ね。
父親は判明してるのかな。
年齢を考えるとあり得ない話でもなさそうだけど…。

あと、>>254で房前の子で改名したのは八束と千尋だけだと書いたけど、
増村氏の論文を見るに魚名も魚麿から改名してた(どの史料だろ?)のね。
この論文、ちょっと分かりづらいけど、結論として清河の生年は715〜722年という
常識的な線で落ち着いてるみたい。

262 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:04:07
遂竈っていうのは実際にいたんですかね。
どこにも名前が出てこないんですが。

263 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:22:31
>>262
遂竈(読み方が分からない)は尊卑分脈にのみ
名前があるんだっけ? 位置は御楯と楓麻呂の間。
聖武夫人の名であるかもという説もあるらしい。
女子は基本的に全ての男子の後に書かれているから
どんなものかなという気もするけど…。
男子である場合、やっぱり早死にしたと考えるのがよいかな。

264 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:57:11
そうだな

265 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 15:08:23
でもないよ

266 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 19:22:52
藤原定国があと10年生きていたら。
高藤流が摂関家になったりして。

267 :日本@名無史さん:2006/07/18(火) 00:41:54
うんうん

268 :日本@名無史さん:2006/07/18(火) 01:12:15
>>267
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1137688598/289
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109928700/76
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1047302970/540
毎度毎度どうでもいいレスで延命をはかるな、低脳。

269 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 22:56:59
保守

270 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 02:28:11
五摂家に分裂した詳しい経緯おしえてください。

271 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 14:40:58
急求!!
大化改新についてレポート用紙1枚弱くらいの文量でまとめてください(><)歴史マニアにしかたのめないんです!!
15時ぐらいまでに頼む!!!まじ頼む!!!!

272 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 15:01:29
もうダメポorz
まとまらないから逝ってくる

273 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 23:05:13
大家の回診だな

274 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:27:47
620 名前:名無しさん@七周年 投稿日:2006/10/16(月) 11:00:58 ID:dyWKk8fu0
近衛氏の家系について

『日本書紀』に隠された真実の声
このページに掲げた血なまぐさい事件は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、い
ろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
(根拠)
一、『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』
   http://barclay.e-city.tv/oldhist/nakatomi.html
ニ、    藤原氏の閨閥 Y 
>藤原氏の事実上の祖は中臣鎌足である。中臣氏の始祖は天児屋根命といわれている。
>大鏡によれば、鎌足の出身は鹿島とも言われている。奈良にある春日大社は藤原氏の氏神である
>それにもかかわらず、始祖天児屋根命を第三殿を祀り、鹿島神を第一殿、第二殿を祀っている。
>藤原氏がもともと中臣氏ならば、第一殿に天児屋根命を祀ったにちがいない。このことは、
>鎌足が天児屋根命直系の中臣氏出身でなく、傍系もしくは自称中臣一族として養子に入った
>ものと思われる。
>よって、春日大社は鎌足の本当の先祖と中臣氏の始祖を合祀したものと思われる。
  http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/fujiwara.htm


275 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 01:45:13
天皇家は男系の血筋を大切にすべきだという議論になるのに
藤原氏においては血筋が尊重されていない
源氏に飲み込まれた五摂家筆頭近衛家より
藤原氏の血筋を守っている九条家こそ嫡流

276 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 00:33:28
近衛、一条は天皇家の子孫だっけ。
鷹司もかな?

277 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 00:46:42
関さんみたいだっぴょん。

278 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 09:59:27
九条こそ嫡流

279 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 15:44:29
>>276
頼通の外祖父は宇多天皇の孫、源雅信。だから頼通の子孫の近衛、九条、鷹司、一条、二条はみんな天皇の子孫。

280 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 22:11:11
>>278
嫡流の定義は?

281 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 18:16:44
日本を不幸にした藤原一族の謎

282 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:40:08
藤原紀香

283 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 05:49:49
摂関家、花山院流(師通の弟・家忠の子孫)、大炊御門流(師通の弟・経実の子孫)
中御門流(頼通の弟・頼宗の子孫)、御子左家流(頼通の弟・長家の子孫)、
水無瀬流(道長の兄・道隆の子孫)、閑院流(兼家の弟・公季の子孫)、
勧修寺流(良房の弟・良門の子孫)、日野流(冬嗣の兄・真夏の子孫)
四条流(房前の弟・魚名の子孫)。

明治まで生き延びて華族になったのは、こんなところか。

284 :283:2006/11/05(日) 07:43:33
魚名は房前の子でした、すみません。なんで、こんな単純ミスを・・・。

四条流は、源平争乱期に隆季(たかすえ)が親平家公卿として活躍してます。平家寄りの
延暦寺に肩入れして興福寺の怒りを買い藤原氏の放氏第一号となり、「以仁王の乱」で
興福寺即時追討を主張して九条兼実から非難されたり、「治承三年クーデター」では
平家の重要基盤である大宰府の帥に任命されてますが、大宰府の長官は権帥か大弐が
通常で、正帥になるのは親王だけなので、これまた兼実からボロクソに言われてます。
それでも「当世の有識」として実務に優れ、権大納言まで昇進するあたりがしたたか。

南北朝期の隆資(たかすけ)は、南朝に仕えて活躍。幕末期の隆謌(たかうた)は
尊攘急進派として「七卿落ち」に参加するなど、公家にしては血の気の多い人間が多いです。

285 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:14:19
信西や順徳天皇をだしたあの家系が抜けている

286 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:19:35
藤氏長者の証で天皇の三種の神器にあたる朱器台盤を現在保有
しているのは誰?

287 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:19:40
>>284
血の気が多いと言えば隆季の異母弟の成親もいますね。
最期は無残でした。

>>285
高倉は絶家かと。

288 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:20:52
>>287
南家では藪とかは明治まで残りましたね

式家、京家は消えちゃいましたが

289 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 19:28:40
成親の子・公佐は、閑院流・滋野井実国の養子になっていましたが、
阿野全成(頼朝の弟)の娘を妻にして、子孫が阿野家になってますね。
バリバリの南朝派であったにもかかわらず、明治まで生き延びました。

290 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:42:25
成親の血統はそっちで続いていましたか。
成親のさらに弟の実教は後世に続く山科家の創始者ですが、
こちらは二代目の教成が桓武平氏からの養子だから、
血統としては逆に一代で終わってますね。
分からんもんです。


291 :携帯から…:2006/12/17(日) 21:31:48
先ほど、田舎の伯父から電話があって、藤原義勝と書かれた家系図みたいな物や鏡が見つかったので調べて欲しいと電話がありました。

他に陸奥守なんとか、尾張守なんとか、那須与一?とか永録とか年代がバラバラの様なキーワードを言われました。
どなたか詳しい方はいませんか?
ちなみに母方の名字は藤原です。宜しくお願いします。

292 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:50:29
まず現物をみて、キーワードをぐぐって、アウトラインつかんでからレスしろ
話はそれからだ!

293 :日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:41:13
保守

294 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 05:09:37
>>291
母方の名字が藤原なのか、だったら百パーセント間違いなく藤原氏じゃないよ、インターネットで藤原氏で検索したら一発で藤原氏じゃない事がすぐわかるよ、調べてみたら

295 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:33:34
wiki見てたらさ
「九条家は九条流の嫡流ではない」
「一条家は天皇家から養子をもらっており、そういう例は近衛家と二つしかない」
「よって一条家が嫡流だ」
って書かれてたんだけど・・・
wikiってそんな根拠のない理由で書いてもOKなの?
例えば近衛家が断絶したとき女系の細川家が継いだだろ?
なんで天皇家や宮家から養子をもらわなかったんだ?
上記の理屈だと「近衛家は家格が落ちた。なぜなら細川家から養子が入ったからだ」
って書かれてもおかしくないよね?
ちゃんと取材して書いて欲しいよ。

296 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:41:30
wikiは根拠なくても自論を好きなように大いに書ける場で
先に書いたもんがちな感じも否めないからw
それにしてもそんな書き方された摂家はいい迷惑だろうね。

297 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 14:59:20
>>1

>日本を陰で操るこの一族についておまえ等語りやがれ。

コンビニ歴史作家の関裕二もこのことに変に固執しているね。「今でも藤原家の天下」だと。
スレ主さん的にもそう感じるとこがあんのかい?

コンビニ関はやけに蘇我氏(石川氏)の肩もってたなぁ。

ま、藤なんて俺ぁ別にどーでも良いが。
そこら中の田舎で犬っころが交尾して出てきた子犬がすなわち藤の字さ。
俺の苗字など絶滅寸前だからな・・・・

298 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 18:01:49
>>297
wikiも関も藤原コンプレックスでしょう
私は加藤清正も藤原氏だったのだろうと思っています。(ただし家系図は偽)
東海地方では「加藤、近藤、馬の糞」って言われるくらい居ますからね

ま、がんばって子供を作りまくって下さいよw

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